最終話「たった一つだけの正道」Aパート

「っはあ~……」

 ボクの深いため息。夏のギラギラと輝く太陽が、ようやっと傾き始める時刻のこと。

 ボクと和哉は、大学の食堂でダラダラと暑さに項垂れるのを避けるために、パワー全開のクーラーの中にいた。去年は去年で暑かったけど、今年の暑さは流石に異常だ。何せ、平気で35度を超えている。こんな夏なんて、生まれて初めて、いや、日本にとっても初めてではないのだろうか。

 まぁ、それはともかく。とにかく暑い。それだけ。

 でも和哉が一緒な理由は、ちゃんとある。

 あの日、加那が亡くなった1週間後のあの日から、ボクと和哉は一応、いや、ちゃんとした恋人同士という関係になっていた。変わったのは変わった。だからといって、何かが大きく変わったわけでもない。手を繋ぐようにもなったし、一緒にいる時間も増えた。松野高校では流石にそういう風にしているのを見られるのはちょっと気が引けたから、避けていた。だけど、あれから3年の月日が流れて、和哉を追いかけるように、ボクも大学生になった。受験した大学も和哉と同じ大学、実家からは1時間半ぐらいかかるところにある「小間谷大学」だ。お互い一人暮らしを始めた。ボクも19歳になって、和哉なんてもう20歳。大人の仲間入りだ。まぁ、ボクから見ればまだまだお子様だけど。それでも、変わったと思った部分はある。

例えば。

「お茶は?」

 言われて紙コップを見てみると、緑茶は綺麗さっぱり無くなっていた。やっぱりこの暑さ、異常だよ、ほんと。お茶がいくらあっても足りない。

「おかわりお願い」

「あいよ」

 そう言って、ボクの紙コップを持って、給茶器でひんやりとした緑茶を注いでくれる。かつてのあの気の利かなさはどこかへ行ったらしい。凄く気が利くようになった。というより、ボクの前でかっこつけたいだけなのかもしれない。まぁでも、別にいい。少なくとも和哉は少しずつ、前に進んでいるというわけだ。

 それに対して、ボクは……。

「ほれ、お茶。って、なに暗い顔してんだよ」

「……ううん、何でもない。ありがとう」

 いつ間に暗い顔になっていたのだろう。すぐにボクははにかんで、お茶を受け取った。ちなみに紙コップは新しいものではなく、さっきから使い続けているものだ。深い理由はあんまり無いけど、ボクは昔からそうしていたから、和哉にもそうしてもらっているだけ。要は、新しい紙コップを使うのに気が引けるだけ。何となく、勿体無い気がするだけ。ただ、それだけのこと。

「あ、石動さん」

 女子学生に声をかけられる。名前……なんだっけ。同じ講義を受けていることに間違いはない。見たこともあれば、話したこともある人だ。でも、あれ……名前……駄目だ、思い出せない。適当に返そう。

「お疲れ様。さっきまで講義?」

「そうなの。ほんっと疲れた~。チャイム鳴ってから10分以上経つのに先生の話、全然終わんないからさ~」

「そう……」

 そんなこと言われても、そういう風にしか返すことができない。何も思いつかない。名前も思い出せない。さっさと切り上げたかった。

「それにしてもほんと、恋人同士っていうよりかは熟年夫婦ね」

「またそれ?」

 大学に入って以来、二人でダラダラしていることが多いからか、ボクたちの関係を知っている人からは、よくそう呼ばれていた。

「彼氏さんには申し訳ないかもしれないけど、そう見えるわ。とてもじゃないけど初々しいカップルには、ね」

「褒められてるのか褒められてないのか分かんない……」

「凄いと思うわよ、私は。だって、私なんてそういう風に彼氏にダラーっとしたところ、見せられないもん」

「そういうもの?」

「そういうものなの」

 彼女の語気が少しだけ強くなる。ちょっと言い過ぎたか。けど和哉は何も言ってこない。空気を読んでくれている。こういう時、男に入って来られると面倒なことになりがちだから、ありがたい。

「まぁ仲が良いのは羨ましいわ。あ、もうこんな時間。電車間に合わなくなる。それじゃっ、石動さん」

「あ、うん。……湯崎さん」

 最後の最後でやっと思い出せた。湯崎さんが食堂から慌てて出て行く。あんなに走って大丈夫なのだろうか、こんなまだまだ暑い中。まぁ、どうだっていい。それなりに親しければ気にはするけど、別にそこまで親しい他人というわけでもない。ぶっちゃけ、どうでもいい。

 しかし、何故か緊張してしまった。喉が乾いた。冷えたお茶をゆったりと飲む。

「お前、名前最後で思い出したろ」

 ……ばれた。長い付き合いの奴には隠せないということか。それに、恋人、彼氏、だし。

「うん……」

「まぁ別にいいけどな」

 気にしているわけでもなく、責めてくるわけでもなかった。世間話程度の感覚なのだろう。

 それから、ダラダラとギラギラとした太陽が、紅く映える夕陽になるまでの間、ボクたちは食堂でダラダラとしていた。大学にも慣れ始めてきた今は、ほぼ毎日こうしてボーっとすることが増えた。LINEで連絡をするわけでもなく、どちらからともなく食堂に来て、ボーっとお茶を飲みながら過ごす。そんな毎日を繰り返していた。

 だけど、あの日に死んでしまった加那は、こういう体験をすることが、肌で感じることができない。

「……加那にも感じてもらいたかったな。こういう、何気ない感情」

「どういうことだ?」

「大切な人と、こうやってのんびりしたりすること」

 和哉はああ、と頷いていた。しばらく、沈黙が訪れた。周りは何人かの学生が喋ってはいたけど、ボクたちには関係無かった。

 そう、加那はもういない。加那は亡くなった。ボクたちのせいで、結果的に亡くなってしまった。周りは誰のせいでもないとは言ってくれるけど、ボクたちにとっては、とてもそうとは思えなかった。それは3年という月日が流れた今でも、そう思えた。というより、変わるとはとても思えなかった。変えられるとも思えなかった。

 先に口を開いたのは和哉だった。

「俺が、間違ってたのかな。やっぱり」

 違う、それは違うよ、和哉。

気づけばボクは立ち上がって、隣の和哉を優しく抱きしめていた。上から宥めるようにして口にする。

「そういうこと、言わないでよ。ボクも辛くなるし、何より天国の加那が怒ると思う」

「……それもそうだな。悪かった」

 和哉から離れて、席に着く。思わずあんなことをしてしまったけど、周りはどうやら無視してくれていたらしい。助かった。冷静になってみれば、中々大胆なことをしてしまった。まぁ、こういうことが恥ずかしいわけではないけど、流石に他人がいるところですると、少し恥ずかしい、かもしれない……。

 和哉もそういう風に感じていたらしい。顔が少し赤かった。それは、夕陽の紅さが顔に当たっているからじゃなくて、本当に少し、赤かった。訪れるのは、再びの沈黙。でも、さっきのとは違って、少し緊張するものだった。肩に力が入る。隣の和哉を見ると、ボクと同じだった。視線を合わせようとはするけど、どうにも合わない。というより、合わせられない。食堂のすぐ傍の駐車場から、学生が使っている原付や、講師の車の音が館内に響く。

 すると和哉は、意を決したかのように顔を上げて、ボクを見た。そういう風にして見られると、何だか少し恥ずかしい……。

「……旅行、行かないか? どうせ夏なんて暇、だろ?」

「えっ……?」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。だけど、特に断る理由もなかった。一人暮らしだし、実家に帰るのはお盆のつもりだった。

 だから、OKした。その返事は、少し震えていたけど、和哉は気付かなった。というより、気にしないようにしてくれた、のかもしれない。ともかく、ありがたかった。



                 ■



 淡路島、生石公園おいしこうえん。デートに最適な場所らしい。何でそんなことをボクが知っているのか。簡単なことで、今スマホで調べたからだ。

 デートスポット。確かに今は和哉とのデートだ。だけど、今までこんな遠出のデートをしたことはない。正直言ってビビってるし、緊張もしてる。だから、目の前ではしゃいでいる和哉のようにはできない。ボクはそこまで肝っ玉が大きいわけじゃない。小心者だ。動物で言うならビーバーだ。今は他に誰もいないけど、誰か他人がいたら、多分、いや、間違いなくそう見える。

 いきなりバシッと背中を叩かれた。そこまで強くはない。隣には和哉がいた。

「良い景色だからさ、見てみろよ」

 簡単に言ってくれるなぁと思った。けど、簡単に言える理由はすぐに分かった。

「わあ……!」

 顔を上げると、そこには雄大な海が広がっていて、更には東淡路島を一望することもできた。海はボクの濁っていた心を洗ってくれるかのように、青く輝いていた。それでも、濁りが完全に取れることはない。

 でも、確かにこれは凄い。しかも関西空港かんさいくうこうまで薄っすらとだけど見える。夏の晴れの日で、暑かったし緊張もしていたけど、これを見れば、そんなのすぐに忘れた。

「良いだろ」

「すごーい……!」

 それからというもの、ボクはずっと和哉にあれは何か、正面に見えている海の向こう側の山はどこなのか、などと完全にはしゃいだ。隣にいるのが和哉だということも半分認識できていなかった。

 けど、しばらくして疲れると、すぐに隣にいるのが和哉だということを認識させられた。今日は二人っきり。親の目も当然無い。すぐに家に帰られるというわけでもない。というか帰られない。今日はこの淡路島のホテルで一泊するのだ。別々の部屋じゃなくて、一緒の部屋で、和哉と。何かあってもおかしくはない。不思議じゃない。ボクと和哉は、恋人同士だから。そう考えただけで、また緊張してくる。

 だけど、そのことも和哉は分かってくれているのか、隣でボーっとしているだけだった。何も言ってこなかった。ただただ、ボクと同じ涼しい海風に当たっているだけだった。

 ……嬉しかった。何だかんだ、というより、和哉はボクのことを気遣ってくれている。そのことが、無性に嬉しかった。でも、それに対して何もすることができないボクは、何もできないボクを呪った。だから、先に口を開いた。いつも和哉に口を開いてもらっていては駄目だと思った。

「たまには、こういうのもいいね」

「だろ?」

 そういう和哉の声は、少しだけ震えていた。ああ、和哉も同じなんだと思うと、ほんの少しだけ嬉しくなった。同じように緊張して、同じように風に当たって、思考が回らなくて、でも、それでも何とか言葉を紡ぎ出す。それがほんの少し、嬉しかった。

 景色を堪能し終えて、車でホテルに向かう際中、どんなホテルなのか和哉に問うた。すると和哉は、部屋食付きのホテルだと答えた。部屋の内装などは着いてからのお楽しみだと言われた。それよりも、ボクは部屋食付きの部屋だということに驚いた。

「和哉にそんなお金があったなんて……。結構な驚き」

「言っとくけどお前、それ結構失礼だからな? バイトで――」

「知ってる。貯めたんでしょ?」

「そういうこった」

 車内はボクと和哉の笑い声で満ちた。凄く、凄く楽しい空間だった。それは確かだ。だけど、ボクの中にはどうしても引っかかるものがあった。それが何なのかは分かっている。分かっているからこそ、ボクは口に出さなかった。それは、和哉にも分かっていることだからだ。

 加那のこと。そう、ボクたちは加那の分まで生きると誓い合った仲だ。今はそれが一歩踏み進んだ段階に、恋人同士になっている。それがボクにとっては、少し怖かった。加那の分も生きなければならないとは思っていたけど、やはりどこかのタイミングで、加那を忘れている刻があるのではないだろうか、と。それが、そのことが、どうしても少し怖かった。忘れる自分がいるかもしれないということが怖かった。

 でも、今は楽しい旅行中だ。空気が悪くなるわけじゃないけど、あまり口には出さないでおこうと思った。和哉も、そういうことを考えていたのか、何も言ってはこなかった。ただただ、バイトでの面白いこととか、大学であったこととか、そういうことを口にしているだけだった。ボクも同じだった。ほんの少しの恐怖を打ち消すために、頭の回転を全開にして、ホテルに着くまで話し続けた。

 どう考えても、この関係はどこか歪んでいるように思えた。

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