最終話「たった一つだけの正道」Bパート

 ホテルの凄く豪華な夕食を食べ終えて、部屋にあったコーヒーサーバーで淹れたてのコーヒーを飲んでいた。流石はコーヒーサーバー。普通の粉のインスタントコーヒーより遥かに美味しい。カップを置いて、何となく中のコーヒーを覗いてみる。ミルクの入ってない、真っ黒なブラックコーヒー。一瞬とても綺麗な黒に見えたけど、ボクの心にフィルターを通して見ると、何だか薄汚く汚れた熱いお湯のようにも見えた。そう、加那のことが頭の中にあるのに、感情は誘惑に連れて行かれている。それが悪いことじゃないというのは分かっていた。だけど、どうしても加那のことを考えると、感情が優先された。

 だからボクは、思わず訊いてしまった。

「……終わり、なの?」

 そう言った瞬間、部屋には大して面白くもないバラエティ番組の映像と音が流れるだけとなった。和哉はどうやら理解していないらしい。何が、と逆に素の表情で訊いてきた。ほんの少し、腹が立った。やっぱりまだ空気の読めない部分が、微かに残っている。だけど和哉は、本当に分かっていなさそうだった。

「い、言わせるのか、女の子のボクに……」

 顔が真っ赤になっているのは、自分でもよく分かっていた。だけど、真っ赤にならざるを得ない。というか、ならずに言えという方が無理にも程がある。

 でも、和哉は分かってくれたみたいで、顔が真っ赤になっていた。視線を合わせようとすると、すぐに逸らした。間違いない、分かってくれた。和哉はしばらく、言葉にならない声を上げていた。あーだのうーだの、そんな感じのことを。

 その間、拷問を受けているかのような気分だった。要は、自分から襲ってほしいと言ったようなものだ。恥ずかしくないわけがない。こんなことを彼女に言われる彼氏ってのも、どうかと思う。

 ボクはその間に、椅子からベッドに移動した。まだ腰をかけただけだ。まだ、腰を……。

「……いいのか?」

 いきなり和哉が問うてきた。正面に向き直って、ボクをしっかりと見つめていた。顔は赤くなかった。

 ボクは答えなかった。というより、口に出したくなかった。もう、恥ずかし過ぎて死にそうな気分だった。だから、無言で隣に視線を送った。和哉もすぐに理解して、ボクの隣に腰かけた。ベッドが重みでギィ、と言う。

 ちょっと、いや、かなり怖い。何をされるのかは分かっているつもりだった。だけど、生身でそれを受けるとどうなるのかは知らない。だからこその恐怖。恐怖だけではない。期待感もあるにはあった。

 でも、和哉は動かなかった。どうしたんだろう。嫌、なのかな……。和哉の顔を見る。どことなく、何となくだけど、違和感を覚えた。もう少しまじまじと見ると、表情だけで、する気がないということが分かった。

 やる気がないという時ぐらい、誰にだってあると思う。だけど、今はそういう雰囲気だとボクは思っていた。なのに、どうして……?

「ど、どうしたの……?」

 恐る恐る訊いてみる。どんな答えが返ってくるのか。まさかこんなところで愛想でも尽かされたのだろうか……。いや、そんなことなんかあってほしくない。けど、それはボクの願望なだけであって、和哉の心とは違う、かもしれない。

 和哉はスッと自分のベッドへ向かった。

「……すまん、寝る」

 ベッドに横になると、すぐに寝息を立て始めた。そこまでうるさくはなかった。

 ……怒りは覚えなかった。というより、不思議な感覚に包まれた。したいとか、したくないとかじゃなくて、「今はできない」。その理由は、すぐに分かった。そして、ボクは悔恨に苛まれた。

 そう、加那のこと。和哉は加那のことを覚えていた。忘れていなかった。和哉はそこまで加那と親しい関係じゃなかったのに。それだというのに、ボクは感情に身を任せてしまっていて、加那のことを忘れていた。そういうことなのだろう。

 こんなの間違ってる。そう思った。だけどボクはそこから一人で気持ちを何とかできるほどまでの大人じゃない。まだまだ子供。和哉よりも、まだ子供。お子様なのは和哉じゃなくて、ボクだった。

 だから、それすらも忘れたくて、テレビを消して眠ろうとしたけど、熟睡は当然、ただ単に眠ることすらままならなかった。



                 ■



 明石海峡大橋の真下の道の駅で昼食を取ってから、ボクたちは本州の方へ戻りつつあった。今は明石海峡大橋を渡ろうと、高速道路に入ろうとしていた。

 ……今日はずっと気まずい。やっぱり昨日、あんなことがあったからだろう。和哉も何だか話すに話せない、話しかけにくいという雰囲気だった。でも、運転はしてくれている。ちゃんとした、安全運転だ。不安な点はない。だけど、楽しい旅行の帰りには相応しくない雰囲気だった。原因はボクにあるから、どうしようもない。どうしようもないのだけれど……どうにかしたい。どうにかしなければ、と思った。今回の旅行は和哉に先導してもらってばかりだった。だから、今度は、この雰囲気をボクがどうにかしなければ。

「ね、ねぇ……」

 意を決して、和哉に訊いた。

「昨日、なんで何もしなかったの……?」

 ETCで高速道路へすんなりと入る。

 返事はしばらく待ってもなかった。急かすこともできなかった。緊張していたし、何より怖かった。

 高速道路を少し走り出してから、和哉はおずおずと答えた。

「……もしかして、怒ってる?」

 意外な答えだった。和哉の顔には、僅かに脂汗が浮かんでいた。

 てっきり、怒るのだとばかり思っていた。まぁ、一応ボクたちだけの旅行だから、そんなこと自体があり得ないか。

「い、いや、そういうわけじゃ……」

 そう言うと和哉は、汗を拭って真面目な顔で話し始めた。

「だったら答えは一つだ。まだ俺たちは学生で、遊びでそんなことしちゃ、あっちにいる本島さんに合わせる顔がないからな」

 ……やっぱり、加那のことを気にしていた。そういう答えが出ることは何となく分かっていた。ボクが自分の欲求に負けたというのに、和哉は勝っていた。そうなんだ。和哉はお子様でも子供でもなければ、もうすっかり大人なんだ。ボクとは違って、大人なんだ。自分が情けなく思えた。

「……ごめん、ちょっと、調子に乗ってた」

 そういうボクには謝ることぐらいしかできなかった。和哉に、だけではない。天国にいる加那にも、だ。

 けど和哉は意外にも、それ以上責めることはなかった。それどころか、別にいい、と許してさえくれた。どういうことなんだろう……。

「人間って、何かに負けるような生き物だろ? 犬とか猫とかと同じ動物だろ? だったら、知性がどれだけ高くても、欲求に負けることぐらいある。そういうもんだろ」

 唐突に難しい話題が出てきた。最近読み始めたというSF小説の影響だろうか。言っていることは簡単だった。だからこそ、ボクは疑問に思った。

「本当に、それでいいのかな……?」

「え?」

「もしそうだとしたらさ。人間って、物凄く無神経な生き物じゃん。それでいいのかなって、思っちゃって……」

 和哉は間を入れることなく、まるで答えでも用意していたかの速さで答えた。

「だからこそ、学習もすれば、反省もして、それを次に活かすことができる。それを意識的にできるのは多分、人間だけだ」

 何となく、言おうとしていることは分かる。だけど、それは何となくであって、全てを理解できたわけじゃない。というか多分、半分以上理解できていない。残念ながらボクのお頭では何となくで理解するのが限界らしい。

 そういう雰囲気でも出していたのか、和哉は更に続けた。

「結局、正しい道なんて、見つけることもできなければ、確実にその上を歩くことすらままならない。勿論、バックするなんて不可能だ。だからこそ、それまでの経験を活かして、道を探す、いや、創る。正しい道、正道を。俺たちは、その上を進んでいくしかない。それが、本島さんへの弔いだと、俺は思う」

 今度はゆっくりと、分かりやすいように言葉を発してくれた。確かに、その通りだ。人生なんてUターンすることも当然できなければ、ゲームのようにリトライすることもできない。一度きり、失敗したらそのままその道を歩むしかない。

 だけどそれは、神から与えられた運命の道だと思っちゃ駄目なんだろう。だから和哉は、創る、なんて言葉を使ったのだろう。

「創る、か。何も無いけど、それがたった一つの正道、なのかもね」

 明石海峡大橋を渡り始める。海が見えて、漁をしている船がたくさん出ていた。

「それと、昨日のことだけど」

 何だろう。この話はもう終わったと思ってたのに、まだあるのかな。それとも、案外違う話題のかな。

「俺はしたくて付き合ってるんじゃない。本心から沙耶が好きだから付き合ってる。だから、遊びではできない……多分。だけど」

 本当に同じ昨日のことでも、内容はまるで違っていた。こいつ、車の中でボクに恥ずかしい想いをさせる気なのだろうか。だけど、まだ続きがありそうなので、無言で頷いた。多分、ロボットみたいに機械的な動きだろう。変な意味で緊張していた。

「だけど、その……」

 中々言ってくれなかった。というより、言いづらそうだった。一体……あ。

 もしかして……。いや、そんなのはあり得ない。いや、あり得ないのか? あり得るかもしれない。いやいやいや待てよ、ボクたちまだ学生だぞ。そんなこと言っていいのか。いいのだろうか……。

 ほんの僅かな期待と不安を心に抱きながら、ボクは和哉の言葉を待った。和哉の顔をちっとも見ることができなかった。海には漁船がたくさん浮かんでいる。何となく、何となくだけど、その漁船が、和哉を応援しているようにも見えた。

 そして、次の言葉が出た。

「け、結婚、したら……」

 ボッと炎が舞い上がりそうなぐらい、顔が一瞬にして真っ赤になるのが分かった。だけど、その言葉は不安じゃなくて、期待していた方の言葉だった。だから、嬉しかった。顔は赤かったけど、思わず笑ってしまった。

「な、何だよ……」

 ごめんごめんと謝りながら、ボクは笑いを抑え込んだ。結構苦労した。何だか久々に思いっきり笑った気がする。

 ボクは顔を引き締めて、和哉に応えた。

「遊びじゃないなら、別にいいよ。それに、ずっと一緒のつもりだったし。不安なこともあったけど、今ここで、本音を聞けて、ボクは凄く嬉しい」

 和哉の顔がパアっと明るくなった。

「それじゃ……!」

 だからボクも、精一杯の笑顔で告げた。

「ふつつかものではありますが、どうぞこれからも、よろしくお願いします」

 それを言った2秒後ぐらいに、和哉はふぅ~っと安堵の息を吐いた。そりゃそうだよね。婚約なんて、生涯で一度ぐらいしかないものだし。だからボクは、和ませるためにワザと現実的なことを言ってみた。

「でも、まずは学業からだよ」

「いきなり現実に戻すなよ~沙耶~」

 片手でハンドルを持って、和哉はボクの頭をクシャっと優しく触った。その触り心地は、とても優しくて、温かかくて、心地よかった。



 加那、聞こえてる? 見えてる?

 ボクたち、婚約したよ。和哉の気持ちを聞けた時、凄く嬉しかった。

 でも、だからといって、加那を忘れたわけでもないし、加那を忘れたいとも思わない。

 だって加那は、ボクたちの中で、しっかりと生きている。

 思い出と一緒に、ボクがかつて抱いていた淡い感情も。

 だから、これからのこと、全部加那も経験していってね。

 本物の感覚とは違うかもしれないけど、何も無いよりかはマシだと思うから。

 今までは痛みを多く味わってきたかもしれない。これからもボクたちは痛みを味わって、中で生きている加那に苦い想いをさせてしまうかもしれない。

 だけど、これが人間なんだ。こんな醜いのが人間なんだ。

 それでも、人間は生きようとすることそのものが綺麗に見えると思うんだ。

 だから、加那が生きられなかった分まで、ちゃんと生きるから。

 加那、そらからボクたちを見守っていてください。

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馬酔木と空音 折井昇人 @monnusi0903

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