花のゆくえ

綾野 れん

第一楽章 茅花流し

第一小節 誉れ高き侯爵令嬢、シャルレーヌ


「ではそろそろ参りましょうか、シャル」

「ええ、ステラ」


 異界の落とし子が引き起こした一連の事変が落着してからもう半年余り。ついこの間まで辺りに華やいでいた淡い桃色の花弁は蒼い風にさらわれて露と散り、またそれと入れ替わるようにして、さやさやと揺れ踊りながら太陽の足跡をまだらに落とす若葉の緑が目にしみる、今日この頃。


 市井しせいでは最初から何も起こっていなかったかのように、行きかう人々の喧騒が平穏な日常の光景をありありと描き出していて、くだんの事変後に各地で僅かに残存していた獣の変異体による被害報告も、ここ最近は全く耳に入ってこなかった。


「しかし、つい半年前までこの世界が危急存亡のときを迎えていただなんて、今となっては誰も信じないでしょうね、ステラ」

「そうですね……メルたちが居なければ、今こうして私がシャルと一緒に視察に出ることも決して叶いませんでしたから。それに……」

「ん、それに?」

「私とシャルとがお互いの立場を気にせず、また幼い頃と同じように話せるようになったのも、彼女たちが居てくれたおかげです」

「ふ……確かに、そうね。あなたの気も知らずに、自分の周りに美しい子たちをただはべらせていた頃の私は、本当にどうかしていたもの」


 シャルレーヌ・ド・ボワモルティエ。

 何者よりも強く美しく、聡明でいて、そして常に人々の上に在ることを貴ぶ、誉れ高き侯爵家の長女として生を受けた私は、幼少のみぎりから博物学を始めとした種々の学問に深く通じ、誰よりも碩学せきがくであることが求められ、さらに音楽や芸術といった分野においても、社交界などにおいて恥をかくことがないよう、幅広い教養と蘊蓄うんちくとを兼ね備えている必要があった。


 また武芸においても一流のさらに上に立つべく、三歳の頃から約十五年に渡って、このフィルモワール一の剣聖であるノルベール・ド・ダルキアンに師事し、王城で開催される剣術大会においては、その冠冕かんべんを長く欲しいままにしていた。


 それに加えて剣の道だけではなく、自身が持つ魔素マナを物質に伝えてその性質や構成を変化させる魔導コンダクトや、その魔素を用いて自身の心象を具現化する魔現マジックといった魔術アルカナの技能においても他者に後れを取るわけにはいかなかったため、私はフィルモワールにおける最高学府であるサント・ペトリエール魔術女学院の門を幼くしてくぐり、日々勉学の研鑽と心身の鍛錬とに励み続けた。


 その成果もあり、自身の思念を実際の形ある物体として顕現させ、さらにその性質を柔軟に変容させる力――物質完現マテリアライズという、魔現と魔導の両方の性質を併せ持つ特殊資質にも目覚めた。


 全ては誇り高きボワモルティエの一族に名を連ねるものとして、その家名を貶めるようなことは決してあってはならないという、お父様のおしえに従ってきた結果だった。


 しかしながら、人に出来ることは何もかも出来て当然というのが、家訓の一つであり、私は生まれてこの方、肉親から自身の功績を褒め称えられたことがただの一度すらも無かった。


 そしてそういった背景もあって、私には自分が努力を怠った瞬間に、その家名を汚すような失態を諸方に晒してしまうのではないかという恐怖が常に影よりも執拗に付きまとい、時にはそれを実際の光景として夢にまで見てしまうこともあり、寝台のシーツを自らの寝汗でぐっしょりと濡らすことも度々あった。


「それにしてもシャル、どうして視察に出る日程を早められたのです? 予定では現地に入るのは二日後だったはずですが……それに今回、馬車をご利用になられなかったのは、一体何ゆえの――」

「実は現地に入る前に、あなたと二人で寄っていきたい場所があったからね。それに、この日に徒歩で其処に行くからこそ意味があるの。今からちょうど七年前の今日、私がそうしたようにね」

「七年前の、今日……? それって、もしかして……」

「ええ。きっとあなたが今、考えている通りよ」

「あの日は、今ちょうどエセルたちが行っている、学院の遠征合宿があった日ですよね……当時の私は残念ながらご一緒することが叶わず、実に悔しい想いをしていましたが、後からシャルが集合場所に来ていないという連絡が学院側から来て、私を含めたお屋敷中の人間全員が仰天していたさまを今でも鮮明に覚えていますよ」

「ふふ、あなたたちには本当に悪いことをしてしまったわよね……けど、あの日は私にとって別の意味でも忘れられない一日になったわ」



 ***



 私は十一の頃に一度、そうした恐怖と重圧とに堪え切れずに愛剣であるエペ・イリゼだけを携えて家を飛び出したことがある。


 その時は自分の足一つでフィルモワールの北東にあるモン・クウェイルの山中へと入り込んだ後、その頂きよりも少し手前に位置するルヴェア湖の畔のうちで、ちょうど小高い崖になっているところの先にある山荘――翠壟荘すいろうそうに、たった一人きりでこもっていた。


 其処はボワモルティエの家が所有する別荘でありながらも最近は利用されたことがなく、半ば打ち捨てられているような場所で、今よりずっと以前、国の外に中々連れ出してもらえない私のことを不憫に思われたおじい様が、侍女であったステラと共にその山荘へと連れてきてくださったことがあった。


 当時の私は見慣れたヴェルメリアの滄海とは趣の異なるこの清雅な風景に感銘を受け、必ずまたいつかその佳景を見に訪れたいと思い、これまでに何度かお父様たちに再訪を直訴したことすらもあったものの、その悉くが軽く一蹴された。


 生前、絵画を深く嗜まれていたおじい様は、このルヴェア湖とモン・クウェイルの山頂とが一度に見渡せる山荘の一室を自らの画室アトリエとし、ここに度々訪れては、その都度作品の創作に勤しんでおられた。


 しかしその没後、この山荘は最初から存在しなかったかのように存在を忘れ去られ、これだけ壮麗で幽遠な眺めを誇るにも関わらず誰の気にも留められなかったという事実に、私は何処か自分に通じるようなものを感じて、家を飛び出した後は自然とそこに足が動いていた。


 それから私は自分が失踪した事実の発見を敢えて遅らせるため、女学院における夏季遠征合宿の当日に集合先へと向かう魔導列車に一度乗ったように見せかけた上で駅から離れ、自分の足でこの山荘へと赴くことを計画していた。


 その後、学院側からの連絡を受けた両親は、私が移動の途中で何者かに連れ攫われたのではないのかと考えたらしく、そこでおそらくは初めて私の身を案じ、大規模な捜索隊までをも編成して、私のことを一刻も早く見つけ出そうとしたようだった。


 なお捜索に犬を使われれば、自室にある私の衣類などを利用して、すぐに来た道を辿られると思っていた私は、その嗅覚を少しでも欺くために、錬金術によって創り出された封臭剤なる特殊な薬品を予め用意していた。


 それは本来動物の屍体などから死臭が拡散しないよう、対象から発する匂いを一定領域内に閉じ込める効果があるとされるもので、それを使えば自分が発する体臭などが何処かに痕跡として残らないようにすることが可能だと思った。


 またさらにそれとは別に、念のため食糧庫から持ち出した塩漬けのにしんの缶詰を自分の部屋の中にありったけばらまき、自身へは当然ながら、自室のドア付近にも例の封臭剤を施しておくことで、誰かがそのドアを開けるまでは内部に充溢した臭気が漏れ出ないようにもしておいた。


 もちろん魔術を駆使すればそんなことをするまでもなく、容易に移動経路を欺くことが出来たものの、一度生じさせた固有魔素の痕跡を消すのは決して簡単ではなかったからこその泥臭い手段だった。


 果たしてそれらの試みがこちらの思惑通りに奏功しているか否かを確かめるすべは無かったものの、私は小細工を施しながら逃奔している自分自身が、何故か楽しいといった感覚を覚えていることに気が付いた。


 私が山荘に一人で辿り着いた頃には、中天に砂子のように散りばめられた無数の星々と見事な弓張月とがそれぞれ煌いていて、辺りにはすっかり夜の帳が下ろされていた。


 程なく施錠されていた扉を魔術で半ば強引に開錠して中へと入った私は、しんと静まり返った荘内でただ独り、外界から差し込める柔らかな月明かりに洗われながら、何物にも束縛されず、ありとあらゆる重圧からも解放された自由の味わいを、耳鳴りが聞こえてくるほどの静寂の中で時も忘れて満喫していた。


 その後、足を踏み入れた画室にはおじい様が生前に描かれていた多くの作品が、月光を受けて在りし日の輝きを仄かに覗かせているように見え、部屋の中頃に落ちた月陰のただ中で佇んでいた影色の画布を少し窓側へと傾けると、明らかに未完成と思しき作品がその姿を現し、私にはその描きかけの絵が、この瞳の中に描き出される時をずっと待っていたかのように思えた。


 誰にも評価されず、また誰からも期待されていない、未完成の絵。

 その姿はさながら、私自身の写し鏡であるようにも感じられた。

 私も、時計の針が何処かで止まったままなのかもしれない。


 全てがいつかの時に取り残された部屋で、私は軟風に揺らめく水面の如きかんばせを見せる手延べ硝子がめ込まれた大きな掃き出し窓をがらりと開け、冷涼な巒気らんきを中へと導くと共に、湖面と山頂とが一望出来るバルコニーへとそのまま移動した。


 眼下に見ゆる湖面には、天頂に座した下弦の月と墨色に染まった山嶺とが逆さまに映し出された倒景が描かれていて、瑞々しい山気を帯びた夜風が、方々でさんざめく草虫たちの斉唱と遠くで密やかに歌うふくろうの声とを伝えながら、その水面みなもを優しく撫でるように滑っていくのが判った。


 そして私は、眼前に広がる壮美さを湛えた光景の中に自らの心身を委ねたくなり、ふとバルコニーに設けられた手すりから大きく身を乗り出して、静かに揺らめく湖面に向けて右腕を伸ばしながら、そこにゆらりゆらりと揺蕩たゆたう水月をこの手に掴み取ろうとした。


「月がとっても綺麗だわ……私も、このまま――」

「……お嬢様! 危ない!」

「ぐっ……! あなた、は……エステール⁉」


 私の身体を掴んだステラ――エステールの手が仮にあとほんの僅かでも遅れていれば、私は崖下に広がる湖の水面、あるいは崖下にある岩場へと垂直に落下して、そのままどうにかなっていたかもしれなかった。


「……お嬢様。お嬢様の今のお気持ち、きっとこのエステールには到底、察するに余りがあるほどのものがあることと存じます……しかし、いかなる理由があれど、ご自分のお命を自ら捨て去るということだけは、どうか……どうかお考え直しになってください……!」

「私、は……自らこの命を絶とうと、していた……?」


 私自身がこの山荘に訪れた最たる理由は、自然と足がその方向に向いただけに他ならなかったはずだった。しかしいざこのバルコニーにある手すりから、眼下に広がる漆黒と濃紺の狭間に踊る水月を眺めた時、身体が其処に吸い込まれるような感覚を覚え、次の瞬間にはもうこの両足が床から離れていたことを思い出した。


「お嬢様がなされたことにどうして、だなんて訊ねることはいたしません。ただ、これだけはどうかそのお心にお留め置きください。このエステール・ルカヴァリエは、あなた様を誰よりも深く敬愛し、そして……お慕い申し上げているということを」

「エステール……あなた……」


 侍女であるエステールとは、私が九つの頃にお母様たちと共に向かった視察先から戻る途中、その帰路で偶然に遭遇したのが最初の出会いだった。


 当時の彼女は、私たちが乗っていた馬車の前にふらふらとした足取りで突然現れ、間もなくその進行経路である道なかにそのまま倒れ込んだとのことで、後から聞いた御者の話によればあわや彼女を轢く一歩手前のところだったという。


 それから外の様子を確かめようとした私が馬車から降りると、ぼろぼろの衣服を身に纏い、その全身が薄汚れている少女の姿がこの目に映し出され、またその身体にはどういうわけか何処かに激しくぶつけたような痣が随所に見受けられた。


 その瞬間、私は自分と同年代と思しき子の、そのあまりの有様を目にして酷く吃驚し、自分でもどうしてそうしようとしたのか不思議だったものの、御側付きの制止も聞かずに自ら彼女に駆け寄って言葉を交わし、彼女のことを知ろうとした。


 聞けば彼女は、悪気ミアズマによる流行り病で母を亡くして以降、昼夜を問わず酒色に耽溺たんできする毎日を送るようになった父からその幼さで身売りも同然の丁稚奉公でっちぼうこうに出され、その先で何かへまをすればすぐさま暴力を振るわれるという、実に惨憺さんたんたる日々を過ごしていたらしかった。


 私は、頼るべき味方が誰一人としておらず、また抗うことの出来ない痛みにただ堪え続けているエステールのことがあまりにも不憫に感じられて、お母様に彼女のことを何とか保護してはもらえないかと強く懇願した。


 するとお母様は、望まぬ児童労働に苦しめられている子に救いの手を差し伸べることも富める者の務めであるとして私の要求を受け入れ、間もなく私たちと共にフィルモワールへと移ることとなったエステールは、彼女のような身寄りのない子どもたちを救済するべく作られた、救児院と呼ばれる施設に入所することとなった。


 その後、エステールの様子が気に掛かり、彼女との面会を求めて同施設を訪れた私は、自らの命を救い、普通に生きるきっかけを与えてくれた私に仕えたいという彼女の意思を汲み取ると共に、両親に自身の侍女として迎え入れることを頼み込んだ。


 そこで、在籍している学院において年次ごとに首席を取るという厳しい条件付きではあったものの、屋敷に彼女を招くことが何とか叶った。


 私にとっては、私が知っている世界の埒外でひたむきに生きてきた彼女の姿が、とても美しいものであるように感じられて、またそんな彼女から多く学ぶことがあるようにも思えたことから、常に自分の近くに置いておきたいという気持ちが強く働いた結果、私としてはかなり大胆ながら、そういう行動に出たのかもしれない。


 そしてエステールはエステールで、自身を迎え入れるために両親にかけあった私に対してより大きな恩義を感じたのか、いかなる時でも私に尽くし、寄り添い、そして常に役立とうとしているさまが見て取れ、私もそんな彼女の存在をより一層愛おしく思うようになり、いつしか彼女のことをステラと愛称で呼ぶようになった。


 やがて何をする時でも私と一緒になったエステールは、私を寵愛してくださっていたおじい様から、翠壟荘に使用人としてではなく私の友人として招待され、私も彼女と共に素敵な時間を共有することが叶った。


 エステールはその時に私が見せていたという、彼女曰く『とっても幸せそうな顔』なるものが特に印象深かったらしく、またその記憶が彼女の中で煌いていたおかげで、姿を眩ませた私がこの山荘に向かったことを、屋敷に居た人間の中で唯一察することが出来たのかもしれなかった。


「誠に畏れながら……私は、お嬢様がボワモルティエという、由緒のある誉れ高い家柄の生まれであるということだけで、あなた様をここまで深くお慕いしているのではありません。私は、その身分や生まれに関わらず、最初から等身大の私だけを見てくれた、そんなあなたの美しい心と瞳とに、心底惹かれたのです」

「エステール……でも、だからこそ、他でもないあなたがここまで迎えに来てくれたのよね。持つ者として生まれながら、いつもの生活が嫌になって突然家を飛び出してしまった、こんな臆病で弱虫な私でさえも……」

「お嬢様は、侯爵家のご息女である以前に、一人の人間なんです。だから弱音を吐いたっていいんです……辛くなったら逃げても構いません……私ごときが身勝手な物言いをと思われるかも知れませんが、私はお嬢様がお嬢様である限り、あなた様に寄り添っていきたい……私は、あなた様だけのエステールでありたいのです」

「……本当にありがとう、エステール……あなたが、私にくれた今の言葉たち、私だけの宝物として何よりも大切にするわ……ずっと、ずっと……ね」


 翌朝、私は自分の家を棄てて、そのままエステールと共にどこかへ旅に出ようかと考えたものの、彼女から強く説得されるかたちでそれも断念し、山を下りて屋敷へと舞い戻った。


 当然私は、事態の全容を把握した両親からそれまでにないほど強いお叱りを頂戴したものの、手を上げられることはなく、それどころか両親はあまりにも厳格過ぎた自分たちの教育を反省したようで、また私を発見して連れ帰ったエステールの働きを称賛し、彼女は私の専属侍女として格上げされることとなった。


 しかし、エステールを一介の使用人に過ぎない者とでしか認識していなかった私のお父様は、それまでお互いを愛称で呼び合っていた私と彼女との心理的な距離があまりにも近過ぎると感じたらしく、ある時に揃って呼びつけられた私たち二人は、愛称で呼び合うことを禁じられた。


 そしてそれ以後はお父様の前でうっかりでも口にしてしまわないよう、その目が行き届いていない場所においても、元来ある主従関係をはっきりとさせるような呼びかけをするように、お互いが心掛けることとなった。


 また加えて私は、そこから約三年ほど両親の許可なく屋敷を出ることを禁じられ、一方、専属侍女となったエステールは、そんな私の行動を監視するお目付け役としての任務を父から与えられた。


 以降は外出先や登下校時でも彼女や別の使用人が常に御側付きとして同行することになり、またエステールは私を警護するという名目で、かねてより修めていた槍術と体術とをさらに磨き上げるべく、私と同じサント・ペトリエール魔術女学院の門を潜り、修練を積み重ねていくことになった。



 ***



「……全く、小恥ずかしい話を思い出させてくれたわ。あのあとはお手洗いにまで御側付きが付いてくるようになったものだから、本当に窮屈ったらありゃしなかなったもの。まぁ、行く先々にあなたが付いてくるのは嬉しかったけれど……」

「はい。当時私はそのおかげでよりシャルの近くに居ることが叶いましたから、正直に言って嬉しかったです。もちろん、当時のシャルが抱いていた気持ちを考えると手放しでは喜べませんでしたが、つまるところ私としては願ったり叶ったりで、色々な役得もありましたからね。私がシャルと同じ学び舎で最高の教育を得ることが出来たのは、その最たるものですよ」

「けど学院はああ見えて完全な実力主義の世界でもあったから、私の後ろに留まり続けられたのはあなた自身の努力の賜物に違いないわ。私の両親は、ただそのきっかけをあなたに与えたに過ぎないもの」

「シャルも……そんな学院でずっと主席を維持されていたことは、御身に仕える者として心から誇りに思っていましたが……それがこの私を侍女として留め置き続けるための条件でもあったことを後から知って、本当に驚きました」

「それはもういいじゃないの。仮にそんな条件が無くても、私は誉れ高きボワモルティエの者として、他者に首席を譲るつもりなんてさらさらなかったのだから」

「ふふ……そうですね。きっと、そうです」

「……ほら、日が暮れるまでに山荘に辿り着いてしまうわよ。あそこは黄昏時に映える湖面が一番美しいのだから!」

「あっ、お待ちくださいシャル。先導はこの私が――」

「駄目よ、ステラ。もし私の前に立ちたいと言うのなら、自力でこの私を追い越してみなさい。いくわよ!」

「ええっ、ここを走るだなんて聞いて……ま、待ってくださいってば!」


 そうして私は鮮緑の衣にすっぽりと身を包んだモン・クウェイルの山頂、その少し手前に広がるルヴェア湖の畔にある山荘を目指して、いつか来た山道を上り始めた。そのいつかの時には居なかった、もう一つの影法師と追いかけっこをしながら。

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