しきメール6
泣いている。
友人だった少年が。
ほのかな恋心を抱いていたクラスメートが。
母さんが。
父さんが。
みんな、泣いている。
僕の目の前で、泣いている。
僕は、たまらずに声を上げる。
けれど、僕の声は届かない。
懸命に手を伸ばす。
けれど、僕の手は届かない。
もう……僕の声は、誰にも聞こえない。
僕の姿は、誰にも見えない。
それを知って、そのことを思い知って。
絶望に、心が引き裂かれる。
その痛みに――
僕は、絶叫した。
「…………!」
目を覚ますと、真っ白い天井が映った。
「え?」
状況がわからない僕は、小さな声を漏らす。もやのかかる頭で理解しようとした途端、
「耕介!」
誰かの叫び声が、僕の名前を呼んだ。
「……かあ、さん?」
僕の間近で、顔をくしゃくしゃにしているのは―母さんだった。
一瞬、そのことがわからなかった。意識がまだぼんやりしていたせいもあるけれど、母さんのそんな顔は、このところずっと見たことがなかったから。
僕を怒る、不機嫌そうな母さんの顔以外は、ずっと。
「ここ、どこ?」
辺りを見回す。ベッドに寝ていたらしい。けれど、僕の部屋じゃなかった。真っ白い壁と、真っ白いカーテン。窓の外には、穏やかな青空が広がっていた。
「病院よ」
「……病院?」
「覚えていないの? 公園で倒れていたのを、救急車で運ばれたのよ。凄い熱を出して……お医者さんは、過労だって」
そこで、母さんは言葉を切った。すまなそうにうつむく。
「ごめんね、お母さん。そんなにまで、あなたに無理をさせていたなんて……」
「……え? あ、いいよ。そんな……謝らないでよ」
僕は慌てて、起き上がる。
「顔、上げてよ。母さん」
母さんは、顔を上げる。僕の顔を見て、また泣きそうな顔になって。
『ああ、忘れていたわ』と言いながら、近くにぶら下がっていたコードのスイッチを押した。
「今、先生が来るからね……?」
そこで、僕はそれがいわゆるナースコールだということを知った。漫画か何かで見たことはあるけれど、実物を見るのは初めてだった。
物珍しそうにそれを眺めながら、泣きじゃくって何度も頭を下げる母さんをなだめているうちに、白衣を来た医者の先生がやってきた。
母さんと先生に、状況を聞かされた。夜の公園で高熱を出して倒れていた僕は、誰かの連絡を受けて救急車でここに運ばれたらしい。
それが、昨晩のこと。
病室の時計は午後の二時を少し回っていたから、あれからちょうど十二時間近くが過ぎていたらしい。
原因は、過労。つまり、受験勉強の無理がたたったせいだろうということだった。とりあえず今日一日はこのまま入院で、明日には帰れるらしい。
着替えを持ってくるからと、母さんは一旦家に帰った。仕事が終わったら、父さんも見舞いに来ると言っていた。話を聞くと、午前中までは父さんも付き添ってくれていたらしい。
先生に、僕の身体が一応大丈夫だと聞いてから、仕事に向かったそうだ。
その病室は個室じゃなかったけれど、ちょうど僕しかいなかったから。話し相手もいなくて、時間を持て余していると、
「よ、よう」
意外な人物が、姿を見せた。
「城阪?」
それは、城阪藤二だった。学校帰りなのだろう、制服姿だった。
そいつは、昨日は嫌味を浮かべていた顔にバツの悪そうな表情を浮かべて。
「具合、どうだ?」
そんなことを、訊いて来た。
「……うん、過労だってさ」
「そっか」
城阪は僕から微妙に視線を逸らしながら、手近な椅子に座る。
背負っていたバックを足元に置いた。
「ほらよ」
「え?」
突きつけられたのは、缶のスポーツドリンク。
「しけてるけど、見舞いだ」
「あ、ありがとう」
戸惑いながらも、受け取る。よく冷えた感触が、どこか火照る身体に心地よかった。
僕は、城阪をまじまじと見る。
「……な、何だよ?」
その視線に気が付いて、身体をふるわせた。
「いや……別に」
僕は、そう答える。眉をしかめる城阪。その顔は、何だかとてもなつかしかった。
そう、それは城阪と受験の競争相手になる前に、友人として僕に見せていた顔だったんだ。
「じゃあ、な」
しばらく他愛のない話題を交わしてから、城阪は立ち上がった。少しのぎこちなさはあったけれども、昔みたいな友人として。
「そろそろ帰るわ」
「あ、うん」
けれど、
カーテンを開けて、そこで城阪は立ち止まる。
「ん?」
怪訝な顔をする僕に、彼は背中を向けたままで、
「……なあ、織本。お互い、志望校変えねーか?」
「え?」
ためらいがちにそんなことを言ってくる。予想外の言葉に、僕は声を漏らした。
「いや……推薦めぐって、お互いぎすぎすしちまっただろ? なんかなーと、思ってよ」
それだけ言うと、城阪はカーテンを閉めて行ってしまう。
「…………」
城阪の残した言葉。
多分、その意味はわかった。
僕が倒れて、つまり受験のせいで無理をしすぎたことを知って……争っていた自分に、思うことがあったのだろう。
そうだとしたら――
いや、きっとそうに違いない。
だから、嬉しかった。
友人だった、仲のよい友人だった城阪が帰ってきた。そんな気がして、それはきっとその通りだったのだろうから。
僕は小さく笑って、ベッドの置き台の上に置いてあった缶ジュースを手に取った。
その次に姿を見せた相手と顔をあわせるのは――正直、複雑だった。
「もう、ほんと驚いたよー」
ベッドの隣に椅子を寄せて、座りながら。お見舞いにと持って来てくれたリンゴを剥きながら、水無瀬さんが言う。
「倒れて病院に運ばれたって聞いてさ。でも、元気そうでよかったよ」
いつもみたいに、明るく笑う水無瀬さん。
「あ……うん」
僕はあいまいに頷く。彼女の顔を、まっすぐには見れない。
何せ、昨日のあの光景がまだ目に焼きついているから。
彼女は、どんな気持ちで僕のお見舞いに来てくれたんだろう。思わず、手元のシーツをくしゃりと握ってしまう。
(……決まってるじゃないか)
ただの、ちょっと仲のいいクラスメートが心配だったからだ。
それだけなんだから、妙な期待をしないようにと自分に言い聞かせる。
「はい」
皿に盛ったリンゴを差し出してくる水無瀬さん。
「きちんと、ウサギさんにしたよ」
言葉通り、かわいらしいウサギカットで並ぶリンゴ。にこにこと笑う彼女に、きっと僕はぎこちない表情だったんだろう。
彼女は眉をひそめる。
「リンゴ、嫌い?」
「……あ、そんなことないよ」
「うーん、お見舞いにはリンゴがいいよって、お兄ちゃん言ってたんだけど。バナナの方がよかったかな?」
「……ううん」
そんなことないよ、と言いかけて。
「え?」
僕は、自分の耳を疑った。
今、水無瀬さんは何て言ったのか。
「……お兄ちゃん?」
半信半疑で、おずおずと言葉にしてみる。
「水無瀬さん、お兄さんがいるの?」
もしかして、まさか。
もう一度、昨日の光景を思い出す。気安く車に乗り込んだ水無瀬さん。その車を運転していたのは、つまりは……
「うん、いるよ?」
言ってなかったけ? と水無瀬さんは小首を傾げる。
僕は期待半分、不安半分で尋ねてみる。
「昨日、駅の近くで水無瀬さんを見かけたんだ。声をかけようとしたら、車が来てさ……もしかして、あの人が?」
「え? なーんだ。昨日いたの? うん、お兄ちゃん。そっかー、残念だったね。だったら乗せていってあげればよかったよ。だったら、倒れなくてもすんだかもしれないのに」
脱力のあまり、眩暈がしたのは気のせいだったのだろうか。
「ん? どうしたの。こー君、気分悪いの?」
彼女の顔が不安になって、その声が少し遠くなるから、きっと気のせいじゃなかった。
「ううん、大丈夫」
確かに眩暈はするけれど、それは全然平気だった。
僕の勝手な勘違いだったのだとわかったのだから、そのくらいどうってことはない。
本当に、どうってことはない。
(ああ……本当に)
何もかもが、バカらしい。
バカらしくて、笑えてきた。
「……あ、あはは」
「こー君?」
「あはは……ごめん」
突然笑い出した僕を、不思議そうに見つめる水無瀬さん。そんな彼女に頭を下げながら、
(……デート、どこに誘おうかな)
そんなことを、僕は考えていた。
窓の外には、澄み渡った青空が広がっていた。
◇
少女の前で笑う少年を、わたしは眺めていました。
駅前の、賑やかな街並みを眼下にそびえたつ――高いマンションの屋上から。
はるか遠くの、窓の向こう。
普通の人間だったら、きっとそんな先は見えないでしょう。
だから、彼からはわたしの姿を見ることはできないはずでした。
でも、それが正しいのです。
これ以上、こちらの世界に関わらない方がいいのですから。
「やれやれ、全部丸く収まったみてーだな」
すぐとなりに立つ長身の人影―紫電(しでん)が溜め息交じりに言います。
「うん、めでたしめでたしってことだね」
傍らで、小柄な姿――紫路(しろ)が朗らかに笑います。
織本耕介君の様子から、もう自分の世界から抜け出そうという気はないみたいでした。
「しかし、何だよ。全部は、あいつの被害妄想か? 肩透かしを喰らう結末だな」
「そうかもしれないね」
肩をすくめる紫電に、わたしは小さくつぶやきます。
でも、これでいいのです。
――死にたい、と彼は言っていたけれど。
わたしには違う声で届いたのだから……。
「だから、これでいいと思う……」
その言葉に、紫電は何かを言いたそうでしたが――結局、言葉を飲み込みます。
変わらずに、紫路は笑顔を浮かべています。
決定的に隔たってしまった世界を、帰ることはできません。
どんなに悔やんでも、二度と戻れません。
どれだけ望んでも、絶対にやり直せません。
たった一歩を踏み出してしまうだけで、何もかもが、壊れてしまうのですから。
そう。
今こうして、ここにいるわたし自身のように。
轟……、と。
風が、吹き抜けました。
長い黒髪が、ひるがえります。
「さあ、帰ろうか」
その言葉を残して。
わたしは、この世界を去ります。
そうして、また帰るのです。
向こうの世界に。
また、わたしを呼ぶ声が届くその時まで。
灰色と鉛色に染まる世界に、たたずみながら。墓標のように突き立つ無数の風車が。
くる、くる、くる。
来る、繰る、繰る……と。
静かに、哀しく、寂しく、回り続る――その世界で。
誰かの声が、届くまで。
――わたしは、これからもずっと待ち続けます。
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