第1話 第四章 播磨くんは聖書で周りの人を助けたいと言っているが、本当は聖書のおかげで周りの人が播磨くんから助けられた件。

第四章 播磨はりまくんは聖書で周りの人を助けたいと言っているが、本当は聖書のおかげで周りの人が播磨くんから助けられた件。


「よう、神無かんな。これからどこに行くんだよ?」

 駅前で麻耶まやちゃんと別れてから一分もしないうちに聞こえたその声に、あたしは一瞬どこから声が聞こえたのか分からず辺りを見渡す。

「こっちだこっち」

 すると、いつの間にかあたしのすぐ隣まで近づいていた黒いワゴン車の後部座席の窓が下がり、その向こうからよく知った顔が見える。

「え? 根本ねもとくん?」

 その車に乗っていたのは、ついこの間久しぶりに出会った根本くんだった。たしかあの時は、けんか別れみたいな形で別れてしまったんだっけ。

「おう神無。おまえにはこの前の――」

「ごめん根本くん。あたし先を急いでいるの」

「っておい! まだ話は終わってねえぞこら!」

 根本くんがそう言うものの、あたしは歩き出したその足を止めずに歩き続ける。

 この前の出来事について、あたしはまだ自分なりの結論を出していないのだ。根本くんとはいつか仲直りしなきゃとは思っていたのだけど、こうして突然会ってしまうと何を言ったらいいのか分からない。

 だからあたしは、根本くんから逃げるように足早にこの場からいなくなろうとした。

 そんなあたしの身体が一瞬で宙に浮く。

「へ? ……ええええ? ちょっとおお!」

 初めは何が起こったのか分からず、あたしは身体を硬直させてしまう。

 どうやらあたしは、誰かは知らないけど、たぶん二人の男の人に足と肩を掴まれて担がれているようなのだ。

 状況がなかなか理解できず、あたしは両手両足をバタバタさせて、自分の身体をなんとか降ろしてもらおうともがく。

「ちょ、痛いだろうが!暴れんじゃねえよ神無」

 あたしの足を掴んでいる男の人から、聞き覚えのある声が聞こえて、あたしは驚いてその声のした方へと顔を向ける。

 するとそこにあった顔は、この前あたしと根本くんが話をするほんの直前まで根本くんと一緒にいた、茶髪の高校生らしき男の人の顔だった。……この人は確か、あたしが通っていた柔道教室で会ったことのある、って今はそんなことを思い起こしている場合じゃない!

「何をするんですか! 放してください!」

「うるせえ! とりあえず中に入ってろ!」

 あたしは抵抗したものの、男の人二人の力に女子中学生のあたしが敵うはずもなく、そのままさっきの根本くんが乗っていたワゴン車の中へと連れ込まれてしまう。

「入りました、兄貴!」

「おう。行くぜ」

 身覚えのある男の人の声の後、運転席の方からそんな声が聞こえ、車が急発進される。

「おい! そういえばそいつの荷物は置いてきたか?!」

 運転席から聞こえた声に、近くにいた根本くんが答える。

「あ。ここにあります、兄貴」

「ばかやろう! 荷物は置いてけっていっただろう! 特にスマホは位置情報で居場所がバレるから必ず捨てとけ!」

「は、はいっす」

 すると根本くんは、言われた通りあたしのバッグを車の窓から投げ捨ててしまう。

「ああ! こら! あたしのバッグを捨てるな!」

 あまりの突然の出来事の多さに、もうあたしの頭の中はパニック寸前だ。

ちょっと何なのこの人達は!? というかこの人達は何であたしのことを捕まえるのよ?

「ちょっと根本くん! この人達は誰なの!?何であたしを捕まえたのよ!?言いなさ――」

 あたしは同じ車に乗っている根本くんへと抗議の声を上げようとしたところで、一緒に車に乗っていた別の男の人に、口をガムテープのようなものでむりやり塞がれてしまい、喋ることができなくなる。

「~! ~!」

 口にガムテープを貼られてしまい、パニックになってしまったあたしの両手と両足を、二人の高校生らしき男の人達が、ガムテープでぐるぐると巻くようにして縛っていってしまう。

 あたしは何かできることはないかと、唯一自由に動かせる視線を、車内中に巡らす。

 あたしのすぐ後ろにいる、あたしの肩を掴んでいたもう一人の男の人の顔を見る。すると予想通り、その人はこの前根本くんと一緒にいた、高校生らしき男の人達の茶髪じゃないもう一人の方だった。その人はあたしの腕をガムテープでぐるぐる巻きにしている。

 すぐ前には、あたしの足を同じようにガムテープでぐるぐる巻きにしている茶髪の高校生らしき男の人が一人。そして隣には、落ち着かない様子であたしのことを見る根本君がいる。

 運転席にいるのは大人なのだろうか、顔は見えないけど、少なくとも声から女性ではなく男性だということが分かった。

 あたしがちょうどその運転席にいる男の人の方を見ていると、ちっという舌打ちの声とともに、車が急ブレーキをかけて停車されるのを感じた。

「くそっ。赤信号か」

 どうやら交差点でこの車が停まったようだ。

 あたしは逃げるのは今しかないと思い、目線で隣にいる根本くんへと助けを求めようとしたところで、

「あ、先輩。この麻袋、今もうこの場所で神無の顔に被せちゃえば、場所がバレないでいいんじゃないんすか?」

 そんなことを根本くんが言ってしまい、あたしは目を丸くする。

「おお、いいアイディアじゃねえか根本。よし、そうしようぜ」

 そんな声とともに、根本くんの手にあった麻袋が、あたしの顔に被せられ、あたしの視界は全く見えなくなった。


           *      *      *


 どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう。

 目の前で神無が男の人達にさらわれた。言葉にすればたった一行のことだけど、あまりの現実離れした光景に、あたしの思考は止まってしまう。

 そうか。これは現実のことではなくて、ドッキリとか、テレビ番組のワンシーンとかなんだ。だから、今そのワゴン車が発進して私から離れて行っても、私には何も関係ない。

「んなわけあるか!」

 私はそう叫んで、自分の頬を両手でピシャリと叩く。

 そして素早く辺りを見渡すと、すぐ近くの駅前のロータリーに一台だけ止まっていたタクシーが見える。どうやらその運転手は自分のスマホをいじっているようで、さっき神無に起こった出来事には気が付いていないようだ。なら。

「すみません。あの車。あの黒いワゴン車を追いかけて下さい!」

 私はそのタクシーにダッシュで駆け寄ると、運転手に向かってそう言った。

「はい? お嬢さん。どうしたんだい?」

 運転手が突然の私の言葉にうろたえている間に、私は素早く後部座席のドアを開けてタクシーに乗り込む。

「すぐに出して下さい。お金はありますから」

 私はそう言って、自分の財布から五千円札を取り出して運転手へと見せる。

 このお金は少ないお小遣いを貯めて、今日行く予定だった、私の好きなアイドルグループのチケット抽選会で使う予定だったものだけど、今はそんなことはどうでもいい。

「運転手さん早く!」

「ああ、なんだかよく分らんが、分かったよ」

 私の切羽詰まった様子を感じて、運転手がタクシーを発進させる。

 私がタクシーの中から前方のワゴン車を見ると、すでにかなり離れた交差点の方まで進んでしまっていたが、ラッキーなことにその信号が赤になる。

 しめた、と私が思った矢先、赤信号になった交差点よりも五十メートル手前辺りで、そのワゴン車の窓から何かが投げ出されるのが見えた。

 あれは……神無のバッグだ!

「運転手さん止めて! あのバッグを拾います!」

 私はそのバッグが落ちている近くまで来ると、運転手にそう言った。

 タクシーはギリギリブレーキ音が聞こえないくらいの急減速で止まる。

 私は素早くタクシーから降りてそのバッグを拾うと、その中身を見る。

「やっぱり神無のバッグだ」

 バックの中には、私が見覚えのあるものばかりが入っており、神無のスマホも入っていた。

「お嬢さん! 前の車が発進しちゃっているよ。今信号を曲がっていった」

「! 今、戻ります!」

 私のバカ。バッグの中身の確認なら車の中でもできたのに。

 私は後悔をしながら急いでタクシーの車内に戻って、扉を閉める。

「運転手さん。まだ追えますか?」

「できないことはないけど」

「お願いします。続けてください」

 私の言葉に、運転手は車を走らせる。

 黒いワゴン車が曲がっていった方にタクシーが曲がると、かなり離れたところではあるが、何台かの車が走っているのが見え、その先頭に黒いワゴン車があるのが確認できた。

 私がほっとしたのもつかの間、道路は大きなカーブに差し掛かり、先を走る黒いワゴン車の姿が再び見えなくなる。

「こりゃあ、いつまで追えるか分らんぞ」

「追えるところまででいいのでお願いします」

 私はそう言って追跡を運転手さんに任せると、さっき拾った神無のスマホと自分のスマホと取り出しながら考える。この状況を、誰かに伝えるべきかを考える。

 真っ先に浮かんだのは自分の家族だ。妹や弟達は論外。お父さんとお母さんは、どうだろう? でも、何をどう話す? 他の大人は、例えば学校の先生なんかはどうだろう。でも、今日は学校が休みの日だから学校に連絡したところで誰もいないかも。警察は? いや、まだ事件だと決まったわけじゃないし、もしもドッキリとか何かの見間違いとかだったら、先生や警察とか大人の人に怒られてしまうんじゃ。

 色々な考えが浮かんでは消え、そうしているうちに、とりあえず神無のお母さんに連絡するのはどうだろうかと思い、神無のスマホを開く。

 幸いロックはかかっていなかったので、私は神無のスマホの連絡帳のアプリを開く。

 すると、神無のスマホに登録されている連絡先のアプリを見ながら、私はある人物の名前を見て、画面をスクロールする手が止まる。そして考える。もしかしたらこの人なら、今の状況を話してもいいんじゃないかと。この状況を何とかしてくれるんじゃないかと。

 そう考えた私は、そのまま神無のスマホを使って、その人物の連絡先を押して電話をかける。

 プルルルルという音がスマホから聞こえるものの、相手が電話に出ることはなく、私は一旦電話を切る。

 そしてもう一度かけ直すか、それともやっぱり別の人に連絡するか悩んでいると、その相手の方から電話がかかってきたので、私はすぐにその電話の応答ボタンを押して言う。 

「もしもし! ――」


           *      *      *


「あ。英理矢えりやくん。スマホが振動しているけど」

 王国会館がどんな場所か知ってもらうための催し物の最中、受付の係をしていた僕に、僕の鞄の近くにたまたまいた人が、そう言って僕のスマホを手渡してくれた。

 その人にお礼を言ってから、僕が自分のスマホを受け取ると、ちょうど呼び出しが終わってしまったらしく、着信履歴が一つだけ残っていた。

小野寺おのでらさん?」

 どうやら、履歴を見るかぎり僕に電話をしてきたのは小野寺さんのようだ。

 もしかして今日、ここに来られるようになったのかと思った僕は、隣にいるもう一人の受付係の人に声をかける。

「すみません。今日ここに来られないかと誘った人から連絡があったのですが、ちょっと席を外してもいいですか?」

「ああ、構わないよ。ここは私一人で大丈夫みたいだし、なんなら迎えに行ってもいいから行っておいで」

「ありがとうございます」

 僕は頭を下げてから自分の鞄を掴んで外に出ると、歩きながら小野寺さんのことを思いに浮かべる。

 小野寺さんと出会ったのは入学してすぐのこと。その時はまだ、僕は小野寺さんの顔と名前しか知らなくて、声を聞くのも授業の発表の時くらいだった。休み時間に僕が雑誌を読んでいると、小野寺さんの方から度々視線を向けられることはあったけど、特に話しかけられることもなくひと月が過ぎて行って。……そうそう、ゴールデンウィークの時の伝道活動で、僕がお母さんと一緒に、小野寺さんの家を訪問してから関係が変わったんだっけ。僕のお母さんの提案で、学校の図書室での聖書レッスンが始まって、小野寺さんも聖書についての質問を色々としてくれて。途中から小野寺さんも聖書レッスンに飽きてきたようだけど、それでも僕との話に色々な興味を持ってくれて。

「そういえばその時だっけ。一緒に映画を見に行こうって言ってくれたのは」

 聖書レッスンの次の日、小野寺さんと鷹橋さんと僕の三人で映画を見に行く予定が、なぜか小野寺さんと僕のお母さんと僕の三人で映画を見に行くことになってしまったあの日。それでも普段の姿とは違う小野寺さんの様子を見ることができたし、なによりも小野寺さんと学校の日以外に会話をするのはとても新鮮だった。

 小野寺さんは僕との会話についてどう思っているんだろう?

 鷹橋さんから、小野寺さんのことは色々と聞くことはできた。けれども僕は、小野寺さん本人から、小野寺さん自身のことについて話をしたいと思っている。理由は分からないけど、小野寺さんとの会話はとても楽しい。だからこそ、僕は小野寺さんからかかってきた電話に微かな喜びを感じつつ、スマホの着信履歴からリダイアルのボタンを押す。

 小野寺さんが今日来てくれるのではという期待を持った僕は、

「もしもし! 播磨くん。聞いて! 今さっき神無が知らない男の人に連れ去られちゃったの!」

 電話の向こうから聞こえてくる鷹橋たかのはしさんの悲痛な声で、そんな場合ではないと悟る。

「その声は鷹橋さんだよね」

「え? ああ、そう。えーと」

「とりあえず、どんなことが起こっているのか、始めから話してもらっていい?」

「あ、うん。それがね――」

 僕は電話越しに鷹橋さんの話を聞きながら、最寄り駅の方へと歩いていく。幸い、今いる場所は駅から歩いて三分のところにある。

 鷹橋さん曰く、二人は僕が今から向かっている駅とは別の、町内にあるもう一つの駅の方から電車に乗ろうとしていたらしい。そこで二人は話し合って、小野寺さんだけ僕のところに向かおうとして鷹橋さんと別れたそのすぐ後、見知らぬ男の人に黒いワゴン車の中へと連れ込まれてしまったそうだ。それから鷹橋さんは近く停まっていたタクシーに乗って、今もなおその黒いワゴン車を追っているのだと言う。

「あ。黒いワゴン車が」

「どうしたの? もしかして見失った?」

「ううん。ええっとね、黒いワゴン車が学校みたいなところに入っていって」

「学校みたいな? ……もしかしてその場所の近くの看板に、なんとか運動施設って書いてない?」

 鷹橋さんの言葉に、僕はある場所が思い浮かぶ。

「え? ああ、たしかに運動施設って書いてある看板がある」

「そこって、何年か前に廃校になった小学校だよ。建物はそのままで、いろいろな活動やイベントに使われているって聞いたことがある。……ちょっとだけ待っていて」

 よし。鷹橋さん達が今いる場所は分かった。僕達が住むこの町で、というか、この近辺で、廃校になった学校は一つしかない。

 僕は駅前に着くと、ロータリーで停まっていたタクシーに乗ると、鷹橋さん達がいるであろう、今は運動施設となっている旧小学校へと行って欲しいと運転手にお願いする。

 僕が今いる駅からその場所までは近く、車なら十分とかからないはずだ。

 タクシーに乗りながら、僕は電話越しに鷹橋さんとの話を続ける。

「お待たせ。今僕もタクシーに乗っているところだよ。あと十分もしない間にそっちに着くから」

「本当。あ、そうだ。私はもうタクシーから降りたんだけど、私一人でも建物の中に入った方がいいかな?」

「待って! それは止めて。絶対に一人で行動しないで、僕がそこに着くまでは待っていて」

 鷹橋さんの話から、小野寺さんを連れ去った男の人と、小野寺さんとの面識は無さそうである。となると、誘拐か、あるいは。

「そういえば」

「何か思い出したの?」

「本当にチラッとだけだけど、ワゴン車の中に、うちの学校の男子がいたような気がする」

「僕達の学校の?」

 それが本当なら、小野寺さんは見知らぬ誘拐犯ではなく、小野寺さんの知り合いに連れ去られた可能性も出てくる。

「鷹橋さん。その男子が誰だか覚えてる?」

「うーんと、私達とは違うクラスか別の学年だと思う。顔を見ても名前が思い出せないから」

「そっか。でも同じ学校の人がいたってことが分かって良かったよ」

 そうやって鷹橋さんと会話していく間に、僕を乗せたタクシーはどんどんと人気の無い場所へと進んでいく。この先は僕達の住む町の中でも山奥といえる地域で、人口も町役場の近くのところと違って少ない。今から向かう旧小学校も、児童数の減少で廃校になったのだ。

 こんなところに小野寺さんを連れてきて、その男の人達には何の目的があるのだろう?

 僕がそんな疑問を抱いていると、タクシーは目的の場所へとたどり着いたようで、その運動施設の前で停車した。

「鷹橋さんが教えてくれた場所はここか」

 僕は運転手へお金を渡すと、タクシーから降りる。周りに民家はなく、畑と田んぼとうっそうとした林があるだけだ。

 いつの間にか鷹橋さんとの通話は切られていて、僕は鷹橋さんが近くにいないかと辺りを見渡すと、僕に気付いた鷹橋さんが、校門の方から走ってくる。

「播磨くん、遅いよー。私今、黒いワゴン車の様子を見に行ってて」

「鷹橋さん。一人で行動しないでって言っていたのに、一人だけで校舎の方に行っていたの?」

「ごめん! でも、神無のことが心配で。私、じっとしていられなくて」

 鷹橋さんの小野寺さんへの想いと行動力は、僕も小野寺さんからよく聞かされていたので、それ以上責めることはせず、僕は必要なことだけを聞く。

「それで、あれからあの後何かあった?」

「うん。黒いワゴン車はしばらく体育館の横に停まっていただけみたいだったんだけど。播磨くんとの通話を切ってそのワゴン車の方を見に行ってすぐに、中から神無と男の人達とうちの学校の男子が出てきたんだけど、その……」

「小野寺さんを見たんだね? どんな様子だったの?」

 僕はそう聞きながら、鷹橋さんが泣きそうな顔になっていることに気付く。

「神無は、何かで縛られているみたいで、顔は袋みたいので覆われていて、でもあの服装はどう見ても神無で」

 きっと僕が来るまでの間、悪い想像をしていたのだろう。鷹橋さんの顔は今にも泣き出しそうだ。

「分かった。まず僕が体育館の中の様子を見てくるよ」

「わ、私も一緒に」

「鷹橋さんは、ここで待っていて。ここからなら遠目からだけど、体育館の入り口が見えるでしょ。僕が入って、小野寺さんと一緒に出てきたら、タクシーを呼んでもらってもいいかな。でも、もしも僕が中に入ってしばらく経っても出てこなかったら、その時は」

 僕は一旦言葉を区切ってから言う。

「警察を呼んで。あとできるだけでいいから他の大人の人も」

 僕の視線の先で、鷹橋さんが息を呑む。

 僕に何かがあった時に、そのことを連絡してくれる人は必要だ。もちろん、そうならないように行動するつもりだけど。

「それじゃあ僕は行くけど、連絡係よろしくね」

 そう言う僕に、鷹橋さんは何かを言いたげだったけど、口を閉じて頷く。

 その様子を見てから、僕は校舎のわきを抜けて、長い渡り通路を走って体育館の入り口へと移動する。その途中、崩れたブロック塀に目が留まり、僕は少しの間考える。そしてしゃがんでからあるものを拾うと、それを上着のポケットにしまい、体育館の入り口に向き直る。

 ほんの一回の深呼吸の後、僕は自分が信じる聖書の神様である、エホバ神に祈る。

 どうか小野寺さんを僕に合わせて下さい。そしてできれば、何事もなく帰ることができますようにと、僕は祈る。

 そして僕は、体育館の入り口の扉を開けた。


           *      *      *


 こんなつもりじゃなかった、と俺は思う。

 俺がいる場所は、今は廃校になった小学校の体育館の用具倉庫。

 目の前には、両手両足をガムテープでぐるぐる巻きにされた神無の姿がある。

 車に乗っていた時に俺が被せた麻袋はすでに外されている。神無の顔には、さっき俺に向けていた怒りの表情はなく、ただただ今の状況が全く理解できず、恐怖に震えている。そんな顔だ。

 それはそうだろう。こんな大掛かりな誘拐をするとは俺も思っていなかった。

 俺が神無から視線をずらすと、周りにいる三人を見る。

 右の方には、三つ年上で、同じ柔道教室に通っていた、今は髪を茶色に染めている先輩。それと、その先輩と同い年の先輩の友達。二人は持ってきた荷物を色々と取り出しながら、何かの準備を始めている。

 そして、左の方。神無を見下ろすように跳び箱に座っているのは、兄貴だ。

 兄貴というのはあだ名で、先輩達から兄貴と呼ばれていたので、俺もそう呼んでいる。兄貴の服装は、ガイコツの悪魔のようなプリントと、でかでかとデビルと書かれた真っ赤なシャツの上から、バイクに乗る人が着るような革ジャンを着ていて、下はダメージ感のあるジーンズを穿いている。

 兄貴と俺が出会ったのは、ほんの一か月前。俺が部活もやらずに放課後の町をうろうろとしていると、たまたま久しぶりに会った柔道教室の先輩に誘われて、一緒に夜の街を歩いている時に、出会ったのが兄貴だった。

 どうやら先輩と兄貴はもとから知り合いで、先輩が言うには、兄貴は東京じゃ知らない人はいないというくらい有名な暴走族の一員で、夜な夜な都会でスピードを好きなだけ出して自由に走り、パトカーや白バイとのカーチェイスを繰り広げている、らしい。他にも幾つもの武勇伝を持っていて、この町出身の男の中で、今を一番自由に生きる男を自称しているのだとか。

 先輩とその友達は、兄貴のいわば舎弟になっているらしく、先輩に至っては兄貴の乗るバイクに乗ったこともあるらしい。

 俺も先輩と出会った時には、ちょうど何か悪いことをやりたかったのもあって、学校の放課後や休日の夜に先輩達や兄貴とつるんで、この一か月色々なことをしていた。

 そんな頃、神無と俺がけんかしたことを、俺は兄貴に話した。最初は何か仕返しをする方法はないですかと気軽に話していたのだけど、神無が女だと兄貴に話した途端、兄貴はニヤリと笑顔になって、いい方法があると言って、今日の計画を俺に話した。

 俺も都合よく、神無とその友達が今日の予定について話をしていることを盗み聞きすることができていたので、そのことも話すと、兄貴は準備してやると言ってくれたのだが……。

「おーいどうした根本。ずいぶん考え込んでいるみたいじゃねーか」

「だ、大丈夫です。何でもないっすよ」

 兄貴に突然話しかけられ、俺は自分で情けないと自覚しつつ、緊張しながら答える。

 兄貴のことはカッコイイ人だと思ってはいるけど、厳つい顔の兄貴に見られると、それだけで萎縮しちまう。

「それにしても、ちょうどいい感じに人気の無い場所を知ってましたね、兄貴は」

 先輩が作業の手を止めずに、兄貴に話しかける。

「何だ、お前ら知らねえのか。こういう廃校になった学校の体育館は、運動施設として町民とかに利用できるようにしてあんだよ」

「あー、そういやうちの親も、ママさんバレーの練習の時に、よく学校の体育館に行ってますね」

「まあ、利用申請すりゃあ、こうして俺達でも貸し切りで使い放題ってことだ」

「さっすが~。兄貴は何でも知ってますね」

「だろう」

 先輩の褒め言葉に、兄貴がそう言って豪快に笑う。が、その笑顔も一瞬のことで、すぐにまた元の厳つい表情に戻ると、先輩達に声をかける。

「それよりも、カメラを固定する準備はできたか?」

 カメラ? 何のことだ?

「はい。もう準備できましたで」

 兄貴の言葉の意味が分からなかった俺だが、先輩達が持ってきた荷物を見て理解した。

 どうやら先輩達はカメラを固定する三脚を準備していたようだ。

「よおし、それじゃあ始めるか。おい根本。予定通りまずはお前からだ」

「え~と、あの、兄貴。このカメラはいったい?」

 事前の打ち合わせでは、神無を車で誘拐して、この前の俺を投げたり殴ったりしたことについて謝らせる、ということしか話さなかったはずなのだが。

「ああ、これか。こいつが根本に謝る姿をカメラで撮ってやろうと思ってな。持ってきてやったんだよ。ほら、口先だけ謝らせる他にも、そのことを記録してとっておいた方が、お前のうっぷんも晴れるだろう」

 こいつと呼ばれた神無が、兄貴の言葉にビクッとなる。

 なるほど。たしかにこれから神無が俺に謝る姿を映像に収めるというのも悪くないな。……ちょっとだけやり過ぎな気もするが。

「よーし。おい、こいつの口に貼ってあるガムテープをはがせ」

「了解です兄貴」

 先輩の友達がそう言って、神無の口に貼られていたガムテープをはがす。

 口が自由になった神無だが、叫び声を上げることはせず、無言のまま目線だけを忙しなく動かしている。

「兄貴。録画モード準備オーケーです」

「だとよ、根本」

 カメラを三脚に固定し終えた先輩が言って、兄貴が俺に始めるよう促す。

 俺は意を決して神無の前に立つと、神無を見下ろしながら話し始める。

「おい、神無、聞いているか」

 俺の言葉に、神無は唯一動く首を動かして、こちらを見る。両手両足を縛られた姿を見て、俺の方がなぜか縛られたように固まってしまいそうになるが、気持ちを奮い立たせて、俺は強めの口調で神無にまくしたてる。

「お前、先週はよくも俺のことを投げ飛ばしてくれたな。あと、俺の顔面を殴っただろ」

「……うん」

 俺の言葉に、神無は力なく声を出す。

「俺はまだ、そのことについて謝ってもらってねーぞ」

 神無は俺に顔を見上げたまま、しばらくの間黙っていたが、やがて泣き出しそうな顔で、いや、実際に泣きながらポツリポツリと俺に謝り始める。

「ごめん、なさい。あたしが勝手に、根本くんのことを、気にして。自分から、声をかけたのに、逆に、乱暴しちゃって。根本くんが、言ったこと、もしかして、根本くんが、あたしが秘密にしてる、知られたくないこと、知っているんじゃないかって、怖くなって。それで思わず、根本くんのこと、はたいちゃって、本当に、本当に、ごめんなさい」

 絞り出すかのような声で言う神無の声が、静かな身体育倉庫の中で響く。

 俺は神無の謝る言葉を聞いて、案の定そうだろうなあと思っていた。神無のやつは小さい頃から、周りの目を気にするタイプで、それでいて早合点なのだ。だから小さい頃、他の人の話を聞いては、余計なことを色々と考えてオロオロしていたんだっけか。

 俺は今もなお泣きながら震えている神無に向かって言ってやる。

「神無のバーカ」

「!」

 伏せていた神無の目が、俺の方を向いて丸くなる。

「おまえの秘密なんか知らねえし、興味もねえよ。……だいだい、おまえはいっつも、勝手に悪いことを想像して、いらねえことしやがって」

 俺はため息をつきながら、最後にこう言う。

「許しはしねえけど、これ以上俺からは何も言わねえよ。その代わり、おまえはこれから、俺のことで余計な口出しはすんじゃねえ。分かったか?」

「……うん」

 神無が泣き顔でそう言うの聞いて、俺は、ならもういいか、と思う。これで俺の気持ちはいちおう晴れた。だからこの後は神無を開放してやろう、そう考えていた。

「なーんだ根本。もういいのか?」

 俺がしばらく何も言い出さない様子を見た兄貴が、俺にそう聞いてくる。

「はい。もういいっす」

 兄貴は俺の言葉を聞くとニヤリと笑い。

「よーし。それじゃあ、こっからはずっと俺らのターンだな。根本、お前は誰か入ってこないように見張りしてろ」

 そんなことを言うので、俺は訳も分からず聞く。

「へ? 神無のやつを謝らせたわけですし、これで終わりじゃあないんですか?」

「ああ? 何言ってんだ根本。俺らにタダ働きさせる気かよ?」

「いや、まあ、それは申し訳ないと思うんですけど……」

 ど、どうしよう。手間賃払えって言われても、俺はそんなにお金は持ってねえぞ。

 俺がそんな心配をしていると、兄貴はそんな俺の考えを読んだのか、俺のことを鼻で笑って言う。

「お前の持ってる金なんてあてにしてねーよ。今からこいつで稼ぐんだ」

 それから兄貴は、神無のことを指差しながら、とんでもないことを言ってのけた。

「こいつの服を脱がして、その様子をそこのカメラで動画にして撮る。それでその動画を俺の知り合いに売り飛ばせば、結構な金額になるはずだ」

「は?」

 たぶん、俺は今、人生で一番まぬけな顔をしているのだろう。そんな俺の顔を見た兄貴が、呆れながら俺に続けて言う。

「なんだよ根本ー~。もしかしてお前、まだそういう動画を見たことがねえのか? ん?」

「え、いやまあ、なくはないですけど」

「なら話が早え。まあ、簡単に言うとだな、今からここにいる俺らで、こいつのそういう動画を撮ろうってわけだよ」

 あまりにも現実離れした、まるで画面の向こうの世界のような話に、俺の頭はもはやパンク寸前だ。

「で、でも。それって犯罪なんじゃ」

 辛うじて回ってくれた頭で、何とかそれだけは言うものの、兄貴はそんな俺の言葉も問題ないと言う。

「大丈夫だっつーの。もしも今日のことを誰かにバラしたら、今から撮った動画を、ネットを使って世界中にばらまくぞ、って言ってやれば何にも言えねえよ」

 とても同じ町出身の人には、いや、同じ人間とは思えない発想を聞いて、俺は自分がとんでもない計画の片棒を担がされていたことをようやく知る。

 冷や汗の止まらない俺の横から、先輩が兄貴に話しかける。

「兄貴。もちろん俺らもその、ヤってもいいんですよね」

「なんだなんだ。お前らもこんなちっこいのが趣味なのか?……まあ、いいぜ。みんなでヤるってのも、それはそれで高値がつきそうだ」

 兄貴がそう言うと、先輩達と兄貴が笑う。下品という言葉の正しい意味を俺は知らないが、おそらくこれが下品なんだろうという声で、笑う。

 俺はその場から逃げ出したくて、神無や兄貴達から背を向けて用具倉庫から出ようとするものの、扉に手をかけたところで、後ろから兄貴の声がして手を止める。

「言っておくが根本。逃げんじゃねえぞ。ぶっちゃけ、お前ももう共犯なんだから、ここで逃げてもいいことないぞー」

 詰んだ。終わった。もうダメだ。

 俺は兄貴達の方へと振り返りながらそう思った。

 俺の目の前では、俺と兄貴の会話を聞いていた神無が、わけも分からず目を忙しなく動かしている。

 おそらく、さっきの会話の意味をほとんど理解していないのだろう。はっきり言って男の俺でも、これから兄貴達が神無にやろうとしていること全ては想像できないし、想像したくもない。ああ、でも、これから実際にそれは行われちまうのか。そのことを思い起こして、俺はリアルに胃が痛くなるのを感じる。

「それじゃあ、またガムテープで口を塞ぎますか」

 先輩の友達がそう言って神無の口を再び塞ごうとするが、それを兄貴が止める。

「おいおい。なにやってんだよ。もうそいつの口は塞がなくてもいいんだよ」

「へ? でも兄貴、このままだったら、騒がれてまずいことになるんじゃないんですか?」

 兄貴の言葉に、先輩の友達が不思議そうに尋ねる。

「そのことなら問題ねえよ。ここは近くに民家もねえ山奥の廃校。それもその敷地のさらに奥にある、体育館の用具倉庫の中だぜ。校門の前の道路からも離れているし、仮に誰かがその道路を歩いていたとしても、校門から校舎を通って、その後の長い渡り通路を歩いた先にある体育館の中の声なんて、誰も聞こえねえし、気付きもしねえよ」

「さすが兄貴。完璧な計画っすね」

「だろう。それに後で、こいつの口も使う予定だしな」

「おお。兄貴もなかなか鬼畜っすね」

 兄貴の言葉に、先輩達の悪気も何もない笑い声が、この部屋に響く。

 神無は口を塞がれてはいないものの、兄貴の今の話を聞いてか、兄貴のもくろみ通り、恐怖で何も話せない様子だった。

「それじゃあ、さっそくいただきますか」

 そんな様子の神無に向かって、兄貴は手を伸ばす。

 兄貴の手が神無の服に触れた途端、神無は小さな声でイヤという悲鳴を上げて身をよじる。

「ああ!?」

 が、そんな神無に、兄貴は、男の俺でもビビるくらいの気迫でにらみつける。

 すると神無は怖さからか、身体を硬直させたまま黙り込む。

 その様子を見た兄貴が、神無の服へと手をかけるのを見て、俺は心の中で、ちくしょう! と叫ぶ。

 俺は、本当は神無に謝って欲しかっただけなのに、これじゃあまるで、大人が見るビデオみたいじゃないか。じょうだんじゃねえ。誰でもいいからこの状況を何とかしてくれ!

 俺が声にできないそんな情けない叫びをあげたその時。

「小野寺さん!?」

 誰も来ないはずの俺達のいた用具倉庫の扉が、あっけなく開かれた。


           *      *      *


「小野寺さん!?」

 あたしは一瞬、何が起きたのかを理解することができなかった。いや、恐怖で頭が全然回らなかった。それでも、視界に映った人の顔が、あたしの良く知る人のもので、しかもそれが、あたしが今一番会いたかった人だということに気付いて、ようやくあたしの思考と口が動き出す。

「……は、りま、くん? ……播磨くん!?」

 急に開かれた扉の向こうにいたのは、間違いない。播磨くんだ!

「おい根本。早くその扉を閉めろ」

「はっ、え、あの」

 あたしの目の前にいた、兄貴と呼ばれた男の人の言葉に、根本くんがしどろもどろに返事をするものの、なかなか行動しないのを見て、兄貴と呼ばれた男の人は舌打ちをして別の人に命令した。

「お前ら扉を閉めろ。あと、今入って来たその変なやつを捕まえろ」

「りょ、了解です」

 根本くんが先輩と呼んだ高校生は扉を閉め、もう一人の高校生が播磨くんを捕まえようと近づいたのだが、

「これはいったいどういうことですか!?」

 自分よりも背の高い播磨くんの、それもはっきりとした大声に気圧されて、後ずさる。

「うるせえよお前。とりあえず黙れ」

 落ち着いた、それでいてゾッとする様な声色を、兄貴と呼ばれた男の人は播磨くんにぶつける。それに対して播磨くんは臆することなく、じっと兄貴と呼ばれた男の人の方を見て言った。

「どうしてここに小野寺さんがいるんですか?」

「お前には関係ねえよ。ていうかお前は誰だよ?」

 兄貴と呼ばれた男の人の言葉に、播磨くんは間髪入れずに、その場にいたみんながあっけにとられた行動をする。

「お願いします。小野寺さんを帰して下さい」

 播磨くんはそう言って、深々と頭を下げたのだ。

「……は? いや、だからその前にそもそも誰だよおまえ?」

 兄貴と呼ばれた男の人が素っとん狂な声を上げる。

 それはそうだろう。播磨くんと、この兄貴と呼ばれた男の人とは、面識がないはずだ。

「おい。誰かこいつが誰だか知ってるか?」

「あ、俺知ってます」

 そう答えたのは根本くんだ。

「こいつ、俺と同じ学校のやつです。神無と同じクラスにいたのを見たことがある気がします」

 根本くんのバカ。余計な口出しして。

「はあ? この女と同じクラス……。てことはなんだ。ガタイがいいから高校生くらいかと思ったが、中坊なのかよ。それで、あと知ってることは? それくらいか?」

「えっと……あ。あと、よく剣道の授業を見学しているのも見ました」

「あ? 身体でも弱いのか?」

「いや、うわさで聞いた話によると、聖書を勉強しているキリスト教徒だから、武道ができないらしいです」

 根本くんの言葉を聞くと、兄貴と呼ばれた男の人は鼻で笑いながら、播磨くんのことを露骨にあざける。

「なんだよおまえ~。聖書を片手に、仲良くしましょ~、てか。はっ。笑わすんじゃねーぞおまえ」

「お願いします。小野寺さんを帰して下さい!」

兄貴と呼ばれた男の人の嘲笑に怯むことなく、さっきよりも大きな声で、同じことを繰り返し言う播磨くんの様子を見て、兄貴と呼ばれた男の人の顔が曇る。

「けっ。そんなにこいつが帰して欲しかったら、土下座しな」

「わかりました」

 播磨くんはそう言うと、何の躊躇いもなく、しゃがみ込み、手を揃え、頭を地面に付ける。

「お願いします!」

 恥を物ともしないその様子を見て、兄貴と呼ばれた男の人の顔がますます歪む。

「……こいつ、何かムカつくな。おい、お前ら。こいつが騒いだりしないように、適当に痛めつけろ」

「うす」

 兄貴と呼ばれた男の人の命令で、先輩と呼ばれた人達が播磨くんへと近づく。

「や、止めて」

「おまえは黙ってろ」

 声を上げようとしたあたしを、兄貴と呼ばれた男の人がじろりとにらむ。

「立てよおらぁ!」

「ぐっ」

 あたしがハッとして前を見ると、土下座をしていた態勢の播磨くんの身体が、先輩と呼ばれた高校生の足で蹴飛ばされる。

「はーい、とりあえず起き上がって、次はこうだ!」

「ぶっ」

 続いてもう一人の高校生が播磨くんの身体を強引に起こして、今さっき蹴られたばかりのそのお腹を思いっきり殴る。播磨くんの身体がその反動で、くの字に曲がる。

 あたしはその光景を見て、思わず兄貴と呼ばれた男の人へと懇願する。

「お願いします。播磨くんへの暴力を止めてください。播磨くんは優しい人だから、あなた達を殴ったりなんてしませんから!」

 播磨くんは聖書の勉強をして、聖書の教えや聖書の言葉がとても好きな、ただの優しい中学生だ。そんな播磨くんを殴ったり蹴ったりするなんて、そんなの間違っている!

 あたしはそんな思いで訴えたつもりだったが、あたしのそんな言葉が火に油を注いだようで、兄貴と呼ばれた男の人が二人の高校生にさらに命令する。

「おーい、そいつ優しくて、俺らに抵抗できないみたいだから、道具を使ってさっさと楽にしてやってもいいぞ」

「おっ、それじゃあ使いますか? こいつ」

 そう言って、先輩と呼ばれた高校生が荷物の中から取り出したのは、金属色のバットだった。

「おーいいじゃねえか。やれやれ。フルスイングでやれ。いちおうボディを狙っとけ」

 兄貴と呼ばれた男の人がそう言って、先輩と呼ばれた高校生は金属色のバットを持ち、もう一人の高校生が播磨くんの身体を後ろから羽交い絞めにする。

 その様子を見て、あたしはぎょっとする。そして、昨日の刑事もののドラマで見た、犯人が被害者を鈍器で殴って殺してしまう場面を思い起こしてしまう。人は鈍器で殴られただけでも、当たり所が悪ければ、最悪死んでしまうことを思い起こしてしまう。

「お願いやめて。やめ――」

 あたしの必死な声を、近くにいた兄貴と呼ばれた男の人がむりやり手で塞いでくる。

「おまえはお友達の心配をしている場合か? おい根本! カメラの向きをこっちに向けろ!」

 さっきから部屋の隅で固まっていた根本くんは、兄貴と呼ばれた男の人の言葉に一瞬ビクッとなったものの、慌てて返事をする。

「は、はい。……え? でも何で?」

 根本くんの疑問に、兄貴と呼ばれた男の人は最悪の返答をする。

「今来た播磨ってやつの目の前で、こいつがヤられている動画を撮る」

「はい。…………はいぃ?」

 根本くんが驚いて声を上げるが、そんな根本くんに構わず、兄貴と呼ばれた男の人は、播磨くんの方を見ながら話し続ける。

「助けにきたはずのあいつの前でヤるんだ。動画的にも面白いとは思わねえか?」

 兄貴と呼ばれた男の人の言葉を聞いて、あたしは、この男の人はあたしに何か良くないことをしようとしていることを理解した。

 でもはっきり言って、あたしはこの目の前の男の人が、今からあたしにしようとしてくることに対して、自分がどうしたらいいのか全然分からなかった。

 分からない。分からないから怖い。怖い。怖い、怖いこわいこわいこわい。

 焦るあたしの心の中で、ふと、あたしの母の話が思い出される。誰にも知られたくない母の秘密を、あたしは思い出す、そして同時にこうも思った。

 ああ。あたしのお母さんも昔、こんな気持ちだったのか。

 絶望の顔でうなだれるあたしの服を、目の前の男の人が掴む。何も考えられず、何もできないあたしは、ただ顔を横に向ける。するとそこには、羽交い絞めにされて身体中をバットで殴られている播磨くんの姿が見える。播磨くんは自分が殴られているのにもかかわらず、あたしの方へと視線を向けている。そんな播磨くんの姿を見てあたしは、播磨くんに聞こえるか聞こえないかわからないくらいの小さな声で、ぽつりと言った。

「たすけて」

 その瞬間。播磨くんの身体が動いた。そしてあたしが瞬きをしている間に、羽交い絞めにされていた身体をするりと抜けると、素早く全員から距離をとる。

「え?」

 一方、播磨くんの身体を羽交い絞めにしていたはずの高校生は、播磨くんがどうやって抜け出したのか分からず、オロオロとしている。すると、

「いて!」

 その高校生の額に何かが当たり、跳ね返って床に落ちる。それは固い用具倉庫の板床に落ちて、コンッと乾いた音を響かせる。

「?」

 高校生が自分に当たってきたものを見ると、その視線の先には、小さい石みたいなコンクリートの破片のようなものが落ちていた。

 そこであたしは、高校生から播磨くんの方へと視線を移す。

 すると、どうやらそのコンクリートの破片を投げたのは播磨くんだということが分かる。

 なぜなら、播磨くんの手には、手のひらサイズのコンクリートブロックの破片が握られている。おそらく、地面に転がっているものも播磨くんが投げたのだろう。……でも何で?

 その答えはすぐ分かった。

 播磨くんは自分を羽交い絞めにしていた高校生に近づくと、視線を下に向けていて無防備なその頭に、遠慮なくコンクリートの破片を振り下ろした。

「があっ!?」

 コンクリートブロックの破片で殴られた高校生の口から、あたしが人生で今まで聞いたことのない悲鳴が聞こえた。よく見ると、高校生の頭には、まるで刺さっているみたいにめり込んだコンクリートブロックの破片が見える。そしてそれは、みるみるうちに赤く染まっていく。

 その光景を見て、あたしは一瞬、今は映画か何かの撮影をしているのかと思ってしまう。あの播磨くんが、しそうもないことをしているその光景は、あまりに現実離れしていて、これは夢か幻なんだと考えたあたしの思考は、

「いってええええええええええ!」

 張り裂けそうな叫び声を上げる高校生の声で、すぐに現実へと戻される。播磨くんに殴られた高校生が、悲鳴とともに地面に崩れ落ちる。

「は? おまえ、俺のダチに何をっ!」

 先輩と呼ばれた高校生が、そう言って播磨くんに近づこうとすると、その高校生めがけて、播磨くんは手にしたコンクリートの破片を、まるで野球のボールを投げるみたいに投げつける。

 キーンというバットに何かが当たった時の音がして、一瞬だけ周りの音が止む。そのすぐ後。

「あっぶねえ!」

 投げつけられたコンクリートの破片を、なんとか手に持ったバットで防いだ高校生がそう言った瞬間、凄まじい踏み込みでその高校生へと肉薄した播磨くんの左手が、その高校生の顔面へと迫る。その瞬間、あたしはその先輩が殴られたのだと錯覚した。でも、一瞬の瞬きの後、その播磨くんの左手はグーではなくパーで、いや、正確には五本の指を前に突き出した形の播磨くんの左手の指が、高校生の顔に突き刺さるようにめり込んでいるのに気付く。

「あああああ! 目が! 目があああああ!」

 両手で自分の目を抑える高校生のお腹に向けて、播磨くんはためらうことなく回し蹴りを叩き込む。

「あぐ」

 目を抑えたまま、蹴られた高校生は壁にぶつかり、その衝撃で倒れてうずくまる。

 高校生の持っていたバットが地面に落ち、跳ね返って宙に舞う間に、播磨くんはそれを空中で掴む。

「てめえ! 舐めたまねしやがって!」

 あたしの近くにいた兄貴と呼ばれた男の人は、懐から何か光るものを取り出し、叫びながら播磨くんへと突進する。半分以上手に隠れてはいたけど、おそらくそれがナイフだということに気付いたあたしは、叫ぶ。

「播磨くん気を付けて! この人、ナイフを持って」

 いる。とまでは言えなかった。

 あたしが教えるより早くそれに気づいた播磨くんは、兄貴と呼ばれた男の人の動きよりも断然速い動きで、素早くバットを振ると、兄貴と呼ばれた男の人の手にあったナイフを叩き落す。

「ひいぃ!」

 床に当たったナイフが跳ね返って、根本くんの足元のところまで跳んでいき、ビックリした根本くんが、情けない声を上げる。

「このや、ろ、う?」

 弾かれたナイフを握っていた手を抑えながら、兄貴と呼ばれた男の人は恨めし気に播磨くんのことをにらもうとして、……その様子が尋常じゃないことに気付いて声を失う。

 そんな兄貴と呼ばれた男の人の視線の先を見て、あたしも、根本くんも、その場にいた播磨くん以外の全員が声を失う。

 播磨くんは笑っていた。

 目も笑っている。

 顔も笑顔だ。

 心の底から楽しそうなことをしている子どもみたいな表情で、播磨くんは手にしたバットを使って、すでに倒れた高校生達の背中を、

「ぎゃっ」

 腹部を、

「ぐぇ」

 身体中を、叩く。

 まるで小さな子が、虫を潰すみたいに、叩く。

「お、おい。やめろよ」

 さっきまでの威勢は消え失せ、うろたえた声で、兄貴と呼ばれた男の人が言う。

 その言葉にピクリと反応した播磨くんは、ゆらりゆらりと、不規則な足取りでその男の人へと、ゆっくり確実に近づいていく。手にしたバットがだらりと下がり、床に当たって、カツンカツンと、まるでガイコツが歩くみたいな音を出しながら、近づいていく。

「ま、待て。来るな!」

 兄貴と呼ばれた男の人がそう言うものの、播磨くんはそんな言葉など無視して男の人に近づき、バットを振りかぶる。

 それを見て兄貴と呼ばれた男の人はとっさに、ボクサーがやるように両手で自分の眼前をガードする。するとそれを見た播磨くんは狙いを変えて、笑いながらバットで思いっきり、その男の人の股間を強打する。

「あ」

 くしゃ。という、卵の殻を潰した時のような音が聞こえた、次の瞬間。

「あああああいてえええええよ! いてえよおおおおお!」

 兄貴と呼ばれた男の人はそう絶叫し、殴られた股間を両手で抑えようとしたところを、

「ぶっ!」

 ゴルフのショットのような動きで振られた播磨くんのバットが男の人の顎にきれいに当たり、そのままのけぞって倒れこむ。今の一撃で脳が揺れてしまったのか、男の人は小刻みに震えているものの立ちあがる様子はなかった。

 そんな男の人を笑顔で見下ろした播磨くんは、くるりと向きを変えると、根本くんの方へと歩き出す。

 今までの光景を全て見ていた根本くんは、もはや涙目だ。

「ま、ま、待ってくれ! 俺は、兄貴の計画なんて知らなかったんだ。俺はそんなことに気付きもしなかった。だからゆ、許してくれ!」

「許さない」

 機械の人工音声よりも無機質な声で、播磨くんは根本くんの懇願をピシャリと断る。

 根本くんの目からは、もうすでに涙が溢れている。

「ご、ごめんなさい。俺が、俺が神無のことを兄貴に話したばっかりに、こんなことになりました! 本気で反省しています! だから許し」

「許さない」

「お、おまえも俺の立場だったら、許して欲しいと思うよな。な! だからゆ」

「許さない」

 とうとう腰が抜けて動けなくなった根本くんの顔は、あまりの恐怖で歪みに歪み、口の中からはカチカチと歯と歯がぶつかる音が鳴っている。

 そんな根本くんにも容赦なく、播磨くんはバットを振りかぶる。播磨くんの視線の先にあるのは、根本くんの頭部だ。そこであたしは、もう一度思い出す。人は鈍器で頭を殴られただけでも、最悪死んでしまうことを。

「や、やめ……」

 根本くんが震える声で言う。あたしも止めるように言わなきゃと思いつつ、播磨くんが今もなお浮かべる笑顔を見て身体がすくんでしまう。

 あたしの言葉で、播磨くんが止まってくれるだろうか。

 そう考えたあたしは、首をブンブンと振って、今さっき浮かんだ自分の否定的な考えを打ち消す。

 できるかどうかじゃなくて、あたしがやらなきゃ!

 そう思ったあたしの頭に、ある言葉が浮かぶ。どうしてその言葉が浮かんできたのか、上手く説明はできないけど、その言葉を播磨くんに言わなきゃ、あたしはきっと後悔すると思った。

 だから、あたしは播磨くんに向けて、大きな声で言った。

「播磨くん!」

 あたしの声に、播磨くんの動きが止まったのを見て、あたしは続けて言う。


「『人からして欲しいと思うことは全て、人にもしなければなりません』!」


 あたしがそう言った次の瞬間。播磨くんの手にしたバットが振り下ろされる。

 一瞬の間の後。

 カーンと乾いた音が響き、続いて、バットが床に落ちて跳ね返る音が断続的に鳴る。

 播磨くんの握っていたバットは、根本くんの身体には当たらず、そのまま床をころころと転がっていく。播磨くんの顔には先ほどまでの笑顔はなく、いつもの学校で見る無表情に戻っている。

 張りつめた緊張が途切れ、根本くんの身体が一気に脱力する。

 播磨くんはそんな根本くんを無視して、無言で近くに落ちていたナイフを拾うと、あたしの方に来る。そしてそのナイフで、あたしの足や手を縛っていたガムテープを切ると、それを取り始めてくれる。

 播磨くんは何も言わず、あたしも何も言わない。

 そして全部のガムテープを淡々と取り終えた播磨くんは、あたしの手を取ってあたしを立ち上がらせてくれると、一言、

「行こうか」

 と言った。

「うん」

 あたしは頷き、二人で用具倉庫の扉を開ける。そうしてあたし達は、用具倉庫の中に根本くん達を残したまま、そこを後にした。


           *      *      *


 播磨くんはあたしの手を取りつつ、ゆっくりと広い体育館の中を歩きながら、あたしに話し始める。

「僕ね、本当は、戦うことが大好きなんだ」

 その言葉に、あたしは不思議と驚いたりはしなかった。

 さっきの播磨くんの姿が、播磨くんの笑顔が、今でも頭の中に鮮明にあるからだ。

「僕のお父さんが伝道者じゃないって話は、前にしたよね」

「うん」

 あたしは播磨くんを家に上げた時の、あの播磨くんのこわばった表情を思い出しながら頷く。

「僕のお父さんは自衛隊で働いていてね。古武術を中心に、色々な戦い方を知っている人なんだ。それで、僕も小さな頃から、お父さんに色々なことを教わった」

 それから、播磨くんは止まることなく話し続ける。広い体育館を出口に向かって歩く間に、あたしは播磨くんの過去について知っていく。

 播磨くんが言うには、播磨くんは末っ子長男で、初めてできた息子を、播磨くんの父親は大いに可愛がったという。その一方で、播磨くんを強い男にするために、古武術や軍式格闘術、さらには外国に行って実銃の撃ち方までも教えていったという。

 播磨くんもそうした武術などの戦い方を身に着けるうちに、段々と戦う力を身に付けることが、そして戦うことそのものが好きになっていったらしい。

「武器を持って戦う練習をすることが楽しかった。戦い方を覚えて、それをどう使うか考えるのが好きだった。武術の試合で、力ずくで相手を圧倒して打ちのめすのが快感だった……」

 ただ、播磨くんの母親は、そのことをよく思ってはいなかったようだ。それもそうだろう。戦い方や武器の使い方を学ぶことは、聖書に反することのはずだ。

 それは播磨くん自身も、幼いながらに分かっていて、父親と母親のどちらの教えに付くか、葛藤したという。

 そんな中、播磨くんは小学校五年生の時に、ある武術大会に出たのだという。

「お父さんに教わった通りに戦って、準々決勝までいったんだ。でも、準々決勝の試合で僕は劣勢でね、その上続けざまに殴られて頭に血が上った僕は、反則になるのもお構いなしに、ルールなんて無視して、相手を徹底的に痛めつけてしまったんだ」

 結局その試合は審判に止められて、播磨くんは失格。相手の子は、播磨くんとの戦いのケガで病院に運ばれ、次の試合は出られなかったという。

「お父さんは別に怒ることもなく、よく戦ったな、まあ次は頑張れ、って言っただけだったんだけど」

 そう言う播磨くんの顔がより一層曇る。

「観客席で見ていたお母さんの悲しそうな表情が見えてね、その時思ったんだ。ああ、きっと僕が学んでいる聖書の神様も、僕の戦う姿を見て、お母さんみたいな顔をして悲しんでいるんだろうなって」

 それから播磨くんは、今まで以上に聖書の勉強をして、戦うことから遠ざかれるよう、二度と他人を傷つけることがないよう、努力していったという。

「もちろんお父さんは、僕が今まで身に着けた武術とかを捨てることや、聖書の伝道者になることにはすごく反対したよ。話し合いで解決できなくって、殴る蹴るの親子喧嘩みたいにもなったかな」

 まあ、僕はもう暴力はしないと決めていたから、僕が一方的にボコボコにされただけだったんだけど、と播磨くんは自嘲気味に呟く。

「何とか根負けさせる形で、しぶしぶお父さんを諦めさせてね。それからは、聖書に書いてある通りのことを守り行える生活ができるよう、お母さんと一緒に色々頑張ったんだ。聖書の伝道活動をいっぱいやって、聖書の雑誌も今まで発行されたものは全部読んで、伝道者の経験が豊かな年上の伝道者の人達とたくさん会って、聖書を学んだおかげで得られた良いことの話もいっぱい聞いた」

 そこであたしはようやく気付く。播磨くんの声が震えていることに。

「小学六年生の時に、伝道者として周りの人から認められて、とても、嬉しかった。これでやっと、良い人として、エホバ神にも、認めてもらえる。そう思っていた、けど!」

 播磨くんの両目から、いつの間にか、大粒の涙がこぼれ落ちていることに、気付く。

 あともう少しで体育館の入り口の扉に触れるのに、播磨くんは身体をくの字に折り曲げて立ち止まってしまう。

それでも、苦しそうな声で、播磨くんは話し続ける。

「だめ、だった。どうしても、我慢でき、なくって。あの人達に、殴られて、蹴られても、我慢できる、はずだったのに。聖書を学んでいるから、暴力は、振るわない、はずだったのに」

 嗚咽混じりの絞り出すかのような播磨くんの言葉を、あたしはただ黙って聞く。

「力を使うことを、戦いたいという気持ちを、抑えることが、できなかった。殴ったり、する間に、だんだん、楽しくなって、笑って、しまって。……やっぱり、むだ、だったんだ。僕が、いくら、聖書を学んでも、どんなに、良い言葉を聞いても、むだ、だった。やっぱり僕は、エホバ神には認めて、もらえない、悪い人なんだ」

「それは違うよ!」

 ほとんど反射的な言葉だった。あたしの口は、次になんて言うかも考える前に喋り出していた。

 播磨くんの努力がむだだったなんて、播磨くんが聖書から見ても神様から見ても悪い人だなんて、そんなことは絶対に間違っているとあたしは思う。

「播磨くんはさっき止まったじゃない。あたしの言葉で」

 正確にはあたしの言葉ではなく、播磨くんが教えてくれた聖書の言葉でだ。つまり、播磨くんの心の中には、聖書の言葉がきちんと身に着いている。

「それに最初は、播磨くんは言葉だけで解決できるよう、頑張ってた」

 播磨くんは今回のことには無関係で、播磨くんは何も悪いことをしていない。それなのに土下座までして、できる限り穏便にすませようとした。播磨くんほど腕っぷしが強ければ、最初から力ずくで解決することもできたのだろうに。でも、播磨くんはそうしなかった。

 それは、聖書の言葉を信じて、それを守り行おうとしている播磨くんだからこそ、できたことだ。

「だからね、播磨くん」

 あたしは、まるで幼稚園児のように泣く播磨くんの顔を、じっと見つめる。

 そして、あたしが幼い頃によく泣いていた時、母がいつもしてくれていたように、あたしは播磨くんの両手をそっと優しく握る。

 あたしの顔を見て、播磨くんの嗚咽が一瞬止まる。それを見てあたしは言う。


「播磨くんが今まで学んできたことは、少しもむだじゃなかったんだよ」


「うっ、ぐぅ……あああああ」

 あたしの言葉を聞いて、播磨くんはまた、泣き出してしまう。

 でもそれは、辛いから泣いているんじゃないと、あたしは信じたい。

 たとえ、誰かが播磨くんの今までの努力を否定しても、あたしは播磨くんのことを絶対に否定しない。だから、今は泣けるだけ泣いていいんだよ。

 あたしは泣き続ける播磨くんの背中をさすりながら、そんなことを思っていた。

 そうして、播磨くんがしばらくの間泣き続け、その泣き声よりも、外にいる鳥の鳴き声の方が大きく聞こえるようになった頃。

 あたしと播磨くんは並んで、体育館から校門近くへと続く長い渡り廊下を歩いていた。

「あのね、播磨くん」

 周りに誰もいないこの場所で、あたしは隣にいる播磨くんにだけ聞こえる小さな声で話す。

「なに、小野寺さん」

 播磨くんは歩くのを止めて、あたしの言葉に耳を傾ける。

「この前映画を見に行った後のカフェで、話題に上がったのに、全然話ができなかった、あたしの名前の話、憶えている?」

「小野寺さんの名前の由来、だっけ?」

 あの時は話せなかった、あたしの秘密。

「そう。…………あたしの家って、あたしとお母さんの二人だけで、お父さんはいないの」

「……そう、なんだ」

 播磨くんはあたしに合わせて、小さな声で相槌を打つ。

「あたしは小さいころからそのことが不思議で、でもお母さんは大きくなったら話すねっていつも言っていて、それでもあたしはどうしてもそのことが知りたくてね」

 そして、小学校を卒業した後の、ちょうどあたしの身体に初潮がきた時、あたしはそのことを母に告げ、もう一度母に尋ねた。

「あたしのお父さんはどんな人? って聞いたんだ」

 大人になった。いや、なったと思っていたあたしは、そう聞いてしまった。母は、最初はためらっていたけど、心を決めて話してくれた。あたしが生まれた経緯を。それも、泣きながら。

「あたしのお母さん。若い頃に、たくさんの男の人に囲まれて、むりやり乱暴されたことがあるの」

 あたしの母の、そして、あたしの誕生へと繋がる暗い過去を、あたしは話す。

「その時にできたのが、あたしなんだって」

 その瞬間、隣の播磨くんが息を吞む音が聞こえた。

「お母さんはその時の出来事を、なかったことにしたくて、誰にも言えず黙っていて。でも、あたしがお腹の中にできたことが分かって、また悲しくなって泣いて」

 その事実を、涙を流しながら教えてくれた母の顔を、あたしは一生忘れることはできないだろう。

「それでお母さんはこう思ったんだ。この世の中には神様はいないんだ。私のことを見守ってくれる神なんて、存在しないんだ、って。だからもし、自分のお腹の中の子どもが生まれたら、こう名付けてやろうって」

 あたしはそう言いながら、自分がかつての母と同じように涙を流していることに気付く。播磨くんもそれに気付いているようだったけど、あたしはそんなことお構いなしに、自分の名前の秘密を告白する。


「神なんて無い。だから、神無かんな。それが、あたしの名前の由来」


 そう告白した瞬間、さっきの播磨くんみたいに、あたしはボロボロと涙をこぼす。

 ……言ってしまった。ほんの数か月前までは、あたしと母しか知らなかった、おそらく、あたしにとっても大事な秘密を。

 それでも、あたしはこのことを播磨くんに伝えたかった。

 播磨くんが、自分の辛い過去をあたしに話してくれたように、あたしも、自分の過去を話したかった。辛いことは誰にでもあるんだよって。だから播磨くんも一人じゃないよって、そう伝えたかった。

 播磨くんはあたしの話を聞いて色々と考えていたようだけど、すぐに考えるのを止めてあたしにこう言う。

「ありがとうね、小野寺さん。自分のこと話してくれて」

 たぶん。それが今の播磨くんに言える精一杯の言葉だったんだと思う。

 それでいい、とあたしは思う。

 あたしと播磨くんにはお互い秘密があって、でも今日、それをお互いに告白し合った。それでもまだまだ、お互いのことで知らないことはあるだろう。でも、あたし達は少しだけ分かり合ったはずだ、あたし達は一人じゃないんだってことを。

「播磨くん」

「小野寺さん」

 お互いに名前を言い合い、どちらともなく互いにそばに寄る。

 あたしと播磨くんが見つめ合い、お互いの顔が近づく。播磨くんの手が、あたしの頬に触れる。播磨くんの指が、あたしの涙をそっと拭う。

 あ。これって、ドラマや小説でよく見たことのあるシーンかな?

 そんな考えが頭をよぎり、あたしが緊張して目をつぶろうとしたその時、

「いて」

 播磨くんの頭に、麻耶ちゃんがいつも使っているバッグが直撃した。

「え? …………ええ!?」

 あたしは状況が理解できず、もう一度、今起こったことと、地面に落ちたバッグをゆっくりと確認する。

 うん。やっぱり間違いない。

 何度確認しても、播磨くんの頭に直撃したのは、見覚えのある麻耶ちゃんのバックだ。

「って、何で麻耶ちゃんのバッグが飛んできたの?」

 あたしがそう言って、バッグが飛んできた方向を振り返ると、そこにはバックを投げた身体制のままの麻耶ちゃんがいた。

「ちょっと播磨くん! 神無が泣いているんだけど、どういうこと!?」

「「え?」」

 麻耶ちゃんのそんな言葉に、あたしと播磨くんは揃ってそんな声を上げる。そしてあたしは慌てて麻耶ちゃんに声をかける。

「ち、違うの麻耶ちゃん。あたしが今泣いていたのは、播磨くんのせいじゃなくって」

 まず~い。もしかして麻耶ちゃん、あたしが播磨くんにひどいことをされて泣いているんじゃないかって勘違いしているのかも。

 あたしがそう考えてさらに説明を続けようとした時、あたしはふと気付く。あたしのその考えが間違っていることと、麻耶ちゃんがあたし達と同じように涙を流していることに。

「……まったく。今日は一緒に買い物に行くつもりが、私が播磨くんのところに行っといでって言ったばっかりに、いつの間にか神無は誘拐されちゃうし。それで後を追って、播磨くんを呼んで、体育館の中に播磨くんが入っていって。でも、しばらく経っても何もないし誰も出てこないし。もしかして二人とも中でひどいことをされているのかもって考えが頭に浮かんで。そしたらなぜか播磨くんの泣き声が聞こえて、余計に嫌な想像しちゃって。それで二人とも外に出てきたから、急いでタクシーに電話して。そうしている間になぜか神無は泣いているし」

 本当になんなのよあんた達は~と言いながら、麻耶ちゃんはあたしに抱き着く。

 その麻耶ちゃんの様子を見て、あたしはすぐに理解した。

 麻耶ちゃんが今日一日、あたしのためにどんな思いでいたのかを。この親友の機転と行動力のおかけで、あたしがどれだけ救われたのかを。

「ありがとう。ありがとう麻耶ちゃん」

「神無~」

 あたしは麻耶ちゃんの身体を強く抱きしめながら思う。

 この親友が、あたしの友達で本当に良かったと。この親友が、あたしは大好きだと、改めて強く思った。

「あ、タクシーが来たんじゃないかな」

 播磨くんがそう言うまで抱き合っていたあたしと麻耶ちゃんだったが、その言葉を聞いて、お互いにすぐに離れる。

「行こう神無。播磨くんも」

 ほんの少しだけ恥ずかしい表情をした麻耶ちゃんは、そう言って校門の前に停まったタクシーへと駆け寄っていく。

 あたしもすぐに後を追いかけようとしたところで、

「あー、えーと」

 播磨くんがものすごく慎重に言葉を選びながら、気まずい表情であたしに声をかける。

「さっきの僕の話なんだけど。そのー、他の人には内緒にしてもらっていい?」

「もちろん」

 あたしは即答する。播磨くんの過去のことを、あたしが勝手に他の人に言うわけがない。

 それに、ほんのちょっとだけ、あたしは嬉しかった。今まであたしが一緒にいた播磨くんは、普通の中学生と違って大人びていて、あたしなんかが一緒にいたら不釣り合いじゃないかと思っていたけど。

「播磨くんも、普通の中学生らしいところもあるんだね」

 あたしが麻耶ちゃんのもとに駆けながらそう言うと、播磨くんにしては珍しい、いたずらっ子みたいな表情で、あたしを追いかけながらこう言った。

「え? 僕ってごく普通の中学生じゃないの?」

 播磨くんはそう言って微かに笑う。

 今日初めて、播磨くんの笑った顔を見たかも。

 あたしは心の中で、そうだね、播磨くんもあたしと同じ普通の中学生だよ、と思う。

 でも、播磨くんのしたり顔な笑みを見て、あたしも負けじとしたり顔になりながら、こう言ってあげた。

「それは絶対ない」

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