第1話 第二章 学校の放課後にやる内容として、聖書レッスンはかなりムードがない件。

第二章 学校の放課後にやる内容として、聖書レッスンはかなりムードがない件。


 ここはあたし達の通う中学校の図書室。帰りの会が終わったすぐあとの放課後のこの時間、あたしは近くにいる播磨はりまくんへ声を掛ける。

「ねえ。何であたし達って、この図書室で聖書のことについて話をしているんだっけ?」

「え? えーと、小野寺さんが、僕が学んでいることを知りたいって言ったからじゃない?」

「そうだっけ? あたしの記憶じゃ、確か、播磨くんの母親が言ったんじゃない?聖書レッスンをしてみないかって」

「……そうだった。ごめんね。僕のお母さんの提案のせいで迷惑かけて」

「ううん。迷惑なんかじゃないよ。あたしが知りたいって思ったのも間違いじゃないし」

 ふと視線を横にずらすと、図書室のカウンター内で、図書委員会の先輩達が司書の先生と共に、今年度から新しく入荷した新書をせっせと仕分けしていた。

 また、耳を澄ますと、遠くのグラウンドからは運動部が練習しているのだろう、元気なかけ声が聞こえてくる。

 静か過ぎず、かといってうるさくもないこの図書室の一角に、あたしと播磨くんはいる。

 別に校内デートをしているとかいうわけではない。あたし達がいるテーブルには、あたしと播磨くんの二人だけしか座っていないけど、図書室を利用している人ならあたし達以外にもいるし、二人きりというわけではない。

 ただ、放課後に二人で学校の勉強の予習復習をしているとか、もうすぐ来る中間テストの対策をしているとか、そういうわけでもない。

 じゃあ、何のためかと誰かに聞かれれば、あたし達二人は揃って、聖書レッスンだ、と言うだろう。

 もっとも、聖書レッスンとは何か、と聞かれてしまうと、あたしは困るのだけど……。

 そんなことを誰かに聞かれることなんてまずないだろうけど、とりあえす、誰かにそう聞かれた時に答えられるよう、あたしは今までの経緯を振り返る。

 播磨くんと播磨くんの母親が、あたしの家に来たあの日。

 あたしは播磨くんの母親から、聖書レッスンというものがあることを知らされた。

「聖書レッスンといってね。聖書に興味のある人が、伝道者の人から聖書について学ぶことをいうのよ。それでね、小野寺さんも聖書レッスンをやってみない?うちの英理矢と」

 播磨くんの母親は、その日に話をした、聖書を調べてみませんかというタイトルの雑誌を渡しながら、あたしに、聖書についてもっと知ってもらいたい、と言ってきたのだ。

「何でもいいから、聖書のことで疑問に思うことがあったら、学校の放課後にでも英理矢のところに行って尋ねてみるといいわ。こう見えて、この子は話好きだから、聞けば何でも答えてくれるわよ」

 播磨くんの母親の言葉を聞いたあたしは、とりあえず頷いて、その雑誌を受け取ったのだ。

 そんなことがあったので、学校が始まったゴールデンウィーク明けの初日の放課後に、播磨くんがいつもいるという図書室に、あたしは向かった。

 播磨くんは、何の部活にも所属していないらしく、放課後は特に用事がなければ図書室にいるのだという。

 あたしの方はというと、小学生の時から柔道を習っていることもあり、柔道部に入部している。もっとも、今月は用事があるので何日か部活をお休みします、と顧問の先生に伝えてある。

 部活を休む理由はもちろん、播磨くんと放課後に話をするためだ。

 では、どんな話をこの一か月の間にしたのかというと、一言で説明するなら、聖書のことをいっぱい、というのが一番しっくりくる。

そもそも、聖書レッスンに決まった形というものはないらしい。

 あたしは最初、聖書レッスンのイメージとして、聖書を学校の教科書みたいにひたすら読んで、それについて播磨くんが、学校の先生みたいに答えたり逆に質問したり、というものを想像していた。

 でも、実際に聖書レッスンというものをやってみて思ったことは、

「これ。ただの友達同士の会話じゃん」

 ということだ。

 例えば、ゴールデンウィーク明けの初日の放課後に、あたしは図書室にいる英理矢くんにこんなことを聞いた。

「そういえば、聖書ってどんな人が書いたの?」

「今から約二千年から三千五百年前の間に生きていた、四十人の人によって書かれたんだよ」

「四十人? それって多すぎない?」

 普通、一冊の本は一人で書くものだと思っていたあたしには、ちょっと想像ができない。

「そう? 僕達がいつも国語の授業で使っている辞書だって、百人以上の人が書いているらしいよ。そう考えると別に多くないんじゃない?」

「いや、あれは辞書だからでしょ。普通の本じゃないでしょ」

 播磨くんは聖書と辞書を同列に扱っているのかな?たしかに分厚さだけは似ているものがあるけど。

「じゃあ、聖書はその四十人の人達の言葉が書いてある本、ってこと?」

「正確には、その四十人は実際に筆を持って書いたってだけで、聖書に書いてある言葉は神様からのものだよ。四十人はいわゆる筆者で、神様が著者」

「四十人はいわゆる筆者で、神様が著者?」

 う~ん。神様ねえ。……やっぱり、この質問もしないといけないかなあ。

 あたしはなるべく先送りにしたかった質問を、それでも気になって聞いてみる。

「英理矢くんが信じている聖書の神様って、どんな神様なの?」

 この質問は、あたしの家に播磨くんがきた時から、疑問に思っていたことだ。播磨くんは、当たり前のように神様がいることを信じているみたいだけど、あたしはその理由をまだ聞いていない。

「そうだねー。この聖書の言葉が一番分かりやすいかな」

 播磨くんはそう言って、当たり前のように持ってきていた聖書を鞄から取り出すと、この前みたいに一つの言葉を指差して、私に見せながら読み上げる。

「ここに、聖書を書かせた神様について書いてあるんだ。『真の神エホバは、天を創造し、広げた偉大な方、地を据え、豊かな産物を生じさせた方、地上の人々に息を与え、地上で歩む者に生命力を与える方である』ってね」

「なにそれ、めっちゃラスボス感満載じゃん」

 まあ、RPGとかのゲームのラスボスって、神とか竜とかそんなのが多いから、自然とあたしがそう思っちゃうだけかもしれないけど。

 あたしのそんな頭の悪い感想に、播磨くんは苦笑いをしながら、話を続ける。

「簡単に言うと、僕達人間も含めた、この宇宙の全てのもの創造者で、いつも天高くから僕達のことを見守ってくれている方、かな」

 いつも天高くから見守ってくれている方、かあ。

「あとは、人間みたい肉体を持ってはいないことだね。だからエホバ神は、四十人の筆者に頼んで、自分の言葉を書いてもらったんだ」

「ん? どういうこと?」

 何となく、神様に肉体がないというのは、分かる。何というか、空気みたいな存在で、いるのかいないのかはっきりしない、そんなイメージがあるからだ。

 それがどうして、他の人に書いてもらうことに繋がるのかな?

「例えばね。小野寺さんは今、日本にいるよね。そして、どこか遠くの国で、自分の言葉を書いた本を作ろうとしているとするよ。でも、その国は遠いから、小野寺さんが直接その国に行くことはできない。だけど、電話でその国の親しい人と連絡は取れる。こんな時、小野寺さんはどうしたら、その国で自分の言葉を書いた本を作ることができると思う?」

「……えーと、ちょっと待ってね」 

突然の例え話に、あたしはテスト前しか使わない頭をフル回転させる。

 よし、条件を整理しよう。あたしは日本にいる。だから遠くの国には行けない。でも、その国で本を作りたい。その国の人と電話で会話はできる。……それなら。

「その遠くの国にいる親しい人に、電話で本にして欲しい内容を伝えて、それをその国で書いてもらうしかないんじゃない」

「そうだね。それと同じように、エホバ神はとても長い期間に起きたたくさんの出来事や自分が言った言葉を、四十人の筆者にその内容を伝えて、聖書を作ったんだ」

「あ~、それでたくさんの人が聖書を書いたのね」

 聖書の筆者が四十人もいる理由はそれかあ。

 あたしがそんな風に納得すると、播磨くんは満足そうに黙って頷く。

 と、まあ、こういうような感じで、あたしと播磨くんの聖書レッスンは始まっていった。

 もちろん、播磨くんの持っている聖書を開いて、その中の言葉を読んだり聞いたりすることもあれば、この前もらった聖書の雑誌を使って、その内容を播磨くんに説明してもらったりもした。

 けど、一番多かったのは、さっきみたいな会話をすることだった。あたしが気になったことをとにかく質問して、播磨くんはそれに答える。播磨くんは、ただ正解を言うだけじゃなくって、さっきみたいな例えを使って、あたしに考えさせることもした。だからあたしは、ただ聞くだけじゃなくって、次第に聖書のことについて事前に調べたりすることも多くなっていった。

 そのおかげで、あたしはこの学校で、播磨くんの次に聖書に詳しい人になったと思う。……たぶん。

 そうして一か月以上が過ぎた今日。

「そういえば、クラスの男子が話をしているのを聞いたんだけど。播磨くんが体育の剣道の授業は見学しているって本当?」

 あたしはもはや、聖書の質問すらしなくなっていた。

 別に、播磨くんとの聖書についての会話がつまらなくなったからではない。ただ、部活にも行っているから毎日ではないにしろ、一か月以上の間、放課後を一緒に過ごしている播磨くんとの距離感が、一向に縮まっていないように感じるのだ。

 もちろん、聖書のことを話す播磨くんの様子を近くで見て、そこから播磨くんの人柄や性格は分かってきたつもりだ。だからこそあたしは、少し別の話題をして、播磨くんのことをもっと知りたいと考えた。

「剣道の授業なら、たしかに見学しているよ」

 当たり前のことだよ、という風に答える播磨くん。

「え? どこかケガをしているの?」

 確か、この前までの体育の授業でやっていた陸上競技は、播磨くんも参加していたはず。というか、播磨くんは身長が高いだけでなく、どうやら運動神経もいいみたいで、この前までバスケ部やバレー部の先輩達にしきりに部活に入らないかと勧誘を受けていたらしい。

 そうすると、ケガをしたのはつい最近なのかな? でも、見たところどこもケガをしている感じではないし。もしかしてケガではなくて、体調が悪かったりして。

 あたしが頭の中でそんな心配をしていると、播磨くんはそれを察して返事を返す。

「ケガとかはしていないから安心して。えーとね」

 播磨くんは少し考えてから、あたしに話し出す。

「僕が剣道の授業を見学している理由はね、自分が言うことと、行っていることが、矛盾しないようにするためなんだ」

「言うこととやっていることが同じになるようにしてる、ってこと?」

 矛盾の意味は、つい最近の国語の授業で習った。前に言ったことと、後に言ったこととが一致しないこと。つまり、二つの事柄のつじつまが合わないこと、だったかな。

「ほら、僕は伝道者として、聖書の言葉を宣べ伝えているでしょう。だから、聖書の言葉を教えている僕が、聖書の言葉と反対のことをするわけにはいかないんだ」

 え~、また聖書~。そろそろ別の話もしようよ~、とあたしは心の中で文句を垂れる。

 とはいえ、播磨くんが言った言葉の続きが気にならないわけでもなく、あたしはとりあえず質問する。

「剣道がどうして聖書の言葉と関係あるの?」

 あたしも部活動は柔道をしているし、いつも柔道部の隣で練習している剣道部の人達の様子を思い起こすと、それが聖書と何か関係があるとは思えなかった。

「えーと、聖書の言葉の中にね、『神は多くの人々の中で裁きを下し、遠くの強い国々の人たちを正しい方向に導く。彼らは剣をすきに、やりを鎌に作り替える。国は国に向かって剣を振り上げず、彼らはもはや戦いを学ばない』というものがあるんだ」

「こ、今回は長いね」

 いつもの会話で出てくる聖書の言葉よりもかなりの長文に、あたしのちっぽけな脳がすでに拒否反応を示す。それでも、播磨くんの説明が分かりにくいことは今まで一度もなかったので、あたしは頑張って播磨くんの話を聞こうとして、

「あと、『その剣をさやに収めなさい。剣を取る人は皆、剣で滅びます』って言葉も理由の一つでね」

 二つ目の聖書の言葉が出てきたところで、あたしはギブアップした。

「あ。二ついっぺんは厳しいので、一つずつ説明してもらっていい?」

 そしてできれば、かなり簡単に説明して欲しい。

 あたしのそんなお願いに、播磨くんは快く頷いて説明を始める。

「最初の聖書の言葉は、神様がこの世の中を正しくされるから、僕達人間は戦いを学ぶ必要もその準備も必要はないんだよ、ってこと」

「……『戦いを学ぶ必要もその準備も必要はない』ことと、剣道の授業とどう関係があるの?」

 播磨くんが言った聖書の言葉は、何かスケールが大きなことのように聞こえるし、剣道の授業という身近な話題は、もっとスケールが小さな気がして、ちょっとちぐはぐだ。

「小野寺さんは、世界中の国が軍隊を持っているのはなんでだと思う?」

「それは、戦争が起こった時に、他の国に負けないようにするためでしょ」

 これは簡単。あたしでも分かる。……昨日の社会の授業で、似たような話をやっていたからね。

「それじゃあ、たくさんの人が武道を学んでいるのは、なんでだと思う?」

「最近何かと物騒だから、自分のことくらい自分で守りたいからじゃない?」

 あたしが柔道を学んでいる理由もそうだもの。

「うん。だいたいの人はそう言うと思うよ。たしかに、今の世の中は戦争もあれば犯罪も起きる。でもね。僕はいつか、聖書に書いてあるように、世界中に犯罪や戦争がなくなって、平和な世の中が来るって信じているんだ」

「平和な世の中か~、難しいと思うけどな~」

 学校の勉強で学ぶことや最近のニュースを見ると、中学生のあたしが考えても、それは難しいことのように思える。

「まあ、もしそうなったら、みんな嬉しいとは思うよ」

「そうだね。もしも平和な世の中になったら、軍隊とかもいらなくなるだろうけど。それでね。例えば、平和な世の中が来ますよーと言っている僕らが、外国の軍隊で働いていたら、他の人から見て、言動が矛盾しているように思われるよね。それと同じように、僕達聖書の伝道者は、なるべく剣道などの武道も学ばないようにすることで、平和な世の中が来ることを信じている姿を見せているんだ」

 そう、自信を持って話す播磨くん。

 言われてみれば、そうだ。お互い優しくしましょう。武器のない平和な世の中を作りましょう。そう言っている人が武器を肌身離さず持っていたら、それは自分の言っていることが、自分でもなかなかできないと行動で示しているようなものなのだろう。……でも。

「でも、実際に本物の真剣で斬り合って戦うわけじゃないんだから、スポーツとしての剣道ならいいんじゃない?」

 あたしは、放課後の道場で一生懸命竹刀を振って練習する、剣道部員の姿を思い起こす。その姿は武器を持って戦う人というよりは、部活に打ち込むスポーツマンという方がしっくりくる。

「たしかに、聖書を学び始めている人の中にも、剣道などの武道をやっている人、やっていた人はいるよ」

「あ~やっぱり」

「ただ、どこかで線引きをしないといけないんだ」

「線引き?」

 校庭のグラウンドに白線を引くこととは違うよね。そうすると、播磨くんが言いたいことは……。

「どこまでが自分にとって許可できるか。ってこと?」

「もっと正確に言うと、エホバ神から見てどう思われるか考える。かな」

 エホバ神というのは、播磨くんが信じている神様のことだ。でも、神様から見てなんて、そんなの分かるわけないと思うんだけど。

「例えで考えてみようか。小野寺さん。小野寺さんにとって大事な人って誰かいる?」

「え?」

 あたしにとって大事にな人? そんなの……。

「ん~と、麻耶ちゃん、かな」

「麻耶ちゃんって、同じクラスの鷹橋たかのはし麻耶まやさんのこと?」

「うん。そうだよ」

 一瞬、自分のお母さんと言おうとしたあたしだったけど、さすがに中学生になってから、一番好きなのはお母さん、なんて言うのはちょっと恥ずかしい。

「じゃあ、もしも、鷹橋さんが将来自衛隊員として働くことになって、戦争している国へ行くことになったら、小野寺さんはどうする?」

「ええっ!? 麻耶ちゃんが戦争をしている国へ?そんなの絶対止めるに決まっているよ」

 あたしの親友が、そんな形であたしから離れていくのは嫌だ。それにもしもの事があったらどうしようかと思ってしまう。

「それじゃあ。もしも、鷹橋さんが自衛隊員にはなるけど、外国とか危険なところに行くようなことはしないよ、って言うなら、どうする?」

「う~ん。それならまださっきよりかは安心できるけど、できれば、麻耶ちゃんにはもっと安全な仕事に就いて欲しいなあ」

 友達の安全を願うのは、友達としてだけじゃなくって、人として当たり前のことだと思う。それが親友の麻耶ちゃんならなおさらだ。

「エホバ神も、今の小野寺さんと同じことを考えているんじゃないかな?」

「へ? あたしと同じことって?」

 あたしと同じことを神様が考えているなんていう、今までのあたしには無かった発想に、あたしは目を丸くして聞き返す。

「小野寺さんは、鷹橋さんのことを大事に思っているから、安全な仕事をして欲しいと言ったでしょう。同じようにエホバ神も、僕が剣道着を着て竹刀を持って剣道を習っていたら、僕がもっと武道にのめり込むんじゃないか、もっと本格的な武術を習い始めるとか、最終的には戦うことに興味が出て兵士のようになったらとか、心配すると思うんだ」

「播磨くんの言う神様って、そこまで人の心配をするものなの?」

「僕は、エホバ神ならきっとそうすると思っているよ。だって僕達みたいな人間にだって、大事な人のことを想う気持ちがあるなら、僕達人間を作ったエホバ神は、なおさらそう思うんじゃない」

 まるでテレビでも有名な塾の先生が教えるみたいに、それが正しいと確信を持って話す播磨くん。

 あたしはその播磨くんの姿勢に、なんとも言いようがない納得感を持ってしまう。

「あと、さっき言った二つ目の聖書の言葉だけど」

「え~と。……何だっけ?」

 一つ目の言葉の話を聞くので精一杯で、聞いたはずの聖書の言葉を忘れるあたし。

「『その剣をさやに収めなさい。剣を取る人は皆、剣で滅びます』というのだけど、これはどういう意味だと思う?」

 ん~。こっちの言葉は、どこかで聞いたことがあるような。どこでだっけかな~…………あ。思い出した。

「これってあれだよね」

 あたしは少し前にインターネットで見た、アニメの男主人公のまねをして、右手で自分の左目を覆いながら言う。

「『撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ』でしょ」

「? 何それ?」

 どういった反応をしていいのか分からず、困った表情になる播磨くん。

「……え~とね。ちょっと昔にやったアニメのワンシーンなんだけど。うん。何でもないから、忘れてくれるかな播磨くん」

「ええと、うん。わかったよ」

 よ~し。もう二度と、人前で、そして播磨くんの目の前では絶対に、アニメのキャラクターのまねなんてやらないぞ~。

 あたしは心の中でそう決心しつつ、気を取り直して話を進める。

「それで、二つ目の聖書の言葉の意味だけど、単純に、剣を使う人は他の人に斬られるよっていう意味でしょ?」

「そうそう。これも僕が武道を学ばない理由の一つ。やられる前にやれ、じゃなくって、やられてもいいから、自分はやらない姿勢を見せるためにね」

「でも。悪い人とかが、例えばナイフを持った強盗が襲ってきて、殺されそうになった時は? こっちは何も悪いことをしていないとしたら?」

 そんな場合でも抵抗すらしないのは、かなり理不尽なことのように思ったあたしだが、播磨くんは相変わらずの不動の態度で答える。

「その場合でも、僕は絶対にやり返したりはしない」

あたしは播磨くんの言葉に一瞬ドキッとして、すぐに言葉を返す。

「ええ? それじゃあ死んじゃうかもしれないよ」

「そうなることもあるかもしれないね。でもね、小野寺さん。僕は下手に抵抗して、逆に相手を殴ったり殺したりしてしまうより、その方がいいかなって思うんだ」

 播磨くんのその言葉に、あたしは絶句してしまう。

 播磨くんの言っている言葉の意味は分かる。それでもあたしは、その言葉通りに行動する意味があるのかどうか、理解できないでいた。

 ただ、一つだけ理解したことがある。

 それは、この播磨くんが、超が付くほどのお人好しだということだ。

 普通の人とは違うな~と思ってはいたけど、まさかこれほどまでとは。

「……なんか。播磨くんの恋人になった人って、すごく大変そう」

「え? どうしてそう思うの?」

 たった今心に思ったことそのまま喋ったあたしの言葉に対して、播磨くんが不思議そうに尋ねる。

「だって播磨くんみたいな人って、はたから見たらすごく善い人に見えるけど、一緒にいたらハラハラドキドキするというか、心配になるというか」

 ライトノベルや漫画に出てくるヒロインも、同じような気持ちなのだろうか?主人公が冒険や戦争に行って、帰りを待っている間は。

 そんなことをあたしが思っていると、

「ああ。ごめん、違うんだ」

 なぜか播磨くんが謝ってくる。

「どうして謝るの?」

「えーと、さっき聞いた質問はそういう意味じゃなくて。僕の恋人になった人のことを、何で小野寺さんが気にしたのかな? と思って」

「それはあたしがもしも播磨くんの恋人になったらって違う違う違う。特に意味はないの。ただの興味本位で聞いただけだから。ごめんね」

「う、うん。こちらこそ何か変なことを聞いたみたいでごめんね」

 あたしの心の内をあまりよく分かっていない様子の播磨くんが、あたしにまた謝る。

 ……ていうか危なっ! 今あたしは何を言いかけた? うっかり何を言いかけたのよあたしのアホは!

「あのー。一つ質問してもいい? 少し気になっただけだから、答えにくかったら言わなくていいんだけど」

「さっきのことならちょっと慌てただけだから、全然大丈夫だよ。何でも聞いて」

 とりあえずあたしの心の内は知られたくはないものの、今の雰囲気を壊したくないあたしは、そう言って取り繕う。

「それじゃあ聞くけど。小野寺さんは、自分に恋人ができた時のこととかは考えているのかな?」

「へ。あたしに恋人ができたら? ん~そうだね~。そりゃあ、良い人がいたら恋人を作るのもいいかな~って思ったりもするよ」

 あたしだって、花も恥じらう女子中学生。勉強や部活だけじゃなく、恋だってしたい年頃だ。ライトノベルや漫画やドラマのヒロインのような恋愛がしてみたいと思うのは、当たり前のことでしょう。

 あたしはそう考えていたんだけど、播磨くんは実に今どきの中学生らしくない、衝撃的なことを言った。

「へえ、そうなんだね。まあ、僕はまだ、恋人とかは作らないようにしているんだけど」

「な」

 何で、という言葉を辛うじて飲み込んだあたしだが、心の中での「何で」という疑問は消すことができず、結局質問する。

「え~と、理由を伺ってもよろしいでしょうか?」

「何で急に敬語?」

「いや、あたしにも分からない」

たぶん、動揺したからだと思う。

「まあいいや。それで、僕が恋人をまだ作らないようにしている理由だけど」

「うんうん」

 あたしは播磨くんの言うことを聞き返すことがないくらい、一言一句頭に留められるよう、身体の全神経を耳に集中させて、次の播磨くんの言葉を待つ。

「簡単に言うと、聖書を読んでみて、僕がまだ恋人を作る時期じゃないと思ったからかな」

「……Pardon(もう一回言って)」

「何で今度は英語?」

「何でだろう? 昨日の英語の授業で習ったからかな?」

 動揺してるからに決まってんでしょうが!

「ち、ちなみに今度はどんな聖書の言葉が出てくるのかな?」

 聖書の言葉が聞きたいわけでは決してないけど、播磨くんが恋人を作らないようにしている理由は確認しておかないといけない。

 というか、聖書の言葉が人の生活に影響を与えることは、あたしもなんとなく感じてはいたけど、播磨くんの考え方は極端過ぎやしない?

「そうだねー。色々あって、特にこれだ、っていう聖書の言葉はないんだけど」

 播磨くんはそう言ってしばらく考えた後、あたしに逆に質問してくる。

「小野寺さんは恋人同士ですることって何をイメージする?」

「こ、恋人同士ですること?」

 ええ? そんなの急に言われても。あたしはまだ付き合った人がいるわけじゃないから、実体験を話すことはできないし。ドラマとかお話の中でだったら、キ、キスとかもするんだろうけど、それを今、播磨くんの目の前で話すのはちょっと気が引けるというか。

 ほんの一瞬の間に数時間分の考えが浮かんでは消え、そうしてあたしの脳が過去最速のフル回転をした後、

「まあ、恋人同士ですることっていったら、デートしかないんじゃない?」

 結局、ものすごく一般的で無難な答えを選ぶあたし。

デートの定義は曖昧だけどね。

「うん、そうだね。それで、恋人同士でデートをすることに関して何だけど、僕はね。デートは、お互いが相手と本当に結婚したいかどうかを見極めるためにすることだと思っているんだ」

 と思ったら、播磨くんは播磨くんで、どうやらデートの定義というか、デートの目的というものを考えていたみたい。

「『お互いが相手と本当に結婚したいかどうかを見極めるためにする』って?」

 何だろう? なんかちょっと大人な感じの考え方だ。

「恋人同士が最後にすることって、なんだと思う?」

「え? そんなの結婚することでしょ?」

 なんてことのない風に言うあたしだが、結婚という慣れない言葉を播磨くんの前でしれっと言えたあたしを、あたしは自分で褒めたい。

「そうだよね。だから恋人同士で色んなことをして、自分は本当にこの人となら幸せになれるのか、この人は自分と結婚して幸せになれるのか、そういったことを考えていくための過程がデートだと思うんだ」

「それは何となく分かったけど、それがどうして今は恋人を作らないようにすることに繫がるの? 結婚相手を考えるのなら、むしろ恋人になってデートをたくさんしたらいいんじゃない?」

 普通はそうじゃないのかな? とあたしは心の中で思うのだけど、播磨くんの考えは少し違うみたいだ。

「でも、結婚する気がまだないのに、付き合ってデートして、相手がその気になっているのに自分はその気じゃない。っていうのは、少し無責任だと思うんだ。相手がいるからこそのデートで、恋人になる相手は慎重に選びたいとも思うしね」

 う~ん。あたしが思っているより、播磨くんは責任とか慎重とか、ちょっと真面目に考え過ぎているんじゃないかとあたしは思う。

「でもさ。播磨くんも『まだ、恋人とかは作らない』だけで、将来はできたらいな~、とか思うでしょ」

 これは絶対に確認しておかないといけない。

 あたしのそんな質問に、播磨くんは意外と普通な答えを返してくる。

「それは、もちろんあるよ」

「な~んだ。播磨くんもやっぱりそうなんじゃん」

 ……良かった~。一生恋人は作らない、結婚もしない、とか言い出したらどうしようかと思っていたんだけど、それはないみたい。もしかしたら、来年とか再来年とか、近いうちに播磨くんも、恋愛がしたいな~、と思うことがあるかも。

 そんなあたしの淡い希望は、次の播磨くんの言葉で泡と消える。

「んー、そうだねー。早くても、高校を卒業して、社会人として仕事をして、自分の給料でしっかり生活ができるようになってからかな」

 遠おおおい! 遠いよ、播磨くん。青春時代が終わっちゃった後じゃない、それって。

「ええ~。播磨くんはさあ、ライトノベルとかドラマとかの主人公みたいに、可愛い女の子とかと一緒に付き合いたいとか、そんな願望はないの?」

「僕はあまりイメージしないかな。小野寺さんは?」

「へ? あたし?」

 ふいにされた質問の意味が理解できず、あたしは播磨くんの次の言葉を待つ。

「小野寺さんは恋人とかを作りたいと思う理由とかって、何かあるの?」

 ……恋人とかを作りたいと思う理由?作りたいと思う理由なんて……ん? …………んん~?

「あれ? 何か、上手く言葉が浮かんでこない?」

 どうしてだろう。さっきも言ったけど、女子として、カッコイイ男子と恋人になれたら、とかは思う。けれども、どうしてそう思うのかと聞かれると、返答に困る。

「まあ、僕達もまだ中学一年生だし、そういうことは、これから大人になっていく間に分かるんじゃないかな。今はむりに考えなくてもいいと思うよ」

 自分はまだまだ子どもであることを自覚して言う播磨くんの様子が、逆にあたしより大人びて見える。

「そういえば。何というか、小野寺さんって、鷹橋たかのはしさんと似てるね」

「え? 鷹橋って、さっきの話でも出ていた鷹橋麻耶まやちゃんのこと?」

 突然再び出てきた親友の名前に、驚くあたし。

「あ。やっぱり鷹橋さんと小野寺さんは仲がいいんだね」

「そりゃあ、小学校一年生の時からの友達だし。それよりも、どうして急に麻耶ちゃんの話になったの?」

 さっきの話から、麻耶ちゃんが出てくる要素はない気がするんだけど。

「えーとね。何か、さっきから小野寺さんがした質問と、鷹橋さんが最近僕にしてきた質問とが、似ているなあと思って」

「麻耶ちゃんがした質問? というか、播磨くんと麻耶ちゃんって、知り合いだったっけ?」

 あたしの記憶では、播磨くんと麻耶ちゃんが話をしていた場面はなかったと思う。麻耶ちゃんからも、播磨くんと話をしたということは聞いていなし。なんで麻耶ちゃんはそのことをあたしに言わないんだろう?

 そんなあたしの疑問は、その後の播磨くんの言葉で明らかになる。

「鷹橋さんなら、最近よく話すよ。主に小野寺さんのことで」

「へ?」

 あたしのこと?

「最初は二週間くらい前からかな。僕が図書室にいる時に、鷹橋さんの方から声をかけてきてね。最近、小野寺さんと僕がよく話をしているけど、どんなことを話しているのって聞いてきたんだよ」

 あーそういえば。播磨くんと聖書レッスンをすることを、麻耶ちゃんだけには伝えたんだっけ。まあ、麻耶ちゃんのことだから、興味本位で色々と播磨くんに質問したのかな?

「それだけ? 他にはどんな話をしたの?」

「他には、先週あたりからかな。僕が小野寺さんのことをどう思っているのか聞いてきて」

「……は?」

「あと、昨日はやたらと、小野寺さんが小さい頃の昔話をしてきたり」

「なっ?!」

「最後の方では、小野寺さんが鷹橋さんから見て、どれだけいい友達かとかを話していたりしたよ」

 ちょっとおお! なんてこと話しているのよ摩耶は!

 播磨くんの話を聞いていく間に、あたしの親友がなぜそんなことを播磨くんに話したのか、あたしは何となく理解した。そうしてこうも思った。

 今度あのお節介焼きと出会ったら、一発デコピンをかましてやろうと。

「なかなか面白かったよ、鷹橋さんとの話。僕の知らない小野寺さんの一面も知れたし」

 何を教えたのか、尋問もしないといけなくなった。

「麻耶ちゃんと話をしていることを教えてくれてありがとう播磨くん。明日麻耶ちゃんと会ったら、播磨くんと何を話したのかしっかり聞いておくね」

 心の中の感情とは正反対の笑顔で、あたしは播磨くんにそう答える。

「あれ? 明日は土曜日だよね。鷹橋さんと小野寺さん、どこかに一緒に行くの?」

 たしかに今日は金曜日で、明日は学校の授業がない日だ。そうなると、どこかにお出かけするか一緒に遊ぶのだろうと、播磨くんは思ったようだ。

「そうだよ。ほら、最近公開した地球の動物がいっぱい出てくる映画。あれを麻耶ちゃんと一緒に見に行くんだ」

 英語で地球という意味の、シンプルなタイトルの映画を、あたしと麻耶ちゃんは明日、見に行く予定である。

「ああ、あれね。僕も見に行くつもりだったんだ。色んな自然や動物が見られるからいいなーと思ってね」

「そうなの? 播磨くんも映画とか見るんだね」

 ちょっと意外と思いつつ、あたしはあることを思い付いたので聞いてみた。

「じゃあさ、今度の土曜日、というか明日、あたし達と一緒に映画を見に行かない?」

 そう言った後、あたしはあれっと思う。まるで麻耶ちゃんを遊びに誘う時みたいに言った自分の言葉を、あたしは自分で不思議に思う。

 今の言葉は、一か月前のあたしと播磨くんの関係なら、絶対に言わなかったことだ。ただのクラスメイト同士なら、まずほとんどない会話。それでも、あたしが今そう言えたのは、間違いなくあたしと播磨くんの関係が、ただのクラスメイトではなくなってきているってことなのかもしれない。

「明日、小野寺さんと鷹橋さんと一緒にかあ……」

 あたしの提案に、播磨くんはしばらく考え込んでしまう。

 まあ、普通の友達とかなら、じゃあ行こうかってことになることが多いけど。

 そう思いつつも、あたしはさっきの播磨くんの恋人を作る理由のことを思い起こして、やっぱりダメかなあとも思う。麻耶ちゃんと一緒の三人でとはいえ、これじゃあまるでデートっぽいもの。

「うん。明日は特に予定もないし、行こうか三人で」

「そうだよね~。さすがに急には……って、あれ?」

「?」

 あたしと播磨くんが同時に沈黙をする。

「え~と。明日、播磨くんもあたし達と一緒に行くってこと?」

「うん。今言ったけど、明日は特に予定もないし」

「そっか~。それじゃあ、麻耶ちゃんの方にはあたしの方から伝えておくね」

 あたしは心の中の感情とは真逆の冷静な表情で、播磨くんに答える。

 その一方で、あたしはあることを頭の中で自問する。

 もしかしてあたし。人生で初めて、男の子をデートに誘って成功しちゃった?


           *      *      *


 その日の学校の帰り道。

 いつもの通学路を下校しているあたしの隣には、黒いボブヘアーを揺らしながら歩く親友の姿がある。細身で身長の低いあたしとは正反対で、そこそこ高い身長と身体格のいい身体つきの持ち主で、それもぽっちゃりではなくスタイルのいい方という、あたしが羨む人物の一人、鷹橋たかのはし麻耶まやちゃんである。

 あたしは校門近くで、部活動が終わった麻耶ちゃんを待ち構え、一緒に帰ることにした。もちろん理由は、明日のことを相談するためだ。

「久しぶりに一緒に帰ろうって言うなんて、どうしたのよ?」

 麻耶ちゃんが、てくてくと歩きながらあたしに尋ねる。

 麻耶ちゃんの家は、あたし達の中学校から比較的近いところにあり、残念ながらギリギリ自転車通学が許されていない距離の地域に入っている。

 あたしの家は麻耶ちゃんの家からもう少し遠いところにあるので、自転車に乗って登下校してもいいのだが、今は相談相手の麻耶ちゃんの歩みに合わせるために、自転車を押しながら麻耶ちゃんの隣を歩いている。

「え~と。今度の土曜日、というかもう明日なんだけど。その日の服装選びと、お母さんへのアリバイ作りを少々」

 アリバイ作りを少々って、普通の女子中学生なんかがやることというより、刑事もののドラマの犯人がやりそうなことだけど。

「明日って、私と神無で映画を見に行こうって言っていた日だよね。何かトラブルでもあったの?」

 麻耶ちゃんは、あたしと本当に同い年かと疑いたくなるくらい頭の回転が速い。ましてや、親友で幼馴染のあたしの言葉を少し聞いただけで、だいたいのことは察してくれる。

「トラブルっていうわけじゃないんだけど。……実はその、明日の映画のことなんだけど、同じクラスの男の子も誘ったの。それで、一緒に行くことになったんだけど、麻耶ちゃんも構わないよね?」

「え? なになに!? デート? 神無、ついに播磨くんとデートするの!?」

「ち、違うよ~。ただ一緒に映画を見てそのあと街中をぶらぶら歩くだけでしょ。あと、ぶっちゃけ麻耶ちゃんも一緒だよね」

 というか、こんな人前でデートデートと連呼しないで欲しい。あと、何ですぐに相手が播磨くんだって分かったんだろうか、この親友は。

「男女が一緒に映画を見に行く。それをデートと言わずに、何というの?」

 まるで大好きな恋愛ものドラマを見ている時みたいに、目を輝かせる麻耶ちゃん。

「え~と、お出かけ?」

「……あんたは小学生か」

 麻耶ちゃんのツッコミに、ほんの数か月前までは小学生でしたよ~、と心の中で反論する。

「でも、何でわざわざ親にアリバイ作りをするの? 神無のお母さん、めっちゃ神無のこと好きじゃん。あたしと一緒に出かけることはオッケーしてくれたんでしょ。素直に明日は播磨くんも一緒に行くって言えば?」

 麻耶ちゃんはおそらく、あたしの家に遊び来た時に出会った母の様子を思い起こしているのだろう。たしかにあたしの母は、あたしのことが大好きだとよく言うし、あたし自身も母のことが大好きだ。でも、今回は少し状況が違う。

「麻耶ちゃんと二人だけなら出かけても大丈夫だろうけど、播磨くんと一緒となると、ちょっとね。お母さん男嫌いなところがあるから。同い年の同じクラスの人とはいえ、もしかしたらお母さんに止められちゃうかも」

「あれ? そうなの? そんなこと、初めて聞いたよ」

 あたしの母が男嫌いなのには理由がある。その理由は、あたしが今年の三月最後の夜に聞いた。けれど、いくら親友の麻耶ちゃんが相手でも、それは簡単に話せることではない。

「ごめんね、麻耶ちゃん。このことは少し、話しづらいんだ……」

「あーいいよいいよ。別にむりに話すことないって。それより、明日の話をする方が大事でしょ」

 あたしの微妙な雰囲気を感じ取った麻耶ちゃんは、特に詮索するわけもなく、そう言って自然に話題を変えてくれる。

 こういう時の麻耶ちゃんの気遣いは本当にありがたい。さすがあたしの親友だ。

「とりあえず神無のお母さんには、あたしが神無と一緒に映画に行くことだけを話して、播磨くんのことは言わないでおけばいいね。後でもしも神無のお母さんに聞かれたとしても、適当に上手く言っておくから安心して」

 昔からだけど、麻耶ちゃんは、あたしがどうしようかと悩んでいたことの最も良い答えを、いつもすぐに考えて言ってくれる。

「ありがとう、麻耶ちゃん。お願いね」

 あたしは精一杯の感謝の気持ちを込めて、同い年の麻耶ちゃんに頭を下げる。

 あたしの心の中にはもう、デコピンをしてやろうというマイナスな気持ちは、すっかりなくなっている。

 ……播磨くんに何を吹き込んだのかの尋問は、後で絶対に行うけど。

「もー。そんなお礼なんていいって。……そうだ。今日は神無の家に行ってもいい?」

「いいけど、何で?」

 あたしがそう尋ねると、麻耶ちゃんはむふふと笑いながら、面白いものを見つけた時にしか見せない笑顔になる。

 う。嫌な、すごーく嫌な予感がする。

「そりゃあもちろん。明日の神無が着ていく服装のコーディネートのためだよ。わたしの親友の初デートは成功させないとね」

「お、お手柔らかにね。あと、さっきも言ったけどデートじゃないから」

 それと何度も思っているけど、人前でデートと言わないでほしい。恥ずかしい。

「それじゃあ、わたしはいったん家に帰るね」

「え? このままあたしの家に来てもいいけど」

 小学校の時みたいに、気軽に家に来て欲しいと思って、そう言ったあたしだったが、

「何言ってんの。いったん帰らないとあたしの服を神無に貸せないでしょう」

 この親友は、あたしの想像以上に本気のコーディネートをするつもりだ。

「ちょっと麻耶ちゃん。そこまで本格的にならなくっても」

「神無は先に家に帰っといて。神無にも合いそうな服を片っ端から選んで持っていくから」

 そう言い終わるよりも早く、麻耶ちゃんはダッシュで自分の家に走っていく。

 麻耶ちゃんは頭の回転もだけど、それ以上に行動力が半端ない。

 あたしはそんな親友の様子を呆然と見送りながら、何とか麻耶ちゃんの手から逃れて家に帰る方法がないかと考え、

「あ。麻耶ちゃん、家に来るから、あたしの逃げ場ないじゃん」

 という結論に至る。そして、その後の家で、自分が着せ替え人形のようになることを覚悟しながら、同時にこうも思った。

「うん。やっぱり一発くらい、麻耶ちゃんにデコピンをかましておけばよかった」

 というか、あたしの家に来たら実際にやってやろう。播磨くんにどんな話をしたのかの尋問もセットで。幸い、体格こそあたしの方が劣ってはいるものの、柔道で鍛えたあたしの身体でなら、麻耶ちゃんを羽交い絞めにして寝技をかけることなど容易いものだ。

「さてと、麻耶ちゃんが来る前に家に帰っておかないと」

 あたしはそう言って、近道をするために、普段使う通学路ではない裏道へと自転車を走らせる。

 あまり人通りがない道で、夕暮れ時のこの時間帯は、仕事帰りの社会人が少し歩いているくらい。本当はいつもの大通りを行く方が安全なのだけど、今日は急いでいるから通っちゃおうっと。

 そう考えながら自転車で裏道を進み、あと少しで家に着くというところで、

「あれ? もしかしてあれは」

 あたしは自分が通っている中学校の制服を着た、見覚えのある男子を見つける。髪の色はよく見る黒色なものの、髪型はあたしの学校ではあまり見かけない、短く刈った襟足を狼の毛のように立てているヘアスタイルだ。やや目つきが悪いけど、あどけなさが残る顔立ちに、どこかふてぶてしい表情。

 ……う~ん。どこかで見たことがあるような。あ、そうそう。あれはたしか……。

根本ねもと涼助りょうすけくんだったかな」

 思い出した。あの男の子は、あたしが小学校六年生まで通っていた柔道教室で、四年生くらいまで一緒に柔道をやっていた同級生だ。低学年の頃は歳が同じということもあり、よく話をしたのを覚えている。途中から柔道教室に姿を見せなくなってからは、話をしなくなっていたけど。

「ん? あれはだれだろう?」

 あたしは自転車を近くに止めてから、根本くんの周りにいる二人の人物をよく見る。

 一人はあたしの住む町の中にある、あまり偏差値の高くない高校の制服を着ている男子のようだ。だけど上着のボタンは全開で、ベルトもゴテゴテとした感じのものを身に着け、制服をかなり着崩している。

 もう一人は、あたしが見たことのない、おそらくこの近くにはない高校の制服を着ている。ただ、髪は日本人らしくない茶色で、顔は見たところ日本人なことから、髪は染めているように見える。……あれ?

「茶髪の方の高校生(?)、どっかで会ったことがあるような……」

 ん~、この感じはつい最近に会った人じゃなくて、だいぶ昔かも。

 あたしがそう思っていると、根本くんの周りにいた二人の高校生らしき男の人達が、じゃあなと言って、根本くんから離れていく。

 どうやら何か会話をしていたようなのだが、少し離れた場所にいたあたしには内容までは聞こえなかった。

 あたしは二人の高校生らしき人達が去っていくのを見届けた後、二人の反対方向に行こうとしていた根本くんに声をかける。

「ねえ。根本くんだよね?」

 あたしの声に、根本くんは一瞬ビクッとなるものの、あたしの顔を見て緊張を解く。

「なんだ、神無か」

「あ。名前覚えていてくれたんだ」

 二年以上話していなかったので、忘れられている可能性もあったんだけど、どうやらそれはなかったらしい。

「ていうか、今は同じ中学校じゃねーか俺ら」

「え? あ、そういえばそうだっけ」

 そっか。小学校は一緒じゃなかったけど、同じ中学校に入ったんだっけ、あたし達。

「気付いてなかったのかよ」

 露骨な呆れ顔で根本くんがそう言う。

「まあ、おまえに覚えてもらえなくても別にいいけどよお」

 変に素っ気ない言い方が少し気になったものの、それよりも聞きたいことがあったあたしは、根本くんに尋ねる。

「ところで、さっきの二人はだれなの?」

「ああ、先輩達だよ。神無には関係ないけどな」

 む。さっきから反応が本当に素っ気ない。素っ気ないというか、ぶっきらぼうにすら聞こえる。

「ねえ。さっきの二人だけど、ちょっとガラが悪い人達じゃない? そんな人達と根本くん、どういう関係なの?」

 しばらくぶりにあった根本くんの態度も気になる。小学生だった時は優しい感じだったのに。今じゃなんというか、悪い言い方かもしれないけど、ちょっと不良になりかけている感じがしてしまう。

 あたしが心配してそう聞いたつもりだったが、根本くんはあたしの質問が気に障ったようで、不機嫌な様子で言う。

「なんだよ神無。久しぶりにあったと思ったら、俺のことを色々聞いてきて。女子のくせに、俺のことに口出しすんじゃねーよ」

「女子とかそんなの関係ないでしょう。あたしはただ、幼馴染みとして言っただけで」

「うるせな、どっか行けよ」

 根本くんはそう言ってあたしに近づくと、あたしの肩を強く押す。

 小学生の時とは比べ物にならないほどの強い力に、あたしはたじろぎ、とっさに根本くんの手首を掴んでいつも習っている柔道の技をかけてしまう。

 根本くんの身体が、ふわっと浮き上がったその一瞬後。

「いって」

 気が付くと、そこには地面に倒れた根本くんがいる。

「何すんだよおまえ」

 そう恨み言を呟きながら、根本くんがゆっくりと起き上がる。

「ごめん。急に突き飛ばしてきたから、つい」

「つい、じゃねーよ! たくっ」

 あたしの言葉に、根本くんは苛立ちを隠そうともせずあたしに言う。

「マジで何なんだよ神無。おまえなんて、シングルマザーで父ちゃんがいないくせに」

 根本くんのその言葉を聞いた瞬間、あたしは一瞬で頭に血が上ってしまう。

 根本くんに馬鹿にされたから、ではない。もしかして、根本くんはあたしと母のあの秘密を知っているんじゃないかと、そんなことは決してありえないはずなのに、あたしは頭が真っ白になる。そして、

パシィ、と裏道を乾いた音が響く。

「え?」

 呆けた声を出すあたし自身すら気付かないくらい無意識のうちに、あたしの手の平は、根本くんの頬を叩いていた。

「な?」

 怒る、というより、驚いてあぜんとした顔で固まる根本くん。

 あたし達二人の周りには、いつの間にかいた通行人の人達が、「中学生同士のケンカじゃない?」とか、「警察か学校に連絡した方がいいかしら」という会話をしている。

 そんな会話を聞いたあたしは、考えるより先に、自転車に乗って走り出していた。

「って、おい! 待てよ神無!」

 後ろから根本くんの声が耳に入ってくるが、あたしの頭には何一つ入ってはこない。

 ただ一心不乱に自転車のペダルをこいで、家を目指す。

 頭の中がぐちゃぐちゃな気分だ。

 早く家に帰ってシャワーを浴びて寝てしまいたい。いや、それは麻耶ちゃんが家に来るから無理だろう。それでもあたしは、嫌な出来事を少しでも早く忘れられるよう、今日という日のことが自分の中でなかったことにできるよう、こう願わずにはいられなかった。

 早くはやく、明日が来ますように、と。

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