むらさきひめ4
その瞬間、風が吹きぬけた。
舞い降りる、銀の光。
横薙ぎの、一閃。
蛇と化した枯れ枝、切り裂かれる。俺を呑みこむはずだった化け物、根元からずり落ちた。
翻る長い黒髪。大きく広げた、黒い羽根。
それは、少女だった。
黒いセーラー服姿。
背中から、真っ黒い翼を生やした少女。手にするのは、一振りの日本刀。
突然現れた彼女が、救い手だった。
続く、第二撃。
どこからか飛んできたのは、無数のカード。
俺を締め付けていた木の枝に突き刺さり、全体に亀裂がはしった。いましめから解放された俺は、周囲を覆うカードに優しく包まれて、地面に下ろされた。
「……え?」
戸惑う俺の横に、助け出された九条も降ろされる。
頭上から走る、光り輝く球体。
それが、勢いよくそいつに向かっていく。
手のひらをかざして、弾き返す。
宙に舞ったそれは、サッカーボールだった。くるりと回転し、俺のすぐ脇に飛んでいく。
そこには、ボールを器用に受け止めた青年の姿があった。
そのとなりには、無数のカード――きらきら輝くそれはトランプだった――をまとわせる、少女。
突然に現れて、救ってくれた不可解な三人。
それは、ただの偶然か。
先ほど、奴が愉しそうに語った――死を選んだ彼女達。
その話と、奇妙な共通点があった。
「へえ?」
三人を眺めて、そいつは大げさに肩をすくめた。
「これは、興味深い。まさかお前たちが、ここで誰かを救いに来たのか? 死の忌みとなったはずのお前たちが――なあ?」
「ああ」
日本刀を握った少女が、歩み出た。
「あんたに唆されて、そうなったあたし達だ」
「復讐か? それはそれで、忌み魂らしい」
「まさか」
少女は、挑むように笑った。
「今更、意味はないよ」
歯を剥く、獰猛な笑顔。
胸がすく。
「ただの、意趣返しさ。あんたの思うとおりにさせるのが、気に入らない。唆して、囁きかけて、それしかないと思い込ませて――死の一歩を踏み出させる。胸糞悪いあんたの思い通りにさせるのが、癪に障るだけだ」
「ふうん」
そいつは、眉をそびやかす。
「それで? 俺とやりあうつもりかい? 柏崎橙子……君は、そこそこやるけれど、無理がたたってるんじゃないか? 俺がばら撒いた怪異を、次々と叩き潰してくれているみたいだからな。残りの二人……見る限り、まだ日が浅い。俺とやるには、役者不足だと思うぜ」
「本命は、あたしらじゃない。あたし達は、ただの前座さ」
柏崎橙子と呼ばれた少女は、不敵に笑って――こちらに振り向いた。
俺、ではなく。俺の腕の中。
「あんた、そろそろ気付いてやれよ」
俺が抱きかかえる――九条に向かって。
「あんたのすぐそばで、あんたを助けたがっているそいつにさ――」
「――助けてほしい、って。言ってやりなよ」
九条が、振り向く。
俺も、振り向く。
鈴の音。
涼やかな風が、吹き抜けた。
長い黒髪、淡い花びらと舞い踊る。
紫の袴。
右手に日本刀を下げて、その少女は――ゆるりと降り立った。
一瞬、見惚れた。
九条によく似た、少し幼いその少女。
小柄でほっそりとした身体で、凛とした空気。
さながら、研ぎ澄まされた――美しい日本刀のようだった。
「……お姉ちゃん」
九条の泣きそうな声。
その少女は振り返り、優しく微笑んだ。
◇
向こう側に、橋のかかった河原。
積み上げた石の塔に背中を向けて、わたしは踏み出しました。
そうして、わたしは――
ただ、見守ってきました。
お母さんが、哀しむ姿を。
お父さんが、耐える背中を。
そうして――
死の不吉に囁かれ、少しずつ引きずり込まれていく妹の横顔を――
見ているだけしか、できませんでした。
どうしようもない、世界の断絶。
どこまでも隔たってしまった、わたし達の現実。
わたしは死者で、彼らは生者。
けれども。
ようやく、この瞬間。
ほんのわずかな時間。
わたしは――紗姫の前に、姿を見せることができました。
「……お姉ちゃん?」
泣き顔でへたり込む妹に、笑いかけます。
ごめんね。
辛い思いをさせて。
ずっと苦しめてきてしまって。
――だからこそ。
「あなたは、わたしが護るから」
となりに並ぶ、紫路。
わたしの右手の中で、応えてくれる紫電。
彼らと共に、わたしは立つのです。
「なるほど、おまえが本命か」
彼が、邪悪に笑いました。
「むらさきひめ――それとも、生前の名で、呼ぼうか? 九条真姫」
からかうような言葉を、流します。
「どちらでも」
わたしの行動に、変わりはありません。
彼を排除し、妹と、彼女を護ろうとしてくれた少年を救う。
――そのために、わたしは紫電を振るいます。
彼は、邪悪そのもの。
あれは、不吉そのもの。
怪異をばら撒いて、絶望を囁いて、人間を死に誘う存在。一度も生まれたことはなく、名前を持ったことすらない存在。
「…………っ」
『主殿』
紫電の声が、耳に届く。
――わかっている。
同情は、無意味です。
「大丈夫だよ、紫電」
理解しようとすれば、また引きずり込まれる。
迷いは、敗北につながる。
これまでに、わたしが関わってきた彼女達とは、決定的に違う。本当は誰かに救ってもらいたかった哀しい魂達。
彼らの、彼女達の、忘れていた名前を思い出して、その救いを祈ればよかった。
――そんな彼らとは、彼女達とは、致命的に違っているのですから。
だから、割り切れ。
割り切れ。
ためらえば、また――紫電や紫路を巻き込むことになるから。
「おいおい、無理をするなよ?」
見透かしたように、彼が笑いました。
「ただ叩き潰す。打ちのめす。それは、おまえのガラじゃあない」
わたしの薙ぎ払った切っ先が、揺らぎます。
彼の放ってくる黒い球体。
弾け、空間を裂く。ギリギリの一線で、どうにかかわしました。
「…………っ」
続く二撃目。わたしの頬の近くで、弾けます。その飛沫が――大きく広げられた白い翼が、受け流してくれました。
――紫路。
視線が、絡み合う。
彼の気遣うような瞳に、わたしは頷き返します。
(……ありがとう)
紫電を握る右腕に、力を込める。
(大丈夫だから)
柄尻を左手で押し上げて――切り上げます。
「――意味は、ないぜ」
彼が笑いました。
今ここで、自分を滅ぼそうと意味はない。
自分は、無数に存在する。何時でもどこでも、姿を変え、語る怪異を変え、いくらでも手を伸ばす。
ヒトは、何時だって死にたがる。
世界は、何時だって殺したがる。
だから――今この場で、わたしが彼を消し去っても、意味はない。
そう、
それは、嘘です。
彼が囁く、唆す言葉でしかありません。
たとえすぐに、彼がよみがえろうとも――今この場で、妹たちが救われることに意味がないわけがない。
死にたい。
死にたい。
そう願い続けてきた妹が――あの瞬間、『死にたくない』と想った。
死にたくない。
更に、その先。
『生きたい』と叫んだ言葉。
――それは、きっと。
無意味なんかでは、ありません!
「破魔光刃――」
一刀に、霊力を集中させる。
かつての、わたしだった頃。
退魔の者であった頃の、御業。
今一度、ここに。
「――
光と為す、刃の軌跡。
邪悪なるものを、三度祓う破邪の剣。
わたしは、それを振り抜いた。
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