あわいのかたり~にせむらさきひめ4

 飛ぶ。

 陰摩羅鬼は、飛び続ける。

 あたしを抱きかかえたまま、この世界の外に向かって。


「…………!」


 後ろを見ると、追手の姿が見えた。人形達が飛んでくる。今や、ねじくれた翼を生やした群れは、不吉な凶鳥達だ。

 速い。

 疾駆する追跡者。

 このままでは、追いつかれる。

 そう思った刹那に――

 何かが弾け飛び、追いつこうとした一体を弾き飛ばした。追随する何人かを巻き込んで、落下していく。その先は、赤茶けた不毛の大地だ。


 それは、羽根だった。

 陰摩羅鬼の両翼から発射された、羽根の飛礫。強烈な弾丸となって、追跡者を撃退したのだ。

 けれども、それは――


「……陰摩羅鬼?」


 あたしは、つぶやく。

 彼の息は、明らかに苦しげだった。今の攻撃で、疲弊したのだろうか。いや、そんな生易しいものではなかった。

 その苦悶の表情が、雄弁に物語っている。

 荒い呼吸は、致命的な疲弊によるものだった。



 あたしは、理解した。


 だからこそ、納得ができなかった。


「……なんで?」


 問いかける声は、押し殺した悲鳴だった。

 彼は命を賭してまで、あたしをこの世界から連れ出そうとしているのだ。


「どうして、そこまで……!?」


 それは、おかしい。

 ……陰摩羅鬼は。歯を食いしばる。旋回。追手の持つ、いびつな髑髏(どくろ)で形作られた長槍の切っ先をすんでかわす。

 だって、そうでしょう?

 あたし達は、違うはずだ。

 ……彼が、あたしに届くはずだった凶悪な鉤爪を薙ぎ払う。

 彼女達とは、違っていたはずだ。


 情などない。

 つながりなど、ない。

 暖かみの欠片などない、凍てついた間柄だったはずだ。

 ――それなのに。


「ねえ、どうして!」


 陰摩羅鬼は、静かにあたしを見る。


「……そこまでして、あたしを助けようとするの!」


 答えはない。

 代わりに――彼が頭上を見上げると、人影の一匹が猛禽の如く、襲い掛かってくるところだった。


「――っ!」


 陰摩羅鬼は、のけぞると何ごとかの言葉を吠えた。

 それは衝撃波の形を為し、敵を殴り飛ばした。

 続けざま、数匹の人影が群がってきた。正しく、亡者のように。おどろおどろしい影と群れて、陰摩羅鬼の翼ごと――あたしを喰らい尽くそうとする。

 両翼を、勢いよく羽ばたかせる。

 突風が吹き荒れて、亡者どもを薙ぎ払った。

 その攻撃がまた、彼自身を疲弊させる。

 残り少ない命が、欠け落ちていくのだった。


      ◇


 もはやヒトの姿を取ることもできないようだった。

 羽根が抜け落ちて、痩せ細った大きな鳥が一羽、あたしの前に倒れ伏している。

 そこは、河原だった。

 ひと気のない、薄ら寂しい河原。

 細々と流れる川を挟んで、向こうには靄がかかっている。その先が、あたしが閉じ込められていた世界だった。


 まさしく、決死行だった。

 人影の亡者どもは容赦なく追いすがり、襲い掛かり、陰摩羅鬼はそのすべてを蹴散らした。

 あたしは無傷のまま、この河原に辿りついた。

 いや、辿りつけた。

 その代償が、彼の姿だった。


「……どうして」


 あたしは膝を折って、両手をつく。

 つぶやく声は、震えていた。

 気が付けば、涙がにじんでいた。

 仮初めにも死の怪異を演じていた、あたしには――あたし達には、何とも不釣り合いな光景だった。


「……哀しむことはない」


 かすれた声で、陰摩羅鬼は言う。


「どのみち、消えゆく運命でしかなかった。最期に、少しだけ……気まぐれただけのこと」 皺の刻まれた醜い人面に、小さく笑みを浮かべて――



 彼は、動かなくなった。


 あたしは思わず手を伸ばす。

 触れた場所が灰となって、音もなく崩れた。慌てて、手を引っ込める。けれど、もう遅い。

 決定的に、致命的に遅かった。

 陰摩羅鬼だったものが、その何もかもが、灰となって崩れていった。あたしには、どうすることもできなかった。何もかもが、手遅れだった。


 それから、どのくらいの時間が過ぎただろうか。

 あたしは膝を折り、その場にうずくまっていた。

 擦れる、呻き声。

 視界がにじむ。

 あたしは、声を殺して泣いていた。

滑稽だった。

 今更に。

 それだけのつながりもなかったくせに。

 ああ、どうして。

 最後の最後に――陰摩羅鬼は、あたしをあの世界から助け出したりしたんだろうか。


 ――そうだ。

 あたしは、助け出されたのだ。

 あの、緩やかに朽ちていく世界から。

 だから。

 この場で、うずくまっているわけにはいかなかった。

 気が付けば、川の水嵩が増えていた。うっすらと、けれど確かに、そこから伸ばされようとしている無数の白い手があった。

 それは、いずれ。

 あたしに、届くだろう。

 あたしを捕まえ、もう一度、あの世界に引きずり込むつもりだろう。

 そうして、今度は。

 もう、助け出してくれる誰かは――いない。

 気まぐれだった陰摩羅鬼は、もういないのだ。



「…………っ」


 あたしは、力の抜けた両足を奮い立たせて。

 涙をぬぐって、立ち上がった。

 歯を食いしばり、背を向ける。

 そうして、走り出した。

 どこに向かうのか、自分でもわからないまま――


 あたしは、駆け続けた。

 


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