しきせんぱい5
その瞬間、頭が真っ白になってしまった。
次の瞬間。
「先輩!」
あたしは、飛び出していた。
錆びついたフェンスの向こう側。わずかばかりの足場に立つ真姫先輩に呼びかけながら。
無我夢中で駆け寄って、フェンスの上から、向こうに手を伸ばす。先輩の細い肩を押さえつけた。
そのまま、こちら側に引き寄せてた。先輩の細い背中を、フェンスに押し付ける。
そこで、少しだけ頭が冷えた。
意識がよみがえった途端、思わずゆるんでしまった両手に力を込める。多分、痛いくらいにぎゅうっと。絶対、絶対に離すまいと。
「……先輩」
悲鳴のような、囁くような声でわたしは呼びかける。
どこかに引っ掛けたのか。こすれた両手の甲が赤くにじんで、ひりひりと痛んできた。今更ながらに気付く。そして、その痛みが、目の前の現実を本当のものだと――あたしに突きつけてきた。
背筋が、凍りつく。
今ここでわたしが手を離したら、きっと先輩は向こう側に行ってしまう。足場のない先に一歩踏み出して、遠くに行ってしまう……!
それは、確信だった。
恐怖すらともなう、決定的な予感だった。
(それは、それは……)
そんなことは、絶対に駄目。そんなの、認めない! そんな結末は、そんな未来は――哀しすぎるもの。辛すぎるもの。先輩のいないその先の、日々は……!
――あたしは、彼に寄り添っていくのだろう。
「…………!」
頭によぎったその光景に、めまいがした。めまいは激痛となって、あたし自身を切り刻む。 心臓がばくばく鼓動をうって、そのまま壊れてしまいそうだった。
あたしは何を、考えた?
何を、思った?
もし。
このまま、先輩がいなくなったら。
……イナクナレバ。
キット、彼は哀しむだろう。心をえぐられて、倒れ伏すだろう。そして、そうして、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは……!
そんな、彼のそばにいて、彼を慰めるのだろうか?
「あたしが、そばにいるからね?」
絶望する彼に、優しい言葉をなげかけて寄りかかるのか?
「ずっと、貴方のそばにいるからね」
うちひしがれる彼に、甘い言葉を掲げて抱きとめるのか?
醜い本心を、押し殺して。
あざとく、薄汚く、救いなく、ひびわれた彼の心の隙間に、あたし自身を埋めこんでいくのか?
「……あ、あ」
そんな、最悪な想像。だけど、それはあたし自身が願っていたことなのかもしれない。
ずっと、焦がれてきた彼を手に入れられる。
欲しかった彼を、思って来た彼を。
だったら。
そうだとしたら、
(あたしは、この手を離してもいいんじゃないのだろうか?)
悪魔が、囁いた。
あたしの中で、もうひとりのあたしが囁いた。
それは、ひどく歪んだあたしの姿をしていて。同時に、翔子先輩と同じ表情をしていた。
ああ……
何て、甘美な誘いだろう。
ああ……
何て、目のくらむ提案だろう。
両手の力が、少しだけ抜ける。少しずつ、抜けていく。先輩を引き止める力が、段々となくなっていく。
もう少し。
あと、少し。
そう、あとちょっとだけ。その力を抜けばいいの。別に、あたしが先輩を殺すわけじゃない。
あたしは、先輩を引きとめた。でも、その力が抜けていくだけ。何時までも、その力が続くわけじゃない。いずれ力尽きていくのは、当然のこと。そうでしょう?
(そうでしょう?)
もう一度、悪魔が囁いた。
あたしは。
……あたしは。
それでも、抗って!
「先輩!」
声を振り絞って、叫んでいた。
「真姫先輩!」
大声を張り上げて、抜けつつあった力をまた込めた。
「……離してくれない?」
静かな声が、あたしの耳を打った。
一瞬、先輩の声とはわからない。そんな、冷たい声だった。
あたしは、上ずりそうになった声を抑えながら、
「じゃあ、約束してくれますか?」
あたしは先輩の背中に問いかける。
「あたしが手を離したら、絶対にこっちに戻ってくださいよ? それを約束してくれるまで、この手は離しません!」
「……どうして?」
「どうして、って」
あたしはうめいた。
「そんなの、決まってるじゃないですか!」
決まってる。
死んでほしくないから。
先輩に、いなくなってほしくないから。
それだけ。
たった、それだけだけど。
絶対、それで充分すぎるはず。
「どうして?」
もう一度、先輩は聞いてきた。
「だって」
続く、静かな声が。
「――あゆかちゃんは、わたしが邪魔なんでしょう?」
先ほどより冷たい声が、あたしに問いかけてきた。
「先輩?」
凍て付いた声で、先輩は続けてくる。
「和秋君のこと、好きなんでしょう? 彼が、わたしを好きなことが辛いんでしょう? だったら、わたしがいなくなれば……」
「……っ!」
真姫先輩が、いなくなれば?
そう思ったことも、あるかもしれない。
心のどこかで。
先輩がいるから。先輩のせいで。いなくなればいいのに。どこかに行ってしまえばいいのに。それこそ、死んでしまったとしても……。
そう、思ったかもしれない。
「だから、この手を離せばいい。別に、あゆかちゃんがわたしを殺すわけでもないわ」
手を、離しなさい。
先輩の言葉に続いて、また悪魔が囁く。
あたしの中で。あたしの目の前で。
「!」
見慣れない少女の姿が、そこにあった。
先輩の足元にすがりつくような格好で。まるで、先輩を引きずりこむみたいに。
思わずまばたきをするあたし。その後には、もうその姿は消えていた。あたしの、目の錯覚だったのだろうか……。
「ねえ、あゆかちゃん?」
先輩の声に、あたしは我に返る。
それは、とても優しい声だった。
「だから、離して……」
この手を、離しても。
先輩は、怒らない。
先輩は、責めない。
先輩は、先輩は、先輩は……。
でも、
だからこそ。
そんな先輩、だからこそ。
「……嫌だ」
最初は、ささやくみたいに。
「嫌です」
続いて、押し殺す声で。
「嫌です!」
悲鳴の声で、あたしは言った。
確かに、思いました。
肯定します。
先輩が、いなくなればいいって。そう考えたことも、ありました。
頷きます。
翔子先輩の言葉、否定はしません。
認めます。
和秋のことを、ずっと好きだったから。
そんな彼の心を、あっさりと奪ってしまった貴方を憎んだこともありました。
でも。
「……でも」
震える声が、あたしから流れていきます。
「先輩だったら、いいと思いました」
まるで流す涙の代わりに、零れていく言葉があります。
嘘じゃない。
きっと、それもあたしの本心からの言葉です。
「悔しいけど、哀しいけれど、先輩だったら……先輩が、和秋とくっつくんだったら……」
すぐには、無理でも。
もしかしたら、しばらくはふたりを憎んでしまうかもしれないけれど。
何時かは、きっと。
ふたりを、祝福できますから。
そうして、その時はあたしも新しい恋を見つけていて……アハハ、そうですね。そうしたら、四人でダブルデートなんでどうですか?
ねえ、楽しいと思いませんか? 照れる和秋を思い切りからかって、心の底から笑ってやります。きっとあいつはオクテで、煮え切らないに違いないだろうから――あたしが、せいぜいおせっかいしてやりますよ。
そういうの、悪くないと思いませんか?
(ねえ、先輩)
だから、お願いです。
あたしは、祈ります。
お願いです。
「……死なないで」
あたしは、想います。
お願いです。
「死なないでください……先輩。真姫先輩」
(貴方が、好きだから)
「……ありがとう」
嬉しそうな声で、先輩は口を開く。
その声が、哀しげに揺れる。
「ごめんなさい」
鈴を鳴らすような声で、先輩の声がささやいた。
「わたしは――もう、死んでいるから」
轟、と。
目の前いっぱいに花びらが舞った。何もかもを覆いつくす、薄紫色の花吹雪。
その光景に、あたしは思い出す。
「……あ」
忘れていた記憶が、あたしの中に流れ込んでくる。
「ああ……」
先輩は、もう死んでいたんだ。
三年前に。
あたしが中学生だった、その時に。
廃ビルの屋上から、飛び降りて……自殺していたんだ。
『誰もいなかった』その場所で。
そう、あたしもその場所にいなかった。
それだけが。
そこだけが、あたしの記憶とは違っている。
思い出す。
思い出していく。
それから、ああ……それから。
あたしは――
「あたしが、そばにいるからね?」
絶望する和秋に、優しい言葉をなげかけて寄りかかったんだ。
「ずっと、あなたのそばにいるからね」
うちひしがれる彼に、甘い言葉を掲げて抱きとめたんだ。
醜い本心を、押し殺して。
取り入って。
付けこんで。
あざとく、薄汚く、救いなく、ひびわれた彼の心に、あたし自身を埋めこんでいったんだ。
そんな自分が、嫌になっていった。
少しずつ、少しずつ。
そんな自分を、許せなくなっていった。
そんな時に、ふと。
――ねえねえ、シキメールって知ってる?
そんな、噂話を聞いたから。
自分を消したくて。
あたし自身を、殺したくて。
『本当の、本当に?』
『本当に、本当です』
『今から――』
その一歩を踏み出したんだ。
真姫先輩が、振り返る。
その服装は、中学時代のセーラー服ではなくて……紫色の袴姿へと変わっている。
それは、もう彼女が真姫先輩ではなくて。九条真姫という人間ではなくて、『紫姫』と呼ばれる存在だという、その証。
夢から覚める。
ようやく――あたしは、何もかもを思い出した。
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