しきせんぱい4
現実感が、なかった。
意識にもやがかかって。
視界が、ゆらめいて。
アハハ……まるで、悪い夢みたい。
たちの悪い三文芝居。演出も、脚本も、全部全部……最低で最悪な夢。
そうだとしたら。
それは、誰が見た夢で。
誰が、見ている夢なのだろう。
◇
「あ――!」
唇を振るわせるのは、怒りを孕んだ声だった。
押し殺すことなんて、できないくらいの。
我慢できずに、あふれてしまうほどの。
そんな、声だった。
「……ぁ、んた達! 何やってやがんだよおっ……!」
その叫び声は、あたしじゃない誰かのものだった。
だけど、あたしも同じ気持ちだったに違いないから。
その声は、あたし自身の声だと錯覚してしまった。
目の前には、見苦しくうろたえるふたりの人間。
ひとりは、自分の恋人を裏切った男で。もうひとりは、親友を裏切った女だった。
そんな人間を前に、いったいどんな感情を覚えればいいというのだろう?
最低で、最悪。ヒトの形をしたクズ人形には……吐き気を押し殺して、めまいに倒れそうになりながら、殴り飛ばして、蹴りつけて、ツバを吐きかけて――きっと、それでも足りない。全然、ちっとも、足りないはずだ!
だから、
「この野郎っ!」
あたしのとなりを駆け抜けていく和秋を、止めなかった。
「ふざけんなあっ!」
卓也先輩の胸倉をつかむ和秋を、あたしは、止めなかった。
だから、あたしか……それとも、他の誰かの代わりに。
「やめてえっ!」
引き裂く声。割り込んでくる悲鳴が――
殴りかかろうとした和秋を、止めていた。
◇
誰もが、押し黙る。
誰もが凍り付いてしまって、ただ彼女を見つめるだけだった。
「……真姫」
やがて、呻くような声でその名前を呼んだのは卓也先輩だった。
「先輩」
立ち尽くす和秋を軽く押しのけて。
震える手を差し伸ばしながら、真姫先輩に歩み寄ろうとする卓也先輩。
それを、翔子先輩が押しとどめた。
後ろから抱き付いて、それを真姫先輩に見せ付けるような格好で。
「見ての通りよ? 真姫」
唇を醜くゆがめながら、そう言った。
「あんたが、悪い。あんたが……悪いんだ」
「……翔子?」
声を漏らす卓也先輩をさえぎって。
「翔子、ちゃん?」
震える真姫先輩のを押しのけて。
上ずった声で、言いつのる翔子先輩。
「そうよ! 真姫、あんたのせいなんだ。あんたが、きちんと卓也をつなぎとめていないから……だから、卓也は、不安になって……本当に、あんたが自分を好きなのかって……!」
――だから、自分が彼をもらった。
「あたしだって……ずっと、卓也が好きだったんだよ? それを、あんたに譲ったのに……譲ってやったのに……!」
だから。
あんたが、悪い。
だから。
自分のせいじゃない。
だから。
自分は悪くない。
いつも、控えめに微笑んでいた真姫先輩。
卓也先輩が、少しくらい彼女をないがしろにしても。少しくらい、彼女の親友と一緒にいても。彼女といなくても、平気だった真姫先輩。
でも、それが皮肉にも。
それが、卓也先輩を不安にさせた。
それが、彼の心を揺り動かした。
本当に、自分は彼氏なのかって。
真姫先輩は、自分を好きなのかって?
――だから。
だから、翔子先輩に傾いた。
きっと、ほんの少し。
少し、ちょっとだけのつもりで。
でも、少しだけ寄りかかってしまった卓也先輩を、翔子先輩はがっしりと抱きかかえてしまった?
そういうこと、なのだろうか?
(……ああ、なんて)
なんて、身勝手な理屈だろう。裏切っておいて。奪っておいて。優しい真姫先輩の心を踏みにじっておいて!
何を……何を、そんな自分勝手で自分よがりな言葉を吐くのだろうか!
ひどすぎる。
こんなの、ひどすぎる。
こんな結果、こんな結末、誰が用意した? 誰が、望んだ? 誰が、決めた?
哀しすぎる。
あんまりにも、救いがなさすぎる。
それでも、
それなのに――
……先輩は、微笑んだ。
真姫先輩は、微笑んだんだ。
恋人に裏切られて、親友に裏切られて、そんな残酷な光景を目の当たりにしたはずで。
その上で、心無い言葉を投げつけられているのに――それなのに!
だから……心は、きっと痛いはずなのに。ずたずたで、ぼろぼろで、めちゃくちゃで……悲鳴をあげたいはずなのに!
泣き笑いのような顔を、無理矢理にゆがめてまで……先輩は、微笑むんだ。
何で?
どうして?
ののしればいいじゃないですか。怒ればいいじゃないですか。声を張り上げて、叫べばいいじゃないですか。
だって、それが普通じゃないの? 当たり前じゃないの? こんな時まで。そんな、物分かりのいい表情を、貴方はするのですか?
声にならないあたしの問いかけ。
当然のように、誰も答えない。何も、応えない。
音が、遠くなる。
目の前の光景が、遠く隔たっていく感覚。
その向こうで、
「…………」
先輩は、静かに背を向けた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
肩にかかる長い黒髪が、ひるがえる。
まるで黒い幕みたいに、先輩の顔を隠す。
誰かが、思わず伸ばそうとした手は届かなくて。
先輩は。
みんなをその場に残して、駆け出した。
「……!」
小さく息を飲む音が、やけにはっきりと耳に届いた。
視線を向けると、和秋の姿。中途半端に腕を差し伸ばした格好でたたずんでいた。
その顔は、まるで取り残された子供みたいで。今にも泣き出しそうにゆがんでいる。
途端、頭に血が上った。
それは、怒りにも似ていて。
だけど、怒りとは違う。
あたしは、その感情が湧き上がるままに、
「和秋!」
声を、荒げていた。
弾かれたように、和秋があたしを見る。
「追いなさい!」
――真姫先輩を、追いかけなさい。
あなたが、一番に飛び出して……真姫先輩を追いかけなさい。
それが、一番正しいはずだとあたしは思ったから。
だから、あたしは叫んだ。
「……あゆか」
さっきは、届くことのなかったその腕。踏み出すには、弱すぎたその足を――あたしは、叱咤する。
「和秋!」
今一度あたしが荒げる声に、彼はためらいを振り払う。
「……ありがとう」
振り切って、振り捨てて、駆け出した。
真姫先輩の後を追って、部室を飛び出していく。
あたしは、その背中を見送る。
それで、いい。
杉原和秋は、脇目も振らずに九条真姫を追いかける。
藤代あゆかは、そんな彼を後押しするから。
これで、いい。
そうして。
その場には、あたし達三人だけが残った。
◇
ふたりに、振り向いたあたしは――
どんな顔を、していただろうか。
どんな瞳で、ふたりを見ていただろうか。
「何よ?」
翔子先輩が、眉をしかめた。
お世辞を抜いてもかわいいと言えるその顔が、今は不恰好にゆがんでいた。真姫先輩とは違って。
醜い感情は、その感情に相応しくその顔を変えていた。
見慣れたはずの部室は、今はひどく空々しかった。
「何よ? その目は……!」
目を剥く翔子先輩は、ますますひどい形相。ますますゆがんで、ますますぴったり。
「何よ! 何よ……! 善人ぶらないでよ? あんただって……あんただって、同じくせに!」
「!」
その言葉に、あたしは息を飲んだ。
「しらばっくれてるんじゃないわよ! あんただって、真姫に嫉妬してたんでしょう? 知ってるわよ? 和秋君のこと、好きなんでしょう? でも、彼は真姫が好きなのよね」
あたしの様子から、何かを確信した翔子先輩は、勝ち誇ったように言いつのる。
心臓が、どくんと。
ふくれあがった。
「だから、あゆかさん……あんただって、真姫を妬ましく思っていたはずよ!」
その心臓に、形のない刃が突き立った。
隠していたはずの想いが、あっさりと暴かれる。無遠慮に、力任せに、こじ開けられる。 ずかずかと、土足で入り込まれてくる。
それも。
ああ……こんな、ヒトに。
親友を裏切った、こんな最低な人間に。
自分で自分を正当化して、理不尽な罵声を浴びせるようなそんな相手に。
あたしは、あたしを侵されている。
その事実。
その現実。
あまりの哀しみに、めまいがした。
あまりの怒りに、泣きたくなった。
「…………っ!」
一歩踏み出して。
思わず、手を振り上げる。
力の限り、叩きつぶすくらいに。
思い切り、骨を砕くくらいに。
ひっぱ叩いてやろうと、思った。
……けれど。
あたしは、そうしなかった。
その手は、相手に届くことはなかった。
暴力に訴えて、その結果として、相手の言葉を肯定したくなかったのかもしれない。
それとも、とっさに庇うように立ちはだかった卓也先輩に思うところでもあったのかもしれない。
それとも。
――静かに微笑んでいた、真姫先輩を思い出したからかもしれない。
結局、わからないままで。
踏みとどまって。
押さえつけて。
「優しいんですね卓也先輩」
真姫先輩を裏切っておいて。かっこよく、庇うじゃあないですか?
せめて、精一杯の皮肉を毒として吐いてから、踵を返す。
あたしは、ふたりに背を向けた。
多分、もう二度と。
ここに足を踏み入れることはないだろうと、頭の片隅で思いながら。
あたしは、部室を後にした。
◇
校門をくぐったあたしは、途方に暮れる。
吹き抜ける風はひどく冷たく、空は灰色で、今にも雪でも振り出しそうだった。
確かに冬だけれど、先ほどまで、ここまで寒かっただろうか。
そんな考えは、後に回す。
「……困ったな」
先輩を探すべきとは思うけれど、どうすればいいのだろうか。
とりあえず、和秋に連絡を取ろう。通学路を歩き出しながら、携帯電話を取り出して、
「……?」
その途端、めまいがした。
貧血でも起こしたのだろうか。意識が少し遠くなって、その場でよろめいてしまう。
例の、違和感だった。この数日、時々襲ってくる得体の知れないその感覚。
また、それが来たのだ。
よりによって、今。
「……まったく」
あたしは踏ん張りながら、唇をかみ締める。
「何だって……言うのよ」
軽く毒づきながら、携帯をしまう。
携帯電話を使用すると、また先ほどの違和感が襲ってくるような気がしたから。
(携帯電話を、使用すると?)
頭の中で、何かがよぎった。
とても大事で、重要な記憶の欠落。それにつながる断片に、手が届きそうな気がした。
「あく……」
けれど、踏み出そうとすると。今度は、頭が痛くなる。
何か、鋭いものでも突きたてられたみたい。右から左へ、こめかみを貫いていく……そんな錯覚を覚えた。
「……は、うう」
あたしは頭痛を、やり過ごすことにする。しばらくすると痛みが引いてくる。
そうして落ち着いてから、歩き出した。
◇
陽が、傾き始めていた。
人通りがまばらになりつつある商店街を、あたしは歩いている。ひとりで、とぼとぼと。
あのあと、真姫先輩の自宅に向かったあたしは、和秋と会った。先輩の姿を見失ってしまってしばらくあたりをさ迷ってから、とりあえずここに来たらしい。
来たはいいが、インターホンを押すことに決意できずにいたところ……ちょうど、あたしがやって来たということだった。
代わりにインターホンを押したあたしは、受話器を取った先輩のお母さんに話を訊いた。 先輩は、帰っていなかった。
「……何か、あったんですか?」
少し不安そうな、その声に、
「あ、いえ。ちょっと部活のことで行き違いがあったみたいで……訊きたいことがあったんですけれど。何か、携帯電話の電源も切れているみたいで」
もちろん詳細は伏せて、無難な返事を返す。
携帯で先輩に連絡が取れないことは、和秋から聞いていた。
「それじゃあ、帰ってきたら……和秋君の携帯に連絡をくださいと伝えてください」
そう言ってから、あたしと和秋は二手に別れた。
あたしの携帯は故障しているから、折を見て公衆電話でこっちから連絡を入れると、そう取り付けてから。
それから二時間近くが過ぎた。その間に、和秋には三回くらい連絡を取ったけれども。お互い、収穫はなかった。
「ほんと……どこに行っちゃったのよ」
あたしは、駅の近くのベンチに腰を下ろす。座った感触は、やたらひんやりとしていた。 がっくりとうなだれて、つぶやいた。
その時だった。
「誰かを、捜しているの?」
不意に、声。
予想外の返答に驚いて、あたしは顔を上げる。
ひとりの男の子がいた。背はかなり低い。座っているあたしよりも、視線は少し高いくらい。
小学生くらいだろうか。白いパーカー姿の、可愛らしい男の子だった。長めの黒髪。もしかして、女の子かもしれなかった。
(……どこかで、会った気がする?)
「お姉ちゃん、誰かを捜しているの?」
戸惑うあたしにかまわず、にこにこと微笑みながら訊いてくる男の子。
あまりにも邪気のない笑顔に、どうしてか警戒心のようなものが湧き上がってきた。
「え? ええ」
「もしかして、お姉ちゃんと同じ服を着ている人かな?」
「!? 知っているの」
思わず、あたしは立ち上がった。
「長い髪の、綺麗なお姉ちゃんだったよ。背は、お姉ちゃんよりも少し低いかな」
真姫先輩の姿が、頭の中に浮かぶ。
「うーん、何だか元気ないみたいだったけれど」
間違いない。
あたしは、確信した。
確信するには早すぎるとも思ったけれども、心のどこかでそういった疑念なんて押し流してしまう。
「どっちに行ったの?」
「んー、あっちの方だよ。ついてきて」
男の子は歩き出す。
あたしは、その子についていくことにした。
「ねえ」
道すがら、男の子が話しかけてきた。
「どうして、その人を捜しているの?」
「え?」
「だから、お姉ちゃんはどうしてその人を捜しているのかな?」
「どうしてって……」
あたしは少し迷ってから、そう答える。
「心配だからよ」
他に適当な言葉も見つからなかったし、自分で言葉にしてみて……やっぱりそうだと思った。
それ以外に、どんな理由があるの?
「ふうん」
何だか意味深なあいづちに、あたしは眉をひそめた。
「なに?」
「じゃあ、その人は大切な人なんだね?」
「?」
「だって、そうでしょう?」
当然のように、言ってくる。
「そうじゃなかったら、そんな顔をして捜さないと思うけどな?」
歩きながら肩越しに振り返って、あたしを見つめてくる男の子。その大きな瞳が、あたしを見据える。
まるで、あたしの心の奥底まで見透かすみたい。
「……ふふ」
戸惑うあたしの姿を少しながめてから、男の子は歩き出す。
そこで、何時の間にか男の子と、あたしも立ち止まっていたことに気が付いた。
狐につままれたというのは、こういことを言うのだろうか。
「あ?」
少しの間呆然としていたあたしは、男の子の背中が小さくなっていくことに気が付いて、小走りで距離を詰めた。
段々と、裏通りに向かっている。赤い夕焼けの光が、人気のない裏路地の物寂しさを、不気味なものへと変えていた。左右にそびえるコンクリートが、まるで押しつぶしてきそうな錯覚すら覚える。
本当に、こんな場所に先輩がいるのだろうか?
不安に思って、目の前の男の子に声をかけようと思った。
その時、前方の曲がり角。
視界の端に、見知った姿を垣間見た。長い黒髪が、赤い光を照らして映える。
「先輩?」
つぶやいて、
「先輩!」
呼びかけて、あたしは駆け出した。
先輩の消えた角を曲った先に、姿はなかった。慌ててあたりを見回すと、すぐ手前の廃ビルの二階の窓を通り過ぎる姿が見えた。
あたしは、追っていく。
呼びかけても、振り返らない。あたしはほとんど全速力で走っているのに、先輩には全然追い付かなかった。真姫先輩は、ゆっくり歩いているはずなのに。
どうしても、追いつけなかった。
もどかしくて、歯がゆくて。
「先輩! 真姫先輩!」
あたしは何度も呼びかけながら、ビルを登っていく先輩を追い続けた。
(もしかして、先輩はここの屋上に向かっているの?)
嫌な予感が、よぎった。
昇っていて実感するけれども、決して低いビルじゃない。正確に数えてはいないけれども、最低でも三階以上はあった。それ以上の高さのビルの屋上。それも、誰もいない廃ビルの屋上。
そんな、まさか。
もしかして……だって、そんなこと!
予想は、少しずつ確信に近付いていく。
そうして、屋上に続く開け放しの扉を走り抜けたあたしは、
立ち尽くした。
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