むらさきひめ2
自分で、自分の葬式を見ています。
それは、何とも不思議な感覚でした。
いくつもの大きな花輪。
黒い喪服で集まった人達。
遺影の写真で笑うわたし自身は、まるで他人でした。
みんな、泣いています。
お父さん、お母さん、引退した先輩達、学校の先生達。あまり言葉を交わさなかったクラスメイト達でさえ、泣いています。
ああ……わたしのために、泣いてくれています。
胸が痛みました。
心が引き裂かれそうでした。
わたしのせいで、みんな哀しんでいる。
わたしが、みんなを哀しませている。
「……!」
思わずお父さんに駆け寄ります。お母さんに駆け寄って、必死に言葉をかけます。
けれど、わたしの伸ばした手はすり抜けてしまって。わたしの言葉はただの少しも届きません。
(ああ……)
決定的な断絶。
もう、どうしようもない隔たりが、そこにあったのです。
その場にへたりこんでしまうわたしを、誰も彼もが通り過ぎて行きます。わたしに気が付かず、わたしをすり抜けて行ってしまいます。
その肩に、そっと触れる手がありました。少しも温かくない、冷たい手。けれど、その冷たさがとても心地いいです。
振り向くと、彼女が微笑んでいました。
わたしが見える、わたしに触れられる……たったひとり。
寂しい?
そう、彼女がささやきます。
たったふたりじゃ、寂しいよね?
そう、問いかけてきます。
わたしは答えられずに、目を逸らします。
『ねえ、だったら……』
彼女がふわり、と浮かび上がります。そうして、少し浮かんだ位置で止まりました。
わたしを見下ろす彼女は……ついてきて、ということなのでしょうか? これ以上その場にいる事もつらかったし、わたしは従うことにします。
参列する人達を飛び越えて、家の庭から外に出ます。
道路に降り立つ彼女。その視線が、少し先を示していました。
電柱の陰に、こちらを窺うようにたたずむふたりの人影。困り果てた表情をした彼らの姿を前に、わたしは凍り付きました。
友達だった少女と。
恋人だった少年。
『…………、っ!』
身体の底から、何かがわきあがってきます。
ただただ激しい何かは、うまく感情にすらなってくれませんでした。
その衝撃にまた足の力が抜けてしまいそうで、けれどまるで石にでもなったみたいに、わたしは、そのまま立ち尽くしてしまいます。
立ち尽くすわたしのかたわらで、彼女がそっと笑ったみたいでした。
◇
廃ビルの屋上に、わたしはいます。
夕暮れは不気味に、周囲を染め上げています。
半月ほど前。わたしが飛び降りて、ヒトだった日々をやめたその場所に。
『このままでいいの?』
彼女が、声をかけてきます。
『あの子は、あのままでいいの?』
きっと、翔子ちゃんのことです。貴方はこちら側に来てしまって、翔子ちゃんは向こうにいるままで……それでいいの? と、彼女は問いかけてくるのです。
わたしは、答えず。
無言のまま、彼女から視線を逸らしてうつむくだけでした。
だから、彼女がどんな顔をしていたかはわかりません。わたしを気遣う顔だったのか、優しく微笑む顔だったのか……それとも、どこか苛立ちを帯びた顔だったのか。
その時、ふと。
背後で、軋んだ音がしました。さび付いた扉が、開けられる音。ここに続く階段の先のドアが、開いた音。振り返ると、
「……!」
わたしの姿を見て、息を呑んで立ち尽くす――
「……翔子、ちゃん?」
彼女の姿が、ありました。
「……真姫?」
信じられない、と言った表情でうめくようにわたしの名前を呼びます。
わたしも、同じ気持ち
でした。
遠く、どうしようもなく隔たった、あちら側の翔子ちゃんが、わたしの姿を見ているのですから。
怯えて、震えて、それから戸惑って。
「…………」
何かの意を決して、翔子ちゃんが一歩踏み出しました。ためらいがちな一歩に続いて、更にもう一歩。わたしに、近づいて来ます。
ただ立ち尽くすだけのわたしの前に、彼女が立ちました。
その背中から、彼女の顔は見えません。どんな表情をして、翔子ちゃんに向き合っているのかわかりません。
背中が、ぞくりとそそけ立ちました。
冷たい予感と、確信。もはや温もりのないわたしの身体を、尚いっそう凍りつかせる何かが、湧き上がってきます。
迎え入れるように……彼女が、手を差し出します。
わたしに、そうしたみたいに。
そうやって、彼女がわたしを引きずり込んだみたいに。
今度は、翔子ちゃんを……?
「……!」
何かが、弾けました。
わたしの中で、誰かが叫びました。
熱に浮かされたみたいな、翔子ちゃん。応じるように、手を伸ばします。彼女の手に、そっと触れるように――
そうして、その瞬間。
今まさに、ふたりの手と手が触れ合う刹那。
わたしは。
「…………っ!」
咄嗟に割り込んで、その手を払いのけていました。
◇
誰もが、あっけに取られます。
彼女も、翔子ちゃんも。
そして、わたし自身さえも。
意識していない、ただ勝手に身体が動いた結果でしたから。
それでも、わたしがまず一番に我に返って。
「翔子ちゃん」
親友だった少女を押しのけて、その前に立ちはだかります。まるで……いえ、きっと。彼女から、かばってわたしは、向き直ります。
「……何の真似かしら?」
彼女の綺麗な顔が、ひび割れたようにゆがみました。ただでさえ冷たい声が、尚いっそう凍てつきます。
わたしは怯えて、くずれてしまいそうになるのを必死にこらえて、
「貴方こそ、何をするつもりだったの?」
押し殺す声で、聞き返します。精一杯の強がり。見抜かれてしまったのでしょうか。彼女は、薄く笑って、
「決まっているじゃないの?」
尊大そうに、眉を吊り上げます。
「その子にも、こっちに来てもらうのよ」
それは、予想通りの返事でした。
「だって、その子もそう望んでいるんでしょう?」
睨み付けるわたしを通り抜けて、翔子ちゃんに視線を向けます。
「だから、ここに来たのよね? 真姫ちゃんを追って、ここに来たんでしょう」
わたしは、振り返ります。彼女の問いと、わたしの視線を受けて、翔子ちゃんは真っ青な顔で、小さく頷きました。
「ねえ、ほら。そういうことよ」
勝ち誇ったような、彼女の声。それを肯定する翔子ちゃん。ふたりは、そうしようとしています。
ひとりが呼び寄せて、もうひとりはそれに応じようとしています。
わたしに、構わずに。
わたしだけを、取り残して。
今まで、だったら。
わたしは、どうしていたでしょうか?
ただ、静かに笑って。
ただ、周りの人達に従ってきました。
ずっと、ずっと、そうやってきました。
また一歩、翔子ちゃんが踏み出す。
また再び、彼女が手を差し出す。
わたしだけを置き去りに、勝手に、自分勝手に、自分達だけで。
今までの、わたしだったらきっと。
そのまま、見過ごしていたでしょう。
そのまま、流されていたでしょう。
ただ黙って、ただ静かに。
自分の意思なんて、言葉にせずに。自分がどうしたいかなんて、押し殺して。
ずっと、そうしてきたから。
そうやって、わたしは生きてきてしまったから。
でも。
だけど、今は。
「……貴方?」
彼女の瞳が、わたしを睨み付けます。
「真姫?」
戸惑ったような翔子ちゃんの声が、わたしの耳に届きます。
震える心を、励まして。
くじけそうな思いを、かみ殺して。
ちっぽけな勇気を振り絞って。
「……駄目」
わたしは、翔子ちゃんの前に腕を突き出しながら。
「こんなこと、認めない」
わたしは、誰かに逆らって。
生まれてから、最後に。
「こんなこと、許さない」
死んでから、初めて。
――自分の想いを、言葉にしたのです。
◇
「へえ?」
彼女の顔が、皮肉に笑います。
「庇おうって言うの? その子を」
「…………」
「貴方を裏切った、貴方を殺したその子を? あはははは! おかしいんじゃないの?」
彼女が、痛烈にあざけります。
「そうだよ」
翔子ちゃんが、悲痛な声で言います。
「あたしが、真姫を裏切ったんだから……だから!」
だから、死んで償うと言いたいのでしょうか? 翔子ちゃんは。
「ええ、そういうことでしょう」
だから、死んで償えと言いたいのでしょうか? 彼女は。
「…………」
何かが、胸の奥から、こみ上げてきます。さっき感じた恐怖じゃなくて、もっとずっと熱い何かでした。
ぎり、っと気付かずに。
わたしは奥歯をかみ締めます。どうしようもない苛立ちと、やるせない不快。胃がねじれそうで、もう動かないはずの心臓が……どくり、と跳ねます。
怒り、でした。
わたし自身、戸惑ってしまう感情でした。
勝手に決め付けるふたりを前に、わたしは……
――わたし、は。
「……うるさい」
最初は、ささやくように。
「うるさい」
続いて、少しだけ大きくなる声で。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
ついには、声の限りに荒げます。
わめきだすわたしを前に、ふたりが目を丸くします。構わずに、わたしは続けます。爆発する感情を、そのままに撒き散らします。
「誰が、そんなことを望んだって言ったの? わたしは、そんなこと言ってない。そんなこと、望んでないわ! ふたりとも……勝手に決め付けて、勝手にしようとしないでよ!」
「……真姫」
困惑する、翔子ちゃんの声。
そうして、わたしの目の前で。
彼女の表情が、憎憎しげに染まっていきます。
「そう」
ひどく低く、暗い声。
「貴方は、その子を護るのね?」
ごぞり、と。身体にねじ込まれるような声でした。
憎悪に染まるその瞳で、わたしを睨み付ける。わたしは真っ向から見返して、向かい合います。
それは、無言のままの肯定でした。
「…………ふ、ふふふ」
彼女の唇が、その唇だけが、笑い出します。
「うふふふふ……あはははは」
乾いて、乾き切ってひびわれた笑い。狂ったように大声で笑い出します。その瞳だけが、瞳だけは全然まったく笑わずに。
「あーはっはっはははははははははははははは!」
のけぞって、長い黒髪を振り乱して。その顔は、まるで化け物みたいにゆがんで、くずれていきます。後ろで、翔子ちゃんが短い悲鳴をあげました。
「ははははっ!」
そして、彼女はこちらに飛びかかってきました。
「翔子ちゃん!」
咄嗟に、翔子ちゃんを突き飛ばします。
「くあっ」
次の瞬間、わたしは首をつかまれました。彼女の両腕が、ぐいぐいと締めつけてきます。
「か、はう……」
苦しくてうめくわたしに構わずに、容赦なく、彼女は更に力を込めてきます。
「何なのよ! 何なのよ、あんたは!? ふざけないでよ! ふざけるなよ! あたしと……あたしと同じくせに……いい子ぶってんじゃないわよ!」
「真姫!」
思わず駆け寄ってくる翔子ちゃん。それを、彼女は一瞥します。たった、それだけで。
「きゃあっ」
見えない力に、翔子ちゃんは吹き飛ばされてしまいます。
「……翔子、ちゃん」
「ふん、しばらくそうしてなさい」
うずくまる翔子ちゃんに、彼女は鼻を鳴らしました。
「この子も食らい尽くしてから、あんたも同じ場所に送ってあげるわ」
わたしに向き直る彼女。その口が、がばあっと裂けます。耳まで裂けて、倍以上に膨れ上がった。
「……!」
ナイフみたいな歯がずらりと並ぶ、大きな口。毒々しいほどに真っ赤なその中に、爛々と輝くふたつの光が見えます。
それは、目でした。血のような色をした、つりあがった大きな瞳が、口の中にありました。
その大きな口で、わたしを一飲みにしようというのでしょう。逆らおうにも、その両腕ががっしりとわたしを押さえつけています。
それだけでなく、彼女から伸びる髪がまるで生きているかのようにまとわりついて、わたしの身体そのものを縛り付けていました。
非力なわたしでは、もうどうしようもありません。
もう、覚悟を決めるしかありません。
それでも、その瞬間。
わたしは、恐怖を更に塗りつぶす感情を覚えていました。
それは、どうしようもないほどに大きな哀しみでした。
脳裏に浮かぶ、ふたりの少女の姿。まるで、わたしと翔子ちゃん。けれど、そのうちのひとりは……さっきまでの彼女の姿をしていました。
まだ、ヒトであった頃の彼女でした。
――あたしと、同じくせに。
先ほどの彼女の言葉が、もう一度、耳に響きます。
(……そうか)
わたしは、その時になってわかりました。
(そうだったんだ)
流れ込んでくるのは、きっと彼女の記憶なのでしょう。押し寄せてくるのは、彼女の哀しみなのでしょう。
ああ……きっと、彼女もわたしと同じだったのです。
友達に傷つけられて、その命を絶った。そうして、同じ境遇になったわたしを引きずり込んだ。
でも、それでも満たされなくて。そのひびわれた心のがらんどうは、埋まらなくて。
翔子ちゃんも、引きずり込もうとした。
なんて、哀しい。
なんて、救いのない。
これから、その真っ赤で真っ暗な中に飲み込まれていくことは、とてもとても怖かったけれど。
それよりも、ほんの少しだけ。
わたしは、哀しいと思いました。
彼女のことを、哀しいと思ってしまいました。
まるで、わたしの感情が伝わったかのように。彼女の真っ赤な瞳が、揺れ動きます。その一瞬、わたしを飲み込もうとする動きが止まります。
だけど、すぐさま思い直して、もう一度わたしを飲み込もうとしてきます。
ほんの、一瞬。
ためらいは、わずかに刹那。
けれど。
たったそれだけの時間で、間に合ったのかもしれません。
――轟、と。
風が吹き抜けました。
そうとしかわかりませんでした。
わけがわからずに、気が付くと身体中を縛られていた感覚がなくなっています。
その代わりに、誰かに抱きかかえられている感覚。とても温かく、とても優しいその感覚に続いて、
「よう」
と、たった一言。
その声が、呼びかけてきます。
それは、聞いたこともないはずなのに、とても懐かしいその声。
それは、初めて聞くはずなのに……どうしてか胸が切なくなり、ぎゅうっと、締め付けられて……じんわりと温かい何かが広がっていきます。
それは、まるで時代劇のサムライのような姿。
背の高い、整った顔立ちで。わたしを、力強く抱きかかえています。
知らない、はずなのに。
初めて出会う、はずなのに。
「……シ、デン?」
紫電、と。
わたしの唇が、ひとりで勝手に。
彼の名前を、呼んでいました。
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