第1話 終章 この大空の向こうに。

終章 この大空の向こうに。


 真っ青な、雲一つない、まさに快晴の空。

 一学期の終業式が終わり、あたし達の住む町の中心部が見下ろせる、小高い丘の上にある公園に、あたしと播磨くんは来ていた。

 六月の終わりに起こった、あたしが誘拐されるというあの事件から、早いもので一か月が過ぎた。

 あの事件の後の数日間は、本当に大変だったことを今でも覚えている。

 まず、播磨くんが自分のしたことを悔やんで、警察に自首すると言い出したのだ。

たしかに播磨くんのしたことは、正当防衛の範囲を超えてしまっていたようにも思う。それでも、播磨くんがあたしを助けてくれたことには違いなく。あたしは何とか播磨くんを思いとどまらせようと、麻耶ちゃんと一緒に色々と考えた。

 結果として、播磨くんが警察に事情を話すと、それによってあたしも事情を話さなければならなくなり、あたしにとって恥ずかしい事件でもある今回の件が公になるのは避けたい。だからあたしのために、播磨くんには悪いけど黙っていて欲しいと頼み、渋々ながら播磨くんに納得してもらったのだ。

 そうしてあたし達三人は、この事件のことを黙秘することに決めたのだが、これがまた一段ときつかった。

 相手が悪い動機であたしのことを誘拐したにせよ、根本くん以外のほぼ全員がケガを負っているのだ。その相手が、播磨くんのことを訴えてくるのではないか、播磨くんが警察に捕まってしまうのではないかと、あたしは心配で夜も眠れなかった。そして、ふと寝られたとしても、播磨くんが裁判にかけられ、あたしが弁護士と一緒に必死に播磨くんの無実を訴えるという、嫌なくらいにリアルな悪夢まで見たりして、結局寝られなかった。

 他にも、あの男の人達が仕返しに来るのではないか。あたしの母や播磨くんの家族、学校の先生や友達に、事件のことをバラしてしまうのではないか。それをバラすぞと、恐喝されるのではないかと、とにかく不安なことで頭がいっぱいになってしまった。

 ……まあ、結論から言うと、この一か月、何もなかった。本当に拍子抜けするほど、何もなかった。

 あたしはてっきり、あたしか播磨くんの親か、学校の先生、警察の誰かにバレて、ひどく怒られてしまうのではと、内心ビクビクしていたのだけど。

 ちなみに、あの出来事について、一番あたしに対して怒ってきたのは、実は麻耶ちゃんだったりする。

「いい、神無! もう二度と知らない人の車に乗せられちゃだめだからね。知っている人がいてもまずは警戒すること。また誘拐されても、今度は私は助けに行かないからそのつもりでいてよ。あと普段からもっと色々と考えて行動しなさい。あんたはやれば周りに気を遣える子なんだから、柔道も習っているとはいえ、油断しないこと。いい、ボーっと生きてんじゃねえ、だよ!」

 どっかのテレビ番組のキャラクターが言いそうなセリフを混ぜながら、麻耶ちゃんから散々注意を受けたあたし。

 でも、その厳しい言葉が、あたしのことを想ってのことだということを、あたしはよく知っている。

 そうそう。根本くんはあの事件以来、学校をずっとお休みしていたんだけど、終業式の数日前になって、急に登校してきたのだ。

 学校の廊下でいきなり根本くんに声をかけられた時には、心臓が止まるくらい驚いたけど。

 根本くんはあの事件についてあたしに謝ると同時に、あたし達が体育館を出た後のことについて教えてくれた。

 あの後、兄貴と先輩とその友達も、何とか自力で歩くことはできたみたいで、根本くんも兄貴の運転する車に乗って、病院まで一緒に行ったようだ。

 不幸中の幸いにして、根本くん以外の三人は入院しなければならないくらいのケガではなかったようで、根本くんの先輩達二人は特に後遺症もなく、過ごしているとのことだ。

「あの、兄貴って呼んでた男の人は? あの人の股間は大丈夫だったの?」

 あたしの記憶ではかなりの悲鳴をあげて痛がっていた気がするんだけど。

 そんなあたしの質問に、根本くんは黙って首を振るので、あたしはそれ以上は聞いてはいけない気がして口を閉じる。

 その代わり、兄貴と呼ばれた男の人や根本くんの先輩達が、播磨くんのことを訴えたりしないかどうかを尋ねてみた。

 すると。根本くん曰く、

「さすがにそれはねーよ。兄貴や先輩達も、神無にやべーことをやった事実を、自分でバラさないといけなくなるしな。それに、兄貴達が他の人に言えると思うか? 自分が中学一年生にボコボコにやられました、なんて」

 どうやら、男のプライドが許さないとかで、そんな恥ずかしいことは他人に教えたりはしないだろうとのことだ。

 あたしは女だから、男のプライドとかはよく分からなかったけど、あの人達ともうこれ以上関わらずに済むというのはありがたい。

「そうそう。おまえ、これのこと気にしてなかっただろう」

 根本くんはそう言って、あたしに小さなメモリーカードを渡す。

「何これ?」

「ビデオカメラのメモリーカードだ。神無の映像が入ってんぞ」

「え? ………………ああ!」

 あの時はすっかり忘れていたけど、思い起こせば、たしかにあの時はビデオカメラで録画されていたんだった。

「たく。うっかりしやがって。俺が兄貴達の隙を見てパクってなかったら、今頃兄貴達の手の中にあったんだぞ」

 ぶっきらぼうながらも、あたしのために行動してくれた根本くんに、あたしは心から感謝する。

「ありがとう、根本くん。あたしのためにそんなことまでしてくれて」

「別に感謝されるようなことじゃねーよ。もとはと言えば、俺が悪いんだし。……それよりも。どうする? そいつ」

 根本くんが、あたしの手の中にあるメモリーカードを見ながら聞く。

 そんなもの、答えはもう決まっている。

 あたしはメモリーカードを根本くんに返しながら応える。

「壊して。このメモリーカード」

「……こいつの中身は確認しなくてもいいのか?もしかしたら、俺が嘘をついて、別のメモリーカードを持ってきてるかもしれないぜ」

「中の映像は見たくもないし、それに」

 あたしは真っ直ぐと根本くんの目を見ながら言った。

「根本くんが嘘をついていないって信じているから」

「……分かった」

 根本くんはそう言うと、手元のメモリーカードをパキンパキンと素手で折っていく。

 おお。何か、素手でメモリーカードを割る根本くんの姿が、少し男らしくてカッコよく見える。

「そう言えば、播磨くんのところには行ったの?」

 あたしがそう聞くと、根本くんは顔を逸らしながら言った。

「あー、その。謝ろうと思ってはいるんだが。なんつーか、あの時の播磨の笑顔が怖すぎて、今はまだ会いたくねえんだよ」

 どうやら根本くんにとって、播磨くんの存在は、すっかりトラウマになっているようだ。

「そっか。なら仕方ないね。あたしの方から、播磨くんへ伝えておくよ。根本くんが謝りたいと思っているって」

「わりい。頼むわ」

 小学生のように弱々しい声で、根本くんが頭を下げるもんだから、あたしは昔の柔道教室で一緒に練習をしていた頃の、まだ小さかった頃の根本くんの姿を思い出してしまい、つい笑みがこぼれる。

「あ? 何で笑ってるんだよ?」

 そんなあたしを不思議そうに見る根本くんに、思ったことをそのまま言うのは失礼かなと考えたあたしは、ごまかす様に前から思っていた別のことを言う。

「え~と、根本くんと播磨くんって、なんか、仲のいい友達になれそうだなあと思って」

 そう言ったあたしに向けて、根本くんは心の底から、勘弁してくれと言わんばかりの表情をで言い返した。

「ぜっ、たい。それはない」


           *      *      *


「いい天気だね」

「そうだね~」

 あたしと播磨くんは、自分達の住む町を眼下に、その上の雲一つない空を見ながら、丘の上の公園にあるベンチに腰掛けて会話をする。ちなみに、播磨くんには既に先ほど、根本くんから聞いた話を全部伝えてある。兄貴と呼ばれた男の人や根本くんの先輩達のケガの話の時は、申し訳なさそうに顔を伏せて聞いていたけど、根本くんが謝りたがっていたことを伝えると、ほんの少しほっとした表情になってくれた。

 その話を終えて、二人で空を見上げると、どちらともなくあたし達の出会いの時のことが、頭に浮かんできて会話が続く、

「小野寺さんの家に初めて行った時も、今日みたいな快晴だったよ」

「そうだったの? あたし、その日は一日中家にいたから分からなかったよ」

 意外な過去の事実を知るあたし。たぶんその日は、ゴールデンウィークだというのにどこにも遊びに行けないことで、憂うつな気持ちになっていたんだと思う。でも、まさにその日、あたしと播磨くんは本当の意味で出会ったんだと、あたしは確信している。

 ただのクラスメイトやちょっとした知り合いではなく、同じ時を共有する人間として。

「あの時はびっくりしたな~。まさかあたしの家に来た伝道者が、播磨くんだなんて夢にも思わなかったよ」

「僕も、まさか小野寺さんに会えるとは思っていなかったから、驚いたよ」

「本当に~? 播磨くん、全然表情を変えないから、そんな風には見えなかったよ~」

「あ、それはよく言われる」

 播磨くんがそう言って苦笑いをする。

 一方あたしは、このままたわいない会話を続けていたいと思ってしまう。このまま楽しい会話をして今日が終わればと思う。でも、あたしは播磨くんに告げなければいけないことがある。だからこうして今日、終業式の放課後に、播磨くんをこの場所に呼んだのだ。

 でも、いざ話そうとすると、ついつい先延ばしにしてしまいたいという気持ちが出てしまい、別の話題を話してしまう。

 やがて、一通りの話を終えて、少しの静かな間が空いた時、

「それで。小野寺さんはどうして今日、僕のことを誘ったの?」

 播磨くんは不意に、今日のあたしの目的について尋ねてきた。

 あたしはその言葉に一瞬ハッとしたものの、意を決して播磨くんに話し始める。

「あのね、播磨くん。あたし、播磨くんに伝えたいことがあったんだ」

「うん」

 あたしのまじめな顔に、播磨くんはいつも通りのしっかりとした表情で、あたしの言葉を待ってくれる。

「播磨くんと出会って、聖書のことを色々と教えてもらって、あたしの質問にもたくさん答えてもらって。あたし、播磨くんと学校の放課後に、一緒に聖書の勉強をした、あの時間はとても楽しかったよ」

 そう。聖書の勉強全てが面白いものではなかったけど、今までのあたしの世界には無かった未知の知識を、意外な事実を知ることができて、あたしはあの時、たしかに楽しんでいたように思う。

「だからね。いちおう、今まであたしが学んだことの答えを、今日は言おうと思ったの」

 あたしが播磨くんと出会ってから三か月弱。播磨くんから色々な話を聞いて、一緒に行動していく中で、中学生の自分なりに考えて考えた答えを、あたしは播磨くんに伝えた。


「あたしはやっぱり、播磨くんが言うような、聖書の神様がいるとは思えない」


 聖書に書いてある言葉には、生活に当てはめるといいことや、この世界で実現したらいいことがたくさん書かれていて、聖書は悪い本ではなくって、むしろみんなに読んでもらいたいくらいのいい本だと思う。

 それでも、あたしの母は、あたしを身ごもる際に、言葉では言い表せられない悲しみを負った現実がある。あたしだって、一か月前の事件で播磨くんが助けに来てくれていなかったら、母と同じ経験をしていたかもしれない。

 それに、あたしや母だけではない。世界中にはきっと、あたしが考えもしないような悲惨な出来事が、それこそ毎日のように起こっている。

 もしもその聖書に書いてある通りの神様がいるのなら、世界中に悲しいことが溢れているのはおかしいと思う。だって、あたしが播磨くんから教えてもらった聖書の神様は、優しくって思いやりのある、愛のある神だから。そんなはずはない、とあたしは思う。

 だから、あたしは播磨くんが信じている神様がこの世界にいることを、信じられないでいる。聖書に書かれていることが本当のことなのか、分からないでいる。

「…………そっか」

 あたしの言葉にも、播磨くんはあまり表情を変化させなかった。きっと、放課後の図書室での聖書レッスンで、あたしが見せた態度なんかで、あたしが神様のことを本当は信じていないことに気付いていたのかもしれない。

 けれども、播磨くんの手のひらがぎゅっと握られる様子を見て、播磨くんががっかりしているのだということは、あたしにも伝わってきた。だからというわけではないけど、あたしは前もって言おうと決めていた、もう一つのことも、播磨くんへと伝える。


「でも、あたしは播磨くんと、これからも聖書の勉強を続けたい」


 あたしの言葉が予想外だったのだろう。珍しく播磨くんの目が大きく見開き、驚いた表情を見せる。

 たしかに、あたしはまだ、聖書の神様がいることを信じられない。聖書のことが、まだよく分からないでいる。

 でも、だからこそ、あたしはもっと聖書のことについて知りたいと思う。

 播磨くんから聞いた話では、聖書を学んだことで、色々な困難な状況を克服することができた人もいるという。播磨くん自身も、かつての自分を変えるために、聖書の言葉を当てはめて生活することで、自分の直すべきものを変化させることができたと言う。そして、それが本当のことであることを、あたしは知っている。

 それに、あたしはまだまだ知らない。この播磨英理矢という人物がどんな人物なのかということを。

そして、それを知りたいと願うあたしがいることを、あたしは知っている。

「だからさ、また教えてくれるかな? 聖書のことを」

 あたしはそう、播磨くんにお願いする。

 播磨くんにとって、聖書の言葉はもはや播磨くんの身体の一部で、聖書が播磨くんから切っても切り離せない存在なら、それごとあたしが知ってやればいいと、あたしは考える。

「もちろんだよ小野寺さん」

 あたしの言葉が嬉しかったのか、播磨くんは今まで見た中で一番の笑顔で頷くと、自分の右手をあたしに差し出す。

「何? この手は?」

 なんとなく握手をしようとしていることは分かったのだけど、播磨くんがどうして握手をしようと考えたのか、それが知りたくなったあたしは播磨くんに質問する。

「ええと、これからも仲良くしましょうってことで、握手をしようと」

 ……仲良くしましょう、か。

 う~ん。やっぱりまだ、友達どまりってところかな?まあ、でも。

「あたしは、それで終わるつもりはないよ」

「え? 何のこと?」

 キョトンとする播磨くんに、あたしは不敵な笑みを浮かべて言う。

「さ~て、何のことでしょう? ヒントは、播磨くんにもう少しムードがあったら分かるかも」

「ムード?」

 あたしの言葉に、考えても答えの出ないであろう質問を、播磨くんが真剣に考え始める。

 本当は、お互いの秘密を話し合ったあの時、抱きしめてくれることくらいして欲しかったけど。まあ、今のあたしと播磨くんの関係じゃあ、これが精いっぱいかな。

 そう考えたあたしは、播磨くんの手を取って、握手をする。小学生みたいに腕を振りながら手をつないで、あたしは播磨くんに向かって笑う。播磨くんは突然繋がれた自分の手を、少し驚いた顔で見ていたけど、あたしの顔を見てつられて笑った。

 ……ロマンチックなことは、これからもっとお互いのことを知り合ってからでもいいかな。

 全くしょうがないなあと心の中で呟きつつ、あたしは雲一つない青空を見上げる。

 あたしはまだ、この世に神様がいるとは思えない。

 でも、もしも播磨くんから教わったとおりの神様がいるのなら、この大空の向こうにいるのならば、あたしはその神様に強くつよく願いたい。


 この播磨くんと、これからも一緒にいられますように。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る