第七小節 静かな湖畔の木々の陰にて
「ステラったら、まさかこんなものまで持ってきていただなんてね……」
日差しが和らぐまでの間、ステラは私に木陰の下で涼むよりもずっと良い過ごし方があると提案してきた。そして私がそれは一体何かと訊ねたら、彼女が返して来た答えは何と、『せっかくですから、ルヴェア湖で泳ぎましょう!』というものだった。
確かに今日は真夏日といっても差し支えないほどの、季節外れの陽気に見舞われていて、このまま湖の冷涼な水に身を浸せば、さぞや気持ちがいいだろうと私も思った。しかし当然のことながら湖に入ることなどは想定しておらず、水着などは一切持ってきていない。
もちろん湖にはステラを除いて他に人影など一つも見当たらず、いわば貸し切り同然の状態であるが故に、たとえ一糸纏わぬ姿になったところで、誰にも見られる心配など無いものの、やはり気持ち的には少しの迷いがあった。
そうして私がどうしたものかと黙したまま逡巡していると、間もなくステラが『ご心配には及びませんよ、シャル。水着ならちゃんとご用意しておりますから』と、私の中にあった気の迷いをたった一息で吹き消してみせた。
おそらくは
「お召し物のご用意は私のお役目ですから。ただ、最近はお着替えを全てご自分でなされていましたので、少し寂しい気もしていましたが……あの、今日は久しぶりにそのお手伝いさせていただいても、よろしいでしょうか?」
「えっ……? その、脱ぐのを手伝ってくれるのはありがたいけれど、これから身に付けるものは水着だから……」
「駄目……でしょうか?」
――う、そんな懇願するような瞳で見詰めてこられたら、とてもじゃないけど断れないじゃない……。正直、この年になって人に水着を着せてもらうのはかなり恥ずかしい感じがするけれど、ステラにしてもらうのなら……。
「そ……それじゃあせっかくだから、お願いしようかしら?」
「ふふっ。お任せください、シャル。それではどうぞ、こちらへ」
そうしてステラと共に荘内にある脱衣所に移動した私は、彼女に手伝ってもらいながら洋服を脱ぎ、私のために選んでくれたという黒地に白いフリルをあしらい、給仕服に近い色合いを示している可愛らしいビキニを着せてもらうことになった。
さらにその胸元とお尻側には、薄紫色から淡い橙色へと先端にいくに従って変容する一際大きなリボンが飾られていて、実に見目美しい彩りを添えてくれているようだった。
「恐れ入りますが、おみ足を片方ずつ……はい、結構です。それでは、少し失礼しますね」
「ん……んんっ……」
特にフリルスカートと一体化したショーツを、足元からその終点にかけてするすると引き上げながら穿かせてもらう際には、あまりの恥ずかしさから本当に全身が沸騰してしまいそうなほど熱くなり、私は思わず眼前で屈んでいるステラから視線を逸らせて、何もない天井の一点をただ見つめ続けていることしか出来なかった。
「はい。これで完了ですよ。どうぞ、姿見をご覧になってみてください」
「あら……これは思っていたよりずっと、良い感じだわ」
「いつもはよく明るい色を好んでお召しになっておられましたから、今日は黒を基調にしたこちらの水着をお試しになっていただこうと思いまして……本当によく似合っておいでですよ、シャル。やはりお美しい白銀の
「ありがとう、ステラ。あなたが選んでくれた水着だもの。似合わないはずがないわよね……さて、それじゃあ今度は私がステラに水着を着せてあげる番かしら?」
「な……シャルに私の着替えを手伝っていただくだなんて、そんなことさせられるわけがありませんよ! ほ、ほら、今度は私が自分で着替えますから、シャルは一旦部屋の外に出て待っていてくださいね!」
「あっステラ、ち、ちょっと……! んもう! ステラったら自分だけ着替えを手伝っておいて、私の番になったら部屋から追い出すなんてずるいわ。必ずいつか私も同じようにしてあげるんだから。次はどうやっても逃げられないように、今の内から色々と考えておかなくてはね……」
それからややあって脱衣所から出て来たステラは、彼女が日頃からよく身に付けている黒系ではなく、曇りのない白を基調としたビキニを身に付けていて、随所にあしらわれている豪勢なフリルに、
「とっても素敵よ、ステラ。あなたにしては珍しく、白を選んだのね。だけどその濡羽色の長い髪ともちょうど対照的でいて、実に良く似合っていると思うわ」
「ありがとうございます、シャル。色合い的にシャルと被ることを避けたのもありますが、今日は何だか晴れやかな気分だったこともあって、少し挑戦してみました……でも、こうしてシャルに褒めていただけて、本当に嬉しく思います」
「ふふ、なるほどね。それでは早速下に降りて、暑気払いといきましょうか」
「はい。あ、その前に髪のお直しを。それとメルが調合してくれた日焼け止めも持っていきますね」
***
「それっ、それえっ!」
「ひあっ、冷たい! わ、私もお返しです! えいっ!」
「わ、わあっ! ふふふっ! よくもやったわね!」
山荘から再度、岸辺へと降りた私たちは、くすぐったさに顔を歪ませながらお互いの肌身に日焼け止めを入念に塗り込んだあと、微風に揺らめいていた湖畔の水面をその静謐さ共々、両手で激しく切り裂いては、二人してけたたましくばしゃばしゃと水鞠を飛ばし合い、黄色い声を上げながら子どもの頃のようにはしゃいでいた。
「ふふふっ。けど二人きりで水遊びだなんて、一体いつ以来かしらね」
「そうですね。海にはよく行っていましたが、常に誰かを伴っていましたから。こうしてシャルと二人で、となると……もうずっと前のことかもしれません」
「時間が経つのって、本当に早いわよね。楽しい時間はなおのこと、気付いたらいつの間にかもう過ぎ去ってしまっていて。苦い思い出はいつまで経っても、ずっと胸の中で燻り続けているというのに、不思議なものだわ」
「私は……シャルと一緒に過ごせるこういった時間が、少しでも長く続くといいなって、そう思っています」
「私もよ、ステラ。これからは公務の合間を縫ってでも、こういった
私は近く、フィルモワールの勢力圏内の中でも北東の周縁部に位置していて、文化的な発展が遅れている辺境地帯へ視察に訪れることになっている。
其処は本来、とある辺境伯が治めていた領域内であったものの、その一帯で長く続いている天候不順が齎した凶作や、過去に猛威を振るった
「シャルはこれからまたきっとお忙しい身になられることと存じますが……どうかご無理だけはなさらないよう、お願いしますね?」
「ええ、ステラ。次の公務は私にとって初めてのことだらけだから、自分がどれだけ出来るか判らないけれど、無理のない範囲で最善を尽くしてみせるわ」
「では……その景気付けというわけではありませんが、出来ることなら私の手で元気になっていただきたいので、よろしければこのあと、シャルが好きな全身の
「えっ、ここで按摩を?」
「岸辺にある木陰の方ならずっと涼しいですし、そこに
「本当に用意がいいのね、あなたは……けどそこまで準備してもらっているのなら、そのお言葉に甘えさせてもらおうかしら?」
「はい。ぜひ甘えてください。真心を込めて按摩させていただきますから!」
一頻りステラとの水遊びを楽しんだ私は、彼女に導かれるまま、良い具合に木々が生い茂ってすっぽりと陰の帳が出来ているところに移動し、用意してもらった敷物の上に仰向けになって楽にしていると、間もなく用意を終えたステラが、手による摩擦を軽減させるために使う、強い潤滑性と粘性とを兼ね備えた海月油なる水溶液を手に馴染ませ、いよいよ全身の按摩を始めようとしていた。
「ふふ……それでは、失礼しますね」
「ん……」
まず首から鎖骨の辺りにかけて流れたステラの手は、羽毛で撫でられているかのように優しげでありながら、その内部に溜まっている疲れをしっかりと揉み解してくれる確かな圧がある。
次いで身体の中にあるという生命の流れを可能な限り正常化させるために手首の辺りから肘、そして二の腕の辺りから脇の下にかけて、その循環経路に沿って入念に按摩した後、彼女の手が太ももの辺りに移動した。
「ふ……あぁ……」
「気持ち、いいですか?」
「ええ、とっても……このまま眠ってしまいそうなくらいに、ね」
この太ももの辺りから足の付け根にかけての按摩は、私が最も心地よく感じるところで、本当に全身が蕩けてしまいそうになるほどの悦楽に浸ることが出来る。
実際、これまでにここを施術してもらっている時に、そのあまりの気持ちよさから、意識の糸が途切れてしまうこともしばしばあった。
またこのことから私は、ステラが見せる魔法のような一連の手捌きを『神の手』だと形容している。
それから足先に対する按摩を終え、次はうつ伏せになっての足の裏からふくらはぎへ、さらにそこから臀部にかけて、再びめくるめく心地よさが私を支配し、気が付けば私は途中で眠ってしまっていたようだった。
「ん……あら? 私……ひょっとして眠ってしまったのかしら?」
「どうやらそのようですね。ふふ、心身共に気持ち良くなっていただけたようで、何よりですよ」
「本当、ステラの手は神の手だわ……また、そのうちにお願いね」
「シャルがお望みなら、毎晩でもして差し上げますよ?」
「いや……そうなるときっと、私が骨抜きにされてしまいそうだから、残り惜しいところだけれど遠慮しておくわ。けど、週末ぐらいなら、良いわよね?」
「承知いたしました。その際にはまた、気持ちを込めて入念に施術させていただきますからね」
「ありがとう、ステラ。ふふ、週末の楽しみになってしまいそうだわ」
そうこうしているうちに空には次第に雲が多く流れ始め、先ほどまでぎらぎらと照り付けていた陽光も随分と和らいできたようだった。
「ちょうど良い頃合いのようね。ではステラ、これから舟に乗って、午後の釣りを楽しみに行きましょうか」
「そうですね。これくらいの日差しなら湖面からの照り返しも弱いですし、難なく楽しめそうです。あ……ところで、服装はどうされます?」
「うぅんと、別にこのままでも良いんじゃないかしら? それで、寒さを感じるようになったら戻ってくればいいのよ」
「なるほど……この雲の群れは、魚が特に餌を欲しがるという夕刻の時合までにはまた何処かへ去ってしまうようですし、その頃ぐらいまでなら水着姿のままでも問題ないと思います」
「それに、いざとなったらその……お互いにくっついていれば温かいわ」
「そ、その手も確かにありますよね……こほん。では、夕食に食べる分ぐらいの釣果が得られるように祈願しつつ、再び戦場へと舞い戻りましょうか」
その後、私たちは空と湖面とが茜色に染まる頃まで、かけがえのない一時を二人で楽しんでいた。結局、お目当ての魚は私とステラとで、それぞれたった一匹ずつしか釣ることが出来なかったものの、私の心の
***
「うぅん、一日かけて二人で二匹……か。まぁ、お互いに一匹ずつ釣れただけでも良しとしなくちゃね」
「そうですよ。いわゆるボウズといわれる釣果なしの状態でしたら、今頃はこの食卓もさらに慎ましやかなことになっていたかと」
「しかしこの鱒のムニエル……自分たちの手で釣ったせいか、不思議とお屋敷でいただくものよりもずっと美味しく感じられるような気がするわ」
「それは大きいかもしれませんね。しかし、このお料理には一番大切な調味料として……私の愛情が入っているんですよ、シャル?」
「な、なるほど……確かにそれが料理にはとても大事なものだとよく聞くわ。でもステラ、あなたよくそんな小恥ずかしいことを臆面もなく言えるわね……」
「だって本当のことですから。相手のことを想いながら作ったお料理は、何にもまして美味しくなるものなのですよ? さぁ、こちらの鶏肉とこの山で獲れたきのこ――メロール茸を使ったフリカッセも頂いてみてください」
「どれ……はむ」
まず広がるのは、新鮮な玉ねぎの風味。次いでその後を追いかけてくる柔らかな生クリーム仕立てのソースがこの舌を柔らかく包み込み、ふわりとその奥に白ワインと思しき芳醇な香りが伝わってくる。
そして歯に触れた途端に
「如何……ですか?」
「……また随分と腕をあげたようね、ステラ。本当に奥行きがあって、とても味わい深いお料理に仕上がっているわ。愛情というのは、本当に侮りがたい調味料ね」
「……よしっ! ふふ、他にもお屋敷から持ってきた食材で色々と作ってみましたから、心行くまで楽しんでくださいね。あくまで本日の主菜は銀毛宝牛のローストですけれど、きっとそれにも負けていないと思いますから!」
ステラが私のために振る舞ってくれたお料理は、魚料理も肉料理も、さらには甘味に至るまで一品一品が実に丁寧かつ繊細緻密に抜かりなく作られているようで、私は終始蕩け落ちてしまいそうになる頬を押さえながら舌鼓を打ち続け、そのお料理の全てからひしひしと伝わってくる彼女の想いに心を弾ませていた。
そして食事の余韻に浸りつつ、二人で肩を並べながら夕闇に沈んでいく風景を眺めたあと、私たちは一日の汚れと疲れとを洗い流す浴室へと一緒に向かった。
「はぁ……やっぱり、こうしてお風呂に入っている時が一番落ち着くわね、ステラ」
「はい。もうしばらくしたら、またあの暑い夏が本格的にやってきますし、そうなったら最低でも一日二回は入りたくなりますよね」
「ええ、夏は屋外だとよく汗をかいてしまうから正直に言って少し苦手な季節だけれど、またメルたちが旅先から戻ってきたらエセルやレイラも連れて皆で海にも行って、それでメルが考案した新式の花火も一緒に楽しみたいところだわ」
「そういえばメルたちは、どうして北のレーゼ海に?」
「何でも、エセルの……命の原料となる希少素材の一つが、その海岸でたまに見つかることがあるらしくってね。確か
「なるほど……アンブロシアとかいうものでしたっけ? エセルが前に使っていた命の薬って。それの原料になるものなんですね」
「そうみたいなの。アンブロシアというのはもともと、
私の義妹であるエセルは、不完全な存在である自分自身が、いつ止まっても不思議ではないと常々口にしていた。私にとっては血こそ繋がってはいないものの念願の妹であり、今となっては大切な家族の一人。
そしてメルにとっては、命のやり取りをした過去がある反面、彼女によって二度助けられた恩義があるということに加え、エセル自身が彼女の義娘となったエフェスとその出生の関係上、双子に等しい間柄であることから、メルは何としてもエセルにもっと多くの時間を与えてあげたいのだと語っていた。
ようやく人として初めて、普通の学校生活を送れるようになったばかりなのだから、と。
「今は皆それぞれが本当に大変だけれど、少しでも良い未来が訪れるように各々が必死になって毎日を生きている……私も、そんな彼女たちに負けてはいられないわ」
「はい、シャル。これからもこの私がしっかりとお支えして参りますから、諸事は私に任せてシャルはシャルにしか出来ないことを存分におやりになってください」
「ありがとう、ステラ。誰よりも一番、頼りにしているわ……あなたのこと」
「もちろんですよ、シャル。では僭越ながら早速、私が出来ることをいたしますね。というわけで、本日もシャルのお背中は、この私が流させていただきます」
「小さい頃から本当に悪いわね、ステラ。だけど、今ある私の身体は、あなたが綺麗に磨いてくれたからこそ映えているものよ。いつも心から感謝しているわ」
「シャル……そう言っていただけて、本当に身に余る幸せです。さぁ、どうぞこちらへお座りになって、楽にしていてくださいね」
そうして入浴を終えた私たちは、画室から通じている広いバルコニーで、黒を一面に纏った舞台上に妖しく踊る水月を眺めながらしばらく涼んだ後、それぞれが寝間着に着替えて寝室へと入り、同じ寝台の中で身を寄せ合った。
「この辺りは夜が深まるとやはり、昼の暑気が嘘みたいに冷え冷えとしてくるものなのね……ねぇ、ステラ。あなたの手、握っていても良いかしら?」
「はい、どうぞ。私の両手は、シャルのためにあるようなものですから……この今はもちろんのこと、いつでもお好きな時に取ってくださいね」
「ん……よく、覚えておくわ。はぁ……本当に温かい、手……んっ」
「あ……私の手に、口づけを……?」
「こうすればきっと、あなたも身体の奥底から温かくなってくるでしょう?」
「もう……熱くなり過ぎて、かえって眠れなくなってしまいますよ……」
「ふふふ。ステラったら、本当に可愛いんだから。なら……」
「わっ! な、何を……?」
「今夜はあなたが眠るまで、ずっとこうしていてあげる。ほら、私の胸元にくっついていれば、安心出来るでしょう? 昔あなたが怖い夢を見て眠れなくなった夜も、私の鼓動を聞いていると心が穏やかになるんだって、あなた、言っていたもの」
「そ、そんな昔のことをずっと覚えていてくださったのですか……?」
「当然よ。あなたが私の全てを知ってくれているように、私だってあなたのことなら答えられないことなんてきっとないわ。そういうものでしょ、私たちって」
「はい……シャル。本当に、そうです……」
「今夜はお互い、良い夢が見られるといいわね……」
「正直、実はこれも夢なんじゃないかと疑っているくらいですが……きっと、夢の中でも変わらず、シャルが目の前で微笑んでいてくれるといいなって、そう思います」
「私もよ、ステラ。それじゃあまた、続きは夢の中で……ね」
「はい……それでは、おやすみなさい、シャル」
「ええ。おやすみなさい、ステラ……」
それから間もなく訪れた心地の良い感覚に誘われ、私はそのまま意識の水底へと緩やかに落ちていった。誰よりも愛しい人の存在を、この胸の中に感じながら。
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