第二小節 あなたの背中を追いかけて


「はぁ……はぁ……やっと、着きましたね……シャル」

「あら、息が上がっているじゃないのステラ。あなた、ここのところ平和な毎日が続き過ぎて、肉体の鍛錬が少し疎かになっていたのではなくって?」

「いえ、きっとシャルの体力が無尽蔵過ぎるだけかと……まさか山のふもとからこの山荘までずっと走りっぱなしだなんて、夢にも思いませんでしたから」

「しかし、ちょっとばかり早く着き過ぎてしまったのは事実ね。まぁここからはしばらくはゆったりとして、方々に満ちているこの爽やかな空翠くうすいを存分に頂きましょうか」


 シャルの言う空翠とは、こういった樹林の間に満ちている、瑞々しい山の空気のこと。それは彼女が日頃から、多くの書物に目を通しているからこそ自然と出てくる美しい言葉の一つなのだと思う。


 シャルの屋敷に侍女として招かれて間もなかった頃の私は、単なる文字の読み書きにも四苦八苦していたほどで、そんな私の有様を見たシャルは、大層な衝撃を受けていた様子だった。


 しかし彼女は私を見下すことも蔑むこともなく、自身の勉強で忙しい最中にあっても、その合間を縫って私に色々なことを優しく教えてくれた。


 シャルが言うには、蓄えた知識を試験などで良い成績を取るために詰め込むだけではいずれただの使い捨てになるだけで、自身が本当に知ったつもりでいる事柄を、それを全く知らない人にも十分に解るように説明出来てこそ、その知識を初めて自分のものにしたと言えるのだ、と私によく言っていた。


 そして私はそんなシャルに仕える者として相応しく、また公衆の面前で彼女に恥をかかせることが決して無いようにありたいと思い、シャルや彼女の家庭教師からの助力も得ながら、与えられた日々のお役目をしっかりとこなす一方で必死に勉学にも励んだ。


 その甲斐もあり、ゆっくりではあるものの着実に知識の幅を拡げていった私は、いつしかシャルの隣に並んで同じように授業を受ける日を夢に見ながら、さらに努力を積み重ねていった。


 シャルに近づこうとすればするほど、逆に彼女の姿が遠くなっていくような気がして何度も絶望しかけたものの、私はその夢を志なかばで諦めるという選択肢は持っていなかった。


 それからしばらくの後、シャルが行方不明になるというあの事件が発生し、運良く彼女を発見することが出来た私はその働きを非常に高く評価され、さらにシャルのご両親が特別に取り計らってくださったおかげで、長く夢見ていたシャルとの学院生活を現実のものとして手繰り寄せることが叶った。


 当然、入学に際して適性検査を受けることになったものの、最大の前提条件として要求される魔導資質なるものがこの私にもあったことは、本当に幸いだったと言える。


 学院の門を潜った以降も私は彼女の隣にある者として研鑽を常に怠ることなく、またいつか彼女に独りでは捌ききれない本当の脅威が忍び寄った際に、それを退けるだけの力が自身に無ければ彼女を護りきれないと考えた私は、それまでお屋敷でも教わっていた護身術に加え、シャルが振るう剣よりもさらに幅広い刃圏を持つ槍術に、一層の磨きをかけることを心に決めた。


 やがて私の目指すべき目標でもあったシャルは、フィルモワールにおける最高学府である、サント・ペトリエール魔術女学院を全年次に渡って首席のまま卒業し、私はそこで初めて、彼女が私を専属の侍女として側に置き留めるために、年次ごとに首席であり続けるという交換条件をご両親と交わされていたことを知った。


 それ以降、シャルには本当に頭が上がらないと感じると共に、それを最後まで見事にやり通して見せた彼女の姿を目の当たりにして、終生を通してお仕えしたいと心から思うようになった。


 しかしシャルのお父上様が、そんな彼女を取り立てて高く評価することはなく、労いの言葉をかけるどころか、『ボワモルティエの者であればこれくらいは出来て当然のこと。この今に慢心することなく、以後も励み続けなさい』とだけ告げた際には、シャルの心にも相当に堪えるものがあったようで、それまで誰に対してもただひたすらに優しかった彼女の様子は、その頃を境にして明らかに変容していった。


 そうして学院を卒業し、妙齢を迎えたシャルには良家からの縁談の話が次々と舞い込んで来たものの、彼女はその悉くを歯牙にもかけず、それどころか自分が後援者パトロンとなって新たな芸術家や音楽家の卵を自ら発掘して育てる新事業を開拓したいと突然言い出した。


 その後シャルは敢えて芸術の都と謳われるグランフィリエから離れ、既存の枠に囚われていない才能を見つけるいう目的のもと、自身の新たな活動拠点としてオーベルレイユにある別邸へと移り住み、さらに私を執事として其処に迎えた。


 私にはその時のシャルの考えが今一つ呑み込めなかったものの、きっと彼女にしか解らない何か壮大な目的があるのだろうと感じ、私は今の自分に出来る範囲であれば可能な限り彼女の力になりたいと思った。


 するとオーベルレイユで活動を開始したシャルは、かつての学友たちが持っている幅広い交友関係なども利用しつつ、彼女とほぼ同じような年頃の少女ばかりを次から次へと自宅である別邸へと招き入れては、彼女たちのことをより深く知るためだと称して其処に住まわせるようになり、彼女たちを自らの周りに侍らせながら行楽地を周遊したり、果ては公務で訪れる視察先などにまで同行させたりしていた。


 その取り巻きはいつしか、私を除いて十二人を数えるほどにまで膨れ上がって、巷では『十二支の白百合ル・リス・ブラン・ドゥーズ』と、かつて救国の英雄として名を馳せた女性のみの精鋭騎士団の名になぞらえて呼ばれるようになり、さらにシャルが自身に寄せられた数々の縁談を断り続けているのは彼女が同性愛者であるためで、加えて一人の身体だけでは到底満足出来ないからだろうなどと方々から密やかに囁かれるようになった。


 何も知らない連中から、シャルに関してあれこれと言われることは私にとって最大の屈辱であり、極めて不愉快であったものの、私自身もシャルが何を考えて行動しているのかが全く読めないまま、ただ彼女に言われた通りに与えられたお役目を淡々とこなす日々が長く続いた。そしてそんな中、私たちの目の前に突如として現れたのがあのメルたちだった。


 その出会いは不慮の事態に見舞われ、海で溺れかけていたメルたちを、当時海水浴に訪れていたシャルが偶然にも救助するというかたちだったものの、シャルはそれまでに侍らせていた少女たちとは全く異なる輝きを放っていたメルに興味津々といった様子で、どうやら彼女を言葉巧みに誘導し、自らの取り巻きの一人として新たに加えようとしている気配がそれまでの経験から私にも感じ取れた。


 それからメルを、自身が最も得意とする剣術勝負の場に誘い出したシャルは、彼女と賭けを交わした。その内容は自分が負ければメルの願い事を何でも受け入れる代わりに、勝利した暁にはメルがそのままシャルの所有物ものになるというとんでもないもので、程なくその事実を知った私は、既にシャルが自分の知っているシャルとは全く別の人間に変わり果ててしまっていたことにようやく気が付いた。


 シャルは三歳の頃から、フィルモワール一の剣聖であるノルベール・ド・ダルキアンに師事し、その剣術をずっと磨き続けてきただけあり、今や彼女の相手が務まる人物を探す方が困難なほどで、実際これまで出場した剣術大会においては、その全てにおいて優勝するという輝かしい成績を残していた。


 故に件の賭けに乗ったメルが、いかに自身の剣の腕前に自信があろうと、シャルには敵わないだろうと考えていた。


 実際、試合では私の予測通りメルは次第に追い詰められてゆき、ついにはシャルが彼女の持ちうる全ての武器を破壊し、勝負は決したと思ったものの、そこで破壊したはずの剣が一時的ながらも再構成されるという、思わぬ事態に対処しきれなかったシャルは、そのまま彼女から予想だにしていなかっただろう反撃をまともに喰らい、シャルは生まれて初めて剣での真剣勝負に敗北を喫することとなった。


 試合後、意識を取り戻して屋敷に戻ったシャルは、取り巻きだった少女たち全員に対し、一生分の支援金を受け取って自身のもとを去るか、このまま私の近くにいることを望むか好きな方を選ぶようにと突然迫り、その結果、シャルのもとに残った女性は誰一人としていなかったという、実に残酷な現実が待っていた。


 結局、シャルからの寵愛を受けていた彼女たちは皆、終始シャルのお金だけが目的だったことが判明し、彼女たちをその心の奥底から支配していようとしていたシャルは、自分がただの一人の心すらも動かせなかったことを知り、また自身の誇りでもあった剣での勝負に敗れたことも加わってそれまでにないほど酷く憔悴した様子でいて、まるで全てを諦めたような無色零温とも言うべき表情を浮かべていた。


 シャルは一時、この私の言葉でさえ届かなくなっていたほど絶望の底に落ちていたものの、彼女の心身を案じて訪れたメルが自らシャルの友人となりたいと申し出た辺りからシャルは徐々にもとの姿を取り戻していった、


 しばらくの後にメルたちと小さな温泉旅行に出掛けた際には、その滞在先であった隠し湯でシャルが私に温かい労いの言葉をかけてくれて、しかもお父上様に禁じられていた愛称でこの私のことを再び呼んでくれた。


 その瞬間、私はシャルが完全に本来の自分自身を取り戻したのだと感じ、思わず感極まって、熱いものがこの目から止めどなく零れ落ちた。


 そしてその日の夜、私と同じ寝台に入ったシャルは、それまでに自分が私に多大な心労を強いたことと、ずっと傍に居たのにもかかわらずその存在を蔑ろにし、私がシャルに贈った多くの言葉に正しく耳を傾けなかったことを心からお詫びしたいと告げ、これからは主従といった関係に縛られず、お互いを支え合う者として共に歩んでいって欲しいとその気持ちを吐露した。


 私が二つ返事でその申し出を快諾すると、シャルはその両腕でとても強く、また子猫を撫でるようにふんわりと私の身体を包み込んで、私がそれまで長く秘めてきた想いに対し、それに勝るとも劣らないほど強い想いを以て応えてくれた。


 私はその触れあいの中でシャルという存在に初めて真に触れられたように感じ、身と心とが一つに溶け合うような感覚の中、ここまで自分を諦めずに生きてきて本当に良かったと心からそう思った。


「ん……? 何を呆けたような顔をしているの、ステラ」

「い、いえ、何でもありませんよ。さぁ、山荘の中に入って外の景色でも見ながらしばらくくつろぎましょう。えっと鍵は……ん?」

「どうかしたの、ステラ?」

「これは……鍵が、既に開いています……!」

「な……何ですって? すぐに中を確かめるわよ!」


 山荘はシャルのおじい様が逝去されてから長らく放置されていたはずで、尚且つ場所が場所であっただけに賊に入り込まれたとは考え辛かったものの、施錠したはずの戸が開錠されていた以上は何者かの侵入を疑わざるを得なかった。


「何てこと……ステラはここに居て頂戴。私は上を見てくるわ!」

「わ、分かりました! ……それにしても、一体誰がこんなことを……?」


 居間には整然と置かれていたはずの家具が雑然と転がっていて、さらに荘内に備蓄されていた缶詰などの糧食を食べ散らかした形跡などもあり、明らかに誰かがここにしばらく滞在していた様子が見て取れた。


「幸い……上の方は特にこれといった被害はなかったわ。寝室だけは寝具の周りが少し乱れていたけれど、画室には荒らされた形跡は全く見られなかったし、やはり金目のものを盗みに入ったというわけではないようね」

「警備の目がないとはいえ、普通に考えて物盗りがこんなところにまでわざわざ来るとは考えにくいですよね。おじい様が描かれた作品がここにあることなんて、今となっては私たちぐらいしか知らない事実ですし。しかしそうなると、こんな所に侵入する意図がますます分からないというか……」

「けれどさっき私が寝室に入った時に気付いたことがあったわ。寝台の付近に僅かに妖気のようなものが残留していたのを……ね」

「えっ、妖気ですか?」

「ええ。でも純粋な妖魔が持つそれとは何だか様子が違う感じもしたわ。ただこの私が感じ取れたくらいだから、相手は今からほんの一、二時間ほど前までここに居たはずよ」

「どうしましょう……今からでもこの辺りを二人で少し探してみますか?」

「そうね。ただ相手がまだこの荘内に潜んでいる可能性もあるから、もう一度だけ詳しく調べて見ましょう。ステラ、くれぐれも油断だけはしないで頂戴ね」


 せっかくシャルと二人きりの時間を満喫出来ると思った矢先、不可解な事件に突然巻き込まれるというのは何ともついていないと感じた。


 画室に遺されていた絵画などの作品に被害が無かったのは本当に不幸中の幸いだったものの、これからの予定が全て瓦解してしまいそうで、私としては何ともやりきれない気持ちだった。


「うぅん……どうやらもう荘内とこの近辺には居ないみたいね。崖下にある桟橋に誰かが居た形跡があったぐらいだわ。恐らく侵入者は私たちとは別の経路でここに辿り着いた後、しばらく此処に滞在し、私たちが来るよりも少し前に、この山を下りるべく移動したのでしょう。きっとフィルモワールの方へとね」

「ですが私たち、ここに来るまではずっと走りっぱなしでしたが、途中で誰かとすれ違うようなことはありませんでしたよね?」

「確かにね。けど、道中で分かれ道になっていたところがあったでしょう? あれはフィルモワールの北門の方へと繋がっている道だから、もしここにいた誰かがそちらを通っていったとすれば、途中ですれ違わなかったのも納得出来るわ」

「なるほど。ならば日が暮れないうちにそのあとを追ってみましょう。ここにやって来た時のような速力で臨めば、まだ間に合うかも知れません」

「それはいいけれど……ステラ、あなたまた走っても大丈夫なの? さっきも息が上がっていたようだし、あまり無理をしては駄目よ? 何なら私一人で――」

「どうかご懸念なく……先ほどはここまで一気に走るとは思っていなくて、気の引き締めが足りていなかっただけですから。私なら大丈夫です」

「ふふ、頼もしいわね。なら早速行きましょうか。来た道をすぐに戻るようで正直気が引けるけれど、こればかりは仕方がないわ」


 そして私とシャルは元来た道を分かれ道になっていたところまで戻り、其処からさらにフィルモワールの北門方面へと伸びている道をそのまま下ることになった。


 するとしばらくしてシャルが、何らかのを感じ取ったらしく、私に付近の様子を慎重に探ろうと提案してきた。魔素マナで強化した五感を以てすれば、ほんの些細な変化でも敏感に感知して、その発生源を辿ることすらも出来る。


「分かるかしら、ステラ。山気に混じって微かに魚を焼いたような匂いがするのを」

「……確かに。そしてこの匂いは……ん、どうやらあちらの方向から流れてきているようですね」

「こちら側には沢もないし、魚ならおそらくはルヴェア湖から獲ってきたものだわ。だとすればそれを焼いているのはきっと、あの山荘に忍び込んだ輩よ」


 魚の焼けたようなその匂いを辿って私とシャルとが脇道の奥へ入っていくと、やがて草叢くさむらが少し開けたところに誰かが焚き火をおこしているのが見て取れた。私たちは相手に気取られることがないよう、息を殺して距離を詰め、さらに魔導コンダクトの能力を駆使して枝葉を踏む音すらも封じ込めた。


「相手は、目視出来る範囲で三人……いえ、五人居るようだわ、ステラ」

「私も感じる反応の数は全部で五つです。樹上に潜んでいる者は居ないようですから、きっと間違いはないかと」

「見た感じ、相手は人間の姿をしているけれど、微かに漂うこの妙な妖気……恐らくはその外観を妖術の類で偽装しているのだと思うわ。十中八九、あの山荘に忍び込んだ連中で間違いないでしょう。ステラ、私は九時の方向に固まっている三人を無力化するから、あなたは二時の方向に居る二人をお願い」

「承知いたしました」


 間もなく行動を開始したシャルは、ちょうど目標の三人から見て死角となっている位置に陣取り、私も同様に標的となる二人組に対して優位に立てる場所に移動した。目的はあくまで対象の無力化であり、殲滅ではない。相手の抵抗次第ではその限りではないものの、山荘に忍び込んでいた理由を訊き出す必要があった。


 そしてシャルからの合図を確認した私は、右腕に嵌める腕輪として物質変化トランスミュートさせていた愛槍――岩貫きトローシェを元の形に復元すると同時に、それまで身を潜めていた茂みから一気に飛び出した。


「んっ……な、何だ貴様――」

螺旋颯トゥルネヴィス!」

「うぶぉ!」


 相手を誤って殺害しないよう、円舞を踊るようにして魔素で覆った槍の穂先と石突とを交互に打ち付け、致命的ではない部位に強い衝撃を加えることで昏倒させた。


絡まれ蔦葛ダンソォリエール!」


 次いで周囲に遍在していたつる性の植物に魔導を以て働きかけ、相手の動きを著しく制限する拘束具として利用した。


 束縛した対象を戒める力は、並みの木々であれば圧砕出来るほどまでに高めることが出来るため、仮に相手が妖魔の姿に転身したとしても、それらをすぐに振り解くことは困難であるように思える。


凩鳴旋舞ヴァン・ディヴェール! ふ……こちらも一丁上がりだわ。上出来よ、ステラ」

「シャルもお見事でした。しかし、あまりにも手応えが無さ過ぎて拍子抜けしましたね。相手が最初から妖魔の姿に転じていれば、また違ったのでしょうか?」

「ステラ。油断と慢心、そして過信は己の中に潜む最も危険な敵。どんな相手でも最後まで見縊らないことが大切よ。私はそれでメルに敗れたのだから。とにかく、気絶させたうちの誰かを起こして、詳しい話を訊いてみることにしましょう」


 ――きっと、この人間に化けている妖魔たちが山荘に忍び込んだ犯人。私とシャルだけの時間をよくも邪魔してくれたものだわ。もしも取るに足らないような理由で荘内に侵入したというなら、一段ときついお灸を据えてやらないといけないわね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます