しきせんぱい3

 あたしの気のせいだったのかもしれない。

 それとも、あたしと和秋の気のせいだったのかもしれない。


 

「……あゆか」


 休み時間。

 廊下を歩いていた和秋がふと立ち止まり、窓の外に視線を向けていた。あたしもその視線の先を追う。

 二階から、下に広がる光景。あたしは、すぐに和秋が何を見たのか思い当たった。

 中庭に、ふたりの生徒。卓也先輩と、翔子先輩だった。

 他にも生徒はいるはずなのに、わたしには、そのふたりしか映らなかった。


 最近、ふたりでいる姿をよく見かける。逆に、真姫先輩と卓也先輩が一緒にいるところはあまり見ていないような気がする。


「なあ、久我先輩は……真姫先輩と付き合っているんだよな?」


 あたしに訊いてくる和秋。それは、彼自身への疑問にも思えた。


「そのはずだよね」


 ここからでは、何を話しているかはわからない。単純に部活のことかもしれない。 

 

『わたしは、そんなに顔が広くないから。そういうことは、翔子ちゃんの方が向いてるし。卓也は部長だもの』

 

 真姫先輩の言葉を、思い出す。当然の理屈。充分な理由。だけど、納得するには少しだけ足りない。それは、ただの考えすぎなのだろうか?

 

「これじゃあ、まるであのふたりが付き合っているみたいじゃないか……」


 あたしが思っていて、言葉にしなかったことを、和秋が、うめくみたいに口にした。

 あたしにだけじゃない。和秋にもそう見えるんだ。だったら、他の人達にはどうなんだろう?

 仲がよさそうに見える、卓也先輩と翔子先輩。


 そんなふたりを、遠く離れた場所から見ている真姫先輩の姿が、あたしの頭の中に浮かぶ。

 寂しそうに、哀しそうに――それでも、微笑んでいる真姫先輩。

 胸が、痛んだ。

 真姫先輩に嫉妬する痛みとは、少し違う気がした。そんな自分を自覚して、


「だったらさ」


 あたしは、口を開く。自分でも、どうしてそんなことを言うのかわからないままで。たちの悪い冗談として。

 


「――和秋、真姫先輩を取っちゃったら?」


 

「え?」


 和秋が、あたしを見る。

 すぐには、言葉を理解しなかったのだろう。呆然とした様子の和秋に、あたしは重ねて口にする。


「真姫先輩をないがしろにしてる卓也先輩なんかに、真姫先輩を任せて置けないんじゃない?」


「……!」


 和秋の顔色が、変わった。

 短く息を飲む音。やけに、大きくあたしの耳に届いた。

 もしかしたら。

 和秋も、そう思ってしまったのかもしれない。いっそ、自分が。自分の方が。だから、あたしにそう言われて……図星を付かれて、そのせいだったのか。


「悪い冗談はよせよ」


 静かに、押し殺した声。それは、和秋が本当に怒る時の声だった。少し、後悔する。あたしは、調子に乗りすぎたのかもしれない。


「……ごめん」


 素直に、謝る。


「あ……いや」


 和秋は気まずそうに視線を逸らした。

 そうして、あたしと彼の間に横たわる重苦しい空気。少しの重さを持って、肩にのしかかってくる。少しだけ息苦しい不快感が、続いていく。

 


 しばらくして、 


「あのさ……」


 それを破ったのは、和秋だった。

 ためらいがちに、迷っているみたいだったけれど、それでも言葉にする。


「……俺、真姫先輩のこと好きだから……だからさ、哀しんでほしくないんだ」

 


 大好きな人には、何時だって笑っていて欲しい。

 たとえ、その笑顔が自分に向かなくても。他の誰かに向いていても。

 それでも――笑っていて欲しい。


 

「そうだね……」


 自分でも驚くくらい素直に、同意の言葉が突いて出る。

 頷きながら、思い出していた。


 

 あたしの頭をそっと撫でてくれた小さな手。困ったような、あの笑顔。耳に優しかった透き通る声。


 

 真姫先輩。

 あたしの恋敵で。

 絶対、かなわない。

 うらやましくて、妬ましい。

 けれど。


 

 あの人の哀しい顔は、見たくない。

 その想いだけは、和秋と同じだった。

 少なくとも、その想いを否定できなかった。

 


 でも。

 だけど。

 その想いは。

 その願いは。

 その祈りは。


 

 ――きっと裏切られることを、あたしは知っていた。

 

       ◇

 

 夢を見るんだ。

 繰り返し、繰り返し。

 思い出すんだ。

 何度も、何度も。

 どうしようもない心の痛み。締め付けられるような苦しさ。どうにもならないやるせなさ。

 

 泣き崩れる和秋の背中。

 黒い喪服姿の、たくさんの人。

 いくつもの花輪と、遺影の中で笑うあの人。

 憂鬱な灰色の空は、今にも雨が降りそうで……いっそ、ざあざあ降ってくれれば。

 みんなをずぶ濡れにしてくれれば、みんなの涙を誤魔化すことができるのかもしれない。


 そんな意味のないことを、どこか冷静な心が考えていた。

 その冷え切った心の打算が、あたしに、打ちひしがれる和秋を抱きしめさせる。

 

 ……あたしが、いるから。


『あのヒトがいなくなっても、あたしはずっとそばに、いるから』


 そんな言葉を囁く。

 

       ◇

 

「……え?」


 白昼夢から、また目を覚ます。

 突然の目覚めは、めまいとなって身体の中を駆け抜けていった。


「あゆか」


「…………」


「おい、あゆか?」


「? ああ、和秋」


 呼びかけに応えて、あたしは小さく笑った。


「また意識が飛んでたのか?」


「また、って」


 あたしは殊更軽い調子で言う。今更ながらに感じる冷えた空気が、頬を撫でていく。


「それじゃあ、まるであたしが危ないヒトみたいじゃない?」


「冗談で言ってるんじゃないぞ」


「すいません」


 和秋のちょっと強い声に、あたしは殊勝に肩を縮めた。


「なあ、本当にいいのか? 何なら、今日は休んでろよ」


「うーん」


 あたしは少し思い悩む。

 いつもの通りの通学路。

 だけど、周囲にちらほらあるはずの登校する生徒達の姿はない。

 まあ、それも当然。今日は日曜日。お休みなのである。

 では、なぜあたしと和秋がここにいるかと言うと、今日は自主練習をしようという約束をしていたからである。

 お昼を食べてから、家の前で落ち会った。


「無理しないほうがいいぜ?」


 今日は、目覚めも最悪だった。ろくでもない夢を見たせいか、その後遺症をひきずっている。本音を言えば、家でおとなしくしていたかった。それに、なぜか今日は学校に行きたくない。

 わざわざ休日を返上するのが面倒というわけではなくて、自分でもわからないけど、強くそう思っていた。

 けれど。

 自分でも、わからないけれど。

 同時に。  絶対に、今日は学校に行かなくてはならない気もしていた。自分の中の誰かが、そうしなくてはいけないと命令をしているようが気がする。

 まるで役割を与えられた役者が、そう演じなければいけないみたいに――そんなことを思ってしまう。


(……ほんと、最近変なのよね)


 自分でも思う。意識にぼんやりともやがかかることも時々あるし、ずっと前にも同じものを見たり聞いたりした感覚……え~と、既視感というやつか――を覚えることもある。

 和秋と真姫先輩のことで、ストレスがたまっているせいか。それとも、本当にどこか悪いのだろうか……。


「うーん、じゃあさ。様子見て……早めに帰るよ」


 あたしはさっさと歩き出す。


「そうか?」


 和秋も、ついて来た。

 それから、ふたりで。他愛のない話をしながら、いつものように、いつもよりずっと遅い時間帯で、いつもの通学路を歩いて行った。


 

 その先に続く、現実を忘れたままで。

 まだ、その記憶を取り戻せないままで。

 不安と違和感を抱えたまま、あたしは歩いて行く。


 

 ――そうして。

 あたしは、思い出す。  

 夢から覚めて。

 忘れていたことを、思い出す。

 

       ◇

 

「あれ?」


 ふと見ると、わずかに部室のドアが空いていた。あたしは意外に思って、声を漏らす。

 すぐとなりで、和秋も同じような顔をしていた。


(先輩の誰かでも、来ているのかな)


 そんなことを思って。

 そう、そんなことを軽く考えて。

 そんな光景は、予想もしないまま、ドアを横に引いて――


 

 あたしは、言葉を失った。


 

 ……え?


 

 と、たったそれだけ。

 ただ、それだけが頭の中で繰り返す。

 ぐるぐる、ぐるぐると意味もなく。

 眼に映るその光景を、あたしの意識はすぐには理解してくれない。その瞬間には、理解を拒絶する。

 だって、あまりにも信じられなくて。あんまりにも、信じたくなくて。


 

 だって。

 ……だって!


 

 そこには、ふたりの先輩の姿があった。

 卓也先輩と、翔子先輩。

 そのふたりだけ。真姫先輩のいない場所で、ふたりきり。


 ふたりとも、突然あたしと和秋が姿を見せたことに唖然として、我に返って、何かを必至に言っている。わめきたてている。

 何を言っているのか、わからない。だけど、きっとわかる必要なんてない。

 今更ふたりが何を言っても、どうだっていい。

 もっと重要で、どうしようもないくらい致命的な事実を、あたしは理解していたから。


 

 そう、ついさっきあたしの目の前で。

 

 ――ふたりは、口付けをかわしていたんだ……。

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