第1話 第三章 なんとなく聖書を学ぶことがいいことだってのは分かったけど、やっぱり「何で」は止まらない件。

第三章 なんとなく聖書を学ぶことがいいことだってのは分かったけど、やっぱり「何で」は止まらない件。


 東京の二十三区内にある、とある主要ターミナル駅の目の前。ちょっとした公園のような広場になっているこの場所で、私は今、待ち合わせをしている。

 待ち合わせの相手は、親友の麻耶まやちゃん、それとまさかの播磨はりまくんだ。

 あの後、あたしと麻耶ちゃんと播磨くんは、具体的な集合場所と時間を決めて、お互いの都合が大丈夫かなどを連絡し合った。そうして今日、あたしはこの待ち合わせ場所に立っている。

 今日の服装はいつもの制服とは違う。それもそのはず。きょうは休日で、ここに来た理由は映画鑑賞と街中めぐりだからだ。約束の時間の少し前に着いたあたしは、とりあえず今の自分の服装を再度チェックする。

 上はいつも家で着ている黒いシャツの上から、夏仕様の涼感タイプのカーディガンを羽織り、腕まくりをして肘まで肌を出している。一方下は、デニムのショートパンツを穿くといった具合のコーディネートだ。

 黒シャツとショートパンツはあたしのだけど、カーディガンは麻耶ちゃんから借りたものだ。あたしの私物には、夏に着るカーディガンのようなお洒落なものはない。

 ちなみに下着は、あたしが普段から穿いている白のパンツとジュニアブラを身に着けている。

 実はこの下着のことで、昨日、麻耶ちゃんとひと悶着あった。

 というのも、麻耶ちゃんはその時のあたしとは正反対の高いテンションで、あたしのことを着せ替え人形のようにするだけでは飽き足らず、あたしが今日身に着ける下着までコーディネートしようとしたのだった。

 まあ、いくらあたしよりオシャレで大人っぽい麻耶ちゃんとはいえ、今日一緒に行動するのが播磨くんだからちょっと大胆に攻めてみよう、というような気持ちは一切ないんだろうけど。あたし達まだ中学生だし。

それで、麻耶ちゃんが言うには、

「いい神無。できる大人はね、見えないところにこそお洒落に気を遣うものなのよ」

 ということらしい。

 いや、言おうとしていることはなんとなく分かるんだけど、さすがにそこまでは必要なくない、とあたしは思った。

 たしかに、あたしのお母さんなんかも、色付きのオシャレな下着を持っていることはあたしも知っているし、これが大人の女性なのか~と漠然と考えてみたことはある。

 まあ下着の話は別として、もしもあたし一人だけだったら、こんなお洒落はできないわけで、その点については本当に麻耶ちゃんには感謝しているんだけど。

 ただ一点。あたしの今のブラジャーのサイズを見た麻耶ちゃんが、「わたしが小学生の頃のと同じくらいか」と呟いたことだけは、唯一許せないと思っている。いや、麻耶ちゃんも大きくしようと思って大きくなったわけではないんだろうけど、何というか、女子として、親友として、同級生として、……ずるい。

「ていうか、麻耶ちゃんもよく普段から色付きの下着を着けられるな~と思うよ」

 普段着の時ならまだしも、色付きのブラジャーを普段の学校で身に着けるなんてことは、あたしには真似できないことだ。


理由は簡単。理由というか問題なのは、あたしの学校の制服にある。

 下はまだいい。女子はスカートを穿かなければならない。が、しかし。あたしの学校の女子は、都会の高校生が穿いているような、いわゆるミニスカートではなく、ひざ下二十センチ以上あるロングスカートを穿いている。もともと校則でそうするように決まっているし、このおかげで、階段の下から覗かれようが、強風が吹こうが、たいていの場合は大丈夫というわけだ。

 で、問題は上。四月と五月は大丈夫なのである。今日着ているような色付きのブラジャーを着けていようが問題ない。なぜならブレザーを着るから。でも今は六月。衣替えの期間も終わり、全生徒が夏服になった。つまり女子も男子も白シャツ姿になる。

 となると、どうしても色付きの下着は、白いシャツでは透けてしまい、うっすらとだがブラの形も色も見えてしまうのである。

 あたしの学校では、麻耶ちゃんのように発育のいい女子も何人かいる。が、夏服になってからというもの、クラスの男子の視線が、どうしてもそうした女子の胸の方に集中しているんじゃないかとあたしは思う。

 何であたしが男子の視線に気を使わないと行けないのよ? と、そんなことを思いつつ、仕方なくあたしは、夏服の間は白くて地味なジュニアブラを着けている。

 ……というか、何で男子は女子の胸ばかり見るのだろう? 少し前に流行ったアニメ映画でも、イケメン主人公が最後にはヒロインの住む町のみんなの命を救うというとてもかっこいいことをするのに、話の途中では身体が入れ替わった女の子のおっぱいをさわる場面が何度も出てくる。

 まったくもって男子は謎だ。

「って、何であたしはここまで来てこんなことを考えているんだろ」

 あたしはそう呟いてから、待ち合わせまで後少し余裕があるものの、誰か来ないかなあと駅の改札口の方を見る。

 するとその改札口には、あたしが播磨くんの母親からもらった雑誌と同じ雑誌を紹介している人達がいる。キャスター付きのカートをすぐ脇に置いて、そのカートのポケットの中に入っている雑誌や小さなパンフレットを、道行く人に声を掛けたり掛けられたりしながら渡しているその人達は、たぶん、播磨くんやその母親と同じ聖書の伝道者なのだろう。

 そういえば、最近の伝道者は家から家への伝道活動だけではなくて、こうやって駅前や人通りの多い場所で、カートを置いて行う伝道活動もしているって、播磨くんが言っていたっけ。

 あたしは目の前にいる、おそらくこの地域で伝道活動をしている伝道者の人達を見ながら、ふと、播磨くんもこうした活動を行っているのか気になった。

 まあ、播磨くんの説明を聞いている限り、たぶん播磨くんも同じようなことをやっているのだろうとは思うけど。……今日話す機会があったら聞いてみればいいよね。

 あたしがそんなことを考えていると、あたしのバッグの中にあるスマホが振動する。どうやら誰かから連絡がきたらしい。あたしはすぐにスマホを手に取り、今来たばかりのメールを見て、叫んだ。

「何で!?」

あたしの突然の叫び声に、一瞬だけ周りの人の視線が集まるが、それもすぐになくなる。

 都会独特の他人への関心の薄さのおかげで、大した恥ずかしさも感じずに済んだあたしは、メールを打つ手間も惜しんで電話をかける。

 プルルルルという音が三回ほど鳴った直後、電話先の相手がのん気な声で名乗る。

「もしもし、鷹橋たかのはし麻耶でーす」

「麻耶ちゃん。今日は来れないってどういうこと?」

「おっ。その様子だと、神無はもう無事に集合場所に着いたみたいね。どう?播磨くんはもう来ている?」

「いや、まだだけど。それよりも、何で今日は来れないなんて連絡してきたの?」

 麻耶ちゃんから来たメールには、今日は来れなくなったという内容しか書いていなかった。説明が全くないというのは、たとえ親友といえども、いくらなんでも問い詰めざるをえない。

「んーと、そうねえ……」

「待って。今、理由を考えているってことは、特にないんでしょ」

「バカねえ、あるに決まってんでしょ」

「それなら言ってみてよ。正直に本当のことを」

 付き合いの長い麻耶ちゃんの嘘なら、あたしは電話越しでも見破る自信がある。

 麻耶ちゃんもそれは分かっているようで、ため息交じりの声で答える。

「分かったわよ、神無。正直に言うわ。一言で言うとね、播磨くんと二人きりのデートを楽しんできなさいってことよ」

「今すぐ来て。遅れてもいいからなるべく早く!」

 どうしてこの親友は、こうもお節介なのだろうか。

「あんたねえ。もう中学生なんだから、男の子との二人きりのデートの一つや二つ、経験しときなさいよ」

 いやいや、むしろ中学生になったからこそ、男子と話すのに気を遣うんだってば。

「むりだよ麻耶ちゃん。あたし一人じゃ会話が続かないって」

 もちろん、今日はどんな会話を播磨くんとするかは、前日の夜に寝不足になるくらい考えて準備をしてきた。けれどもそれは、麻耶ちゃんがいるからこそ成立する話が多く、その麻耶ちゃんが来ないとなると、あたしの準備したものが、土台からなくなることに等しい。

「大丈夫だって、神無ならやればできる子だから。あ、そろそろ集合時間じゃない?播磨くん、もう神無の近くまで来ていたりして」

「そんな適当なこと言って」

「ごめん。待たせちゃったかな小野寺さん」

「ひゃっ」

 突然声をかけられたあたしは、そんな情けない声を上げて、あやうくスマホを落としそうになる。

 慌ててスマホを掴みながら視線を向けると、そこには私服姿の播磨くんが立っている。

 緑と黒のチェック柄のシャツに、下は藍色の長いジーンズという、どこにでもいる一般的な男性が着るようなシンプルな服装だ。ただ、うちのクラスでも二番目に背の高い長身の播磨くんが、いつも見慣れている制服の姿とは違う服装をしていると、なんだかあたしなんかよりもちょっと大人に見える。いや、同い年なんだけどね。

 あたしがそんな播磨くんの姿に見とれていると、あたしに対して播磨くんが心配そうに声をかけてくる。

「えーと、小野寺さん。僕の今日の服装、どこか変かな?」

「全然。全然変じゃないよ。ただいつもの制服じゃないから見慣れてなくって」

 あたしがそう言い返すと、播磨くんの表情が少し柔らかくなる。

「そっか、良かったよ。小野寺さんの服も、いつもの制服と違って、なんていうか少し大人っぽくって素敵だね」

「そ、そう。ありがとう」

 播磨くんの褒め言葉に、あたしは何とかお礼を言う。

 とりあえず麻耶ちゃんには後で会ったら全力で感謝だ。

 あ。そう言えば、麻耶ちゃんからのメールの内容を、播磨くんに伝えなくっちゃいけない。

 あたしがそのことを思い出したその時、

「あらあら英理矢えりやったら、そんな簡単に女の子を口説いて」

「ふわああ!」

「うわああ!」

 突然の声に、あたしだけでなく播磨くんまでもが変な声を上げて驚く。そしてあたしは、その声を発した主の顔を見て二度驚く。

「って、播磨くんのお母さん!? 何でここにいるんですか?」

「ええ? お母さん? ……何で? 何でここにいるの?」

 どうやら播磨くんも、自分の母親がここにいることは想定外だったようで、心底驚いた表情になっている。

 普段は冷静な播磨くんですら取り乱す様子を見て、播磨くんの母親は、いたずらっ子みたいな表情で答える。

「ふふ。来ちゃった」

「『ふふ、来ちゃった』じゃないよお母さん。どうしてお母さんがこの場所を知っているのさ?」

「それはもちろん、家を出た時から後をついてきたのよ」

「……家を出た時から、ずっと?」

 あまりの事実に、播磨くんが絶句してしまう。

 というか、播磨くんの母親の行動力半端ないな。なんか、あたしの親友と似たものを感じてしまう。

「えーと、播磨くんは今日のこと、お母さんになんて言ってたの?」

「いちおう、小野寺さんと鷹橋さんと一緒に出掛けるとだけ言って、詳しいことは何も話さなかったんだけど。……でもまさか、お母さんがここまでついてくるとは思ってなくて。……ごめんね小野寺さん」

「大丈夫だよ、気にしないで播磨くん」

 少なくとも、播磨くんに何か悪気があってのことではないことが分かって、あたしはほっとしているくらいだ。

「そういえば鷹橋さんって言ったかしら、彼女はまだ来ていないの?」

 動揺するあたし達を尻目に、播磨くんの母親は辺りをきょろきょろと見まわす。

「あ! そうだ麻耶ちゃんとの電話」

 あたしがスマホの画面を見ると、麻耶ちゃんとの通話はすでに切られていて、あたしはもう一度麻耶ちゃんとの連絡をとろうと電話をかける。

 が、麻耶ちゃん電話に出ることはなかった。

 播磨くんと播磨くんの母親が心配そうにこちらを見るので、あたしは短く結論だけを二人に告げる。

「え~と、麻耶ちゃ……鷹橋さんは都合により来れないそうです」

 あたしは来て欲しいと伝えたけど、おそらく麻耶ちゃんは来ないだろうということは、あたしの経験上分かっている。

「あらまあ、それは残念ねえ。小野寺さんもだけど、鷹橋さんという子にも会ってみたかったのだけれども」

 相変わらずのマイペースな調子で話す播磨くんの母親。

「それにしても英理矢。もし私が来なかったら、小野寺さんと二人きりだったみたいだけど。その場合はどうしていたつもり?」

「そんな場合は考えていなかったよ。……お母さんが尾行してくることと同じくらいに」

「そうなの? まったく英理矢ったら、まだまだ子どもね。考えが足りないわよ」

 というか、中学生の息子に対して、その母親がストーキングしてくることを予想できる人は、大人でもいないと思いますけど。

「あー小野寺さん。たぶんなんとなく分かってくれているとは思うんだけど。僕のお母さんはこんな性格だから、今日一日僕達にくっついてくると思うんだけど、どうしようか?」

 これから楽しみにしていたはずの映画鑑賞へと行くというのに、今までのあたしが見たこともないくらいの、ウンザリとした表情の播磨くんが申し訳なさそうに言う。

「え~と、うん。大丈夫だよ。あたしも播磨くんのお母さんのこと、嫌じゃないし」

 掴みどころがなさ過ぎて、いまいち苦手な人ではあるけど。

「ちょうど麻耶ちゃんも来れなくなったみたいだし、その、播磨くんが嫌じゃなければ、あたしは播磨くんのお母さんが一緒でも構わないから」

「そっか。ありがとう小野寺さん」

 ほんの少しだけホッとした表情になった播磨くんがそう言うと、その脇にいた播磨くんの母親が笑顔になる。

「まあ。小野寺さんにそう言ってもらえて嬉しいわ。それじゃあ行きましょうか?」

 播磨くんのお母さんはそう言ってあたし達の前を歩きだす。

 こうしてあたしと播磨くんと播磨くんの母親という、奇妙な組み合わせでの映画鑑賞が始まった。


           *      *      *


 映画館の中に入り、三人分のチケットとポップコーンを買った(お金は全員分播磨くんのお母さんが出してくれた)あたし達は、見たい映画の上映される番号の劇場へ入った。

 室内の照明が落とされ、映画の本編前に流れるCMや予告映像を見ながら、あたしは横目で播磨くんの顔を見る。

 播磨くんの表情は、先ほどまでのウンザリした表情ではなく、かといっていつも学校で見慣れている無表情でもなく、小学生が見たいテレビ番組を見ている時のような、子どもらしい表情をしている。

 まあ、同い年のあたしが、子どもらしいなんて思うのも変な感じなんだけど。

 あたしがそう心の中で呟いていると、視線を感じたのか、播磨くんの顔がこちらを見ようと動き出す。

 播磨くんの顔をじっと見ていたことがバレてはまずいと思い、あたしは目線を前にすればいいものの、慌てたせいで視線を播磨くんとは反対方向に向けてしまう。

 するとそこには、あたしのことをじっと見つめる播磨くんの母親の笑顔があり、視線もバッチリと合ってしまう。

「っ!?」

 ちょっとおおお! 何でこのお母さんは、映画の上映中にもかかわらず、あたしの方に視線を向けているの!?

 映画館の中ということもあり、あたしが心の中でしか叫びをあげられずにいると、あたしの視線の反対側から、小さな声が播磨くんの母親へと飛ぶ。

「ちょっとお母さん。上映中はこっちを見ないで」

 播磨くんの声だ。どうやら播磨くんは、横目で播磨くんの顔を見ていたあたしではなく、がっつり顔を向けてあたしと播磨くんの方を見ていた自分の母親の視線を感じて、こっちを向いたらしい。

 播磨くんの母親は笑顔のまま口の動きだけで、はいはいと呟くと、大人しくスクリーンの方へと顔を向ける。……絶対この後、何回かこっちを見そうだけど。

 ちなみに、今のやり取りで分かることだけど、座席は通路側から、播磨くん、あたし、播磨くんの母親という順番で座っている。

 最初は、播磨くんの母親が、あたしと播磨くんの間に座りたーい、と言っていたんだけど、

「お母さんの隣に座るくらいなら、僕は映画を見ませんよ」

 という播磨くんの冷徹な一言で、今の席順に決まった。あと、その一言を聞いた播磨くんの母親はちょっと涙目になっていた。

 前に家に二人が来た時にも思ったのだけど、播磨くんは妙に自分の母親に冷たいところがある気がする。年頃の男の子はみんなそうなのかな?ドラマとか小説とかでもだいたいそうだし。

 あたしなんかは、中学生になった今でも、お母さんのことは大好きなんだけどな~。

 まあ、そんな播磨くんのおかげで、あたしは播磨くんの隣に座ることができたんだけどね。

 そんなことを考えている間に、目の前のスクリーンには映画の本編が映し出される。

 眼前に飛び込む、迫力ある大自然に、そこで生きるたくさんの生き物たち。海を泳ぐ魚に、それを追いかけるペンギン。広大なサバンナを、様々な危険を乗り越えて渡るシマウマの親子。一日の大半の時間を使って笹の葉を食べ続ける親のパンダを置いて、一人森の中の冒険へと歩き出すパンダの子ども。季節が変わり、溶けだした雪山や氷河の氷が割れる様子。そしてその割れた氷海から顔を出すイッカク。忙しなく動き回っては、花の蜜を吸うハチドリ。そのハチドリと蜜の奪い合いをするミツバチが、突然の大雨に打たれて落ちていく。やがて夜になり、暗闇を切り裂く雷鳴と共に飛び立つコウモリの群れ。真っ暗な海の中で狩りをするサメ。天空を無限の色彩で彩るオーロラの映像。そしてそのオーロラよりも明るく闇夜に輝く、人間達の作り出した都会の夜景。

 同じ地球にいるとは思えない様々な生き物達が、あたしと同じ一日を生きている。

 当たり前のその事実を、あたしはその映画を見ながら再確認する。と同時に、そのことに感動し、それを誰かに話したくもなる。

 もし隣にいるのが麻耶ちゃんだったなら、上映中でも小声でお互いに感想を言い合うのだけど。そんなことを考えたあたしは、上映していた中でも特に感動的な場面が流れた時、あたしはもう一度だけと心の中で言いながら、播磨くんの方へと視線を向ける。

 すると、播磨くんもその場面の映像で心を動かされたのか、さっき以上の子どもらしい表情をしていた。

「播磨くんも、あたしと同じところで感動するんだ」

 ついうっかり口を滑らすあたしだったが、ちょうどその時大音量のBGMが流れたおかげで、あたしの声はかき消される。

 危ない危ない。でも、播磨くんのこんな顔が見られるなんて、今日一緒に行こうと言ってみて本当に良かった。

 あたしはそう思いつつも、後で播磨くん達と映画の感想を話せるよう、映画の方に意識を集中させていった。


           *      *      *


「いやー、いい映画だったわね」

 劇場を出ながら、播磨くんの母親が開口一番、映画の感想を話し出す。

「そうですね~。動物達もすごく可愛かったですし」

 ここぞとばかりに、あたしは昨日から練習してきた映画の感想を言って話を合わせる。

「そうそう。私は、まるでダンスをするみたいに、森の木で背中をこするヒグマの姿が可愛いと思ったわ。小野寺さんはどう?」

「あたしもヒグマは可愛いと思いました。あ。でも。都会の中で暮らすアライグマが、からっぽの植木鉢の中に入って転がるシーンが最高に可愛いと思いましたよ」

 あたしは話をしながら、播磨くんとその母親の顔を見る。二人とも、あたしの話に一つ一つ頷いて聞いてくれている。

 よし。反応は上々だ。これなら、上映中に三回ほど播磨くんの横顔を見ていたことには、二人とも気付いていないでしょう。

「そうねー。映画の中に出てくる動物達も可愛かったけど、映画の映像に釘付けになっている小野寺さんと英理矢の横顔も、同じくらい可愛かったわよ」

「やっぱりこっちを見てたのお!?」

「やっぱりこっちを見てたんだ……」

 満面の笑みでそう言う播磨くんの母親の言葉に、思わずあたしと播磨くんがハモってツッコミを入れる。

 そうか。やっぱり映画中に何度か感じた視線は、播磨くんの母親のものだったのか。

 ……あれ? 待って。ということは、もしかして播磨くんの方に視線を向けていたこともバレているんじゃ?

 あたしがそんな不安を感じ、播磨くんの母親が何か言い出さないかと警戒していると、全くノーマークだった播磨くんの方から、あたしへと質問が飛ぶ。

「そういえば、小野寺さんも何回か、上映中に僕の方を見ていたようだけど。何か言いたいことでもあったのかな?」

「ええ!? な、何にもないよお」

 うそおお。播磨くん自身にもバレているなんて。やっぱり播磨くんの方を見るのは一回だけにしておくべきだったかな。って、今はそんなことを考えている場合じゃない。なんとかして言い訳を考えないと。

 あたしがどうやって言い訳をしようかと考えていると、意外にも、播磨くんの母親が、あたしへと助け船を出してくれる。

「あらやだ英理矢ったら。自分の顔にポップコーンの粉がついているのにも気付かないなんて」

 播磨くんの母親は、そう言って自分の唇の右をトントンと指差す。

 その仕草を見て、播磨くんは自分の唇の左を手で拭う。するとそこには、たしかにポップコーンを食べた後についてしまったのだろう、ポップコーンの粉がついている。

「本当だ。そっか。小野寺さんはこれが気になって、僕の方を見ていたんだね」

「そ、そうなの。ごめんね。映画の最中なのに何度も播磨くんの方を見ちゃって」

「別に大丈夫だよ。気にしないで。あ、そうだ。僕はトイレにいってくるけど、二人はどうする」

「あ、じゃあ、あたしも行ってくるよ」

「私も行ってこようかしら」

 どうやら播磨くんはあたしの本心に気付くことなかったようだ。

 あたしはほっと一息ついてトイレに行くと、手早く用を足して洗面所に向かう、

 すると播磨くんの母親もちょうど同じタイミングで洗面所に出てきたようで、二人並んで手を洗う。

「ふふ。小野寺さんたら、気になる男の子の顔を見るのが下手ねえ。こういう時はもっとさりげなく見ないと」

「な、なんですか急に?」

 本当にさりげない会話の切り出しに、あたしは驚いて言葉を返した。

「そうねえ。映画の途中で見た、英理矢の方を見る小野寺さんの顔が、あまりにも可愛かったから、アドバイスをしようかなと思って」

「そう言う播磨くんのお母さんこそ、思いっきり播磨くんの方を見ていたじゃないですか」

「それはもちろん、私は英理矢のことが大好きだから、ついつい見ちゃうのよ。……あら? ということはもしかして、小野寺さんも」

「ち、違いますよ! 全然そんなんじゃないです!」

 播磨くんの母親の言葉を、あたしは全力で否定しながら、視線を目の前のこの人から鏡へとそらす。

 鏡に映し出されたあたしの顔は、情けないくらいに赤くなっている。

「まあ、いいわ。そろそろ出ないと、英理矢も待っているでしょうし。そうそう。この近くにおしゃれなカフェがあるの。ちょっと寄っていきましょう」

 播磨くんの母親はそう言うと、それ以上あたしに追及せず、軽やかな足取りでトイレから出ようとする。

 これが大人の女性かあ。

 先にトイレから出て行った播磨くんの母親の後ろ姿を見て、あたしはそう思うと同時に、心の底から感じたことを呟く。

「あたし。やっぱり播磨くんの母親のこと苦手だな~」


           *      *      *


 播磨くんの母親が言っていたカフェは、映画館から五分ほど歩いた先にある、商業ビルの二階にあった。インテリアとして所々に置かれた観葉植物が目に優しく、全面ガラス張りの窓からは外の都会の景色が見えるものの、窓が開いていないおかげで外の騒音はわずかしか聞こえない、とても雰囲気のいいお店だ。

 昼時はランチも出していたのだろう、店内には様々な料理の匂いが微かに漂っている。今は三時を少し過ぎたおやつ時。あたし達三人は席に着くと、それぞれ好きな飲み物とデザートを注文した。

 播磨くんはブラックコーヒーと抹茶パフェ。中学生にしては渋い組み合わせだと思う。

 播磨くんの母親は紅茶とプリンアラモード。プリンの周りに盛られたフルーツがとても美味しそう。

 あたしは、本当はジュースが良かったのだけど、今日はせっかく都内まで来たので、少し背伸びをして紅茶を頼んだ。ちなみにデザートは、イチゴなどの各種ベリーとそのソースがかかったパンケーキだ。少し前に見た映画の登場人物が都内のカフェで食べていたのと同じものが、まさか現実にあると思っていなかったあたしは、迷わずこれを注文した。

「ん~美味しい~」

 パンケーキの柔らかい生地とベリーの甘いソースが絡み合って……ダメだ、言葉が出てこないほどに美味しい。というか食べるのに集中したい。

「でしょう。私もここのパンケーキは大好きなの。小野寺さんにも共感してもらえて嬉しいわ」

 播磨くんの母親はそう言って顔をほころばせながら、自分のプリンをスプーンですくうと、それを美味しそうに食べる。

 ……こうして見ると、すごく子どもっぽくて純粋そうな人に見えるんだけどな~。

 あたしはさっきのトイレでの会話を思い出しながらそう思う。それと同時に、播磨くんの様子も気になり、視線を播磨くんへと向ける。

 播磨くんはというと、黙々とパフェをほおばりながら、時々コーヒーを飲んでは、またパフェを食べている。

「ねえ小野寺さん。今の英理矢が何を考えているか分かるかしら?」

「ええ!? 何ですか、急に?」

 播磨くんの母親が面白そうにそう尋ねてくるので、あたしは戸惑いつつも播磨くんの様子を観察する。

 う~ん。見れば見るほど、いつもの学校の図書室での表情と変わらない気がする。あ、でも、よく見ると口元の表情がいつもより緩い気がする。

「え~と、予想よりもパフェが美味しいな~、ですかね」

 あたしがとりあえず無難で間違いなさそうな回答を言うと、播磨くんの母親は両手で丸を作りながら言う。

「ピンポーン。正解よ」

「何でお母さんが答えるのさ」

 播磨くんは物凄く不服そうな顔をして、自分の母親の方を見る。

「あら? でも合っているでしょう?」

「だいたいこういうお店の食べ物で美味しくないものなんてそうそうないんだから、そんなのだいたい合っているに決まっているでしょ」

 む。たしかにちょっと無難な回答過ぎたかな?

 播磨くんの言うことを聞いて、あたしがそう思っていると、播磨くんの母親はさらに付け加えてこう言う。

「あと、思っていた以上にパフェの抹茶の風味とコーヒーの香りがマッチしていて美味しいから、コーヒーのおかわりを頼もうかどうしようか悩んでいる」

「そんなことも分かるんですか?」

「それはもちろん英理矢の母親ですもの。当然のことよ」

 自信満々に胸を張る播磨くんの母親の様子に、播磨くんが口をとがらせる。

「勝手に何言っているのさ」

「ふふ。でも合っているでしょう?」

「…………」

 播磨くんの母親の言葉に、播磨くんが珍しく押し黙る。

 へえ。播磨くんが黙るってことは、さっきの播磨くんの母親の言ったことは正解なんだ。

 播磨くんの母親はそんな播磨くんの様子を見て、近くにいたウエイターの人に声をかけてコーヒーのおかわりを注文する。

 自分の息子から一本取ったことが嬉しかったのか、播磨くんの母親は、上機嫌になったようで、明るい口調であたしに話しかけてくる。

「そうそう。小野寺さん。英理矢との聖書レッスンはどう?」

「え~と、どう、といいますと?」

 突然の質問に、あたしはとりあえず、播磨くんの母親が聞こうとしていることの意味を探る。

「ほら、なんだかんだで、私と小野寺さんが出会ってから、一か月が経つじゃない。英理矢と小野寺さんが、楽しく聖書レッスンをしているのかしらと思って」

「あ~、まあ。面白いですよ。色々と」

 そういえば忘れていたけど、あたしに播磨くんとの聖書レッスンを勧めてきたのは、この人なんだっけ。

「聖書って最初は外国の人が読むものだと思っていましたけど、日本人にも馴染みのあることわざや、アニメやゲームの元ネタになっているものもたくさんあって」

 あたしはそう言いながら、聖書をアニメやゲームと同じように話すのは不謹慎かなと思って播磨くんの母親の顔を見る。

 播磨くんの母親は、あたしのそんな心配とは反対に、あたしの次の言葉を楽しみに待っている様子で、うんうんと頷いて話の続きを促す。

「例えば、国語の辞書にも載っている『豚に真珠』っていうことわざは、聖書の中にある、『真珠を豚の前に投げてもなりません』っていう言葉が由来だったり、『目からウロコ』も、実は聖書の言葉からできたことわざだったり」

 これはわりと最初の頃に知ったことだ。

「聖書に書いてある内容って、イエスの生きていた頃の時代だけじゃなくって、ノアの箱舟が作られるもっと前の出来事とかも書いてあったり、歴史の本としても色々な文献の参考資料になっていたりとか」

 古い本だということはもともと知っていたけど、それがヨーロッパの方の歴史、建造物や絵画などに大きな影響を与えていたことも、あたしは知った。

「それに、現代で生きる人達が、聖書を知ったおかげで、今までの人生とは違った生き方をするようになったこととかも教えてもらいましたし」

 播磨くんから教えてもらったことの中には、聖書自身の教えももちろん多かったけど、播磨くんのように、今のあたし達が生きるこの時代も、聖書の伝道者がたくさんの国や地域で、聖書の教えを伝えていることも知れた。

「播磨くんから聖書の話や伝道者の人達の話とかを聞いて、今まで知らなかったことを知ることができましたし」

 う~ん。なかなか自分の意見を上手にまとめられないな~。

 上手く次につながる言葉が見つからず、ごまかす様に皿の上に残ったパンケーキを口に運ぶ。

 すると、あたしのその様子を考え中と受け取ったのか、今度は播磨くんの母親の方から話始める。

「そう。英理矢が小野寺さんと上手くお話しできているみたいで良かったわ」

 そう言う播磨くんの母親の顔はさっきよりもより楽し気で、少なくともあたしの発言で気分を悪くしてはいないようだ。それを見てあたしは、少し安心して自分の紅茶のカップを手に取る。

 いつの間にか播磨くんの母親も播磨くんも、自分のデザートを食べ終わっていたようで、全員が自分の飲み物に口をつける。

 ちょうど食事と話が一段落したようなので、あたしは播磨くんの母親に聞こうと思っていたことを尋ねる。

「あの、答えられたらでいいんですけど、播磨くんのお母さんはどうして今日、播磨くんの後をつけてこようと思ったんですか?」

 なんとなく聞いちゃいけないかなと思いつつ、やっぱり気になってしょうがなかったので、あたしは思い切って聞いてみた。

 すると、播磨くんの母親は、なんてことのない日常の会話のように、あっけらかんとした雰囲気で答えた。

「んー……そうねー。……面白そうだったから、かしら」

 何でこの人はこんなシンプルな理由でここまで行動できるのだろう?

「お母さん。ここまで来ておいて、小野寺さんに本音を言わないのは失礼が過ぎるよ」

「あら。そう言われてしまうとそうねえ」

 あれ? やっぱり別の理由もあるのかな。

「本当はね。ちょっと心配だったの」

「心配って、播磨くんが、ですか?」

 そりゃあ、大事な自分の息子がクラスの女子達と出かけるなんて聞いたら、母親としては気になるだろうけど。それでも、わざわざその息子を尾行するような真似をしてまで、ついていこうとするものだろうか。

「あ~、英理矢のことはどうでもいいかしら」

「どうでもいいんですか!?」

「僕のことはどうでもいいんだ……」

 播磨くんの母親のあんまりな言葉に、あたしは思わずツッコミをいれ、播磨くん自身も少しだけがっかりした様子で呟く。

 い、意外と放任主義なのかな? でも、播磨くんの母親が放つ雰囲気からはそんな感じはしないのだけど……。

 あたしがそんなことを思っていると、どうやらさっきの言葉は播磨くんやあたしをからかう目的で言ったらしく、播磨くんの母親はあたしに頭を下げながらこう言ってきた。

「じょーだん。冗談よ。からかってごめんなさいね小野寺さん。英理矢も。あなたのことは、お母さん大好きだから、安心して」

「その愛情をいつも正しい方向に向けてくれればいいんですけどね。ははっ」

 播磨くんが乾いた笑いで自分の母親にそう言うものだから、播磨くんの母親もそれ以上は茶化したりはせず、あたしに向けて話を続ける。

「それで、さっきの話だけど」

「あ、はい」

「英理矢もそうだけど、一番心配していたのは小野寺さんかしら」

「え?あたしですか?」

 どういうことだろう。播磨くんの母親が、あたしのことを心配するなんて。

「最近ね。家で英理矢から小野寺さんの話をよく聞かされていたのよ。それで、話を聞いているだけでも、小野寺さんがすごくいい子なんだなってことが伝わってきたの。うちの英理矢は、根は優しいけれど、少しぶっきらぼうなところがあるじゃない? だから、今日は英理矢が一緒で、小野寺さんがちゃんと楽しんでくれているか確認しようと思ったの」

「そう、なんですね」

 そっか。あたしが心配だなんて言うから、播磨くんの母親からどう思われているのか気になっちゃったけど、どうやらいい感じに思われているようで、とりあえずは一安心だ。

「ええ。まあ案の定、鷹橋さんが来れなくなって、英理矢と小野寺さんの二人きりになっていたし、英理矢は奥手なところがあるから、あのままじゃなかなか会話も難しかったんじゃない?」

「別に会話くらい、僕も小野寺さんもできるよ」

 播磨くんの母親が自分の息子の方を見ながら言うと、播磨くんはややふくれっ面な表情で自分の母親にそう言い返す。

 う~ん、でも。たしかにそうかも。播磨くんとはいつも学校の図書室で話をしているとはいえ、こうやって学校の外で私服を着て二人だけで話しをするとなると、あたしは少なからず緊張してしまうし。

 そう考えると、播磨くんの母親がいてくれて良かったのかも。おかげで今みたいに会話も弾んでいるし。

 あたしがそう思って播磨くんの母親にお礼の言葉を伝えようとした直後、お店の外から突然、拡声器で大音量になった声が店内にまで響く。

『そしてなによりも!』

 突然の大きな音に、店内いた客のほとんどが窓の方を見る。が、そのすぐ後には、その内の半分の人がすぐに興味を失くして、もとの話をしたり、手元のスマホに視線を落としたりする。なんだ選挙かあと、露骨に言う人もいた。

 窓の外の道路に見えたのは、テレビとかでもよく見る、政治家などが選挙演説の時に乗る、いわゆる選挙カーだ。どうやら信号待ちで、このお店の前に停車しているみたい。

『なによりも、都内再生事業の継続、そのための区の財政健全化!それが実現して初めて、安全、安心な街作りができるのです。現職として、ここまで進めさせていただいてきた街作りを完遂させたい、さらなる磨きをかけたい! そのためには是非ともこのわたくし――』

 たぶん今度の選挙の立候補者なのだろうその人が、自分の名前をしつこいくらいに連呼する。

店内の誰かが、うるさいなあ、と小さく呟く。

 あたしの町でも選挙の時期になると、似たような車が家の前の道路を走っていくの見たことがある。だけど、正直今まであまり気にしたこともなければ、興味を持ったこともなかった。とはいえ、今のこの場所は家ではなく、あたしの隣には播磨くんとその母親がいる。

 播磨くん達は、どう思っているんだろう?

 あたしがそんなことを思って二人の方を見ると、播磨くんもその母親も、選挙カーから流れる音声には興味がないのか、静かにその音声が小さくなるのをじっと待っているようだった。

 やがて、信号が青に変わったのか、選挙カーの音はどんどんと遠ざかっていく。そうしてその音声がほとんど聞こえなくなった頃、あたしは今さっきやって来た選挙カーで思い出したことを播磨くんに話す。

「そういえば播磨くん。あたし達の学校で、そろそろ生徒会の選挙があったよね」

「確か……今度の金曜日の午後に行うのだっけ?」

「そうそう」

 あたしの学校の校内掲示板には、今度の金曜日に、生徒会立候補者の演説と、その投票のための時間が取られることが書いてあった。他にも、二年生の先輩達の顔写真と名前が掲示されていて、本物の選挙さながらの様子だったのを覚えている。

「あたしはまだ誰に投票しようか悩んでいるんだ。本命は、あたしもよく知ってる柔道部の次期部長の先輩なんだけど。元図書委員会の人も立候補していて、その人が生徒会長に当選したら、図書室に入る新刊も増えるのかなあと考えたりもするし」

 あたしは一通り自分の考えを述べた後、ふと、播磨くんの意見も聞きたくなる。

「そういえば、播磨くんは今度の生徒会の選挙は誰に投票する予定なの?」

 あたしにとっては人生初の生徒会選挙なのだけど、同い年の播磨くんにとってもそれは同じはず。中学生になるまでは、選挙なんてまだまだ先のことで、自分には関係がないと思っていたけど、今のあたしは生徒会選挙に対してそこそこの興味がある。きっと頭のいい播磨くんのことだから、何かしらの持論を持っているんじゃないかと思って聞いてみたあたしだったけど、返ってきた言葉は意外なものだった。

「僕? 僕は、今度の生徒会の選挙では、誰にも投票しないつもりでいるよ」

「へえ~そうなんだ~。……って、何で!?」

 播磨くんの答えに、ある意味いつも通りの反応で聞き返すあたし。

 播磨くんもそんなあたしの疑問は予想していたようで、予めどういうか考えていたのだろう、自信のある言葉で答える。

「簡単に言うと、聖書の教えに基づく宗教上の理由で、政治的中立を保つために、かな」

「『聖書の教えに基づく宗教上の理由で、政治的中立を保つため』って具身体的には?」

 聖書が理由というのは、あたしも薄々感じていたことだったので、あまり驚きはしなかった。それでもやっぱり、聖書を学んでいることが、どうして選挙の話につながるのかまでは分からなかったけど。

「えーと。小野寺さんは、今度行われる生徒会の選挙って、何のために行うか、理由は何か話せる?」

 ええ? 理由~? 理由っていっても……。ええっと、たしか先先達がこの前言っていたことは……。

「たしか~、より良い学校生活をつくるためにできることを、あたし達一人一人で考えること。そのために、立候補者を自分の意志で選ぶこと。後は~、そうした選挙は民主主義の活動の根本だから、将来本物の選挙の投票をする上でのいい練習になるってこと、じゃなかったけ?」

 担任の先生がこの前言っていた言葉を、そのまま言うあたし。

「そうだね。そこで思い出せたらでいいんだけど、僕が前に言った聖書の言葉は覚えている?」

「聖書の言葉?」

 それはもう何十個と聞いてきたけど、選挙のことに関係する聖書の言葉って、何かあったっけ?

 首をひねりながら考えようとした時、あたしはつい昨日の会話を思い出した。

「あ~と、もしかして。世界中に犯罪や戦争がなくなって、平和な世の中が来るって信じているって話?」

「うん、そうそう。それも関係しているよ。例えばね、聖書の中では、『わたしたちは人ではなく神に従わねばなりません』って言う場面があって――」

 そう言い始めてから、播磨くんはその理由を説明してくれた。

 播磨くん曰く、聖書が書かれた時代、それもイエスの弟子達が生きていた頃の伝道者は「わたしたちは人ではなく神に従わねばなりません」という聖書の言葉を用いて、聖書の伝道者が政治参加をしないよう、呼びかけたのだとか。それで播磨くん達みたいな現代の聖書の伝道者も、政治家への働きかけ、政党や候補者への投票、選挙での立候補はしないようにしているらしい。また、政治的中立を守るため、政治を変えるためのデモやクーデターなどの運動にも参加しないという立場を固持しているようなのだ。

 とまあ、話は半分くらいしか分からなかったあたしだけど、とりあえず、聖書の中の言葉で、それもイエスの弟子からの言葉で、政治参加をするのは止めておこう的なことを守り行っていることは分かった。

 その一方で、疑問に思ったこともあるあたしは播磨くんに尋ねる。

「でも、それが学校の行事にも影響があるの?」

 何というか、播磨くんのする聖書の話は、もっと大人になってから話したり守ったりする、そんな内容じゃあないかと思うのだ。

「さっき小野寺さんも言っていたけど、生徒会の選挙も、言わば将来大人になった時の予行練習みたいなものでしょう。それなら、僕は将来大人になった時に、聖書に書いてある平和な世の中を実現する神様を支持するために、選挙の投票に行かないことになるのだけど、その予行練習として、学校の生徒会の選挙でも、誰も支持しないことを示そうと思うんだ」

「だから、誰にも投票しないって言ったんだ……」

 世の中では、投票率が低いとか、若者の政治参加をもっと増やそうといったことがよく報道されているけど。

 播磨くんの話はまるで逆だ。

「でもさあ、とりあえず今いる立候補者の中でどっちがいいかを選ぶとか、誰にはなって欲しくないとか、そのくらいの意思表示はしてもいいんじゃない?」

 テレビでやっていた、池上なんとかさんの学べるニュースでは、たとえ魅力的な立候補者が居なくても、複数いる立候補者の中からよりマシな方に投票することが勧められていたけど。

「うん。だから僕は、自分で選んで意思表示しているんだよ。今の世の中で生きていくには、聖書の神様が一番いいってことを」

「あ。そうか」

 逆、ではないんだ。

 政治に興味がない、選挙に関心が持てない、とかいうのではなくて。

 この今の政治がどういったもので、これからの世の中をどう生きていくのかを、むしろ真剣に考えているからこその無投票なんだ。

「う~ん、深いな~」

 ただの学校の生徒会選挙でそこまで考えるなんて、あたしにはできない。

 やっぱり播磨くんはあたしと違ってどこか大人で、色々なところを深く考えている。

 でも、播磨くんのその考え方が、悪いものだとはあたしは思わなかった。学校の先生が言っていたけど、選挙で誰に投票するかは、自分の意志で決めるのが一番なのだと。それなら、播磨くんが聖書の教えを守るために、選挙で誰も選ばないという選択を決めたことも、いいんじゃないかな。

「えーと、分かってくれたかな?」

 どううやらあたしが自覚している以上に、播磨くんの言葉についてあたしが考え込んでいたようで、その様子を見て心配した播磨くんが、あたしの顔を覗き込むようにして尋ねてくる。

「うん。なんとなくだけど、播磨くんが色々なことをよく考えているってことは、分かったよ」

 あたしがそう言うと、播磨くんはあたしの言葉に安心したのか、ほんの少し優し気な表情になる。

「あらあら。もう二人ともすっかり仲良しさんね」

 播磨くんの母親はそんなあたし達二人の話し合いを、満足そうに見て言う。

 そういえば、さっきからあたしは、ずっと播磨くんとばっかり会話をしていた。もしかしたら、播磨くんの母親も会話に入りたくて、それでも少しあたし達に遠慮していたのかも。

 あたしはそう思って、播磨くんの母親へと話をする。

「えっと。播磨くんのお母さんに聞きたいことがあったんですけど」

「あら? 何かしら?」

 あたしの言葉に、播磨くんの母親が嬉しそうに反応する。

 あ。やっぱり話がしたかったみたい。

 あたしは前から気になっていたものの、本人にはちょっと聞きづらくて質問できていなかったことを、この機会に尋ねてみようと思った。

「播磨くんの名前って、日本人にしては珍しい名前だと思うんですけど、お母さんが付けられたんですか?」

 英理矢なんて名前は、あたしの人生で初めて聞いた名前だ。まあ、月渚るなちゃんとか創瑠そうるくんていう名前の友達もいるから、いまどきそんなに目立つ名前でもないけどね。

 ただ、目の前にいる播磨くんの母親が、そうしたキラキラとした名前を付けるようにも思えないので、なんとなく気になってはいたのだ。

「ええ、そうよ。英理矢の名前は私が付けたの。ちなみに名前の由来は、聖書の中に出てくる預言者エリヤからとったのよ」

「聖書の中に出てくる預言者って?」

 聖書の中に出てくる登場人物は、あの有名なイエスだったり、神様の名前のエホバだったり、色々と新しく覚えた名前も幾つかは知っているけど、播磨くんと同じ名前の人物がいることは、まだ知らなかった。というかそもそも預言者ってなんだろう?

「預言者っていうのは、エホバ神の言葉を聞いて、その言葉を他の人に伝える役割を持った人のことね。聖書の中にはたくさんの預言者が出てくるのよ。有名な人だと……そうね、モーセなら、小野寺さんも聞いたことがあるかしら」

「ああ。モーセなら知っていますよ。これをやった人ですよね」

 あたしはバンザイをするように、自分の両手を上に掲げると、つい最近読んだ聖書の中の言葉を、同じカフェにいる周りの人の迷惑にならないくらいの声で言う。

「『太陽よ、止まれ!』って言った人ですよね?」

 あたしのそんな言葉とジェスチャーに、播磨くんの母親が、珍しく困惑気味な表情で固まる。

 あれ? 聖書を読んでいる人なら知っているかなと思ったんだけど、なんか違ったのかな?

 心の中で焦るあたしに、播磨くんが優しく冷静にツコッミを入れてくれる。

「小野寺さん。それモーセと違う。『太陽よ、止まれ』って言ったのは、ヨシュアだね」

「あれ!? モーセじゃないの?」

「うん。あ、ちなみにヨシュアは、モーセの後継者みたいな人だよ」

「え? あ、そっか。モーセって、エジプトの悪い王様から、エホバ神を信じる人達を導いて助け出した人か」

 どうやらあたしの勘違い、もとい、人違いをしていたみたい。

 すると、ようやく状況を理解した播磨くんの母親が、あたしの間違いに苦笑しながら、話を再開する。

「小野寺さんったら。面白い間違いをするのね」

「ええと、ごめんなさい」

 播磨くんの母親が全く怒っていないことは、見た感じで分かるのだけれども、とりあえず謝っておくのが無難かと思い、あたしはつい謝ってしまう。

「大丈夫よ。むしろ、聖書のことをよく読んでくれていることが分かって嬉しいわ。……ええと、それで、預言者のエリヤのことなのだけど」

「え、あ、はい」

 あたしのせいでだいぶ話が脱線してしまったけど、そういえば播磨くんの名前の由来である、エリヤって言う人物について話をしていたんだっけ。

「エリヤは預言者の中でも、不公正な出来事を目にしながらも最後まで耐え忍んだ人物で、エホバ神のために清い崇拝を守り行ったおかげで、エホバ神からの慰めと栄光を得た人なの」

「そ、そうなんですか」

 なんだかよく分からないけど、すごい人物だということは、播磨くんのお母さんが語る雰囲気から感じ取れた。

 一方で、ほんの少し心配になったこともある。

 そんな立派な人物と同じ名前を付けられて、播磨くん自身はどう思っているんだろう?

「播磨くんはどう思っているの? 自分の名前の由来について?」

「僕は別に、特に何とも思っていないかな。預言者エリヤは尊敬すべき人物だけど、エリヤはエリヤ、僕は僕だからね。時代も役割も違うけど、エホバ神のことについて伝道することを、エリヤと同じように僕も行っていくだけだよ」

 播磨くんはいつもと同じ調子でそう答える。

 相変わらずクールだなあと思いつつ、また一つ播磨くんの新たな一面を知ることができたあたしは、少し嬉しくなる。

「名前といえば、私も前から気になっていたのだけど」

 播磨くんのお母さんがそう言い出したのを聞いたあたしは、自分があることをうっかり忘れていたことに気が付く。

「小野寺さんの名前も素敵な名前よね。確か、神無さんって言ったかしら?」

 他人の名前の話題になった時は、必ず自分の名前も話題に上がることに。

「ええ。まあ、そう、ですかね」

 曖昧でぎこちない返事を返すあたし。

「神無っていう音の響きもいいわよねー。名前の由来はあれかしら?やっぱり小野寺さんが六月生まれだから、六月って意味の神無月からと――」

「違います」

 播磨くんのお母さんが喋っている途中にもかかわらず、あたしは思わずその話を否定してしまう。

 たしかにあたしの誕生日は六月にある。あたしもついこの間までは、神無月があたしの名前の由来なんじゃないかと思っていたくらいだ。

でも、現実はそうじゃなかった。

「あの、その話はもう終わりにしてもいいですか?」

 ああ。自分のせいで、和やかだった雰囲気が緊張を帯びたものになっていくのを感じる。

 自分の方から名前の話を振っておいて、自分のことになったら口を閉ざすなんて、虫のいい子どもに思われるかも。

 そんなあたしの心配をよそに、播磨くんが自分の母親よりも先にあたしに謝ってくる。

「ごめんね小野寺さん。僕のお母さんが無神経なせいで」

「いいよいいよ。気にしないで。あたしの方から名前の話をしたんだし。播磨くんのお母さんも、悪気がなかったのは分かっているし」

 むしろ悪いのはあたしだ。

「こちらこそ、話を途中で折ってしまってすみませんでした」

 あたしは播磨くんに話した後、播磨くんのお母さんの方に向き直って、頭を下げる。

「いえいえ、こちらの方こそ色々と気付かなくてごめんなさいねえ。後で英理矢にたっぷりと怒られるわ」

 播磨くんのお母さんの言葉に、自分の子どもである播磨くんに叱られる播磨くんの母親の姿が容易に想像できてしまい、あたしは思わず笑ってしまう。

「あ、す、すみません」

 慌てて謝るあたし。

「あらら? 私が英理矢に怒られるところを想像しちゃった?」

「は、はい。ごめんなさい」

 そう言いつつも笑いが止まらないあたしの顔を見て、今度は播磨くんの母親が笑い出してしまう。

 さっきまでの張りつめていた緊張感は、いつの間にか消えている。もちろんそれは、播磨くんの母親が気を聞かせて言った言葉のおかげだ。

 あたしは播磨くんの方を見ると、やれやれといった表情で、あたし達二人の様子を見ている。

「そろそろ出ましょうか。あ、今日は私のおごりだから」

 播磨くんの母親はそう言うと、あたしが何かを言う暇もないくらい素早く伝票を持つと、レジの方へと歩き出す。

 それを見てあたしと播磨くんも自分の荷物を手早くまとめると、播磨くんの母親に続いて席を立つ。

 ふと、自分のスマホを見ると、液晶画面の時計には、四時を少し回っていることが表示されている。

「後はもう、町に戻って家に帰るだけかあ……」

 それはつまり、播磨くんとこうして一緒にいる時間が終わることでもある。

 時間は有限だとわかっていても、今日この時がずっと続けばいいのに、と思う。そんなことはありえないことだと自分でも思いながら、あたしは播磨くん達の後を追ってこのお店を後にした。


           *      *      *


「今日はありがとう。とても楽しかったわ」

 三人で電車を乗り継ぎ、あたし達は今、地元の町の駅へと戻ってきた。

 ほんの一時間前にいた都心と違い、駅前の広場でも人通りはそんなに多くはない。

 やっぱりあたしの町は田舎なんだ~と思う。まあ、東京以外に住んでいる人がそれを聞いたら、都心に一時間ちょっとで行ける時点で田舎じゃない、って怒られそうだけど。

「あたしの方こそ、きょうは播磨くんのお母さんがいてくれたおかげでとても楽しかったです」

 あたしは別れ際、播磨くんの母親にお礼を言った。播磨くんの母親が一緒ということを知って、初めはどうしようかと思ったあたしだったけど、何だかんだで色々とお世話になったからだ。なにより色々と奢ってもらったし。

 電車に乗る前、映画代も食事代も払ってもらったあたしは、せめて千円だけでもと播磨くんの母親へと渡そうとしたのだけど、

「いいの、いいの。今日はせっかくの休日を私がじゃましちゃったようなものだもの。これくらいは奢らせて。ね」

 と、やんわりと断られてしまった。

「そうそう。代わりというわけではないのだけど」

 そう言って播磨くんの母親はあたしに一枚の招待状のようなものを渡す。

「? 王国会館に来てみませんか?」

 王国会館って何だろう?

 あたしが渡された招待状のようなものの表紙の言葉を読みながら首をひねっていると、播磨くんが説明してくれる。

「王国会館っていうのは、僕達みたいな伝道者が毎週集まって聖書の勉強をしたり、新しく聖書を学び始めた人を招待したりして、聖書についてもっとよく知ってもらうための場所なんだ」

「へえ。そんな場所が日本にもあるんだ」

 ヨーロッパとかアメリカとか、外国にはいっぱいありそうなイメージだけど。

「それでね。今度の土曜日。地域の人や、伝道者の友達や親族の人達を呼んで、王国会館がどんな場所か知ってもらうための催し物をやろうってことになっているんだ。日中のみんなが来やすい時間帯に行われるし、もちろん誰でも来れるようになっているから、小野寺さんもどうかな?」

 う~ん。播磨くんが普段、聖書の勉強をしている場所かあ。ものすごく興味はある。……興味はあるのだけれども。

 ほんの少しの間だけ悩んだあたしは、それでもなるべく播磨くん達を待たせることがないよう、すぐに返事を出す。

「ごめん。来週はもう予定があるんだ」

 来週の土曜日は麻耶ちゃんと出かける予定が、というか麻耶ちゃんの一方的なお願いで一緒に行くところがあるのだ。

「そっか。それならしょうがないね」

 珍しく少し残念そうな顔をする播磨くん。

 そんな播磨くんの顔を見て、あたしはつい何とか播磨くんにいい返事をしようと考えるものの、親友の麻耶ちゃんの頼みを断るのもどうかと思い、一人頭の中で苦悩する。

 すると、そんな様子を察した播磨くんの母親が、あたしに声をかける。

「今度の催し物はまたいつか別の日にも行うと思うから、むりに予定を合わせようとしなくても大丈夫よ。それこそ、王国会館に行こうと思えば、私か英理矢に言ってくれれば、いつでも連れていってあげるし」

「はい。ありがとうございます」

「それじゃあ、私達の家はこっちだから、ここでお別れね。……あ。なんなら、英理矢に小野寺さんの家まで送らせようかしら?」

 少しいたずらっぽい笑みを浮かべてそう言う播磨くんの母親の言葉に、あたしは両手を振って応える。

「いえいえ、まだ日も明るいですし、あたしは自転車ですから大丈夫です。ご心配なさらず」

 うう。やっぱり最後の最後まで、播磨くんの母親の言動は読めない。……あと、せっかく播磨くんとの二人きりの時間を延ばすチャンスだったのに、それをふいにしたあたしはやっぱりバカだ。

「だって。英理矢ったら、振られちゃったわね」

「お母さんが勝手に言って断られただけであって、別に僕が何かを言ったわけじゃないでしょ」

 相変わらずの無表情ながらも、目でしっかりと非難の視線を向ける播磨くん。

「はいはい、ごめんなさい。それじゃあね小野寺さん。また会えたら嬉しいわ」

「あ、はい。今日は本当にありがとうございました」

「それじゃあ、また学校でね」

 播磨くんと播磨くんの母親と別れの挨拶をすると、二人はあたしの家と反対側にある播磨くん達の家の方へと歩いていく。

 あたしも自分の自転車を取りに、駅の自転車置き場に向かう。自分の自転車を見つけたあたしは、鍵を外してその自転車にまたがる。そうした後、ふと播磨くん達が歩いていった方向へと目を向ける。

 二人の姿はもう見えなかったけど、今日の二人の様子は、今でもはっきり思い出せる。

 いつもの学校で見ている姿とは違う服装の播磨くんや、映画館の中で見た、播磨くんの横顔。播磨くんの母親に色々なことを言われて、表情こそあまり変えないものの、色々な反応を示す播磨くん。

 麻耶ちゃんが来ないことを知ってどうなることやらと思ったけど、今日一日で、あたしと播磨くんの距離感はすごく縮まったと思える。まあ、播磨くんの方はどう思っているのか、まだ分からないけど。

「……ん? 何か視線を感じるような?」

 誰かに見られている気がしたあたしは周りを見渡すが、特にあたしの方をじっと見つめる人は見つけられなかった。駅前なので人は何人かいるけど、みんな自分の家や目的地へと足早に歩いている人ばかりだ。駅前のロータリーにはお客を待つタクシーと、駅から出てくる人を待っているのだろう黒いワゴン車が一台停まっているだけだ。

「気のせい、かな」

 そこであたしは考えるのを止めて、ぼーっと今日の出来事を思い出しながら、家へ向かうために自転車をこぎ出す。

 そんなあたしのすぐ横を、一台の黒いワゴン車が走り去る。

 その時のあたしは気付いていなかった。感じた視線が気のせいではなく、本当に誰かに見られていることに。そしてそのことが原因で、後で麻耶ちゃんにこっぴどく怒られてしまうことになることも。その結果、あたしが播磨くんの重大な秘密を知ってしまうことになるくらいの、大事件に巻き込まれてしまうことを。

 鼻歌なんかを歌っている能天気なその時のあたしには、知る由もなかった。




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