あわいのかたり~にせむらさきひめ2
思い返す。
あたしが、まだ生きていた頃のことだ。
あたしは、正しくありたかったのだ。
ただ、それだけだったのだ。
ヒトに温かくあり、嘘をつかず、裏表などなく、さかしい誤魔化しなどせず、自分に恥じない生き方をしたかった。
幼稚園の頃は、クラスの人気者だった。
友達はたくさんいて、先生もあたしを好きで、あたしもみんなが大好きで――毎日が楽しかった。明日は、どんな楽しいことがあるのだろう。わくわくしながら、毎晩眠りについた。
小学校に入った。
低学年の頃は、さほど変わりはなかった。感じた少しのずれなど些細なもので、気のせいでしかなかった。
それが、次第に大きくなったのは三年生になってから。
思春期の始まり。自我の目覚め。
九歳の壁。
後になって、もっともらしく理屈付けられる。
みんな仲良くなんて、ありえない。そんなものは、絵空事のお話だ。
ヒトは皆が皆、別々の他人同士で、わかりあえない。適度な距離を持ち、それが時として、ささくれだった感情だって引き起こす。
それを、理解していく。
諦めていく。
受け入れていくのが、大人になること――だそうだ。
だとしたら、あたしはきっと大人になれなかった。
決定的な亀裂は、五年生のある日。
いじめがあった。
いや、いじめと呼ぶほど大げさなものじゃない。
無邪気じみた、無自覚な悪意だった。
それこそ、数年後にあたしが自殺を考えるくらいには、全然足りなかった。
少し風変わりだった転校生を、クラスメイトの何人かがからかった。その程度。
そんな程度を、あたしは、見逃せなかった。
正義感を振りかざして、その子を助けようと勝手に思い込んで――空回った。あたしのしたことは、ただのお節介で、その子にとってはちっとも助けにはならなかった。
いや、違う。
その子は、あたしを理由に、クラスメイト達と仲良くなれた。
事なかれ主義だった先生は、御大層な屁理屈であたしだけを悪者にした。
尊い犠牲。
はいはい、あたしだけが愚かな犠牲でした。
めでたしめでたし。
あたしは孤立し、そのまま卒業した。
その時に追った心の傷は、中学生になっても引きずってしまった。心許せる友達はできず、繰り返す毎日は空虚で、がらんどうだった。
その頃から両親も不仲になりつつあった。淡い片思いは空しく破れて、せっかく入った部活動はくだらない諍いでぎくしゃくしてしまい、進路希望で、将来の夢なんて見つかりはしなかった。
少しずつ、けれど確かに、あたしの心はすり減っていった。
そうして――やがて、世界に絶望した。
あたしに優しくない世界なら、あたしの方から、見限ってやる。
その時、確かに。
何かが、あたしに囁いたのだ。
だったら、おいで。
こちらへおいで。
形のない、何かだった。
そっと伸ばしたあたしの手の中で、それは形となった。黒い、黒い、華の蕾。あるいは、苗木。
死人桜の、始まり。
◇
「あなたは、ひどい人ね?」
あたしは、笑った。
「そうやって、自分勝手な善意を押し付ける」
あたしは、嘲けった。
「知ってる? そういうのを、独善者って言うのよ?」
年の頃は、あたしと同じくらいだろうか。
長い黒髪に、紫色の袴姿。
手にはするのは、長刀。肩に止まる小さな鳥は、かすかに紫がかった白い体毛。
真っ黒いあたしとは、全く違って、美しいとも言える、淡い紫の少女。
――それが、
今となっては、もう。
あたしと彼女、どちらが本物かわからない。
ただ、少なくとも。始まりの物語は、あたしであったはず。
けれども、きっと。
あたしが、もう。
にせものに、なっていたはずだった。
彼女こそ、本物。
あたしは、醜い偽者だった。ただヒトを殺すだけの怪異と、成り果てていた。
『あなたは、死にたかったの?』
彼女は、そう訊いてきた。
あたしは、誇らしげに語ってやった。
愚かに、すくいようもなく。
「そうよ。その通りよ! あんな世界に生きているなんて、ごめん。楽しいことなんて、何もない! 誰も救ってくれない!」
あたしは、ただ、正しくありたかっただけだ。
「誰も、愛してくれない!」
世界は、そんなことすら認めてくれなかった。
「そんな世界に、生きているなんて苦痛以外の何者でもなかったわ!」
あたしを裏切って、傷付けて、追い込んだ。
「それは、あなただって同じでしょう?」
だから、あたしは悪くない。
あたしは、悪くない。
「あたしと同じくせに、違うふりをするなんて、どれだけ卑怯で薄汚いの?」
『あなたは、死んで満足したの?』
「そうよ。決まってるじゃない!」
『だったら』
柏木橙子――。
『どうして、あなたもそんなに、鎖に縛られているの?』
――あたしの、生前の名前。
『死姫』と呼ばれた、あたしのかつての名前。
「何を、言っているの?」
彼女の、言葉で。
思い出さされて、しまった。
『本当は――』
死を呼ぶ怪異。
『――あなたも、死にたくなんてなかったんじゃないの?』
死人花に色をつける、そのために死を招く怪異の姫。
その虚飾を、ぶざまにも暴かれた。
罪深きは、その魂。
懺悔せよ。
地獄に堕ちて、その罪を悔いるべき。
彼女は、その裁断者となる――そのはずだった。
――それなのに。
どうして、だろう。
なんで、なんだろう。
あたしには、わからなかった。
理解が出来なかった。
その子は、泣きそうで。
哀しそうに、泣いていて。
泣き顔を、無理やりに微笑ませて。
あたしにまとわりついていた鎖を、切り払ったのだ。
憎まれて、当然なのに。
蔑まれて、当然なのに。
弱かった自分を認められず、勝手な思い込みで、何人もの間達を引きずり込んできた。
――偽善者。
彼女に吐いた、毒の言葉。
それは、あたし自身のことじゃないか。
そんなあたしを前にして――むらさきひめは、優しく泣いてくれたのでした。
◇
そんな悪夢を、見た。
「…………!」
目覚めはいつも以上に最悪で――けれど、何時ものように日常が始まる。繰り返すだけのがらんどうな日々。変わり映えのしない毎日を、繰り返す。
そのはずだった。
今日は何曜日だったか。
一週間は、何時だったか。
日曜日は、記憶にあったのか。
気が付けば、学校。油断すれば、自宅。
記憶の断片が、灰色の日常を組み立てる。
そんなある日のことだった。
――インターホンが、鳴らされた。
「……?」
それは、異常。
来客の合図。
あたしの記憶にある毎日に、そんなことはなかった。
だから、空気が強張った。
ベッドに寝転がっていたあたしは、弾かれたように起き上がる。少しの間、困惑する。
心地の悪い息苦しさを覚えながら、部屋を出る。
部屋を出ると、薄暗い闇が広がっていた。
今は、夜の時間だったのか。部屋の中はぼんやりと明るかったので、困惑した。自宅の中で、明らかな時間軸のずれ。
予想外の出来事に、出来上がっていた日常が、誤作動を起こしたのだろうか。
一階に下りる。
両親の――両親を模した人形の気配は、なかった。
もう一度、インターホン。
玄関の向こうに、誰かがいる。
込み上げてきたのは、恐怖だったのかもしれない。
自覚して、薄く笑う。
何を今更、怖がる必要があるのだろうか。死んで、悪霊になって、人々を引きずり込んできて、今は地獄に落ちて――この先を、何を怯えると言うのか。
「はい?」
ドアを開けた。
地獄の鬼でも立っていれば、らしいと思ったのだが――
そこにいたのは、ひとりの老人だった。
背は、高い。長い白髪。皺の刻まれた顔に、少しだけ鋭い目つき。服装は、薄黒い羽織袴。時代錯誤の格好で――見知った顔ではなかった。
「どちらさまですか?」
あたしの問い掛けに、彼は小さく笑った。
表情が、そこにあった。
感情の色が、そこにはあった。
黒ずんだ影で塗り殺された、人形たちとは明らかに違っていた。
「お忘れですか? いやいや、寂しいですな」
その声には――覚えがあった。
死を
死姫であった頃に連れ立ったあやかし。気が付けば共にあり、それは、仲間と言える存在だったのか。今となっては、わからない。
そう呼ばれる――妖怪が、ヒトの姿を取ってそこにいたのだ。
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