4-6 「あら、怖じ気づいた?」

密偵達の帰還を待っていたエリス達は、実のところ事態を楽観視していた。いくらカイルという実物を目にしていても、同じような力を持つ人間がそうそういるはずはない。ベネディットがいくら儀式を行っても、だからどうなるとも思っていなかった。


ところが、洞窟の探索から戻った者達からの報告は奇妙なものだった。ガーラの工作員達が言ったとおりの場所に洞窟があった。そして、そこに近づくにつれて、嫌な感じが増していくと。


嫌な感じというのがなんなのか、彼らの言葉では説明できなかった。ただなんとなく、近づけば近づくほど、気分が悪くなる。空気が重みを増し、息が苦しくなり、辺りが薄暗くなるような錯覚に陥るらしい。息を整え、改めて様子を確認すればなんということはない、気のせいだったと思えるのだが、気を抜くとすぐにまた何かにのしかかられたようになる。


その報告に、神聖帝国の客人達の多くは笑みを浮かべた。修行の足らぬ未熟者故だろうと。エリスは事態を重く見て、出立を調整した。洞窟への突入が満月の夜になるようにし、それまでは改めて神殿での調べ物を行った。


カイルには作戦行動中は、自分の命令に従うようにきつく言いつける。敵が本当に魔術師なら、カイルは切り札になり得る。ロリコンにも敵をカイルに近づけないように指示を出した。こうして思うと、普段から二人の仲がよいのは幸運だった。


付近の村までは馬車に乗り、そこからは徒歩で向かった。今回はエリスの単独潜入は予定に入っていない。最初から全滅させるつもりで攻撃を仕掛けることになっている。予想される敵はベネディットとその配下、そしてガーラの司祭達。


日が暮れ始めた森の中を進んでいた一行が、洞窟の入り口にたどり着く。もはや、誰も何も口にしなかった。最初は軽口をたたいていた神聖帝国の戦士達も、ここがおかしい場所であることを認めざるを得なかった。


案内役の密偵も、以前はこんなに酷くなかったと語った。偵察に来たときは、もっと気のせいですむ程度だったらしい。


二十人程度は並んで入れる規模の大きな洞窟。堅く、黒い岩肌を露出させ、獲物が口の中に入るのを待っているようにも見える。


「魔導師君、満月の夜っていつから始まるの?」

「もうちょっと暗くなって、月がはっきり見えてから」

「では、一時休憩。敵の気配はないけど、油断しないように」


各自、木の幹を盾にして体を休めた。まとわりつくような空気が、じっとしているだけでも体力を奪っていきそうになる。本当に休む意味があるのか疑問に思う。


「エリス殿、ここからはどうするつもりかな」

「中に入って敵を倒す。他に何か?」

「結構。それでいいなら私にも分かりやすい」


エリスとアレクシアネスは何度か言葉を交わしたが、根っこがノウキン気質の二人は、それなりに相性がよいようだった。エリスが生理的嫌悪感を抱かない貴族は珍しい。


隊員達は皆二人のやりとりに注目していたが、特にマリーとルキウスは気になるようだった。結婚させられるという話も聞いていたが、その相手がどんななのか。どうしてもエリスが我慢できないような相手なら、いっそ部隊を捨てて逃亡しようか、とかそんな話もしていた。


仲がいいでも悪いでもなく、普通すぎて特に何も言えることがないのが、少し不満。お互い政略結婚の意義をきっちり理解して、それが国のためならまぁそれでもいいか、みたいな感じで面白みがない。悪い相手ではなさそうだというルキウスの言葉には、マリーも同意するしかなかった。


携帯食を口に放り込み、味がしないのを無理矢理水で流し込む。数百人が立て籠もり、数千人に包囲されたと伝わる洞窟だ。敵が最深部にいるとすれば、決着には時間がかかるだろう。


月が出た。カイルが頷く。エリスは立ち上がり、先頭に立つ。背負っていた金属製の盾を構え、正面に対する露出を最小限に抑えた。


付近、といってもだいぶ離れているが、住民達は往来を捉えていなかった。兵士も見かけないし、馬車も見かけない。大軍が潜んでいるのなら、物資の補給が必要だろう。その全てを見落とすとは思えない。ならば、敵の戦力はごくわずか。多くても二十人。おそらくはそれより少ない。


入り口になけなしの戦力を結集させて射撃戦を挑むという選択もあるが、もっと内部に引き込んで地の利を活かし、数の不利を補うのがセオリーだろう。


見立ては間違っていなかったが、相手が普通ではなかった。


洞窟を入ってすぐの所に、半壊した石像が鎮座していた。鳥の顔をした人間だろうか。山の神に仕える従者の像だ。両脇に飾られたそれが、動き出した。


岩がぶつかり合うような音を立てながら、立ち上がり、迫ってくる。どんな力で動いているのか不明だが、足で歩いて進むらしい。空を飛ばない辺りは、不思議な力にも規則性があるのかも知れない。


だが、観察している余裕はない。まずは突進をかわし、散開して距離を空けた。


「ゴーレム? ガーゴイル? なんかそんな話も書いてあったけどさ、ほんとにいるのかよ」


背丈はベルナルドの倍くらい。直進速度は速いが、方向転換には手間取っている。これがこいつの全力なら、熟練の戦士ならば負けることはあるまい。


「怪力君、そいつを後ろから殴れる? まさかこんなの想定してないから、打撃武器持ってる人少ないんだけど」

「まかせろ」


金属製の棍棒で殴りつけた。だが、見た目にダメージはない。人間ならばグロテスクに体がひしゃげそうでも、岩の塊には効かないようだ。


「足を、とにかく足の付け根辺りを破壊して。ルキウス、マリー! 怪力君の援護。それからあと十人くらいここに残って、入ってくる人間と、出て行こうとする人間を全て阻止すること。私たちは先に進む」

「では、我々がここを抑えましょうか」


アレクシアネスが申し出ると、エリスは首を振った。


「あら、怖じ気づいた?」

「まさか。ならば、お供しましょう」


あからさまな挑発に神聖帝国の戦士達が腹を立てるが、皇子は事情を理解したようだ。


「人間全部を阻止していいんだな!」


ルキウスが改めて確認すると、エリスは大声で答えた。


「そう! 私が命令を解除するまで、一人残らずね!」


退路を確保するために主戦力を残した、という意味もある。あのメンバーなら、少しばかりの敵に負けることはない。だがそれだけではない。動きの鈍い岩の化け物より、アレクシアネス達の方がよほどの強敵だ。


この空気。さっきの化け物。確かに油断は出来ない。ベネディットの魔術は、たぶん本物だ。だがそれでも、そっちはそれほど恐ろしいとは思わなかった。所詮子供だまし。非現実的な現象を前にして足を竦ませることさえなければ、戦えない相手ではない。


重要なのはベネディットを倒すことではない。魔術の情報をもらさないこと。神聖帝国にもその情報を掴ませずに、痕跡を消し去ること。アレクシアネスは、ロムリアが情報を入手しないようにするための監察官であると同時に、国に秘密を持ち帰るためのスパイでもある。


ならば、彼らを挟み撃ちに出来るように配置するのがいいはずだ。


念のため、カイルに確認しておく。


「魔導師君、さっきのやつ、あんたの力でなんとかなる?」

「無理だと思う。動かそうとしたけど動かなかった」


魔法というものが存在するとしても、万能ではない。そんな何でもうまく行く不思議な力があるなら、もうとっくに世の中にその力が充満してなければおかしい。そうなっていない以上、やれることは限られるはずだ。


一本道が長く続いている。隊員が盾を構え、慎重に進んでいく。あのレベルの化け物が突然攻撃してきた場合、盾では防ぎきれないだろうが、飛び道具を警戒しなくていいことにはならない。


じめじめとした洞窟の先には、広間があった。四方にはかがり火が焚かれている。人間の寝床らしい毛布や藁が敷かれている。ベネディット達の寝床だろうか。侵入には気づかれていると見た方がいいだろう。


寝床の数は七つ。敵は七人しかいないのか? 思ったよりも敵が少ないことに期待しつつ、この広間にも隊員を五名残しておくことにした。先に通じる道は、これまでのものよりも狭い。あまり大勢を連れて進んでも使いようがない。敵の戦力が判明するまでは、退路の確保を優先する。


たいまつの明かりを頼りに洞窟を進む。人の手が入っていない、天然の鍾乳洞のように見える。洞窟の規模としては非常に大きく、どこまでも続くかのようだった。


入り口の彫像以来、敵が姿を見せていなかったこともあり、油断もあったのだろう。道を折れてすぐそこに、人が立っていることに気づくのが一瞬遅れた。ローブ姿の男は両手を挙げて飛びかかり、隊員を一人押し倒した。


たいまつの火が燃え移りながらも、男は隊員を素手で殴打している。アレクシアネス達がすぐさま走り寄り、敵を蹴り飛ばした。さらに同じようなローブ姿が二つ現れる。餓死寸前かのようにたどたどしく歩き、突然飛びかかる。


後ろをついてくる者達を手で制し、エリスは前衛の様子を探った。戦い自体に不安はない。神聖帝国の戦士達は、さすがに皇子の護衛だけあって、強者揃いだ。素手の相手に後れをとる理由はない。


しかし、敵が奇妙すぎる。どうして武器を持たない。ローブが火に包まれながら動けるのはどういうわけだ? ようやく力尽きたローブ姿は、地べたに伏し、顔だけがエリスに向いていた。フードの奥の表情は見えないが、なんとなく、気味の悪い目をしているように感じた。


フードの下を確かめたくなり、さらに一歩踏み出した。その瞬間、空気が凍り付いた。ような気がした。張り詰めた氷が割れるような感触に、エリスはその場を飛び退いた。何故か、そうしたくなった。そうしなければならないような気がした。


エリスの目の前を、光の柱が突き抜けていった。右手から、おそらくは右側から発してきた光の壁が、通路を遮断し、さらに左の壁を貫いていった。ほんの一瞬の出来事だったが、確かにそれを見た。エリスを後ろから見守っていた者達にも見えたはずだ。


エリス達は、光の通ったあとを確かめた。洞窟が丸く、ぽっかりと穴が空き、空洞になっている。左右共に、その先に光は見えない。


エリスは倒れた敵のフードを蹴り上げ、顔を露出させてランプで照らした。ガーラ人だから、という意味ではなく、黒い肌だった。炎で焼けただれた、というわけでもない。火は、それほど激しく燃えていない。


戦いを終えた者達が戻ってくる。


「エリス殿」


皇子の呼びかけに、エリスは下を指さした。


「これは、生きた人間とは思えないが」

「奇遇だね。私もそう思ってたところ」


アレクシアネスが首筋を切り裂こうと、心臓を貫こうと、それらは戦いをやめなかったという。エリスは先ほどの壁を見せる。光が差した瞬間、穴が空いた、と。その場を見ていなかった者達には、何のことか分からなかったが、それでも合意に達したことがあった。


一行は道を引き返した。


「皇子様さぁ、本当にこれを広めるつもりなの?」


アレクシアネスは首を振る。


「いや、これを兄上に教えるわけにはいかなそうだ」

「皇子様のお兄さんは陰謀好きなの?」

「それはもう」


お付きの戦士達がちら、と主人に目を向ける。それ、言ってしまって大丈夫なんですか、というように。


「なら、協力してくれないかな。思ったより状況が悪すぎる。ここまで頭のおかしい出来事が起きるなんて、予想してなかった。あんた達を牽制しながらじゃ、戦いきれない」

「かまわないよ。ここでの出来事、魔術の痕跡、なかったことにしたいというなら、協力しよう」


「よいな」と、皇子は従者に対しても念を押した。


それ以上は会話もなく、五人を残した広間にたどり着く。入り口はどうなっているのか、まだ石像と戦っているのか、一人を偵察に送る。終わっているようなら、こちらに合流するように伝えろと。


だが、戻ってきたのは八人だった。マリーが事情を説明する。


「石の化け物は、ベルナルドが足を砕いて動けなく出来るんだけど、しばらくすると回復して動き出すんだよ。意味分かんないけど、戦い方自体は分かったから、六人いれば十分だって」


エリスは、各員に散開するように通達した。敵の攻撃に巻き込まれないように、出来るだけ味方との距離を空けろと。そのため、前進部隊は十人ほどに絞り、残りはこの場で待機。待機部隊の指揮はアレクシアネスがとる。定期的にベルナルドの所に隊員を向かわせ、戦闘を交代させること。ベルナルドに疲労が見られる場合は、数で補え。


ルキウスとマリー、そして神聖帝国の手練れ三人を借り受け、再び洞窟の奥を目指す。カイルはエリスの後に続き、ロリコンが護衛する。密偵二人が最前線での探索を担当する。


途中、先ほどの光の跡をマリーに説明する。信じたくないようだった。だが、信じられない出来事はすぐそこにもあった。先ほど倒したはずのローブ姿が消えていた。そして、先ほどと同じ場所で待ち構え、同じように飛びかかってきた。


強くはない。不気味なだけで、苦戦はしない。だが、やはり倒された死体の首は、エリスの方を向いていた。嫌な予感がして、エリスは体に力を込めた。空気が凍り付き、氷が割れる。そんな音ともイメージともつかぬものを感じると同時に、その場を飛び退いた。


先ほどと同じように光が走り、壁に穴が空いた。不思議な光だった。まばゆいほどに輝いて見えるのに、洞窟の壁面が照らされることはない。


エリスはなんとなく仕組みを飲み込んだ。不死の化け物の目を通して、照準を合わせているのではないか。なぜエリスを狙うのかは分からない。密集して戦っている前衛を狙った方が当てやすい気はするが、何か事情があるのか。


おそらく連射は出来ない。出来るならもう何十発と撃っているはずだ。エリスは首を巡らし、辺りを視界に収める。ランプで照らし、腕を伸ばして人差し指を立てる。そのままぐるっと体を回すと、「何やってるの」とマリーに突っ込まれる。


それには返事をせず、前衛に確認する。


「今のやつはさっき倒したはず。なのに動いた。これからも復活するかも知れない。行き来の度に戦うことになるけど、大丈夫そう?」

「ただしぶといだけです。素手ですし」


と、密偵が答える。この中では戦闘力の低い彼らでも余裕だというなら、大丈夫だろう。ルキウスもマリーも、復活することに疑問は持たなかった。すでに常識は麻痺していた。


洞窟は入りくねり、こうも空洞だらけでは地震でも来たら全部崩れるんじゃないか、そんなことが心配になる。エリスはいちいち腕を伸ばしながら、部屋の全体を確認していった。


一度、休憩を取ることにした。夜が明けるまでには戦いを終えたい。最終兵器カイルが使用不能になってしまう。誰も食欲などなかったが、仕方なく少しだけ胃に入れる。


エリスは干し肉を食いちぎりながら、鉛筆を走らせていた。紙に何か数字を書いている。頭をひねりながら、計算式を解いているようだった。だが、線を引いては最初からやり直す。


ひとしきり計算したあと、ため息をつきながら、探索再開を宣言した。今度は、無数の骸骨と戦うことになった。いったいどこにこんな人骨があったのかと驚くが、そういえばこの洞窟では、少なくとも百人は死んでいる。何百年も前のことのはずだが、骨くらい残っていても不思議はないか。


骨の化け物が出現したことより、骨があった理由を考えてしまうくらいには、彼らもここに慣れていた。あの光以外は、特に恐ろしい敵はいなかった。不思議と、骨との戦いでは空気が凍り付く感覚はなかった。


いくつもの通路、空洞で、エリスはその様子を確認した。時折しゃがみ込んでは、計算の続きをする。だが、首を振るばかりで、納得がいかないようだ。


そしておそらく、最深部らしき扉の前にたどり着いた。明らかに人の手が入った部屋で、金属製の、ただしさび付きぼろぼろになった扉が行く手を阻んでいる。あれでは鍵開けは無理だろう。破壊して進むしかない。


扉前の部屋は大きく、床も平らになっていた。エリスはその部屋の大きさだけ確認して、通路に引き返す。おそらくあの扉の向こうにベネディットがいる。そこに、不思議な光の発生源もある。大まかに光の発した方向を考えると、一致するからだ。


扉の向こうが開けている保証はない。また通路かも知れない。そこを真っ正面から突入したのでは、一撃で全滅しかねない。あの光を無駄うちさせ、同時に最深部への突入路を開く方法を、エリスは思いついていた。


しかし、実現方法が導き出せなかった。エリスが読んだことのある本だけでは、この計算を解くことは出来ない。さらにいえば、数学というのは、教科書を見ながらなら何でも解けるというものではない。本を見ながらでも解けないなら、本を記憶しているからといってどうなるものでもない。


あの扉の向こうから、どの角度に対して光を発射させれば、本陣上空に進入路を開けられるのか。エリスはここまでの地形を記憶してきた。寸法も測り、答えを出すのに必要な情報は揃えたはずだ。


だが、何行書いても答えが出ない。計算の方法が合っているのかを確かめる簡単な式ですら、明後日の結果が出てしまう。エリスは顔を覆い、書いたばかりの数式を塗りつぶしていく。いらだちを隠せなくなり、つぶやきが増える。


「どうして私は馬鹿なんだ」「なんで読んだ本を全部覚えてるのに、こんなことも出来ないんだ」、何度も何度も、無意味な式を書き直し、目元が光り始めた。


「出来る人、いる?」


悲しげな声で辺りを見回すが、数学が出来る人間など、ここにいるはずがない。


今までずっと黙って後ろをついてきたカイルが、心配そうに話しかけた。


「エリスは何をしようとしてるの?」

「見て分かんない? 入り口からここまでの座標を求めて、あの扉の向こうに光の発射点があったと仮定した場合に、どこに向かって光を撃たせれば突入路を作れるかを求めてるの」

「この辺を撃たせるんじゃだめなのか?」


ルキウスの疑問には、首を振った。


「敵がいなくなったとは限らない。出口を敵の前衛にふさがれ時間を稼がれたら、次で壊滅する。だから、上から行きたい。まさか、天井はふさげないでしょ」


空飛ぶ化け物がいないとは限らないが、いない可能性は高いだろう。


「でも、なんで計算しようとするの?」

「なんでって、他にどうやって角度求めんの」


静かにしてくれないかな、という感じでエリスは突き放す。


「だってエリスは全部道を覚えてるんでしょ?」

「そうだよ?」

「なら、それをそのまま図に書けばいいじゃないか」


エリスの手が止まる。


「図? 絵に描くの? どこに?」

「そこ」


カイルが指さした先には、比較的平らな床が広がっていた。少年は、腰からチョークをとりだして渡す。


「チョークならみんな持たされてる。これで床いっぱいを使って、上から見た図を書けばいい。重なって分かりづらいところもあったら、横から見た図も書けば、条件を満たす場所が分かるでしょ」


しばしの沈黙。皆の視線がエリスに集まる。伏せたエリスの瞳が、すすっと横にそれていき、頬が緩んだ。頭をなでてやる。


「エリスさぁ・・・」


マリーの言葉を背中に受けながら、チョークを手にお絵かきを始めた。


「出来もしないことをしようとするから、うまく行かないんだよねぇ」

「うるさい。だいぶ前に、参謀君がそういうのやってたから、それしか思い浮かばなかったんだよ」

「エリスに数学は無理だよな」


ルキウスも容赦がない。


「いいから、あっちの扉見張っといて。あと密集しないように。ここに飛んでこない保証はないんだから」


警戒網というほどの布陣ではないのか、何事もなく時が過ぎていく。絵は苦手なエリスだが、寸法だけを合わせればよく、幾何学図形しか書く必要がない分ましだった。書き上がった二つの大作のおかげで、最深部の上の部屋が見つかった。


「カイル、運動神経はいい方?」


呼びかけられた少年は、うれしそうに、そして悲しそうに答えた。


「よさそうに見えるかな」

「ぜんっぜん」


エリスは大げさに首を振る。さっき恥をかかされた事への当てつけだろうか。


「じゃあロリコン君と二人、ここに残って突入準備。ロリコン君は、あのくらいの扉突破できるよね?」

「無茶言わないでくださいよ。いくらぼろぼろでも、金属製ですよ?」

「出来るよね?」

「・・・頑張ります」

「突入のタイミングは任せる。たぶん向こう側が騒がしくなるから、分かるでしょ」


二人を残し、エリス達は主力を残してきた広間まで戻る。途中の骨やローブはまた動き始めていたが、黙らせ方が分かれば時間もかからない。


エリスは配下を編成した。ノウキン達を第一班。魔王の密偵達を第二班。光を恐れ、長々とした行列をつくって移動する。途中でルキウスがローブ姿の男の首をはね、革袋にしまう。これでも目として機能するのか不明だが、相手は何しろ不死の化け物だ。


目的の広場に達し、エリスはロープを結ばせた。何本かのロープをつなぎ合わせ、最深部まで到達できるようにする。


相手が馬鹿なら、これまで通り、単純な反応しかしないなら、これで決着をつけられるはずだ。そして馬鹿でないなら、悠長にお絵かきなんてさせてはくれなかっただろう。もう、理由を考えるのも馬鹿馬鹿しい。ここは、理屈に叶わないことばかりなのだから。


エリスは予定地点に屈み、チョークで円を描いた。念のため、相手が標的の選択をした場合に、自分が一番怪しいよと、私を放っておくとなんかすごいことしちゃいますよと、そう印象づけるため。エリスが描こうとしている魔法陣は、シャーロック譲りの本物なのだから。


ルキウスが革袋を払い、ガーラ司祭の生首をエリスに向ける。エリスは大きく深呼吸をした。これが最後の危険だろうが、かわせなければ終わりだ。仇討ちはしてくれるだろうけども。


三度みたび、空間が凍り付き、氷が割れるような感覚。待ち構えていただけに反応は素早く、光の柱は空間を突き抜けていった。


「第一班! 突入!」


エリスの号令と共にロープが投げ込まれ、ノウキン達が滑り降りていく。第二班の仕事はロープの支えと、撤退支援。


「行ってくる」


ルキウスとマリーも穴に身を投じた。


すぐに驚愕の声が上がり、何か分からないが、また信じがたい出来事に見舞われているらしい。


エリスは穴に向けて、最後の指令を出す。


「敵を殲滅しろ! 形あるものは全部壊せ! 原形を留めるものを残すな! 燃やせるものは燃やし、全てを灰にしろ!」


エリスとアレクシアネス、そして権力者に忠実な者達はその場に留まった。そこに何があるのかは分からないが、きっと何かがある。それを、お互いに知らずに済ませること。これが二人の協定だった。


何も見なかった。何とも戦わなかった。ただ、餓死したベネディット達の遺体を確認し、帰路についた。不幸にも洞窟は地震で埋まってしまって、再調査は不可能。それが両国に対する、公式報告だ。


穴の底から怒号が響く。ロリコンの雄叫びと、カイルの哄笑。現世のものならざる戦いが繰り広げられたようだが、エリスは一切の報告を許さなかった。

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