第三章 相思尊愛

 暇を持て余した退屈な春の午後のことだった。

 明日から高校生、必要以上に長く感じた休暇も終わり、人生で最も華々しい(あくまでイメージの)時代へと足を踏み出す。中学の卒業式で涙を拭うことはなかった。地元の公立中学には小学校時代からの友人も多く、距離の近い此方ヶ丘高校へ進む者、偏差値の高い西此方ヶ丘学園へ進む者、駅から電車通学をする者と進路は様々ではあるものの、親しい友人の中に地元を離れる者はいなかった事が大きい。

 此方ヶ丘高校ではクラスと担任が発表される新入生の登校日と、全校生徒の集まる入学式が別日に執り行われる。形式上は全生徒の部活動への在籍が義務付けられており、入学式を迎えれば即日に部活動への入部が認可されている珍しい方針を取っている。そのため部活動の勧誘競争が激しいと中学の頃に先輩から噂で聞いた。各部活の新入生争奪戦に巻き込まれる前に早い内から入部候補を定めておかねば、僕はともかく彼女の人気は底知れない。

 受験の際に参考にした学校パンフレットの部活動紹介のページを捲りながら、物理的な準備も心の準備も完璧に終えた今日の最後の準備に取り掛かっていた時だった。

 机の隅で充電していた携帯電話が音を鳴らして震え、一通のメールが届く。基本的に着信音はデフォルトのままだが、彼女一人だけはトワイライトというファンタジー小説が原作のミュージカルの冒頭に使用されたメロディを着信音に設定している。これは舞台女優である彼女の母の出演した作品で、その伝手で実際に観劇した時は感動で涙が止まらないほどの超大作だった。

 いつ連絡が来ても聞き逃さないように、携帯電話という小さな機械の箱の中においても、僕の世界の中心は彼女なのだ。困った事に、彼女はその華奢な体に見合わない程の芯の強さを持っている癖に、伴わない内面と外面の間で不安定に揺れる精神を、他人を拒絶する事で守ってきた不器用な人だった。


 少し昔の話をしよう。

 幼少期に男の子が性差を教わる時は、大抵大人は子供に向かってこう教授する。

「男の子は女の子を守ってあげなさい」

 男女差別思想の衰退化した現代で、随分と大袈裟な教えだと幼心にも思った。

 僕にとって一番身近な『女の子』が姫ちゃんだったからだ。彼女は僕に守られる程弱くはないし、寧ろ当時は僕の方が余程体格は虚弱で瘦せぎすで、逆に姫ちゃんは身体の成長が他の子よりも遥かに性急で、小学校に上がってからも姫ちゃんと間近で接し過ぎたせいか、女の子という生き物は男の子よりも早く大人になってしまうような気がしていた。姫ちゃんの真似をして、ブラックコーヒーに手を出したり(苦すぎて吐いた)、給食で好きな献立のお代わりを我慢したり(見兼ねた姫ちゃんが自分の分を僕に譲ってくれた)、友人同士の喧嘩に止めに入ったり(巻き込まれて怪我をして姫ちゃんに呆れられた)、小さいけれど沢山の背伸びをしてみた。

 しかし、どうやっても僕が彼女に追い付く未来は見えない。それどころか、どんどん姫ちゃんが賢く、且つ格好良く成長して行く姿を見て、僕は羨望の眼差しを向け続けた。あまり他人を寄せ付けない子供らしからぬ孤高っぷりも、単純思考な僕の憧れに拍車を掛けた。彼女の隣は僕の居場所だと言わんばかりに、それこそ今以上に後ろをついて回っていた気がする。

 姫ちゃんは要領良く不器用で、強いからこそ心から気を許せる誰かに加護されなければならない。その事に、僕は気づいていなかった。彼女の強さに甘えて、僕は自分の役割を忘れていたのかもしれない。

 中学二年の夏、姫ちゃんは誘拐されかけた。

 幸い怪我もなく未遂に終わり、すんでのところで通行人に助けられたらしい彼女は、僕が彼女の両親よりも一足先に駆けつけた時、警察の派出所で青い顔をして震えていた。恐怖と嫌悪で綺麗な顔を歪め、力一杯自分の服の裾を握りしめて耐えていた。婦人警官の言葉には頷くだけで、とても言葉を返す事の出来る状態ではなかった。

 そして僕の存在に気づくと、彼女は何事も無かったかのように普段の格好良い姫ちゃんの表情を取り繕ったのだ。

 そこで僕は初めて、彼女の強さに惑わされていた事を知った。疎かにしていた自分の使命を、僕は彼女を守ってあげなければならないという事を、二度と薄らぐ事のないように固く心に刻みつけた。


 着信音が鳴って数秒と経たぬ内に携帯を手に取ると、そこにはいつも通りの命令口調の短文が表示された。

『今暇ならすぐにうちに来て』

 こんなに急に呼び出されることは珍しい。休暇中も会ってはいたが、彼女の方から遊びに誘われること自体が滅多にない事なので、その文面を見た瞬間おもわず目を丸くしてしまった。

 女王様気質で、僕を顎で使っているように見えるかもしれないが、あれで礼儀正しく気の使える子だ。僕の意思を尊重してくれているからこそ、僕にそういう態度を取ってくれている。

 彼女のメールとは対照的に、僕は上着を羽織りつつ素早い手さばきで文字を打つ。

『うんわかった! すぐに行くけど、何かあったの? 手土産は何がいい? コンビニの新作スイーツにイチゴのミルフィーユが出てたよ!』

 鏡の前で見苦しくない程度に軽く身だしなみを整えて、携帯を片手に外へ駆け出した。



 *



『うんわかった! すぐに行くけど、何かあったの? 手土産は何がいい? コンビニの新作スイーツにイチゴのミルフィーユが出てたよ!』

 初期設定のままの無機質な着信音が耳元で鳴り響く。思わず跳ねた肩を誤魔化すように、今までだらしなく寝そべっていたベッドの上に座り込んだ。

 文面に目を通すと、従順を通り越して献身の過ぎる彼らしい言葉の羅列に自然と溜息が溢れた。

「急に呼びつけたのはこっちだし、手土産とか別にいいんだけど」

 なんて口に出してはみたものの、私に有無を言わさぬセレクトをしてくるあたりが手に負えない。イチゴのミルフィーユ? なにそれ超美味しそうなんだけど。好きな人と好きな食べ物がいっぺんに訪れる幸福に浮かれ初めて口角が緩んできたところで、今の自分の惨状に気がつく。休日だからと手を抜いて、手入れに時間のかかる長い癖毛はボサボサ、服も適当に上下の揃わない部屋着姿だ。

 光臣はすぐに向かうと言ったなら本当にすぐに来るのだ。

 焦って洋服箪笥を漁り、最近買ったばかりの浅葱色のシンプルなチュニックに着替えようと服を脱ぎ始め、下着のホックに手をかけたその時だった。

「姫ちゃん、ごめんね! 待った?」

 いくらなんでも早すぎる! ノックくらいしろ!

 心の中で叫ぶも羞恥で声には出なかった。しばらく絶句して背を向けたままいたが、私は意を決して下着姿のままで振り返った。幸い、今日の下着は最近買ったばかりの学生向けブランドの新作、デザインにも機能性にも優れたお気に入りだ。見られて困る体型はしていない筈だし、水着だと思えば露出度はそう変わらない。自身にそう暗示をかけて、勢いのまま光臣に迫る。

「え? ごっごめんなさい! え、え?」

 あからさまな困惑の声、すぐに扉に手を掛けて退出しようとする光臣の逃げ場を封じる。光臣の身体を挟んで両腕を壁につける。まさか自分が壁ドンをする立場になろうとは、人生何が起こるか想像がつかないものだ。緊張が一周回って逆に冷静に思考できていた。目の前に自分の何倍も混乱して慌てふためいている人間がいることも大きいだろう。

「姫ちゃん服! いくら春とはいえ、まだ寒いから!」

 そう叫んで壁に背を付けて両手を上げる彼の目は固く閉じていて、おそらく私が振り向いた瞬間から律儀に視界を閉ざしたことが想像に容易かった。未だに「え?」だの「何?」だのと情けない声を上げている光臣に、この状況で真っ先に私の体調面を気にした紳士加減に少しときめいてしまった自分が恥ずかしくなると同時に理不尽な苛立ちすら湧いてくる。

 光臣を呼びつけた理由、それは勿論、長年募らせた想いの吐露、とどのつまりは告白の為だ。中学校生活も終わり、毎日会えていた筈の光臣にあまり会えずにいた淋しさともどかしさがついに爆発し、思い切って連絡を取るという暴挙に出てしまったのだ。

 高校生になれば環境が変わる。気持ちも変わる。もしかしたら、この曖昧な関係も変わるかもしれない。その変化が、私に取って良いものなのか悪いものなのかはまだ知り得ないが、後者であってはならない。遅くなって後悔するよりかは、行動に出るべきだと思う。しかし、いざ行動してみると、自身の計画性のなさに辟易する。私は言葉を素直に伝える事が一番苦手なのだ。そう簡単に言えるものなら苦労はしていない。

 結論、とにかく攻める。言葉にできないのならば行動で示す。決して悪くはないはずの頭が導き出した答えが正しいのかおかしいのか。好きな人を自室に呼びつけ下着姿で壁ドン、字面だけ見ると完全に痴女だ。落ち着け、狡猾であれ烏丸姫、使えるものは全て使って口説き落とせ。

「大丈夫? 何かあったの?」

 答えの出ないまま考え込み、暫く言葉を探して思考を彷徨っていたせいか、先に通常の調子を取り戻した光臣が本気で心配そうにそう言った。

 あくまでも私を気遣う優しげな言葉、ここまでの事をしても、光臣は尚私への態度を変えない。

 その事実が、私の自尊心を酷く傷つけた。

「お前も脱いで」

「へ?」

「何、私がこんな格好なのにお前はそのままなわけ?」

「滅相も無いです」

「なら、早く脱いで」

「ん? え? 何、本当にどうしたの」

 私の命令口調に弱い謎の特性を利用して強引に服を脱がせ、上半身裸になった彼を無理矢理ベッドの上に放る。痩身で筋肉は薄いが決して弱々しくはない彼は、混乱しながらも長い腕をついて体重を支え、倒れることはしなかったが無抵抗で狙った場所に座り込んだ。

 この作戦のスタンスは変わらない。言葉で示せないのなら、せめて行動で、あくまで私らしく。こうなればとことんやり通す。

 目を閉じたまま場所を変えたので距離感を掴めずにいる光臣に近付く。ベッドに足を掛けると音を立てて軋み、光臣の肩が面白いぐらいに跳ねる。恐々と私の名を呼ぶ彼の脚の上に跨がり、心臓の音を悟らせないように密かに呼吸を落ち着けてそっと首に手を回す。

 さあ、どんな反応を見せるか。赤面して慌てるなら上々、いい加減目を開けさせないと私の矜持が傷つくし、私には彼に拒絶されることはないという根拠のない自信があった。

「よしよし」

そんな言葉と共に背中に回された骨張った体温の高い手に、へ?と思わず口にしなかった私を賞賛したい。

 光臣はあろうことか、私の頭を抱えて優しく撫で始めたのだ。それも、年頃の女の子にするような手つきではなく、親が子をあやすような、愛犬を愛でるような、一切の下心も動揺も見受けられない仕草で、私の肩甲骨の下あたりを支えながら後頭部をさすり始めたのだ。

「何、バカにしてるの?」

 半ば怒りで震えだしそうな気分になりながらそう言うと、光臣は本気で不思議そうな顔をして聞き返してくる。相変わらず目はしっかりと閉ざされたままだった。

「え? 人肌恋しいんじゃないの?」

「私は兎か」

「人間だって寂しい時はあるでしょう?」

 それはこれまで聞いた光臣のどの言葉よりも慈愛に満ちた響きで、ゆっくりと私の耳に入り込んできた。それを聞いて、急に自分の行動が死ぬ程恥ずかしく思えて来て、言葉の端が尻込みする。

「別に、寂しいわけじゃ……」

 悪い事をした訳でもないのに、罪悪感で涙が出そうになる。それすらもお見通しといった様子で優しく私の髪を撫で付ける手付きにとても安心した。心が落ち着いて潤んだ目元も乾き始めた。今ならなんでも言えてしまいそうで、これを逃せばもう二度と素直になれないのではないかと思った。

「光臣、私は」

「僕は姫ちゃんの王子様じゃないよ」

 私の告白を遮った言葉に、信じられない思いで顔を上げる。

 申し訳なさそうに眉を下げる彼は優しく私の髪を掬い、私を抱きしめて素肌を撫でる。その手からは確かな温もりを感じるのに、そこに厭らしさは微塵も感じられない。まるで愚図る幼子をあやしているかのように純粋に優しく、母性に似たものすら感じる。

 ねえ光臣、お前はいつからそんなに悟った顔で笑うようになったの。

 私の王子様なんて、光臣以外あり得ないのに、どうしてお前にはそれが分からないの。

 私の文句は伝わらないまま、彼は普段の穏やかな調子で空を仰いだ。

「高校生になるんだもん。僕もちょっぴり不安だなあ」

 わざと話を逸らされた事で、私はやっと気づいた。仮にも思春期真っ只中の男女が裸で抱き合っているというのに不健全な気配は微塵もない。その事実こそが、彼の答えなのだ。

「友達、いっぱいできるといいね」

 はにかんだ笑顔を浮かべた彼は、結局最後まで目を閉じたままだった。それを無理矢理こじ開ける勇気はもうなかった。


 親戚一同にちやほやと甘やかされて育ち、街を歩けばモデルにスカウトされ、卒業式当日には何人もの男子に告白され、誘拐されかけた事もあるくらいには見て呉れは悪くない自覚がある。

 変に客観的な自信があった事が災いし、この時の私は完全に冷静さを失っていた。この事件は後に、烏丸姫の人生最大の黒歴史となる。




 *****


 先ほどまで天頂から燦々と降り注いでいた太陽が、現在は灰色の雲に覆われてその灼熱を節制している。広々とした屋上の黄緑色の床は長い間清掃業者が入っていない為か小汚く泥まみれの足跡が残り、所々亀裂の入ったコンクリートと剥き出しの貯水パイプは雨風に晒されて劣化が目立つ。どこからか入り込んだ小石を蹴り飛ばすと、低いフェンスの隙間から転がり出て落下して行った。

 昼食時の揉め事が原因で解散した筈のミス研だったが、不完全燃焼な気分を持て余して、全員が校内に残っているという現状だ。気温の高い今日、自ら進んで日光に当たりに来る物好きは僕くらいのものだらう。

 紫外線を嫌う姫ちゃんは、日焼け止めを塗り直しに化粧室に行くと言ったきり戻って来ていない。送信したメッセージに返事がなくなって三十分になる。

 錆び付いた金属が摩擦で軋む音がして、条件反射で笑顔を向けたが、そこにいた人物は彼女ではなかった。

「姫ちゃんが戻って来ないのですが、部長は何か知っていますか?」

「辰巳、俺は烏丸を疑っている」

 部員を収集しに来ただけかと思いきや、何の脈絡も予兆もなく告げられた断定的な言葉に目を剥いた。僕が驚いて言葉を失っている間にも、牛月部長は有り得ない推理を述べ続ける。

「お前と烏丸の共犯ではなく、あくまで烏丸単独の犯行だと思う」

「姫ちゃんはあの日、僕とずっと一緒にいました」

「さっき、水泳部の生徒から、一人で歩いているお前を見たという証言を得た」

 水泳部の活動場所であるプールの方向からは、本校舎と部室のある校舎を繋ぐ通路を見渡す事ができる。終業式の日、昼過ぎから練習を始めていた水泳部の生徒を僕自身も目撃している。まさか部長にそれを突き止められるとは、自分の力不足を痛感させられる。

 ああ、下僕失格だ。姫ちゃんは怒るかな。

 牛月の他に誰もいない事を確認し、脱力して息を吐いた。

「あはは、流石に隠し通せませんでしたか」

「お前に、烏丸を説得して欲しい」

 諦観した態度で笑う辰巳に、牛月はこれまで以上に真剣な表情で一歩近付いた。烏丸が絡むと別人のように豹変する辰巳の性格を知らないわけではないだろうに、その無謀とも言える牛月の行動に、辰巳は腹の底から湧き上がるものを隠せずに笑い出した。

「部長、やっぱり貴方は探偵には向いていませんね」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、あの日部室で猪木先輩を殺そうとしたのは、僕なんですから」

 もしも僕が彼女を裏切る日が来たら、それは彼女が僕に裏切れと言った時だけだ。けれど僕にも意思はある。

 姫ちゃんを守る為なら、僕は喜んで他を切り捨てる。それが僕自身の意思だ。




 *****


 六月下旬、梅雨前線もそろそろ過ぎ去って、洗濯物も片付けやすくなるかという時期のことだ。天気予報は大外れ、暗雲の立ち込める雷雨が此方ヶ丘を襲っていた。

 私も光臣も油断して傘を持ってこなかったのだが、丁度彼の父が早上がりの日だった事が幸いして、車で家まで送ってもらえる事になった。早上がりとは言っても、約束の時間は五時、部室で大人しく待つ事にした。

 担任は速やかな帰宅を呼びかけ、いつもより簡易的なホームルームはすぐに終わったが、光臣のクラスは少し長引きそうだった為、待たずに先に部室へ向かった。途中に屋根のない道を通ることをうっかり忘れていて路頭に迷いかけたが、偶然通りかかったクラスのチャラ男(名前は忘れたが確かなんたらプリンス)が置き傘を一本貸してくれて助かった。意外と気さくないい奴で、初対面の時は見た目で判断して申し訳なかったと今は反省している。

「早いね、烏丸」

 部室の鍵はやはり開いていて、入部当初から彼女の定位置となっているソファーに優雅に腰掛けて、雷など聞こえていないかのように読書を嗜む副部長が居た。

「それは猪木先輩もでしょう」

 先程、ミス研のグループトークにて猪木先輩から部室は開けたという連絡があった。暴風注意報発令の為部活禁止になった事を忘れた鼠家先生に鍵を預かり、猪木先輩も傘を持ってきていなかったらしく、都合良く部室で雨風を凌いでいるらしい。

「辰巳と一緒じゃないなんて珍しい」

「別に、四六時中一緒にいるってわけじゃないんですけど」

 なんとなく離れた場所に座るのも失礼な気がして、彼女の正面のソファーに座る。普段は部長が座る席だが、あの人はどうせ連絡も見ずに走って帰るだろう。

 居心地の悪い無言の時間が流れる。唐突に、猪木先輩が口を開いた。

「あのさ。烏丸は辰巳の事をどう思っているのかな」

「どうって、幼馴染ですよ」

「烏丸はそうかもしれないけど、辰巳はそうじゃないかもしれないよ」

「は?」

 何を言い出すんだ。変化しないその声色や表情から真意を伺うことは困難で、とても考えが読めない。

「烏丸は頭が良いから、辰巳の気持ちに気がつかない訳がないよね。その気がないのに辰巳を振り回すのは違うと思う」

 どうやらこの人の中では、辰巳が私を好きで、その気持ちを利用した私が彼をこき使っているような構図になっているようだ。とんでもない勘違いだ。確かに、側から見ればそう見える方が自然かもしれない。

 しかし、私たちの歪な関係性を彼女に説教される謂れもない。

「突然なんですか? そんな事を貴方に説教される筋合いはないです。その気がないとか勝手に決め付けないで下さい」

「ごめん。烏丸達を見てると、なんだか辰巳が可哀想で」

「はあ?」

「気を悪くさせたなら謝るよ。でも、もし烏丸が辰巳の事を少しでも大切に想っているなら、もっと素直になった方がいい」

 謝罪の言葉を口にするその表情にも彼女の意思は見えず、まるで喋る人形と話しているようだと思った。

「ご忠告どうも」

「ごめん。でも一方的な想い程、惨めな恋はないから」

 あちらの気持ちは分からないままでも、こちらの怒りはちゃんと伝わっているようで、妙な気分の悪さを感じた。気分を害されたのは私の方だというのに、なんだか不公平だとも思う。惨め、私が言われたわけじゃない。けれど、その単語は私にこそ当てはまる。

「すみません。今日はもう帰ります」

 床に置いていた鞄を乱暴に引っ張り上げ、わざと音を立ててドアを閉めた。短気な自分が嫌になる。彼女が言ったのは全て客観的事実だ。それでも、デリカシーがないにも程がある。何も知らない人間が、たかが三ヶ月そこらの付き合いで私たちの何を知った気になっているのだ。

 私は苛立つ気持ちを抑えながら、何のあてもなく廊下を早足で歩いた。

「あ、姫ちゃん! 遅くなってごめんね!」

 光臣は外を走って来たのか、少し濡れて潰れた髪の先から水滴を垂らしながら、階段をバタバタと上がってきた。

 今から五時まで時間を潰さねばならないというのに、考えなしに部室を出てしまった事を少し後悔する。話の内容や経緯を彼に伝える事などできないし、湿気で肌に張り付く服や少し濡れてしまった冷たい鞄が気持ち悪く、朝必死で整えた髪もボサボサ、おまけに二日目、私の苛立ちは頂点に達していた。

「何かあった?」

 無言のまま俯く私の顔を覗き込んで、光臣は慎重に聞いてきた。こんな時にも私の内面を見透かされている気がして、光臣のことまで苛立ちの要因に加えてしまいそうになる。

「ムカつく」

 忌々しそうに口に出した言葉を、光臣は不思議そうな顔をしながらも受け入れる。

「どうしたの?」

「光臣、猪木先輩に何か言った?」

「副部長に? いや、特には思い当たらないけど、猪木先輩に何か言われたの?」

 自分から振った話とはいえ、光臣の口からあの人の名前が親しげに出た瞬間、私の中で何かが崩れた。


「死ねば良いのに」


それは確かな悪意を持って放った言葉。

「姫ちゃん、そんな言い方」

 私の発言を気にしただけの彼の言葉が、猪木先輩を庇って聞こえて、私は半ば八つ当たりのように光臣に向かって感情的に叫ぶ。

「だってムカつくんだもん。いつも幸せそうで、全部上手く行ってて、汚い事は何も知りませんって顔した偽善者で、そのくせ顔がいいってだけで周囲にチヤホヤされて、私を見下してる」

 抑えていたものを一度口にしてしまうと、その先に仕舞い込んだ筈のドロドロとした嫌な感情は簡単について出てきてしまった。

「ねえ、光臣」

 珍しく本気で戸惑った様子の彼の表情に、少しだけ心の靄が晴れた気がした。

「お前が私の下僕だって言うのなら、私の代わりにあの人を殺してよ」

 どうせ素直になれないなら、私にはもう、こうするしか方法が残っていない。

 私が堕ちるところまで堕ちたなら、お前はどうするのかな。光臣。

 遠くで雷が落ちる音がした。校舎の壁に叩きつけられるような強い雨が、私の心情をそのまま表しているようで、少し可笑しかった。




 *****


 屋上で、辰巳は六月の豪雨の日の出来事を包み隠さずに話した。辰巳は烏丸と猪木の間で起きた出来事の詳細は知らない。だが、彼女が烏丸に本気であの怨念じみた嫌悪を抱かせる何かをした、又は言った事は確かだ。

「そう言われたから、お前は烏丸の言う通りに猪木を殺そうとしたのか」

 牛月は自分の足元を見つめて声を震わせる。それを嘲笑うように、辰巳は人を食ったような話し方で喋り続ける。

「僕は姫ちゃんの下僕なんです。姫ちゃんが黒といえば黒、白といえば白なんですよ。まあ、結局失敗して姫ちゃんはゴキゲン斜めだし、思っていたより部長たちが有能で全部バレちゃいましたけど」

「そうか」

 彼の哀しみも怒りも、全てを受け入れるつもりで話をした。一発くらい殴られても文句は言わない。これで、姫ちゃんが助かるのなら、僕はいくらでも犠牲になってやる。

「やっぱりお前は犯人じゃないよ」

 そう言った牛月の表情には、悲しみも怒りも、僕を糾弾する何かは全く浮かんでいなかった。それどころか、あの不敵な笑顔で、得意げに腰に手を当ててたっている。

 衝撃で思わず貼り付けた笑顔を崩したが、済んでのところで辰巳は口元を歪める。

「は? いや、僕だって言ってるじゃないですか」

「いいや、違う」

 確信を持って首を振る彼に、何が起こっているのか分からないまま、信じられない思いで反論する。

「言っておきますけど、そもそも姫ちゃんに猪木先輩を吊るすような力はありませんよ。部室の鍵だって、あんなに目立つ姫ちゃんが先生に見つからずにこっそり返すなんてことできないでしょう!」

 まだ彼女を疑っているのか、想定通りの質問を繰り出す牛月部長に、予め用意していた答えを返す。

「鍵の件は、お前にも言えることなんじゃないか?」

「演劇部から拝借したウィッグを使いました」

「カードは?」

「何で僕が自分の犯行の答え合わせなんてしないといけないんですか!」

 これで良い筈なのに、段々と逃げ道を潰されているような違和感を覚え、優位にあった自分の立場が目の前の彼に脅かされていく恐怖を想像して震える。想像はあくまで想像でしかない。頭を振って興奮を鎮めて初めて、ある可能性に思い至った。

「お前はそれで、烏丸を庇っているつもりなのか?」

 威圧感のある瞳が僕を射抜く。自分が糾弾される方がまだマシだったと思える程の重たいプレッシャーが襲う。

 もう間違いなかった。彼は見つけてしまったのだ。という証拠を、今日の捜査の中で掴んでしまったのだ。僕が先に見つけて処分すべきだった。

「違います。僕は本当に」

 胸を噛むような悔しさを感じるが、僕にできる事はもう何もないのかもしれない。それでもせめて、最後に悪足掻きをと、踵を下げて真後ろにある手摺の位置を確認する。

 ごめん。いつも肝心なところで役に立たなくて、何もできない弱い僕を、どうか許して欲しい。

「僕が、猪木先輩を」

『違う! 光臣は犯人じゃない!』

「え?」

 たった今念を送っていた相手の、悲鳴のような叫び声が聞こえた。それも、牛月部長の立つ方向、彼のズボンのポケットからだ。

「うお、ちょ、何やってんだよ」

 慌ててポケットから、スピーカー状態だった彼の携帯電話が取り出される。次いで、兎林先輩の焦った声が電話の奥から聞こえて来る。

『すみません。電話奪われました!』

『光臣、答えなくていい! 余計なこと言わないで!』

『烏丸落ち着いて!』

 今度は犬山先輩の慌てた声が聞こえる。

「姫ちゃん? 先輩達も、電話?」

「悪い辰巳、烏丸は犯人じゃないんだ」

「は?」

 本気で申し訳なさそうに手を合わせて謝る牛月部長に、状況の全く掴めていない辰巳はただただ混乱する。

「悪い。烏丸を疑っているって話は嘘だ。ついさっき、烏丸にもお前に言った事と逆の話をした」

「逆の話?」

「ただし、烏丸のアリバイが崩れたのは本当の話だ。ここからは、一切の誤魔化しも嘘もなしだから、ちゃんと聞いて欲しい。烏丸は終業式の後、お前と昼食を済ませ、虎牙先生のいる英語科準備室へ英語の質問に行ったんだ」

 手の間に挟まれたままのスマホから、兎林先輩の優しい声が聞こえる。

『虎牙先生とさっき会えたんだ』

 牛月から送られた録音を聞いた兎林と犬山の元に、鼠家からの連絡を受けて虎牙京子とらが きょうこ先生が現れた。彼女の話によると、烏丸が英語科準備室にいる姿は、他の生徒も目撃しているらしく、彼女のアリバイは証明された。それと同時に、辰巳とずっと一緒だったという嘘が確実なものとなった。

「それなら、尚更僕を疑うのが道理では?」

『部長は二人の会話を聞いた時、二人ともお互いの事を犯人だと勘違いして、庇い合っている事に気付いたんだよ。だから、必死で探したんだ。お前が犯人じゃ無いって証拠を』

 部長の指示の元、水泳部員全員と連絡がつくだけの生徒の全てに聞き込みをして、辰巳の目撃証言を探した。しかし見つかったのは、辰巳が外を歩いている姿を見た、という曖昧な証言だけだった。これでは、二人が一緒に居なかった事実が更に鮮明になっただけだ。

 この状態で辰巳に自分の無実を証明させる事はできない。

「だから俺は、お前をわざと追い詰めて自白をさせた。予想通り、お前は明らかに烏丸を庇う発言を連発した」

 本当に辰巳が犯人ならば、自分が犯人では無いと訴える為の何らかの言い訳を用意する筈だ。しかし、彼の言葉は明らかに自分の犯行を証明しようとするものばかりであった。

「じゃあ、姫ちゃんは、本当に犯人じゃないんですか?」

「烏丸に、辰巳を疑っていると嘘を吐いた。さっきのお前とほとんど同じ事を言い出したぞ」

「姫ちゃんが、僕を庇っていた?」

「安心しろ。お前らはどっちも犯人なんかじゃないんだ」

 わなわなと唇を震わせた辰巳は、脱力して屋上の床に突っ伏した。小さく嗚咽をあげ、良かった、良かったと喘ぐように呟いて泣いた。零れた涙が床の黄緑を濃く染めて、烏丸たちが屋上の扉を開けた時には、牛月が辰巳を起こして背中をさすってやっていた。その様子を見て、兎林と犬山は笑いながら二人に駆け寄った。

「どうして、そんな風に笑っていられるんですか」

 扉の前に立ち尽くしたまま遠くからそれを眺めていた烏丸の目の端も赤く、涙の跡が浮かんでいた。

「姫ちゃん」

 同じように三白眼を充血させた辰巳が歩み寄ると、それを遮って強い口調で言う。

「私は、猪木先輩が嫌いでした」

 それまで安心しきっていた一同から、一瞬にして笑顔が消える。

 誰も彼女を責めていないのに、言った本人の表情だけが苦しそうに歪み、自身の言葉の棘を自身で飲み込んでしまったかのような悲痛な声を上げて、また涙を流して座り込んだ。

 辰巳はそんな烏丸の前に膝をつき、いつもの柔和な笑顔を浮かべた。

「あの後、僕も猪木先輩と会ったんだよ」

 そう言って、あの梅雨の終わりの日の出来事の続きを語り始めた。




 *****


 その日は朝から、なんとなく彼女の機嫌の優れない日だった。梅雨の湿気や天気予報の間違い、彼女でなくともあまり良い日とは思えないだろう。長い付き合いともなれば、一月の内に決まって体調の悪い週があることもお見通しだ。追い詰められると突飛な行動に出る癖は身に覚えがあったが、怒鳴り散らす程のヒステリーを起こしたのはこれが初めてだった。

「お前が私の下僕だって言うのなら、私の代わりにあの人を殺してよ」

 品行方正な彼女の口から不謹慎な言葉が出た事に驚かされはしたが、この程度で信仰が薄れるようなら下僕失格というものだ。人道的で優しい彼女の口から直接下僕という単語が出たのは、後にも先にもこれが初めてかもしれない。

「分かった。姫ちゃんがそう言うのなら」

 そう答えると、彼女は驚いた顔をしていた。

 何を驚くことがあるんだろう。僕は君が本気でそう思えば、本当にそれをしてしまえる程度には君を大切にしているのに。まあ、優しい彼女が本気で人を殺したいなどと思うわけがないけれど。

 胸ポケットの中で携帯電話が震える。

「父さん、待たせるのも悪いからって早めに来てくれたみたい。ちょっと部室にノート取りに行ってくるね」

 彼女を先に一人で玄関まで行かせて、ありもしないノートを取りに部室に向かった。

「猪木先輩、姫ちゃんと何を話していたんですか?」

 挨拶もそこそこに、僕は彼女に面と向かって聞いた。

「内緒だよ。ガールズトーク」

「猪木先輩の口からそんな言葉が出るとは思いませんでした。姫ちゃんの方はそんな様子じゃありませんでしたけど」

「やっぱり、不快にさせてしまったかな。女子の部員同士、仲良くなろうと思って話を切り出したのだけど」

 無表情で目を瞬かせる猪木先輩の様子からして、悪気は全くないようだ。純粋に交流を深めようとして地雷を踏んだらしい。前々から相性が良くないとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。

「本当に、なんの話をしたんです?」

「内緒」

「ええ……」

 頑なに話の内容を隠す猪木先輩から、後学のためにもなんとか姫ちゃんの地雷は聞き出しておきたいと思った。

 読み耽っていた文庫本をぱたと閉じると、猪木先輩は真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。

「辰巳は烏丸の事が好きなんだよね?」

 厳かな動作からは想像もつかない話題のチョイスに、僕は拍子抜けして間抜けな声をこぼした。

「え? それが恋愛感情的な意味であれば違いますよ」

「そうなの」

「そうですよ。僕は確かに姫ちゃんを愛していますし、何より大切な存在ですが、それは親愛というか、一種の依存のようなもので、彼女と付き合う気なんてさらさらないです」

「好きではないの?」

 あ、これ分かってないやつだ。この人、無愛想で言葉足らずなだけで実はただの天然なのではないだろうか。

「好きですよ。ええと、例えば信仰している宗教で神様を尊んでいた場合、その神様と付き合いたいと思いませんよね? そんな感じです」

「烏丸は神様じゃない」

「物の例えですよ。そうですね、貴方の最初の印象通り、女王様と下僕だと思って頂くのが手っ取り早いかも知れません」

 僕は何を必死になって説明しているのだろう。姫ちゃんと父を待たせているのも忘れて、例え話の通じない彼女の説得に時間をかけた。

「そんな事ない。しばらく一緒に過ごして分かったから」

「何がですか?」

「烏丸も辰巳も、お互いを大事にし過ぎてるんだ。相手を少しも軽んじていないから、長い時間をかけて作り上げた関係を保つしかない」

 なるほど、この調子で会話をしていったら、対人関係でのストレスに耐性のない姫ちゃんは一溜りもない。それでいて、妙に確信めいた真っ直ぐな助言に、自分の屈折を思い知らされる。

「随分と勝手な事を言いますね。貴方が僕達にそこまで干渉する理由はないでしょう」

「ごめん。また不快にさせたなら謝る。でも、辰巳はもっと正直になった方がいい」

「肝に命じておきます」

 いつか姫ちゃんにも分かる時が来るだろう。この人や部長のような人の方が、僕より余程正しく誠実な人間だということに気づいてしまえば、彼女は僕を見捨てるだろうか。そんな日が来ることを願う自分と、来ないで欲しいと思う傲慢な自分がせめぎ合う。

 結局、僕は姫ちゃんが好き過ぎるのだ。手を出さない雲の上の人だと境界線を引いて、彼女を守った気になって、いつか離れる日を恐れながら隣に立っている。僕はなんて愚かしい人間なのだろう。猪木先輩は、それを見抜いていた正しい人間なのだ。




 *****


 隠していた自分の気持ちと、猪木先輩の正しさを語り切る頃には、姫ちゃんの大粒の涙は止まっていた。真珠のように輝くそれが溢れて、零れ落ちるたびに勿体なさを感じた。

「猪木はきっと、お前らと仲良くなりたかったんだ。そこに一切の悪意はない」

 牛月部長の言葉に、姫ちゃんは自嘲気味に俯いて笑った。涙で濡れて張り付いた金色の髪が、キラキラと光っている。

「知ってますよ。猪木先輩がそんな打算的な人じゃないことくらい。それなりに一緒に過ごしてきた仲ですから、分かっていました」

 あれは一時の気の迷いだったのだ。僕はそれを分かっていたのに、猪木先輩の吊るされた姿を見た瞬間、恐怖に震えた脳内で、彼女が殺してしまったと思い込んだ。

 彼女がする前に、僕がしなければならなかった。姫ちゃんはいつか猪木先輩と仲良くなれる日が来るなんて言い訳をして、本当は実行することが怖かっただけなのではないか。そんな風に疑心して、僕は彼女の身代わりに犯人を演じようとした。まさか、彼女が同じことを考えていたなんて、微塵も思いはしなかった。

「それでも、嫌いだった。私と似た境遇に置かれた癖に、私には無いものを全部持っているあの人が、妬ましくて憎らしくて仕方がなかった。そう思った直後だったから、あの人のあんな姿を見た時、余計にショックで」

「烏丸」

 一時は彼女と直接言い合いになった犬山先輩が、どうすればいいか分からないといった不安げな顔で名前を呼んだ。

「死ねば良いのに、なんて簡単に口にして良い言葉じゃなかった」

 ごめんなさいと、何度も繰り返しながら止まった筈の涙を流す彼女の後悔が、痛いほどに伝わって来る。謝るべきなのは、僕の方だ。

「僕は君を疑ったんだ。君が誰より純粋で、綺麗で、優しい人だと知っていたのに、僕は君に嘘を吐かせた」

 辰巳は目を擦る烏丸の手を握る。烏丸は首を振って、その手を握り返した。

「私がお前を試すような真似をした。絶対にできないような命令をすれば、お前は私に幻滅して、離れていくんじゃないかと思った」

 それは、僕の知らない彼女の想いだった。

「姫ちゃんは、僕に離れて欲しかったの?」

 烏丸は反対の手で目を乱暴に擦る。辰巳はまたその手をそっと捕まえた。

「今度は私が、追う側になりたかった。追うきっかけが欲しかった。くだらないプライドなんて捨てて、ちゃんと、お前に必死になりたかった」

 素直になった方がいい。

 正直になった方がいい。

「ごめん、姫ちゃん。僕も怖かった。君の隣に立つことの意味が変わってしまうのが、怖くて仕方がなくて、ずっと逃げてた」

 猪木先輩に言われた言葉が、頭の中でフラッシュバックする。彼女の想いを勘違いだなどと否定する権利は、僕にはない。

 彼女は女王様でもなければ、お姫様でもない。神でもないし、雲の上の人でもない。

 今、僕の目の前にいるのは、世界一大切な幼馴染の女の子だ。

「僕は姫ちゃんが好きだ。誰よりも愛してる。この先君に相応しい王子様が現れたとしても、そいつに君を譲ってやることなんてできない」

 叫ぶように一息で言い切ると、途端に緊張で強張った指先が力強く握られた。

 その言葉が欲しかったと、隠す術を失った顔を真っ赤にして微笑んだ。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃだったけれど、やはり誰よりも美しい、お姫様のようだと思った。




 *****


 彼は彼女を疑った末に、彼女の為に身を呈した。

 彼女は彼を信じ過ぎたから、彼を守ろうとした。

 まるでエゴイズムの押し付け合いだ。けれどそこに至るまでの二人の葛藤はどれほどのものだっただろう。

「人は愛情の為に、自らを犠牲にできる。君もそうなのかな、猪木」

 屋上へ続く小部屋の中で、一人静かに佇む人影が、誰に聞かせるでもなく呟く。彼は切れ長の瞳を細め、窓の外に見えるミス研の人間たちをしばらく眺めた後、肩に掛かる程の長い襟足を揺らしながら、そっと立ち去った。






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此方ヶ丘高校ミステリー研究部〜十二支事件〜 マヤ @mayaumida

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