あわいのかたり~にせむらさきひめ3
「ご無沙汰しておりました、お嬢」
唇をかすかに歪めて、彼は笑った。
陰摩羅鬼。
そう名指される妖怪。
薄黒い羽織袴。長身に白髪。皺の刻まれた凛々しい顔立ち。
ヒトをなぞった仮初めの姿。
その本性は、妖しの鳥。真黒い翼は禍々しく、不気味な人面の魔鳥。
短くない間、共に行動をした。
仲間。
知り合い。
友人、ではないだろう。
あるいは――
あたしと共に、死をばら撒いた存在。死と忌みの苗床から生まれた、怪なる存在。
それが、彼だった。
そのはずだった。
今、目の前にいる彼からは――奇妙な懐かしさを感じる。親しみにも似た感情は、何かの錯覚だったのだろうか。
「……うん、そうだね」
突然の再会に、どんな感情を乗せればいいかわからなかった。
懐かしくない、と言えば嘘になる。けれども、あたしにとっては共犯者であり、再会を喜ぶには、あまりにも複雑な関係であった。
「ふむ」
あたしの態度をどう取ったのか、彼は周囲を見渡して、鼻を鳴らした。あきらかに、不機嫌そうだった。
「……貴方も、地獄に堕ちたの?」
「地獄?」
灰色の空。張りぼてで作られたような街並み。
何時の間にか、人影達が亡者のように集まりつつあった。
「ここが、地獄か」
陰摩羅鬼は、薄く笑った。
「随分と、ぬるい地獄じゃのう」
「…………」
その言葉に、あたしはどう答えていいかわからなかった。
「成程のう。儂はここでは、歓迎されない存在らしい」
人影達は、陰摩羅鬼を明らかに取り囲みつつあった。黒く塗られた表情には、かすかな敵意がにじんでいた。それを感じ取った瞬間、その感情の残り香が――あたしにも向けられる。
思わず身構えるあたしに、彼は訊いてきた。
「それで、お嬢はどうするつもりじゃ?」
「え?」
問い掛けの意味が、すぐにはわからなかった。
「この世界に、ずっと引きこもり続けるつもりか?」
「……どういうこと?」
「ここを抜け出すつもりはないかと訊いておる」
「抜け出す……?」
そんなこと、考えたこともなかった。
自分はこれから先、この世界で果てていくのだと思っていた。この、閉ざされた世界で。時間の檻の中で、乾いた毎日を繰り返し、擦り切れていくのだと――思っていた。
この世界を、抜け出す?
そんな選択肢が、あたしにあるのだろうか。
けれども、その先はどうなるのだろうか。
そんなことをしたとして、何の意味があるのだろうか。
柏崎橙子という少女は、すでに死んでいる。
死姫と言う末路も、すでに 終わっている。
そんなあたしが、今更――
「…………!」
あたしの思考は、敏感に伝わったようだ。
陰摩羅鬼と、他の人影達にも。おそらくは、この世界にも。
そうして、この世界はきっと。
あたしが出ていくことを、赦しはしない。
「……抜け出して、今更どうすればいいのよ?」
「それは、儂の知るところではない」
突き放すよう、陰摩羅鬼は言った。
「まあ、少しの間、考えてみるといい」
背を向ける。
風が吹き抜けると、その姿は消えていた。
◇
それから、数日ほど過ぎただろうか。
時間の感覚は曖昧だったから、実際にはわからない。
相変わらず憂鬱な灰色の空は変わらず、繰り返す日常も変わらない。
このままずっと、枯れ果てていく。
魂が本来の寿命を迎えるまで、日々を過ごしていく。無意味で、無価値で、無意義な時間を積み重ねていく。
それが、きっと。
あたしへの罰。
この閉ざされた一日こそが、あたしの懺悔。
「――本当に、そう思うのか?」
あたしの思考を読んだように、声が続けた。
陰摩羅鬼。
薄暗い羽織袴。
通学路の途中に、彼が立っていた。
「このまま終わり続けて、何も変わらない」
この空っぽな毎日を、繰り返し続ける。
「このまま枯れ続けて、何も為さない」
かつて抱いた感情、縛られた想い、その何もかもを投げ出して、このまま、ずっとずっとずっと……
「それが、お嬢の罰だとでも?」
「随分と、お節介だね」
あたしは、苦笑した。
「もしかして、あたしのこと、気遣ってくれているの? らしくないよ。そもそも、あたし達は――そういった間柄じゃなかったでしょう?」
そうだ。
情などない。
たまたま出会い、怪異として死の匂いに惹かれ、群がっただけの近かった他人同士だ。 間違っても、彼女達のような関係ではなかった。
そうは、なりえなかった。
今更になって寂しいと思うのは、遅すぎる。
後悔は、いつだって後になって悔やむことだ。
あたしの人生は、何時だってそうだった。
死んでからも、そうだった。
「そうじゃな」
陰摩羅鬼は、静かに言った。
「だから、これは儂の気紛れよ」
けれど、そうだとしても。
その些細な感情には、意味があるのだろうか。
「お嬢も気が向いたならば、この手を取ればよい」
差し出される右手には、価値があるのだろうか。
「お嬢が望むならば、この世界から、そなたを連れ出そう」
「…………」
あたしは迷い、この期に及んでも少し迷ってから――その一歩を踏み出した。ためらうように、差し伸ばした右手。
それが、彼の右手と触れ合った。
――それを、世界は赦さなかった。
◇
轟、と。
突風が、吹き荒れた。
あたしは、囚人。
当然に。
その脱獄を、牢獄が見逃すわけがない。
空は毒々しい血の赤に染まり、辺りから人形たちが這い出てくる。その顔色はどす黒く変貌していた。
父親役、母親役、クラスメイト役、教師役、すれ違う意味もなき端役。その役割をかなぐり捨てて、あたしを逃すまいと、さながら囚人の看守――それとも、地獄の獄卒か――と転じる。
「しっかりと、捕まっているのじゃぞ」
陰摩羅鬼は、あたしをしっかりと抱きかかえて――
「……はっ!」
地を蹴った。
偽りの空へ、飛び上がる。
灰色の大きな翼を広げて、中空に舞い上がった。
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