しきせんぱい1
其の弐 藤代あゆか
子供の頃、読んだ絵本があった。
そこに出てきた、お姫様。
きれいな服に、綺麗な顔。
それから、きれいな心を持ったお姫様。
大好きだよって言える。心の底から、くもりなく。あなたにそう言える、お姫様。
自分だってそんな風になれるって、疑問なく、思っていました。
そんな夢は、いつからか壊れていきました。
ぼろぼろ、ぼろぼろ、クズレテイッタ。
びりびり、びりびり、チギレテイッタ。
(あの人が、羨ましい)
とてもきれいで、かわいらしいから。
あたしなんかよりも、ずっと。
(どうして、彼はあの人を好きになったの?)
ずっと、ずっと、女の子らしいから。
(それでも、あたしはいい子ぶる)
彼の前で、仮面をかぶる。
心を、コロシテ。
彼の前で、道化を演じる。
涙を、カクシテ。
知りたくなかった、こんな自分。
見たくなかった、そんな自分。
ぐちゃぐちゃ、どろどろ……吐き気がする。
ぐらぐら、ぐるぐる……めまいがする。
だから、あたしは……
『今から――』
その一歩を踏み出します。
『――向かえに、逝きます』
◇
あたしは――
「……え?」
目を覚ました。
まばたきすること数回。
視界に映る光景を、認識する。
ぼんやりした頭が、その光景を瞳に映しても、すぐには理解してくれない。
「え~と」
意味のない声を漏らす。
それでもその声が、思考を動かすのか。少しずつ、自分の置かれた状況を理解していく。
たくさん並んだ机と椅子。目の前には、緑色の黒板。
遠くの校庭から生徒達の声を聞く、放課後の教室。
どうやらあたしは、机の上に突っ伏して眠っていたらしい。
夕暮れの光が、あたりを茜色に染め上げていた。その場所には、あたし一人。独り、ぽつんと取り残されていた。
状況を理解はしても、何かが腑に落ちなかった。
すっきりしない。何かを忘れているような、奇妙な感覚。
いや、何かを忘れているはずなのに……そうだということだけはわかっているのに、何も思い出せない、不快感にも似た違和感だった。
「うーん」
あたしがもう一度声を漏らすと――
「おい? あゆか」
不意に、呼びかける声が耳に届いた。
あたししかいないと思っていたから、少し驚く。
「ふえ?」
我ながら間の抜けた声を上げて、そっちを見る。
きょとんとした面持ちで。ひとりの男の子が、そこに立っていた。
背は、まあ普通。短く刈った髪。顔立ちは、欲目が入れば二枚目と言ってもいいだろう。
それは、見慣れた――そう、呆れるほどに見慣れたはずの顔だった。
「和秋?」
「……いや、何で疑問系なんだ?」
あたしの言葉に、眉をひそめる彼。杉原和秋(すぎはらかずあき)。
「え、えーと」
目の前にいるのは、確かに和秋だ。
間違いない。見間違えるはずなんてない。
そんな彼を前にして、また違和感がよぎった。確かに、和秋だ。
けれど、どこか違う。何かが、おかしい。それは、なんだろう? と、色々考えていて――ふと、思い当たった。
「何で、詰襟なの?」
「は?」
あたしの問いかけに、彼は心底から呆けた声を出した。
言葉にして、実感も追いついてくる。違和感の正体。
それは、高校生のはずの彼が中学生の格好をしていたからだ。
あたしの記憶が確かならば、今彼が着ている詰襟制服は中学時代の制服であって、今は高校のブレザーを着ているのが自然であって……
「いや、これ制服じゃん?」
「それは、そうだけど……それって、中学の時のでしょ? 何で……」
――今は高校生なのに、と言いかけて。
はた、と。
気が付いた。
自分が、とんでもない勘違いをしていたことに。
(……そうだ、あたしは何で)
自分が、高校生だなんて思ったのだろう。
あたしは、まだ『中学一年生』だってのに。
「え、えーと……」
あたしは頭をかきながら、乾いた笑いで誤魔化そうとする。
「うーん、ごめん。ちょっと寝ぼけていたみたいっす」
「そうか? なら、いいけどさ」
それ以上の追及はしてこない。
和秋は、近くの机の上においてあったバッグを肩にかける。
「とっとと部活、行こうぜ」
「うん」
あたしも答えて、立ち上がる。
あたしと和秋は連れ立って、ふたりだけしかいなかった教室を後にした。
◇
本校舎から渡り廊下。歩いて、その先の部室棟に向かう。
ここまでの道すがら、誰ともすれ違わなかった。
それを怪訝に思ったけれども、深くは考えなかった。
「ちわーす」
「おはようございます」
ふたりして、部室の扉をくぐった。
あたし達は演劇部。
和秋はある目当てのために入部して、あたしはその付き合いだった。
そんな動機で入部したのだけれど、やってみるとこれが結構面白い。
自分以外を演じてみるのは楽しいし、舞台本番のあの緊張感もなかなかどうして病み付きになる。
もちろん気楽ではないし、それなりの苦労もあるけれど――もしかしたら、不純な動機で入部した和秋よりも真面目な部員なのかもしれなかった。
「あ……先輩」
部室には、先客がいた。
和秋の不純な動機かつ、目当てであったその当人だ。
「おはよう、ふたりとも」
隅の椅子に腰掛けて台本に目を通していた彼女が顔を上げて、小さく頭を下げてきた。その肩までかかるつややかな黒髪が、そっとゆれる。
九条真姫(くじょうまき)――真姫先輩、演劇部の二年生だった。
小柄でほっそりとした身体をセーラー服に包んでいる。まったく、おんなじ格好だというにに、神様はほんとに不公平で意地悪だ。
あたしだってそれなりとは思っているけれど、その人にはかなわない。非の打ち所のない物静かな美少女と、ロングヘアなんてガラじゃない男勝りの女の子とを比べたら――
――そりゃあ、どっちを選ぶかなんて言うまでもないだろうさ。
「あれ、先輩ひとりですか?」
あたしは少しだけ覚えた胸の痛みを押し殺して、声をかけた。
そこにいるのは、真姫先輩だけだった。
そのせいか、部室はいつも以上に広く見えた。
早くはない。むしろ、あたしと和秋は少し遅れてきたというのに。残りふたりの姿はそこにはなかった。
「卓也と翔子ちゃんなら、出かけているわ。漫画研究会に、人手を頼みにね」
「あ、今度の公演ですね」
あたしは納得した。
我が演劇部は現在五人。文化祭の公演を最後に、三年の先輩達は引退した。現在一月、みんな入試を控えて、応援に来る余裕もなくなっている。
現在、部員不足に悩む我ら演劇部。そうやって外に助けを求める必要があるのだった。
演劇ってのは役者だけでは成り立たない。音響やら、照明やらの、舞台を支える裏方という存在が必要不可欠。
「いいんですか? ふたりで」
と、和秋。
真姫先輩と久我卓也……卓也先輩は恋人同士。それなのに、相川翔子――翔子先輩とふたりにさせていいのかということ。
つまり、和秋の片思いはすでに失恋なのだ。もっとも、先輩は彼の気持ちは知らないはず。
和秋は言っていないから。
『先輩を、困らせるだけだからな』
……そう、寂しそうに笑っていたから。
「わたしは、早く台詞を覚えないといけないから……」
台本を動かして、ひかえめに微笑む真姫先輩。
いやはや、美人って本当に得だよね。そういった何気ない仕草まで絵になるんだもの……。
また、ちくりと胸が痛む。
思わず、視線を逸らす。視線の先には、壁に貼られたポスター。どこかの劇団か何かのポスターで……何となく、そこに映った役者のひとりと目があった。
ちょっと先輩に似た感じの女優さん。もちろん、何の言葉もない。
「だったら、いいんですけど」
あたしの視界の端で……和秋はそう言っていた。きっと、本心だろう。片思いの相手の恋愛を気遣うような男の子。
こいつは、そういう奴だから。
あたしは知っている。
「心配してないよ。翔子ちゃんは親友だもの」
だから、信じている。
自分の恋人に手を出しはしないから。ふたりきりにしても、安心している。
――そう、真姫先輩は言っている。
「さあ、どうせだから読み合わせしようか」
「わかりました」
言って、台本をバッグから取り出す和秋。
あたしは、部室の隅っこから椅子をふたつ持ってくる。
前言、撤回。
最初は真姫先輩を目当てだったかもしれない。けれど、今では一生懸命やっている。もしかしたら、先輩の前でいい格好をしたいだけかもしれないけれど……
『……どうして、どうしてこんなことに! 僕が……僕が、あの時気付いていれば!』
もうほとんど台詞を暗記しているくらいの、頑張りは見せている。
下手をすれば一番真面目じゃないのは、あたしかもしれなかった。
真姫先輩がいるから入部した和秋。それに付き合ったあたしも、同じなのかもしれない。
杉原和秋。
小学校に上がる前からの付き合いで、家も近所で、いわゆる幼馴染みという間柄。腐れ縁と、言ってもいいかもしれない。
だけど、あたし本人以外にはそんなこと言わせやしない。
ずっと兄妹、姉弟みたいに育ってきた相手だった。
そのはずだったのに……
今は、認めよう。
認めるしかない。
(あたしは、杉原和秋に恋してます)
皮肉にも、気付いたのは和秋が初恋をしてからだった。
彼が、入学した中学校で真姫先輩に一目惚れをしたせいで、あたしの中で生まれた嫉妬が気付かせたんだ。
今更になって。
今頃になって。
近くにいて見えなかったこと。気付かなかったこと。そんな、昔読んだ少女漫画みたいな展開を、自分自身で、再現するなんて思わなかった。
「今、戻ったよ」
「ただいまー」
三人で読み合わせをしていると、ふたりが戻ってきた。
開けっ放しだった入り口から、姿を見せる。
背の高い男子生徒が、卓也先輩。まあ、いかにもな二枚目。
長い髪をポニーテールにゆわえた女子生徒が、翔子先輩。物静かな美少女の真姫先輩とは違った、少し吊り目のきつい感じのする美少女。
「おかえり」
控えめな笑顔で、真姫先輩が出迎えた。
◇
「それじゃあ」
分かれ道で、真姫先輩が声をかけてくる。
夕暮れの帰り道、いつもの別れの三叉路。あたし達五人はここでそれぞれ別れる。
「じゃあね」
あたしと和秋に振った手を、さりげなく真姫先輩の肩に回す卓也先輩。仲良く連れ立って踵を返す真姫先輩と卓也先輩。
小柄な少女と、背の高い少年はとてもお似合いだった。
そうして、後に続く翔子先輩に――
(あれ?)
ふと、あたしは違和感を覚えた。三人の背中を見て、胸がざわめいた。今日の放課後にも覚えたあの感覚に似ている気がした。
その正体を、考えていると、
「やれやれ、情けねえ」
なぜか、殊更大きく耳に届いた溜め息。
それが、あたしの思考を中断させた。
「未練たらしいたら、ありゃしねえぜ」
視線を向けると、あたしのすぐとなりで肩をしょげさせている和秋の姿。あたしの意識が、切り換わる。
「あはは、略奪愛にでも走ったら?」
あたしが冗談混じりにそう言うと、
「できたら、いーんだけどな」
和秋は苦笑する。
そんなことを言っても、本心ではないことはわかっている。
「ま、いーんじゃないの」
あたしは軽く言いながら、その背中をバンバンと叩く。
「想ってるだけなら、自由だし。気の済むまで片思い続けてればいいじゃないですか」
「ちぇっ、気楽に言ってくれるよ」
そう言って、また苦笑する。けれど、今度は満更でもなさそうだった。
「けど、そう言ってくれると開き直れるな」
そして、にっこりと笑う。
「さんきゅーな」
その笑顔に高鳴る心を隠して、
「あはは、まー感謝しなさいよね」
心の痛みを押し殺して、あたしはからからと笑った。
真姫先輩が、和秋の想いを知らないように。
和秋も、またあたしの想いを知らない。
言ってないから。
伝えていないから。
ずっと、隠しているから。
だって、今更。
『俺は、ただの後輩だし……突然そんなことを言われても、先輩困るだろ? きちんとした彼氏だっているんだし……』
だったら、きっと。
気安く付き合ってきた幼馴染みに、突然に恋心を打ち明けられたって戸惑うだけだ。
(……そうでしょう? 和秋)
だから、あたしもきっと。ずっと、自分の気持ちを隠し続ける。隠して、殺して、演技を続けてみせる。
ずっと、ずっと。気安い、ただの幼馴染み。与えられた役を、演じ続ける。ずっと姉弟みたいに育ってきた、恋愛感情の埒外の相手として――
(それは、先輩がいなくなってもずっと)
「……え?」
ふと、そんなことを考える自分にはっとする。
「どうしたんだ? あゆか」
「……え、ううん。何でもないよ」
眉をひそめる和秋に頭を振りながら、考える。
なんで、どうして。
自分は、先輩がいなくなるなんてそんなことを考えたんだろう。
それは、当たり前だ。いつかは学校を卒業して、あたしや和秋の前からいなくなる。それは、当然の未来で決定事項だけど。
何かが、違う。
たった今あたしの頭によぎった考えは、何かが違う気がした。決定的に、絶対的に。
何かが、違う?
それは、嫌な予感めいて。
それが、不吉な予言めいて。
「…………」
気が付くと、あたしは携帯電話を取り出していた。
そうして、自分でも理由がわからないまま、内容を確認する。通話履歴、着信履歴……それから、何よりもメールの送受信の履歴を。
「あゆか?」
突然にそんなことを始めるあたしに、不思議そうに声をかけてくる。
「え?」
はっとしたように向き直るあたしを見て、和秋の顔色が変わった。
「あゆか、おまえ顔色悪いぞ?」
あたしを心配するように、声の調子も変わる。
「え? あはは……へーき、へーき」
「そんなわけねえだろう」
笑って誤魔化そうとしたけれども、今度は通じなかった。和秋は少し強い調子で言ってから、
あたしの前に背中を向けてしゃがみこんだ。
戸惑うあたしに、
「おぶってってやるよ」
「え? い、いいよ」
「無理すんなよ。すげー具合悪そうだぞ?」
「そ、そう? でも……誰かに見られたら恥ずかしいですよ」
「いいから、早くしろよ!」
更に強い声で言われて、あたしは思わず肩を震わせた。
「……そ、それじゃあ」
こわごわと、その背中に身体を預ける。ずっと細くて頼りないと思っていた背中は、予想を裏切って頼もしかった。
「じゃ、行くぜ」
あたしを背負って立ち上がる和秋。あたしひとりくらい、軽々と。
茜色に染まる世界で――
ためらいがちに、問いかける。
「お、重くない?」
「つーか、軽い。俺だって男だ。女の子のひとりくらい背負えるぜ」
歩き出す足元も、しっかりとしていた。
ばくばく脈打つ心臓の音。その鼓動が、和秋に届かないか気が気でなかった。けれど、それは杞憂に終わるみたいだった。
それにしても、
(……女の子、か)
卑怯だよ。
ほんの少し、目頭が熱くなる。少し……だけ。本当に、少しだけだったけれど。
あたしの望むような意味ではそう言ってはくれないのに、こういう時はしっかりと女の子扱いをするんだ。
その優しさがとても嬉しくて。どうしようもなく、嬉しくて。
だけど、とても哀しくて。どうしようもなく、切なくて。
そのふたつの気持ちで、胸が締め付けられるから。
頭の中もいっぱいになってしまったから。
だから、もう忘れている。
先ほど感じた違和感も、頭によぎったざわめきも。何かがずれている、そんな感覚も、
――あたしは、忘れていたのです。
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