九条沙姫9

「……な、何なんだよおまえは?」


 俺は恐怖を押さえつけて、そいつに呼びかける。

 上ずりかける声を、どうにか押し殺す。

 気が付けば、九条を背中にかばっている。


「ふうん?」


 そこで初めて、そいつは俺の存在に気が付いたようだ。


「余計なおまけが、付いてきてしまったみたいだね」


「……んだとっ?」


 頭の片隅で、我ながら無謀だと思った。

 いくら何でも、目の前の少年がやばいことはわかる。状況は呑み込めないけれども、尋常でないことだけはわかる。

 その元凶とも言えるそいつに、敵意を向けるのは――はっきり言って無謀を通り過ぎて、馬鹿だと思った。


 漫画のヒーローでもなんでもない、ただの一般人に過ぎない――俺が、だ。

 けれども、黙ってはいられなかった。

 俺をゴミのように見る視線が、気に入らなかった。

 何より――そいつが、九条の名前を口にしたのが許せなかった。

 そいつは、言いやがった。

 九条を迎えに来たとでも。

 こんな、ろくでもない世界に彼女を呼んだのか。

 呼びつけやがったのか。


「おまえ、もしかして誤解してないか?」


 俺の思考を読んだように、そいつは言葉を続けた。


「ここは、彼女が望んだ世界だ。俺は、彼女に呼ばれて迎えに来たんだぜ?」


「……あ?」


 一瞬、その意味が理解できなかった。

 何を、言っている?

 ……九条が、望んだ?

 こんな不気味な、不吉な、どうしようもない世界を――彼女が、望んだ?

 馬鹿らしい。

 むかつくほど、笑えない冗談だ。

 俺は、笑い飛ばしたかった。


「……なあ?」


 肩越しに振り返る。

 同意を求めて――


「九条?」


 怯えたような顔色には、諦めたような笑顔がにじんでいた。


「……嘘、だろ?」 


 俺の呻くような呟きに――


 九条は、答えなかった。

 そいつが代わりに、口を開いた。


「――死にたい」


 薄く笑い、そいつが一歩踏み出す。


「死にたい」


 もう一歩、踏み出してくる。


「あの日から、44ヵ月と44日間。44時間と44分、44秒。ずっとずっと思い続けてきた。そうだろう? その声が、ようやく叶う。辛かったんだろう? 苦しかったんだろう?」 


 奇妙に優しそうに、そいつは言う。

 自分は、君のことをよくわかっている。


「……今まで、よく堪えて来たね?」


 そいつは、九条紗姫という少女を理解している。

 そんな言葉を、並び立てながら。

 ゆらり、と手を伸ばしてくる。


「何、言ってやがる? ――なあ、九条?」


 立ち尽くすだけの九条を見る。

 そんな奴の言葉なんて、否定してくれ。

 ……違うと言ってくれ。

 彼女は泣き笑いのような表情を浮かべて、小さく頭を振った。

 俺の感情を否定した。

 その視線は、俺の困惑を違うと言った。

 そいつの言葉を、肯定していた。


 その手が、俺を押しのける。

 決して強くない力。

 それでも、俺はふらつくように、どいてしまった。

 俺を追い越して、歩み出る。

 不吉な少年に、近付いていく。

 その背中を――俺は、とめられなかった。



 そいつは、楽しそうに微笑んだ。


「今から約四年前、ひとりの少女が死んだ。彼女の名前は、九条真姫」


 ――九条。

 九条紗姫と、同じ名字だ。


 そいつの語る言葉は、するりと俺の中に入り込んでくる。

 俺の意識を撫で上げて、あっさり支配権を握り取ったのだ。


「…………っ」


 ――俺は、何も知らなかった。

 知らなかったのだ。。

 九条は、自分の姉を失っていた。

 その深い哀しみが、俺にはわからない。

 その深い苦しみを、俺は理解できない。

 無責任なクラスメイトの話題に、怒りをぶちまけた。

 俺の思った見当違いな正義感などではなくて、決してなくて――それは、彼女が、自分でもどうにもできないやりきれなさを、踏みにじられたからこそだったのだ。


 思い違いだったのだ。

 勘違いだったのだ。

 見当外れだったのだ。

 その事実を、嘲り笑われるのだ。

 恥ずかしく、申し訳なく、どうにかなりそうだった。


「……俺は」


 涙がにじみかけた瞬間、


「城阪君は、関係ないでしょう?」


 九条の声。


「ふうん?」


 九条に言われて、そいつが興味深そうに眉を動かした。

 俺に流れ込んでくる感情の渦が、弱くなった。翻弄から解放されて、俺は膝をつきそうになった。


「死にたかったのは、あたしだけ。城阪君は、関係ない。帰してあげて」


「確かに、そうだね」


 そいつは、成程と頷いた。

 やりとりをするふたりが、ひどく遠い。

 俺は、この場では部外者だった。


「ん、わかったぜ」


 骸骨のような指先を、くるりと回す。かすかに風が吹き抜けて、その先を振り向いた。

 ちょうど人ひとりが通れるような空間。白くぼんやりとした光が、俺の背後に生まれていた。


「さあ、そこを通って帰るがいい」


 見下すように、そいつは笑った。


「城阪君」


 そのとなりで、九条が微笑む。

 哀しげに、


「色々と、ごめんね」


 寂しげに、


「さようなら」


 そう微笑んで、俺から離れていく。

 向かうのは、その不吉な少年。

 望んだのは、この世界で。

 だから――俺には、もう何もできない。

 その資格もない。

 彼女の哀しみを知らなかった、俺には。

 彼女の苦しみを知らなかった、俺には。

 九条紗姫という少女を知らなかった、城阪藤二という少年に――もう、何の意味もなかった。



 けれども、

 だけれども、


 何かが、俺の中で囁いた。

 誰かが、俺の中で叫んでいた。


 ――なあ、

 本当に、それでいいのか?


 問いかけてきた。

 俺の頭を、ひっつかんで。

 ――本当に、これでいいのか?

 まるで、答えの出された解答用紙。完全すぎるはずの回答。それが……どうしても、勘に障るのだ。


 理屈は、きっと通っている。

 そんな風に、言い聞かされている。

 彼女は、辛かったのだ。

 苦しくて、哀しくて――ずっとずっと堪えてきて、その結果、死にたいと願ったのだ。

 だから、優しく迎えに来た。

 その事実は――きっと、正しいのだ。


(俺は、納得できるのか?)


「…………っ!」


 俺は、歯を食いしばる。


「……くそっ」


 帰る方角に、ではなかった。

 その一歩を、踏み込んでいた。

 逆方向。 

 つまりは、彼女の方向。

 手を伸ばす。

 九条の腕を、引っ掴む。


「……城阪君?」


 困惑する彼女に、知ったことではない。


「帰るぞ!」


『君は、知らないだろうね?』


 それが、どうした。

 だから、どうした。

 ……ふざけるな。

 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!

 確かに、俺は知らなかった。

 だから。

 だから?

 だからって、納得できるのか?

 九条がこのまま死んで、俺だけが助かる。

 永遠に、すれ違ったまま――それが結末。

 そんな終わり方。それが、正しい。それが、正しい? ……納得できるわけがないじゃないか!


 傲慢かもしれない。

 また、思い違いかもしれない。

 九条にとっては、辛いだけかもしれない。

 これから先、生きていても哀しいだけかもしれない。

 俺は、きっと。

 彼女の人生に、責任なんて持てるわけがない。



 それでも――

 俺は、嫌だった。

 これは、俺のただの我儘だ。


 ――俺は、九条に死んでほしくないんだ。



 だから、 


「……帰ろう、九条」


 一緒に、帰ろう。



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