第1話 第一章 扉を開けたら、気になる男子が伝道者だった件。

第一章 扉を開けたら、気になる男子が伝道者だった件。


 日本の大都市、東京。ちょっと前に流行ったアニメの映画では、東京二十三区に並び立つ高層ビルの様子が、綺麗な映像で映し出されていたけど、あたしが住んでいるのはそんな都会とはほど遠い、二十三区外にあるとある町だ。

 あたしの家があるのは、母親が生まれる前からこの町に建っている、五階建ての古い団地のマンションの一つ。駅前や町役場の近くまで行けば、もっと高いショッピング施設やマンションもあるが、せいぜい十階建てくらい。そのくらいの高さの建物しかあたしの町にはない。

 東京都内とはいえ、渋谷や銀座とは違い、家の周りには田んぼや畑の広がるこの町が、私の生まれ育った場所だ。町の人口は四万に少し足りないくらい。ほどよく自然に囲まれ、一通りのお店もあるおかげで、暮らしには不自由しない。都心にだって、最寄り駅から一時間くらいで行くことが出来る。

 そんな町の中学校に、あたしはこの春、入学した。

 新しい制服に袖を通し、小学生の時とは別の道を通って、私は中学校に通う。何もかもが新しい毎日だけど、幸いにも小学生の時からの友達が同じクラスにいることもあり、初めてだらけの日々もその友達と一緒に楽しくやっている。

 そんな中、あたしは最近気になる男子を見つけた。

 播磨はりま英理矢えりや、と書かれた名札のある制服を着たその男子は、休み時間になる度に、いつも本を読んでいる。短い黒髪の頭に、顔は割と精悍な顔つきで、周りのことにはあまり感情を動かされないのか、いつも無表情でいる。背丈は高く、おそらくクラスで一番か二番目くらいの長身で、体格はがっちりしている方ではないけど、不思議とひょろひょろなイメージはない。けれども、運動部系というよりも文化部系といった雰囲気で、とにかく休み時間には本を読んでいる。

 まあ、休み時間に本を読む男子自身体は結構いる。あたしの学校では、時間割の中に朝の読書タイムというものがあり、その時間は必ず小説などを読むことになっている。こっそり漫画を読んでは先生に叱られる男子もいるが、大抵みんなは文学小説やライトノベルを読んでいる。あたしもライトノベルが好きで、よく図書館に行っては、借りた本を読む毎日だ。

 でも、播磨くんが読んでいる本は、ライトノベルではない。

 普通の小説とは違う薄い雑誌のような本で、挿絵や写真が結構ある。一応文章がびっしり書かれているから漫画ではないみたい。一時期、担任の先生にそれは何だと言われて職員室に呼び出されたみたいだけど、先生に許可されたらしく今でも当たり前のように読んでいる。

 播磨くんの友達の何人かは、その雑誌みたいな本が何かを気にして、本人に聞いたり、自分で読んでみたりしているようだけど、あたしにはそうすることができなかった。

 もちろん播磨くんのことが気にならない訳ではない。むしろどうやってこちらから声をかけようかと毎日悩んでいるくらいなのだけど……。どういう訳か、中学生になってから、男子に声をかけることに、妙な違和感があるのだ。小学生の時は普通に話せていたはずなのに。

 違和感があると言えば、制服だってそう。男子はズボン。女子はスカート。男子は学ラン。女子はブレザー。着るものからして、男子と女子が明確に分けられている。私服だった小学校の時より、何というか、男子と女子が一緒になりにくい、そんな感じがする。

 周りのみんなも、男子は男子、女子は女子でまとまることが多い。まあ、これも中学生になったからかなあ、と思うようにしているけど。

 そんなことを日々考えながらも、勉強をし、部活動もし、それなりに充実した毎日をあたしは過ごしていた。


           *      *      *


そんな慌ただしかった四月もあっという間に終わり。今日はゴールデンウィーク初日。

麻耶まやちゃん暇だよ~。一緒に遊ぼう~」

「いやいや。私は家族旅行の真っ最中なんだけど」

 ゴールデンウィーク初日から暇を持て余していたあたしは、家で簡単な昼食を済ませたすぐ後に、小学校の時からの親友の麻耶ちゃんに電話をかけたのだ。

「あ~。そういえば休み前にそんなこと言ってたっけ。今はどこ? もうホテル?」

「ううん。まだ車の中。あ、今ちょうどパーキングエリアに着いたから、妹達と一緒にトイレに寄ってかないと。ごめんね神無かんな。またかけ直すよ」

「あ~いいよいいよ。せっかくの旅行中だし、楽しんできてね~」

 お土産よろしく~と言ってから、私は電話を切る。

「いいな~家族旅行。麻耶ちゃんも家は大家族だから楽しそう」

 麻耶ちゃんは、今どき珍しい五人兄弟の長女だ。家族みんなで旅行に行った時には、頼れるお姉ちゃんとして、弟や妹の面倒を任されているらしい。

「あたしも連れて行ってほしかったなあ~。でもお母さんがなんていうかな~」

 あたしの家族は、母とあたしの二人きりだ。そしてその母も今日は仕事。この家には今あたししかいない。

「仕方ない。とりあえず宿題でもするか~」

 そういってあたしはノロノロとした動きで宿題に取り掛かる。

 国語、算数……じゃなくって数学と、理科、社会、英語。

「中学生になって変わったのって、やっぱ宿題だよね~」

 何で中学校はこんなに宿題が多いんだろう? もっとも、友達の中には、この上さらに塾の宿題までこなす強者もいるけど。

「そういえば麻耶ちゃんは宿題大丈夫なのかな?」

 まあ、頭のいい麻耶ちゃんなら問題ないのかも。そんなことを思いながら、あたしが宿題をしていると、

ピンポーン

 と、家の呼び鈴が鳴った。

「ん?」

 今日は誰かが来る予定はなかったはず。知り合いが突然訪ねてくることもないだろうし。宅配の人かな?

「は~い。今行きますから、ちょっと待って下さ~い」

 あたしはそう言いつつ、玄関に向かう前に、その途中にある洗面所の前に行き、鏡を見る。するとそこには、つい最近中学生になったばかりのあたしの姿が映っている。髪型はセミロングな黒髪を、飾り物のない単純なヘアゴムで縛ったポニーテール。背丈は、同じ学年の女子の平均より少し小さいくらい。背の順で並べば、前から数えた方が早いくらいだ。身体型はやせてもなく太ってもいない、はず。まあ、あたしはよくみんなから小柄な方だと言われるから、学年平均よりも重いことはないと思う。服装は特に気にすることもない、近くの古着屋で買った、何の変哲もない普段着だ。

 この格好なら人前に出ても恥ずかしくはないよね。

 あたしは鏡を見ながらそう思いつつ、あまり人を待たせてもいけないと考え、玄関に向かう。そして、ドアのカギを開ける前に、ドアのチェーンをかける。あたしが住む町は治安がいい方だと思ってはいるけど、それでもたまに不審者情報が出ることはある。念には念を入れて、必ずチェーンをかけるのが、あたしの家の決まりだ。

「え~と、どちらさまですか?」

 そう言って扉を開けた先にいたのは、冠婚葬祭などのちょっとした式に出られるくらいのきちんとした服装を着た女の人だった。年齢はあたしの母よりも一回り歳上くらい。手には、綺麗に手入れされているみたいだけど年季の入ったバッグと、何か雑誌のようなものを持っていた。

「あら? 可愛いお嬢さん。お母さんかお父さんはいますか?」

 割とおっとりした、よく言えば上品なしゃべり方で女の人は尋ねる。

 いちおう中学生になったけど、知らない人からお父さんかお母さんはと言われると、自分はまだまだ、他の人から見たら子どもなんだなあと思う。まあ、いいけどね。

「あ~はい。いますけど、夜勤明けでまだ寝てます」

 嘘である。とはいえ、正直に今は一人です、とは答えない。世の中には悪い人がいっぱいいるのよ、と母は言っていたし。まあ、目の前にいる女の人は、悪い人には見えないけど。

「そう。じゃあお嬢さんにこの雑誌を渡しておくわね」

 そう言って女の人はあたしに一冊の雑誌を手渡す。

「聖書を調べてみませんか?」

 とりあえす雑誌を受け取ったあたしは、その表紙に書かれたタイトルの言葉を呟く。

 ん? この雑誌、どっかで見たような? 家……ではなかったから、学校でかな? それとも……。

 あたしがそんなことで頭を悩ませていると、雑誌の内容に興味を持ったように思われたのか、女の人は自分のバッグから、明るい灰色の表紙の分厚い本を取り出す。そして、その本のあるページを開くと、あたしにその文章を見せながら言う。

「ここに、『人からして欲しいと思うことは全て、人にもしなければなりません』という聖書の言葉があるのですけど、お嬢さんはお聞きになったことはありませんか?」

「え~と、ありませんけど……。あの、失礼ですけど、何の用ですか?」

 いちおう質問に答えたあたしだけど、聖書という、自分にはあまり馴染みのない言葉を聞いて、なんとなくこの女の人がどんな人達なのか察し、そう聞き返した。

 すると、あたしの態度に気付いた女の人が、簡単で短い答えを返す。

「あら、これは私のほうこそ失礼をしました。今日は息子と一緒に、お会いできた皆さんへ、聖書が生活に役立つ点や、聖書に書かれている神様についてのお話を、ボランティアでお伝えしていたんです。良かったらお嬢さんの家でも読んでみませんか?」

 あ~、やっぱり。たまに二人組で来る聖書の人か。そういえば、チェーンをかけているせいでよく見えないけど、スーツを着た背の高い男の人らしき人も視界の端に見える。

「うちの家族は、神様なんて信じてないので結構です」

 あたしは母がいつもやるように、そう言って受け取った雑誌を突き返す。

 こうやって家に訪問してくる人達は、母がいる時にもたまにやって来る。そういう時、母はいつもこう言ってはっきりと断る。

「そう、ですか」

 途端に女の人の表情が曇り、残念そうに雑誌をバッグに戻す。

 う~ん。別に悪いことをしている訳ではないではないのに、気まずい。

 まあ、いらないものはいらないし、しょうがないよね。

「それでは失礼しますね」

女の人はそう言って頭を下げる。また、隣の男の人も一緒に頭を下げたようで、身体が揺れるのが視界の端に映り、その男の人からも言葉が発せられる。

「失礼します」

 ……あれれ? この声、どっかで聞いたことがあるような?

 あたしがそう思っていると、僅かに空いたドアの隙間からその男の人の顔が見える。

 短い黒髪の頭に、割と精悍な顔つきのその男の人は、あたしにとってはとても見覚えのある人物で、あたしはその一瞬頭が真っ白になり、次いで言葉にならない変な声が口から漏れ出る。

「はぇ?」

 あたしが間抜けな声をあげるものの、二人はそれに気付かず、家の前を通り過ぎようとする。一方のあたしは、慌ててドアのチェーンを外してドアを大きく開くと、その二人組に、正確には、その見覚えのある男の人へと叫ぶように声を掛ける。

「ちょ、ちょっと待って!」

「?」

 あたしがそう言って、その男の人が振り返るよりも先に、あたしはその人がクラスメイトだという確信を持って尋ねる。

「あなた、播磨はりまくんだよね。何であたしの家の前にいるの!?」

「え? 小野寺おのでら……神無かんなさん? ここって小野寺さんの家だったの?」

 あたしのように大声ではなかったけど、たしかにその男の人、播磨英理矢くんは、驚いた様子でこちらを振り返った。

 小学校の卒業式で着るような高級な感じの服装ではないけれど、使いこなれた大人のサラリーマンが着るようなしっかりとした黒いスーツに、緋色のネクタイを付けた姿は、普段の中学校の制服とは違うものの、見間違えるはずもないその顔は、播磨英理矢くん本人だ。

 そんな播磨くんは、あたしの家の前で振り返った姿勢のまま、どうやらあたしの次の言葉を待っているようで、あたしは急いで次の言葉を探す。

「え~と、その」

 どうしよう。いつも播磨くんとどうやって話をするかを考えていたはずなのに、こうして突然出会うと、今まで考えていたことが全然浮かんでこない。

「あら? 英理矢のお友達?」

 あたしがただひたすらに悩んでいると、播磨くんと一緒にいた女の人が、あたしではなく播磨くんに尋ねた。

「中学校のクラスメイトの小野寺さんだよ。僕とは違う小学校出身で、中学生になってから知り合ったんだ」

「えっ? 播磨くん。あたしのこと覚えてるの?」

 そういえば、さっきもあたしの下の名前もしっかり言っていたし。も、もしかして、播磨くんも、あたしのことが気になっていたのかな?

「それはそうだよ。三十人ちょっとのクラスなんだから、みんなの顔とフルネームくらい覚えているよ」

「あ~。そうだよね~」

 ですよね~。あたしだけ特別ってことはなかったみたい。

 ちなみにあたしはクラスの女子はともかく、男子の下の名前なんて、播磨くん以外ほとんど覚えていない。

「まあ。そうだったの? さっきは気付かずにごめんなさいねえ」

 女の人がさっきよりも深く頭を下げるものだから、あたしは慌てて応える。

「いえいえ、別に大丈夫ですよ。……あの、もしかして播磨くんのお母さんですか?」

「ええ、そうよ。いつも英理矢がお世話になっております」

「いや、お母さん。小野寺さんと話をしたのは今日が初めてだよ」

 再び頭を下げようとする播磨くんの母親を、播磨くんは言葉で制する。

 なるほど、これが播磨くんの母親か。改めてあたしは目の前の女の人を見る。

 う~ん。よく言えば上品で優しそうな感じで、あえていうならちょっとお人よしな雰囲気かな。

「そうなの? せっかく英理矢の学校での様子を聞けるチャンスだったのに」

「いいよお母さん、そういうことは気にしなくて。ほら、そろそろ次のところに行こう」

 そう言って播磨くんのは自分の母親を別のところへ連れて行こうとする。

 へえ~。学校での様子では分からなかったけど、播磨くんみたいな人でも、母親に普段の様子を知られるのは恥ずかしいのかな。って、まずい。このままだと、それじゃあまたね、って言って別れちゃうパターンだ。

「あっ、あの」

「?」

「?」

 播磨くんと播磨くんの母親が揃ってあたしの方を見る。

 ここで何かを言わないと、おそらく二人はそのまま別のどこかに行き、あたしは家に入っていつもの日常に戻るのだろう。まあ、今日の出会いをきっかけに、学校で播磨くんと話しをすることもできるかもしれない。……でも、ここで何か行動をしなきゃ、きっとあたしは播磨くんにとって、ただのクラスメイトのままだ。だから、あたしはいつもよりほんの少しだけ勇気を出して言う。

「えっと、その……さっきのあたしの質問」

「さっきの質問?」

 あたしの言葉に、播磨くんは首を傾げる。

「ほら、何であたしの家の前にいるの? ってやつ」

「ああ、それか。う~ん、そうだね……なんて言ったらいいかなー」

 いちおう、あたしもなんとなくは分かっている。たぶん、母親と一緒に家から家へと、こうして聖書の雑誌を渡す仕事を手伝っているんだろうと。

でも、あたしのそんな予想とは大きく違うことを、播磨くんは言う。

「一言でいうと、僕が伝道者だからだよ」


           *      *      *


 いつも通りの見慣れたあたしの家のリビング。母親の趣味で飼っているメダカがいる水槽、その水槽から聞こえる水を循環させる音が、いつもより大きく聞こえる。あたしの家ってこんなに静かだったんだ、と改めて思う。いや、あたしがいつもより静かに感じているのだけなのだろう。何せここはあたしがいつも起きて、食事をして、着替えて、ただいまを言って帰ってきて、眠って、そしてまた起きる、いつも通りのあたしの家だ。

 そんないつ通りのあたしの家のリビングに、いつもはいないはずの人影が二つ、お客様用の椅子に座っている。

 さっき玄関で会った播磨くんとその母親を、あたしは家に上げた。

 もちろんすんなりとはいかなかった。

 あたしが、

「じゃあ、立ち話も何ですから、あたしの家に入りませんか?」

 と二人を誘ったものの、

「いやいや、わざわざ小野寺さんの家にお邪魔しなくても」

 と播磨くんが言い、

「いいじゃないせっかくの機会なんだから。この後の予定も特にないし。私も小野寺さんと話をしてみたいと思うし」

 と播磨くんの母親が反論し、

「玄関前でいいじゃない」

 とか、

「でも、足が疲れたから私はどこかに座りたいわ」

 とか、そんな押し問答を玄関前で約一分した後。

 なら、ほんの数十分だけという約束で、二人はあたしの家に入ることとなった。

「あらあら、綺麗なお部屋。食器や調理道具も整理整頓されているし、お部屋飾りや水槽のレイアウトもバッチリ。英理矢の部屋も見習わないといけないんじゃない」

「お母さん。あまり人の家をきょろきょろと眺めると失礼だよ」

 リビングの様子を細かく眺める母親に向かって、播磨くんはため息混じりで言う。

 あたしはというと、はっきりいってテンパっていた。

 そりゃあそうでしょう。だって勢いで家に上げちゃったものの、あの播磨くんがいるんだよ! あたしの家に!

 とりあえず二人を家のリビングに案内して、お客様用の椅子に座ってもらい、あたしは何か飲み物がないかと冷蔵庫の中を物色する。

「あら~? そこの開いているドアの部屋は、小野寺さんの部屋かしら?」

「あああ! だめです播磨くんのお母さん。あたしの部屋を覗いても何も面白いものはありません!」

 播磨くんの母親の言葉に、あたしは慌てて、開けっ放しにしてしまっていた自分の部屋のドアを勢いよく閉める。

 お客さんがいるにもかかわらず、派手な音を立ててしまったことに、あたしは播磨くんの気を悪くさせてしまったかと思い、播磨くんの方を見る。

 その播磨くんの表情は、あたしの心配通り、憮然としたものだった。

 ただし、その表情はあたしに向けてのものではなかった。

「……お母さん」

「もう。英理矢ったら、そんなに怖い顔しないで。ちょっとドアが開いているのが気になっただけよ~」

 全く悪気のない声で播磨くんの母親がそう言い、播磨くんはそんな自分の母親を、少しあきらめにも似た表情で見つめる。

 良かった。どうやら、あたしに対しては怒っていないみたい。播磨くんも、あたしの部屋の中を見ていないようだし、余計な心配だったかな。……ただ。播磨くんがあたしのことに全く興味がなさそうな様子も、それはそれで複雑な思いなんだよね~。

 とりあえず冷蔵庫の前まで戻り、冷えた紅茶が入ったペットボトルを発見したあたしは、その紅茶をグラスについで二人に出す。

「わざわざお茶まで出してもらってごめんなさいねえ」

「いえいえお構いなく。お口に合うといいんですけど……」

 あたしは笑顔でそう言いながら、自分がいつも使うコップを取り出し、紅茶を入れてテーブルに置く。

「ありがとう。頂きますね」

 播磨くんの母親がそう言ってお茶を飲む。その様子見た播磨くんも遅れてグラスに口を付ける。

 いつも使っている自分の椅子を、いつもとは違っておしとやかに見えるようにゆっくりと座りながら、あたしもテーブルの上にある自分のコップに口を付ける。

 すると、先に紅茶を飲み始めていた播磨くんの母親が、グラスから口を離すと、あたしの方を見ながら、

「小野寺さんは気立てが良くて可愛くていい娘ねえ。英理矢のお嫁さんにどうかしら」

「ぶっ!?」

「ぶっ!?」

 そんな爆弾発言をするものだから、あたしと播磨くんは思いっきりせき込んだ。

「っ……お、小野寺さん大丈夫?」

「あ、あたしは大丈夫だからっ……ちょっと待ってて」

 そう言ってから、あたしは急いで洗面所に行き、タオルを二つ掴んでリビングに戻ると、一つを播磨くんに手渡す。

「ありがとう」

 播磨くんは受け取ったタオルで口を拭うと、律義に濡れたグラスやテーブルも拭き始める。

 あたしも同じように口を拭い、グラスやテーブルを拭いていると、いかにも困ったわあ、という表情の播磨くんの母親が謝る。

「ごめんなさいねえ。こんなことになるつもりはなかったのだけど」

 いや、分かっていますよ播磨くんのお母さん。悪気のないことはちゃんと。ただ、ただ、多感な時期の中学生の前では発言に注意をして下さいお母さん!

 あたしの心の中のそんなお願いを察してか、播磨くんが母親に向かって言う。

「お母さん、しばらくの間、お喋り禁止ね」

「え~? でも――」

「いいから禁止ね。返事は?」

「……はい」

 まるで刑事ものドラマのベテラン警官が出すような、そんな静かな凄みをきかせながら、播磨くんが自分の母親を黙らす。

 う~ん。いつも物静かで、感情をあらわにするところなんて見たことなかったけど、こんな様子の播磨くんが見れるなんて。

 ほんの少しだけでも、家に上げてみて良かったかも。

 そんなことをあたしが考えていると、播磨くんが今日の本題を話し出した。

「それで、僕が伝道者だって言う話だけど」

「あ、うん。その話」

 正直中学生になったばかりのあたしには、伝道者という言葉はあまり馴染みがない。というか聞いたこともないような……あれ? 社会の授業で何か習ったかな?

「小野寺さんは、伝道者と聞いてどんなイメージがある?」

「う~んと……。あ! ザビエルとか」

 そうそう思い出した。社会の教科書に載っていた、頭のてっぺんが禿げているおじさん。

「あー、うん。社会科の教科書に挿絵があるよね」

 播磨くんが微妙な表情になるものの、気を取り直した様子で続ける。

「それじゃあ、そのザビエルって人は、どんな人だったっけ?」

「え~と、日本にキリスト教を広めた人?」

 つい自信がなくて、あたしも質問口調で話す。

「そうだね。で、そのキリスト教ってのはどんなもの?」

「…………ん~と。聖書を、使って、何かを、する、宗教?」

 ダメだ。改めて考えてみても、教科書で習った情報以外は出てこない。……当たり前だけど。

 でも播磨くんは、そんな風に悩みまくっているあたしの様子を見て、うんうんと頷く。

「そう。正確には、聖書に書いてある良い言葉を、多くの人に伝えること、かな」

「良い言葉? 聖書って、昔の偉い人のこととかが書いてある、難しい本じゃないの?」

「んーとね。聖書は、神様の言葉が書いてある本なんだよ」

 播磨くんの口から出た「神様」という言葉に、あたしは一瞬、自分の母の顔を思い出して、どう返事をしたらいいのか分からなくなる。

「それに、聖書は難しいと思っている人もいるけど、簡単な内容も多いんだよ」

 播磨くんは、そんなあたしの様子には気付くこともなく、自分のバックから本を取り出す。

 明るい灰色の表紙に、濃いグレー色の聖書という文字が刻まれている。文庫本サイズの意外と小さな本だ。ただし、ページ数が多いのか、とても分厚い。

 播磨くんはそれを開くと、あっという間に目的のページを見つけ、読もうとしている部分を指差しながら言った。

「ほら、ここに書いてある言葉、『人からして欲しいと思うことは全て、人にもしなければなりません』ってあるけど」

 この言葉は確か、さっき玄関前で、播磨くんの母親があたしに紹介した、聖書の言葉だ。

「もしも世界中の人がこの『人からして欲しいと思うことは全て、人にもしなければなりません』っていう言葉通りの生活をして暮らしたら、今以上の良い世の中になるんじゃない?」

 人からして欲しいと思うことは全て、人にもしなければなりません……かあ。

「そりゃあ、そうでしょ。みんながみんな、他の人にも自分がして欲しいことをしてくれたら」

 ただ、それは世の中のみんなが善い人だった場合だけだ。

「たくさんの人がこの言葉の通りにしたとしても、一部の人がしなかったら、意味が無いんじゃない?」

 なんとなく、この言葉通りの生活をする人が集まっている地域がもしもあるなら、そこはとても良い場所な気はする。ただ、その人たちのことを他の人たちがどう考えるかは分からない。いつの時代も悪い人は善い人を利用するのよ。と、あたしの母が言っていた。

「うん、そうかもね。でも、だからこそ僕たち伝道者は、世界中の全ての人に、聖書の言葉を宣べ伝えているんだ」

「世界中?」

世界中と言われても正直ピンとこない。確か、つい最近の社会の授業で、先生が国際連合加盟国は二百あるとかないとかいっていたような。てことは、世界中の国の数は二百くらいだから……。

「そう、世界中。全部で二百四十の国や地域で、僕たち伝道者の宣べ伝える活動がされているんだ」

「二百四十?! え? 実際の国の数より多くない?」

 というか、どうしてそんなことを播磨くんは知っているのだろう?何かのニュース番組で見たのかな?

「国だけじゃなくて地域も含まれているから、数が多くなっているんだよ」

 香港とか台湾とかは中国とは別の地域にカウントしているし、と播磨くんは言う。

「それで僕たちは、この日本でも、家から家へと聖書の良いお知らせを伝えているんだよ」

「ふ~ん」

 それからたくさんのことを、播磨くんはあたしに教えてくれた。そして、あたしもたくさんの質問をしては、その答えを播磨くんから聞いていた。一通りの話をまとめると、こうだ。

 播磨くんが生まれるほんのちょっと前。播磨くんの母親が家にいたところに、伝道者が訪問した。それで播磨くんの母親は、その伝道者から聖書の話をたくさん聞いて、これは良いものだと思ってどんどんと聖書の勉強をしていったそうだ。そしてその伝道者の人から、同じように聖書の勉強をしている人を紹介されて、その人達と一緒に聖書を学んで、自分も同じように伝道者になろうと思ったらしい。

 播磨くんが生まれたのはその頃だそうだ。そして播磨くんの母親は、生まれたばかりの播磨くんに、聖書の話をたくさんしながら育てたという。どうやら、播磨くんが聖書のことをよく知っているのはそのためらしい。播磨くんは播磨くんで、聖書に書かれている言葉が好きらしく、母親に言われるまでもなく、聖書を読むことが幼いころからの習慣になっていたんだ、と教えてくれた。

そして小学校六年生の頃には、同じように聖書を学んでいる伝道者の人達から、播磨くん自身も伝道者として活動していいと認められたという。

「播磨くん以外の聖書を学んでいる人達って?」

「えーと、僕やお母さんみたいに聖書を使って伝道活動をしている、聖書の伝道者の人達だよ。僕達伝道者は伝道者同士、お互いに連絡を取り合って情報を交換したりするんだ」

「例えば?」

「例えば、今はあそこの町に新しいマンションや一軒家がたくさん建っているから、今度はその地域を訪問しよう、とか。どこかの国では、伝道者が足りていないから、その国の言語を学んで、その国に移住してみよう、とか。後は、こういう話や喋り方で伝道活動をしてみると、家にいる人が話を聞いてくれやすいよ~とか」

「え? 外国に行ったりもするの?」

 それに外国の人と連絡を取り合うなんて、まるで大人みたい。

「大人の人はそうする人もいるみたいだよ。そうそう。僕の知り合いにも、中国語を勉強して、台湾とか香港に行った人がいたなあ」

 中国語で聖書のことを話す日本人。う~ん、想像できない。

「というか中国語の聖書ってあるの?」

「あるよ」

「あるの!?」

「ちょっと待ってね」

 播磨くんはそう言うと、バックから薄い板のようなものを取り出す。え?それってもしかして、あたしが常日頃から欲しいと思っている、

「アイパッ――」

「いや、りんごのマークの会社のじゃなくて、別の会社のタブレット端末だよ」

 残念。メーカーは違ったみたい。でも、自分用のタブレットを持っているなんて播磨くんが羨ましい。あたしは中学校の入学祝いに、母からスマートフォンを買ってもらったが、タブレットはまだ持っていない。とても欲しいのだけど、なかなか母にお願いするタイミングを掴めずにいる。

 ところで、そんな最新の電子機器なんて出して、播磨くんは何をするんだろう?

 そんなあたしの疑問は、播磨くんの次の言葉で解消された。

「ここをこうして、……できた。ほら、中国語の聖書が表示されたよ」

「えっ!? なにそれ? どうやったの?」

 播磨くんが見せてくれたタブレットの画面には、中国語らしき漢字がびっしりと表示されている。あたしはもちろん中国語なんて分からないけど、画面の上の方に、漢字で「聖書」と書かれていることだけは確認できた。

「最近では聖書も色々な言語で翻訳されていてね。インターネットを使って、いつでも好きな言語で聖書を読めるんだ」

「どんな言語でも?」

「あまり一般的でない言語は、まだ聖書の一部しか翻訳されていないけど、それでも今のところ二千以上の言語で翻訳されているね」

「そんなに多いの!?」

 というか世界中にそんな数の言語があること自身体、あたしは知らないよ。

「そうそう。小野寺さんが知っている本で、世界中で有名な本ってある?」

「へ? 世界中で有名な本、かあ。……あ。ハリーポッターとか、星の王子様とか」

 ハリーポッターは最近あたしが読んだ本の一つだ。星の王子様は、国語の教科書でほんの少しだけ読んだことがある。

「えーと、最も多く翻訳された著作物の一覧、をインターネットで検索すると。……ほら出た。小野寺さんこれ見てみて」

 播磨くんがタブレットのインターネットアプリを開き、検索されて出てきたオンライン百科事典のサイトを見せる。

「……ん~と。ハリーポッターが六十七で。星の王子様が二百五十三。聖書が一番多くて……え? 二千七百九十八!?」

 ここまで多いと、これがすごいのかそうじゃないのかすら、あたしには分からない。

「すごく多いよね」

 そう言う播磨くんに、あたしは一つの疑問をぶつける。

「でも、何で聖書は、そんなにたくさんの言語で翻訳されているんだろう?」

「ああ、理由はわかるよ」

「わかるの!?」

 まさかの即答で驚くあたしをよそに、播磨くんは自分の聖書を開くと、一つの言葉を読みながらあたしに説明をする。

「ここに、『行って、すべての国の人々を弟子としなさい。父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し、私が命令した事柄全てを守るように教えなさい』という、イエスの言葉が書いてあるでしょ」

「うん。イエスって、社会の教科書に載ってた、あのイエス・キリストのことだよね」

 イエス・キリストはあたしでも知っている人物だ。……名前しか知らないけど。

「そう。それでここに書いてあるように、イエスは自分の弟子の伝道者達に、聖書の教えを全ての国の人々に知らせるようにと言ったんだ。それから伝道者達は、色々な国に行っては、聖書の教えを広めていっただ。それもその国の言葉で」

「その国の言葉で?」

「そう。その国の人々がちゃんと聞いて理解できるよう。その国の人が話す言葉で」

 なるほど、つまり話はこういうことかな。

「昔のイエスって人が聖書の教えを広めて、それを聞いた他の人達も伝道者になっていって、そしてその人達が色々な国に教えを広める時に、聖書も色々な言語に翻訳されていった。ということ?」

「その通り」

 播磨くんはそう言って頷く。

 あたしは、その播磨くんの言い方が、まるで正解した子供を褒める学校の先生みたいだなあと思いつつ、播磨くんが言おうとしたことが分かって少し嬉しくなる。そして、どんどん質問してみたい、もっと播磨くんのことが知りたい、という思いが強くなる。

「ねえ、播磨くんのお母さんがあたしに渡そうとした雑誌みたいな本。あったでしょ」

「ああ、これだね」

 あたしの言葉に、播磨くんは自分のバックから、播磨くんの母親があたしに渡そうとしたものと同じものを取り出す。

 聖書を調べてみませんか、というタイトルの、ほんの十数ページくらいの薄い雑誌の表紙には、若い男の人が聖書のような本を持ちながら、何かを質問している写真が載せられている。

「これってさあ、聖書の中に書いてある言葉とかが書いてあるの?」

あたしは播磨くんが取り出したその雑誌を、パラパラとめくりながら聞く。

「もちろん聖書の内容自身体も書いてあるよ。他には、聖書を勉強したおかげで得られた良いことや、聖書をもっとよく勉強するためのアドバイスなんかも載っているんだ」

「『聖書を勉強したおかげで得られた良いこと』って?」

 播磨くんなりに、簡単な言葉で話してくれているのは伝わってきた。けれども、あたしにはまだちょっと難しい表現だ。

「……うーん、そうだねー。……そうだ。小野寺さん。僕が一番初めに話した聖書の言葉って覚えている?」

 播磨くんは少し考えた後、そう言って質問をしてくる。

「え~と確か……。人からして欲しいと思うことは全て……他の人もそう思っていますよー、だっけ?」

 ……途中が何か違う気がする。

「そうそう、だいたい合ってるよ」

やっぱり全部は合っていなかったみたい。だけれど、あたしが頑張って思い出そうとしていたからだろう、あたしのそんな間違いにも気を悪くしたりせず、播磨くんはそんなあたしへと話を続けてくれる。

「正確に言うと、『人からして欲しいと思うことは全て、人にもしなければなりません』という言葉」

 うん。だいたいあってはいたね。……言葉の後半は全然違うけど。

あたしがそんなことを考えている間にも、播磨くんは話し続ける。

「さっきは、世界中の人がこの言葉通りの生活をして暮らしたら、って話をしたでしょう。実は、あの言葉って、自分一人が行うだけでもすごく良いことがあるんだ」

「自分一人だけでもって、どういうこと?」

 みんながお互いのことを考え合っている方が、誰か一人しかみんなのことを考えていない方より、断然良い気がするけど……。

「例えば、もしも僕が聖書のことを何も学んでなくて、自分勝手に生きて、他人のことなんかどうでもいいと思っている人だとするよ。そんな人のことを、小野寺さんは好きになれる?」

 その問いかけに、あたしは自分の気持ちに気付かれのかと思って、一瞬ドキリとする。

 え? ……あたしが播磨くんのことを好きになれるか? ……って、違う違う!今、播磨くんが聞いたのは、自分勝手な人を好きになれるかって質問だから……。

「自分勝手な人は、好きになれない、かなあ」

 おそらく、これが模範解答、なはず。

 あたしが無駄にドキドキしながら答えると、播磨くんはそんなあたしの内面には気付いていない様子で話を続ける。

「そうだよね。自分勝手な人は、他の人から好かれない。でも、もしも僕がもともとそういう性格だったとしてだよ。聖書のさっきの言葉を聞いて、これは良い言葉だから明日からこの言葉を実践して生活しようと努力したとする。そしてその言葉通りの生活を送れたら、僕の周りの人の反応はどうなると思う?」

「それは、良くなるんじゃない?だって良いことをしようと努力する人は、見ていて気持ちがいいし、実際にみんなのことを考えて行動できる人とは仲良くしようと思うよ」

「そうだろうね。だから、自分一人でも聖書の言葉通りの生活を行うことは、良いことなんだ」

 ……なるほど。自分の性格や生活が良くなれば、周りの人の反応も良くなり、巡り巡って自分にとって良いことになるってことか。

「へえ。そんなことも書いてあるんだ、この雑誌。もう少し聞きたいことがあるんだけどいい?」

 それからあたしはまたたくさんの質問をする。播磨くんはその一つ一つに丁寧に答えてくれる。

 播磨くん曰く、この雑誌は聖書の伝道者の人達が集まって作っているものらしい。世界中の伝道者の体験談や、聖書の伝道活動で得られた良いことなどの情報を集めて、それを世界中の色々なところにある印刷施設で製本しているのだという。

 もちろん日本にもそういう施設があって、播磨くんは、母親や知り合いの伝道者の人と一緒に、その施設に見学に行ったりもしたそうだ。たくさんの人が働いていて、伝道活動のかたわら、そうした雑誌の発行も仕事として行っているという。

「そういえば、播磨くんがいつも学校で読んでいる本って、この雑誌だよね?」

「そうだよ。小野寺さん、よく気付いたね。……もしかして、たまに僕のこと見てた?」

「べ、別に播磨くんのことだけ見てたわけじゃないよ。たまにチラッとほんの少しだけ見えて、ちょっとだけ気になっただけだから」

 何の言い訳をしているんだあたしは、と自分でも思いつつ、あたしは播磨くんから視線をずらすため、播磨くんの母親に目を向ける。

 播磨くんの母親は、さっきから何かをするでもなく、静かにしている。つまらないといった雰囲気は特に出してはいない。むしろ、あたし達の会話を満足そうな様子で聞いている。

「僕が学校でこの雑誌を読んでいるのはね。聖書の伝道活動の一つなんだ」

「え? 学校でその雑誌を読むことが、伝道活動?」

 なんとなくピンとこない。伝道活動って、さっき播磨くん達がやっていたように、色々な家を訪問して、聖書の話をしたりする活動のことじゃないのかな?

「例えば、さっき僕達が小野寺さんの家を訪問して、雑誌から聖書の話をしていたけど、それって何のためだと思う?」

「何のためって、聖書のことを知ってもらうためでしょ」

 さっきまで聞いていた播磨くんの話の通りなら、そのはずだ。

「そうだよね。それでさっきの話になるんだけど、僕が学校で聖書の雑誌を読んでいたとする。そこに僕の友達やクラスメイトが来て、この雑誌は何かと聞いたとする」

 その場面はあたしも実際に見た。おそらく本当にあったことを話しているのだろう。

「聞かれた僕は、当然こう答える。『これは聖書っていう本について書かれた雑誌で、僕は聖書を学んでいるんだけど、みんなも読んでみる』ってね」

「あ~なるほど。ごく普通の学校での会話が、自然と聖書を紹介することになるんだ~」

 普段の中学校生活の中で、そんな風に聖書の伝道活動が行われていたなんて。

 ちょっとした世界の裏側を見ることができたような感じだ。

「本当はもっと、堂々と聖書を持っていって学校で読みたいんだけど、中学生になってから周りの目が気になってね。それはまだちょっと恥ずかしいんだ」

 そう言って播磨くんは照れくさそうに笑う。

 あ。……播磨くんが笑った顔、初めて見たかも。

 いつもの学校での播磨くんは、中学生にしては妙に大人びていて、あまり感情を表にだすような時はなかった気がする。不愛想というわけではないんだけど、どこか冷静で、女子のあたしからすると、何を考えているのか分からないところもあった。

 でも、播磨くんも心の中では、恥ずかしがったりもするんだ。

 あたしは播磨くんとの距離が縮まったような気がして、今までより気さくに話しかける。

「でも、あたしはすごいと思うよ。ほんの少しでも、自分のことを周りに伝えようと思えることって。それってやっぱり、播磨くんが伝道者だからかな?」

「そうだね。多分きっと、僕が伝道者だからかな」

 ほんの少しだけ、誇らしげに言う播磨くん。

 その様子を見て、あたしはすこし播磨くんが羨ましくなる。

 あたしが自慢できることと言えば、小学一年生の頃から通い続けていた柔道教室を、小学六年生の終わりまで一度も休まず通い続けたことくらいだ。

「いいな~播磨くんは、そんな風に自慢できることがあって」

 別に柔道教室に通うことも自慢できるかもしれないが、播磨くんの伝道者に対する想いというか、何かをしようとする志のようなものを、播磨くんからは感じる。

「小野寺さんだって、いつも朝早くに来た時に教室に落ちているごみを捨ててくれたり、配布プリントを忘れている担任の先生にこっそり声をかけて気付かせてくれたりしているよね。あまり目立たないことかもしれないけど、それも自慢できるんじゃない?」

 播磨くんがそんなことを言うので、あたしは一瞬で体温が上がったのを感じる。

「……そう、なのかな」

 恥ずかしがりながらも、あたしは何とかそれだけは言う。

 なんだ。やっぱりあたしのこと、よく見てるんじゃない。

「えっと。ありがとうね。そう言ってくれて」

 あたしが俯きながらそう言うと、視界の端に、播磨くんの笑顔が見える。

 なんていうか、今日は良い日だなあとあたしは心の底から思う。もしもあたしの一生を物語にするとしら、間違いなく今日が一番の良い日だろう。

 まるであたしが世界の中心になったような気がして、あたしは浮かれてしまう。

 だからあたしは、ほんの少しだけ、調子に乗ってしまったんだと思う。

「そういえば」

 あたしは、ふと気になったことを、何の考えもなく、播磨くんに尋ねる。

「播磨くんは伝道者で、播磨くんのお母さんも伝道者なんだよね?」

「うん。そうだね」

「それじゃあさあ。播磨くんのお父さんも伝道者なの?」

 明日の天気は晴れなの? という質問と同じくらいの気軽さで聞いたあたしだったが、その質問を聞いた播磨くんの表情が、みるみるこわばっていく。

「えーとね。僕のお父さんは、違うんだ」

 そう答えた播磨くんの顔は、もう、笑顔ではなかった。

 あれ? 聞いちゃいけないことだったのかな?

 いつの間にやら、さっきまでの和気あいあいとした雰囲気は消え失せ、あたし達がいるリビングは静けさに包まれる。

 え~と。この空気は、あたしが謝った方がいいのかな?

 そんなことを考えながらも、あたしは何も言い出せず、播磨くんもさっきの返答から、何も言ってはこない。

 トコトコと水槽の水が流れる音が大きくなり、あたしと播磨くんの間に気まずい雰囲気すら漂い出したその時、

「ねえ、ねえ。私から一つ提案があるのだけど、いいかしら?」

 今まできちんと口を閉じていた播磨くんの母親が、あたしと播磨くんを交互に見ながらそう言った。

 播磨くんは自分の母親の急な発言に驚きつつも、「どうぞ」と言って話をするよう促す。

 良かった。ちょっと気まずい空気になっていたから、どうしようかと思っていたけど、これで話題が自然に変わる。

 そんなことを考えている能天気なあたしに、播磨くんの母親は、今まであたしが聞いたこともない提案をしてきた。

「小野寺さん。あなたも聖書について、学んでみない?」


           *      *      *


 夕暮れ時の西日が差す、あたしの家のリビング。

 播磨くんとその母親が帰っていった後、あたしは二人が使ったグラスをキッチンで洗いながら、さっきまでの出来事を思い起こしていた。

 あの後、あたしは播磨くんの母親からの提案について詳しく話を聞きながら、ふと時計を見て驚いてしまった。

 ほんの数十分のはずが、気付けば一時間以上経っていたのだ。とっさに時間は大丈夫ですかと播磨くんの母親に尋ね、それじゃあそろそろおいとましましょうか、という流れになった。

 播磨くんは別れ際、いつも通りの表情で、

「今日は話を聞いてくれてありがとう。楽しかったよ」

と言ってくれた。

 ただ、あたしはその言葉に、

「えっと、あたしの方こそ……」

 というぎこちない返事しかできなかったけど。

 でも、今日一日で、播磨くんのことを色々と知ることができた。総合的には今日は間違いなく良い日だったと自分でも思う。まあ、その分、播磨くんについて、気になることも増えたんだけど。

「播磨くん。お父さんと何かあったのかな?」

 洗ったグラスを食器立てに置きながら、あたしはそう呟く。

 あたしが播磨くんの父親についての話をした時、播磨くんは明らかに困った顔をしていた。まるで、それについては何も話したくはない、と言いたいみたいに。

 そのせいで、せっかく近くなった播磨くんとの距離感が、再び遠くなってしまったようにも感じた。

「それでも、ただのクラスメイトからは、前進できたよね」

 そうだ。前向きに考えよう。別れ際はぎこちなかったけど、学校で会う頃には、ぎこちない雰囲気なんてなくなっているはず。

 それに、播磨くんの母親のおかげで、来週からは播磨くんと話をするチャンスももらえたし。ああ、でも、そもそもどんなことを聞いたり話したりすればいいのかな?

 あたしがそんな風に悶々としながら、自分の部屋に戻って宿題の続きをしていると、玄関の扉が開く音が聞こえた。

「ただいまー」

 仕事帰りで疲れているはずの母が、元気な声を出しながら家の中に入って来る。

「おかえりお母さん。お仕事お疲れ様」

 そんな母に、あたしは母に負けない元気な声で返す。

 するとあたしの目の前には、あたしよりも長い黒髪をストレートに伸ばした、いかにもできるキャリアウーマンといった容姿の美人が現れる。しわ一つないレディーススーツに身を包み、理知的な瞳を真っ直ぐにあたしに向けるその女性は、あたしの母だ。

「ただいま神無。……あら? ねえ神無。食器立てにお客様用のグラスがあるのだけど?」

 母はリビング中を見渡した後、ふとキッチンの食器立てに目を止めてそう言う。

 しまった。考え事をしながら洗っていたせいで、播磨くん達が使ったグラスを食器棚にしまうのを忘れていた。

「えっとね。宿題が思ったより結構できて暇だったから、麻耶ちゃんを家に誘ったの」

 とっさに言ってしまった嘘に、あたしの心がチクリと痛む。でも、断られたとはいえ、いちおう麻耶ちゃんに電話をかけたのは事実だし、完全な嘘ではない、よね。

 そうやって心の中で言い訳をするあたしをよそに、母は一言「そう」と呟くと、特に疑う様子もなく自室に向かう。

 ごめんね、お母さん。嘘ついた分、今日は精一杯親孝行するから。……お風呂掃除とか。

 あたしが心の中でそう決心していると、母が自室で着替えながらあたしに話しかける。

「そうそう神無。お母さんがいない間、麻耶ちゃんの他に誰か来なかった?」

「え?」

 気温が高いわけではないのに、あたしの顔から、一筋の汗が流れ落ちる。

「さっきお隣の人に会って話をしてね。いつも来る聖書の人が今日も来たわよ、って話をしていたから。うちにも来たんじゃない?」

 どうしよう。なんとなくだけど、今日の出来事をそのまま話すのはいけない気がする。

かといって、下手に嘘を重ねたら、母にバレてしまう可能性も増えるし、なによりあたし自身、これ以上母に嘘をつきたくない。

……よし。ここは余計なことは何も言わず、無難に答えよう。

「あ~、そういえば来てたよ。お母さんのまねをして断ったけど」

 この返答は大丈夫。最初はいつも通り断ったから嘘にはならないし。

「そう。ならいいの」

 母はそう言うと、それ以上のことは何も聞かず、着替えを続ける。

 良かった。もっと色々聞かれたらどうしようかと思ったけど、このまま何とかなりそうだ。

「あ。今日のお夕飯だけど、ひき肉が安かったから、今晩は神無が好きなハンバーグよ」

「え? ホントに?」

 やった、とあたしは心の中でガッツポーズをする。子どもっぽいと言われるかもしれないが、あたしは母の作るハンバーグが大好きである。もちろん、母の作る料理はどれも好きなんだけど。

 あたしの母はどんなに仕事が忙しくても、出来合いの料理やお弁当を買ってくることはない。もちろん、どうしても帰るのが遅くなってしまう時はあって、その時だけはあたしが自分で近くのスーパーに買いに行ったり、あるいは自分で簡単な料理を作って食べたりすることもあるのだけど。それでも、なるべく娘のあたしと一緒に食事を食べようとしてくれている母のことを、あたしはとても尊敬している。なにより嬉しいしね。

 それにしても、あたしの好物のハンバーグを作ってくれるなんて、今日の母は機嫌がいいのかも。それなら、前から欲しかったリンゴマークの会社のタブレットをおねだりするチャンスかな?

 あたしがそんなことを考えていると、着替えを済ませた母が自室からリビングに出てくる。善は急げとばかりに、あたしはそんな母に近づきながら言う。

「お母さん、お母さん」

「なあに神無?」

「あのね」

 あたしはさっきまで考えていたタブレットの話をしようとして、

「え~と、神様って本当にいないのかな?」

 なぜかそんなことを母に聞いていた。

 ……あれ? 何であたしはこんなことを聞いているの?

 自分でも分からない自分の行動に、首をひねるあたしを、母はじっと見つめると、やがてため息と共に話し出した。

「いい。神無」

 母は、別に怒ってはいなかった。

 だけど、笑ってもいなかった。

「前にも言ったけど、この世の中にはね、神様も仏様もいないの。だからあなたも、自分のことは自分で全部できるようにならないといけないのよ。いい」

「……うん、そうだよね、お母さん。あたし、お母さんみたいに、自分一人で何でもできるような、立派な大人になるから」

 あたしがそう言うと、母は笑顔であたしのことを優しく抱きしめ、「よしよし」といってあたしの頭を撫でる。

「まったく。神無は相変わらず可愛いんだから」

「ちょっとお母さん。いつまでも子ども扱いしないでよ~」

 あたしはそう言いつつ、大好きな母に抱きしめられたまま、母にされるがまま身を任せ、頭を撫でられ続ける。

「よし。それじゃあお夕飯にしますか」

 しばらくの間、抱き合った態勢のままあたしのことを撫で続けた母は、そう言ってあたしの身体を離す。

「賛成~。今日はあたしもお料理を手伝うね」

 母の言葉にあたしはそう言って、母と一緒に夕食の準備をする。

そして互いにたわいのない話をしては笑い合い、料理を作り終えた後、いつも通り母と二人の夕飯の時間を過ごす。

 夕飯を食べ終え、母と二人でテレビを見ながら過ごし、少し経った後に、あたしはお風呂に入った。

 いつも通り最初にシャンプーを使って頭を洗い、次いでボディーソープで身体全体を洗っていく。そして、泡だらけになっていく自分の身体を鏡越しに見ながら、あたしはため息をつく。

 ……うん。あたしの身体は、小学生の高学年の頃からあまり成長していなけど、女の成長はこれからだよね。

 あたしは同じ学年の女子達と自分の身体の違いを考えるのを止めて、シャワーヘッドを持って全身の泡を落とすと、ゆっくりと浴槽に入り、そのまま頭のてっぺんまで浴槽のお湯に全身をつかる。そしてすぐに顔だけを水面から出しながら、あたしは今日一日のことを振り返って呟く。

「色々あったな~」

 本当に色々なことがあったと思う。

「播磨くんのお母さんが言っていた話、どうしようかな~。あ~でも、さっきのお母さんの反応を見ちゃうとな~」

 あたしはぐるぐると頭を回しながら、頭の中の考えを整理しようとする。

 けれども、優柔不断かつ、まだ中学一年生のあたしのちっぽけな頭では、なかなか考えがまとまらず、

「神無~。もう一時間以上経っているわよ~。早く出なさい」

 という母の声がする頃になって、ようやく心を決めることができた。

「よし」

 お風呂上りの自分の部室で、あたしは来たるゴールデンウィーク明けに向けて、準備を開始する。

 まずは情報収集からということで、あたしはスマホを使って、今日教えてもらったことをインターネットで検索しまくる。

「ふむふむ」

 インターネットには様々な情報がある。中学校の技術の授業では、インターネットのメリットとデメリットについても勉強した。インターネットの中には、全て事実のことが書かれているわけではないけど、それでも、まったく何も知らないよりかはマシだろうと思い、あたしは色々なサイトを通して情報を集めた。

 次にあたしは、ある雑誌に目を通す。

 普段からライトノベルを読みなれているあたしなら、読むのに一時間とかからなかったその雑誌を、あたしはゴールデンウィーク中、何度も熟読した。

 ありがたいことに、その雑誌にはQRコードがついていて、その雑誌についてもっと詳しく聞きたいようなことがあった時には、そのQRコードのリンク先のサイトに詳しく記事が載せられていたので、それも参考に読んでみた。

 そして時間はあっという間に過ぎ、今はゴールデンウィーク明けの平日の朝。

「いってきま~す」

 あたしはそう言って、元気よく家を飛び出すと、階段を駆け下りて自転車置き場へと急ぐ。そして周囲に誰もいないことを確認すると、学校に持っていく鞄の中身を確認する。今日の時間割で使う教科書に、ゴールデンウィークの間になんとか終わらせた宿題。それと、播磨くんの母親からこっそり受け取っていた雑誌。

「今日は、いや、今日から、この話題で播磨くんと話をするんだ」

 あたしはそう言うと、いつも通り自転車にまたがり、いつも通り学校を目指す。

 ただ一つ、今日からあたしの学校生活で変わることがある。

 今日からあたしは、学校の放課後に、播磨くんと一緒に聖書レッスンをする。

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