第2話 ドン・キホーテの話のはじまり。
チチチと鳴く小鳥の囀りに誘われて、無意識の海に深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。
私は寝惚け眼の重く拙い足取りで外界に繋がる窓を求めて歩くと、熱を帯びる目蓋を指で強引に開きながら日差しを受ける事で眠気を無理矢理に排除した。
そして気付くと、私が居たのは見慣れぬ洋館の廊下であった。
「此処は……ああ、そうだったな」
頭の中で絡まっていた昨日の記憶を一つずつ解きほぐして、ようやく自分が此処に居る理由を思い出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「はァ? 今晩泊まる宿がない?」
「そうなのだ。確か、ギルドでは探索者向けの宿を紹介してはいなかっただろうか?」
閉鎖した小部屋で小一時間、大音量の説教を賜るという大変耳によろしくない拷問を受けた後、そういえばまだ宿を探していなかった事を失念しておりその旨を告げると女将は竜の息吹も斯くやと盛大な溜息を吐く。
「あのねェ、この探索者氷河期にそんなサービスを続けられる宿なんて残ってる筈がないだろう? あっても他の探索者で全部埋まってるよ」
「しまったな、では今日は野宿でも……」
「馬鹿たれ。これ以上探索者の品位を貶めるッてんなら、この拳骨が火を噴く事になるよ」
如何にも探索者らしい、節榑立った古傷だらけの拳を振り上げられてしまっては此方は何も言えない。しかし泊まる場所がないのは事実でありこの時間帯からでは近辺で宿を取るのも難しい状況であるのは変わらない。
「ギルドでは宿泊サービスは扱ってないのか?」
最盛期にはギルド側の利益獲得策としてそのような話があったのを思い出し、女将に聞いてみる。
「今はもうやってないよ。部屋自体は残ってるけど、埃だらけで今日明日に住めるような場所じゃないのは確かだ」
「ああ……これは確かに数時間程度で掃除できそうにはないな」
ギルド二階、応接間のあった通路の一つ奥に掠れた文字で<宿舎>と書かれたプレートの掛かっている廊下を見せてもらうと、其処は長い間誰にも立ち入られなかった為に蜘蛛の巣が垂れ下がり埃も積もった状態で置かれ、この場面だけを切り取れば一体何処の廃墟なのかと思う程の状態であった。流石に部屋の中までは見てはいないが廊下でこれなのだ、相当に酷い状態である事は想像につく。
話に聞けば、元々はギルドに対する貢献度の高い優良探索者へのサービスの一環として作られたらしいが。
大抵の探索者は自宅通勤が多い上に、ある程度距離が離れると今度は地元近辺の小さなダンジョンに向かう方が楽である為に導入後の利用者が少なく放置されていたのだそうだ。
だからと言って埃が積もるまで放置は駄目ではないのか。建物自体が痛む上に万が一にもアクシデント等で下階へ降り注いだら大惨事——何、それはもうやった?
私はロビーの大広間に屯する中年探索者達の上から埃が降り注ぐ阿鼻叫喚図を思い浮かべ、その惨状に心から同情したと同時に一つのアイデアが頭に浮かんだ。
「どうだい、無理だって分かったろう——」
「女将。掃除用具を貸してくれ」
部屋が無理なら廊下でも構わないか、と。
——とまあ。この様な流れで客間の廊下だけを掃除し、そこに寝袋を敷いて宿泊させて貰ったのだった。こうして思うとあの女将は口調・所作こそ荒いものの中々に情に厚い好人物だ、他の探索者達に慕われているのも納得である。
さて。
腕時計を見れば現在は午前六時半過ぎ。普段よりも僅かに寝過ごしたらしいが、この程度なら許容範囲内だ……硬い床でも寝られるように訓練してきたつもりなのだが、まだ未熟だな。
日課通り早朝の鍛錬を行おうと、なけなしの荷物の中から木刀を抜こうとして止まる。
普段の鍛錬は基本的に周囲の迷惑にならないよう屋外で行なっているのだがしかし此処は商業施設で営業時間外の現在、当然出入口は施錠されている。
余程の仕事熱心でなければこの時間帯に女将が起きているとも思えない。かと言って泊めさせてもらっている立場上態々女将を起こして出入口を開けてもらう、という事は私の騎士としての信条に反する——窮しているでもなしに他者へ迷惑を掛けるのは甚だ不本意だからだ。
故に今は木刀を納め、此処で大人しく開館時間を待つとしよう……あまり彷徨かれても向こうの心情は良くないだろうからな。
「なんだ、それでアンタずっと上で待ってたのかい」
時は進んで午前八時。ロビーが喧騒に包まれる中、女将は呆れた様子で私にそう呟いた。
女将は探索者を引退して尚鍛錬を続けているらしく——稀に何を勘違いしたのか徒党を組んだ荒っぽい連中が現れるので、そういった手合いに対して
今度から鍛錬を共にしても良いかという願い出は……そもそもギルドには緊急措置的に間借りさせてもらったに過ぎず、今日中にまた別の宿を探さねばならない事を思い出して喉から出かかった所を引っ込めておく。
「では、改めて。宿を探しに行ってくる」
「今度はバカをやらかすんじゃないよ……じゃ、行ってきな」
女将に見送られ、何とも締まらないものだな、と心の内で愚痴をこぼしつつ私は宿探しへと繰り出す事となった。
……結論から言うと、目的の宿はそれから一時間もしない内に拍子抜けするほどあっさり見つかった。
シングルルームで素泊まり一泊五千円とそこそこの料金でありながらダンジョンまで徒歩で約一キロと楽に通える、探索者にとっては非常に魅力的な場所であった。
建物は古く狭い上に、受付の対応も決して良いものではないが特段問題がある訳でもなく、早速七泊八日で予約を入れると荷物を運び込んだ。
しかし一泊五千円となると一ヶ月で三十万円か。所持金も心許ないので出費を抑える為にも、早めに賃貸物件を探す準備は整えておく必要がありそうだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
まず、ダンジョン探索に必要なものとは何か。
暗い内部を探索する為の光源。
資源採取に必要な道具や採取物を持ち運ぶ為の雑嚢。
襲い来る怪物達に対抗する為の武具。
長期の探索に際して、不測の事態に備えた食糧・医薬品。
一般にこれらを最低限揃えるには、およそ十万円は掛かるとされている。その殆どは武具の値段であるのだが、それらを除いても一万円から三万円ほどは必要となるだろう。
今の手持ちは宿泊費を払った残りでおよそ十万円。お世辞にも余裕があるとは言えないが、高等学校を卒業したばかりの身空なのだから初めはこんな物だろうと納得する事にした。
そうして訪れたギルドの購買部は不良在庫とされた数多の商品が薄汚れた“特価品”の値札と共に乱雑に並べられ、物の置き場もないカウンターの奥には欠伸をしながら頬杖を突く店員が一人のみという場末の古物商にも似た有様だった。
「探索用具が欲しいのだが」
「……探索道具一式、三万九千八百円」
その言葉と共にカウンターの山場から商品が崩れ落ちる事も厭わず引き出したのは埃を被ったダッフルバッグ。
採掘用具セット・魔石式ランタン・各種医療品が纏められた大きい雑嚢一つでこの値段である。中身の貧相さに比べてやや高価な気がしなくもないが、これでも一時期の価格と比べれば大分落ち着いたものだ。
特に照明器具は地上で逐一補給する必要のあるバッテリー式よりも壁を掘れば出てくる魔石を利用する魔石式の方が都合が良い。
しかしそれまでの科学とは根本から異なり今までのノウハウが通用しないモノに対して安全性を考慮しながらの研究は並大抵の苦労ではなかっただろうに、ダンジョンの出現した各国は瞬く間に新技術を我が物とした。げに恐ろしきは人の欲、とはよく言ったものである。
私はそれを二つ返事で購入すると、腰に木刀背中に雑嚢の出で立ちで早速ダンジョンへと赴くのであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
久方振りに見たダンジョンは、嘗ての栄光の残滓として、私の眼に映り込んだ。
嘗て華々しい武具を纏い誇りを胸に勇み足で迷宮へ挑まんとした若き探索者達は、今や誰もが心を荒ませて項垂れながら採掘用具を片手に入っていく。
戻って来る者達も同様で、爛々と輝く戦利品を掲げながら凱旋する探索者達は消えその多くが喜びではなく焦燥と疲弊に顔を歪ませている。
探索者ブームの最盛期には集客効果を見込まれて拵えた神殿風の外門は、ひび割れ苔生しても補修どころか最低限の整備すらされず荒れ果てていた。
諸行無常・盛者必衰などとは言うが……いざ自らの夢の成れ果てを見せられると、心に重い物が伸し掛かる様で——そこで私は自分の思考を押し留めた。
私はただ、騎士として在れば良い。
誰もが諦め、手放した偉業がこの迷宮の底にある。待つのは栄光か破滅か、或いは虚無かさえ判らない——まさに未知に充ち満ちた最後の新天地。
ならば、私はただ未知を切り拓くのみ。
利益を持ち帰る探索者としてではなく、未知を探求する冒険者として最下層を目指し、到達する。
最早新天地は忘れ去られ、先を征く者も居なければ、また後を追う者も居ない。
余りにも遅過ぎた成熟と現実に荒む理想の跡で青年は吼える。それがどうした、と。
その旅路が共に歩む者のない孤独と知っても、裡に燃え滾る気概が萎える事はない。
「……よし!」
そして、騎士になり損なった一人の青年は、遅れて最初の一歩を踏み出した。
ドン・キホーテ、ダンジョンに挑む。 J.D. @John_Doe-The_Jadish
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ドン・キホーテ、ダンジョンに挑む。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます