九条沙姫10

 一緒に、帰ろう。

 

 突然に、帰り道は閉ざされた。

 乱暴に襲ってくる、何かの衝撃。

 俺は、伸びてきた黒い影の枯れ枝に巻き付かれて――天高く、吊るされる。



「君は、何をするつもりだい?」


 そいつが俺を見上げて、訊いてくる。


「……決まってんだろっ」


 苦しいのを我慢しながら、言い返す。

「九条と……帰るんだよ」


 視線で探すと、俺から少し離れた位置で、彼女もまたつるし上げられていた。

 枝の締め付けは、俺よりも緩いようだった。


「おまえも、わからないねえ」


 心底嘲るように、そいつは肩をすくめた。


「仕方ない、もう一度教えてやるよ」



 ――死にたい。

 死んでしまいたい。

 どうして、彼女が……いや、『彼女達』が、そう望んだのかを。


 ある少女の話だ。

 彼女は、ただ真っ直ぐだっただけだ。

 小学生の時に、転校生だったクラスメイトに向けられた些細な悪意をどうにかしたかった。

 結果は空回った。

 心無い担任教師の行動が止めを刺した。彼女だけが加害者で、被害者だった。

 それが、終わりへの始まりだった。

 彼女の名前は、柏崎橙子と言った。


 ある少女の話をしよう。

 引っ越しが多く、気の合う友人がなかなかできなかった。

 元々内向的だった性格も、拍車をかけていった。

 独りぼっちでトランプ遊びをすることが、ただ一つのよりどころだった。


 ある青年のことを、語ろう。

 サッカーが大好きで、懸命に練習を続けていた。

 高校時代、最悪な形で部を引退することになる。

 練習試合の時に、大怪我をしてしまった。そのきっかけとなったのは、彼の親友だった。

 親友はその後、めきめきと頭角を現し、有名なスポーツ大学へ進学していった。


 誰も彼もが、不幸だった。

 そんな不幸を、俺は知らない。

 両親は健在。平穏な生活。

 気の合う親友もいて、穏やかな日々を過ごしている。

 時々の苛立ち、思い通りにならない出来事なんて、死にたいと本気で願う理由には到底届かない。

 そんな自分に、何が言える?

 首を突っ込むなど、おこがましい。


 本気で、死にたいと願った九条紗姫に、彼女達に……何かをできるわけがない。

 それは、傲慢。

 思い上がり。

 恥さらし。


 その少年は、その通りだと笑うのだ。

 折れそうになる心。

 それでも、憤りが駆け抜けた。


「――っ!」


 笑うから。


「……っな」


 笑う。

 笑う。

 そいつは、笑うのだから。

 それが、俺は許せない。


「――笑うな!」


 かすれた声で、毒づく声で、俺は怒鳴り散らした。


「笑うなああっ!」



「……ん?」


 そいつの顔色が、変わった。


「……確かに、そうだ。その通りだ。俺には、わからない。わからない、わからないさ。九条の……九条達の辛さや哀しみなんて、わからねえよ!」


 中学生の時、小さな不幸があった。

 そんな程度だ。

 親友と、ほんの少しすれ違った程度だ。

 あの時は、世界中が自分に悪意を向けてくるほどに辛いと思い込んでいたけれど――そんなもの、ただの思い込みにすぎなかった。

 そんな、自分。

 何を、語れる?

 心の底から死にたくなるほど辛かった誰か達に、どの面提げて、何を言える?


 ――それでも、これだけは言える。


「……何で、笑ってるんだよ?」


 これだけは、確かだと思った。


「てめえは、そんな悲しさや、辛さを……死にたいって気持ちを、そんな風に笑いながら言葉にできる? 笑うなよ! 笑ってんじゃねえよ! ……許せねえ。そいつだけは――絶対に、納得できねえっ!」


 感情を、ぶちまける。

 怒号を、叩き付ける。



「なあ、九条」



 もう一度、思い知る。



「……俺、嫌だよ」


 これは、俺のただの我儘だ。

 気が付けば、頬に涙が伝っていた。



「俺、お前に生きていてほしいよ」


 それでも――俺は、九条に死んでほしくない。


 俺の、心の底からの本音だった。

 それだけは、間違いなかった。


「ふうん」


 そいつの顔色が、変わった。

 笑顔はそのままで、何かが致命的に変わった。

 俺の怒りで燃え上がった意識さえ、凍りつくほどの――恐怖。


「おまえ、かっこいいねえ。まるで、熱い少年漫画みたいだ。ここで、ご都合主義でも起こして、彼女を救えたら、王道展開だ」


 亀裂のような、笑みだった。


「けれど、残念だ」


 悪意そのもの、死を孕んだ不吉そのものが、そこにあった。


「このジャンルは、ホラーだ。無力な登場人物達は、理不尽な怪異に蹂躙されて殺されるだけの、胸糞悪いホラー漫画だ」


 大袈裟に、もったいぶったように、手をかざす。

 振り上げられた腕を、振り下ろす。

 そいつは、死刑執行の合図だ。


「……ぐ、ああ」


 身体の締め付けが、きつくなる。冗談抜きで、身体じゅうの骨がきしむ。

 ふくれあがった枝の一本が、まるで蛇の化け物のような形となった。俺を呑みこもうと、その大顎を開いてきた。


「……城阪君!」


 少し離れた場所で、九条が叫ぶ。


「やめて! 彼は、関係ないでしょう?」


 彼女のそんな感情的な声。

 初めて聞くかもしれなかった。

 胸が痛んだ。

 同時に、どこか場違い。

 ほんの少しだけ、嬉しかった。

(……ちっとは、九条にとって大事な存在になれたかな)


 ――ああ、そうか。

 今更になって、俺は理解した。

 水無瀬が言ってた通りだ。

 織本の勘は正しかった。

 きっかけは、あんな感じだったけれど。

 始まりは、滑稽な勘違いだったけれど。

 それからの、どこかずれたやりとり。空回っていたかもしれない。もっと、器用なやり方もあっただろう。

 それでも――

 俺は、好きだったんだ。

 好きになっていたのだ。

 九条紗姫という彼女を、好きになっていたのだ。



「気が変わったぜ」


 そいつは、九条を見やって、


「独りじゃ、寂しいだろう? こいつも道連れにつけてやるよ」


 邪悪そのものに、笑いやがった。

 それこそが、そいつの本性だった。

 このまま、俺は殺されるのか。

 そして、九条も後に続くのか。

 悔しいが、俺にはどうしようもない。

 ただの無力な登場人物。

 そいつの言葉通りだった。

 俺には、何の力もない。

 だけど、せめて。


「……この、くそったれ」


 毒づいてやる。 

 睨み付けてやる。


「くそったれが……!」


 最後の最後まで。

 心だけは、屈してやるものか。


「――くそったれがああっ!」



俺は、声を振り絞って叫び声を上げた。




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