連作短編後日談「婚礼式典」
明けゆく未来に僕の願いを〈ロッシェ編〉
風が暖かく薫るこの季節、新緑が色鮮やかにきらめく王城のバルコニーで、弟は婚礼の日を迎える。
長く続いた政情不安をようやく収め、彼が選んだのは六つ歳下の幼馴染だった。
喜ばしいその日をつつがなく終えられるよう、僕は部下たちと準備のために奔走しているところだ。
博物館、というものを知っているだろうか。
一応は国営の施設で、貴重な文化的財産や唯一性の高い書物、非常に高価な美術品、各分野の研究成果を纏めた資料、などが展示されている。入館料はそこそこ、館内で飲食や騒音は厳禁だ。
「そういうわけだから、展示物に触れるのは禁止。大きな声は出さない。走らない。……オッケー?」
「はい、畏まりました……!」
「オッケーです、
既に興奮して走り出しそうな部下たちに釘を刺す。皆まるで子犬のように目を輝かせていて、感動と歓喜に叫び出さないとも限らない。
「じゃ、先に今日の指令を確認。はい、
はいと答えて姿勢を正したのは、和装の少女だ。
「近日行なわれます国王陛下の婚礼式典に備え、ライヴァン帝国の歴史を学び、博物館の造りを調査して有事に備えるという指令です!」
「よく出来ました。……一応、式典に合わせたイベントも計画されているみたいだからね。浮ついた空気に乗じて貴重な文化財や美術品を盗まれたりしないよう、
キラキラと輝く瞳で見つめる部下たちを見回して、僕は皆が待ち侘びているであろう命令を口に乗せた。
「では、ここから昼の
小声で元気な返事を残し、和装の少年少女たちが散ってゆく。それを見送っていた僕は、ふと隣に気配を感じて視線を向けた。
「……
「私は
こんな時でも生真面目な彼女は、灰緑色の瞳に真剣な光を映して僕を見上げている。いつものように『上司命令』を切り出そうかとも思ったが、そうしたら今度は陰に隠れて僕を尾行しそうだ。
指令なんて口実で、僕は彼女らにこの場所を楽しんでもらいたいのだけど。
皆、幼少時に親を失い、あるいは引き離され、過酷な訓練を経て特殊な技能を身に叩き込まれた『
馴染み(あるいは天敵)の腹黒
頑固で真面目で不器用な彼女と押し問答するのは時間の無駄だし、無音の気持ちを沈ませるだけだろう。
それなら。
「
「……はい! 喜んでお伴いたします」
花開くような笑顔を向けられて、僕の胸にあたたかな熱が落ちる。
折角だから、眺める物に僕の解説を加えてあげよう。無音はきっと目を輝かせて聞き入るだろうな——と想像して、僕はなんだかとても楽しくなった。
僕の弟は我らがライヴァン帝国の国王陛下であり、僕とは似ても似つかぬ真面目で優しい好青年だ。
長らく内政に手間取っていて浮いた話の一つもなかった彼にも、この度ようやく春が訪れた。お相手は幼馴染の宮廷魔術師。身分違い甚だしいのだけれど、どうも最近のライヴァン上層部はそういうことに無頓着と見える。
大方、腹黒
僕は弟の婚約者について異論も不満もない。
だが、そうでない者が一定数いることもまた事実だ。
婚礼式典の妨害を企てる者がいるであろう事も予測し、対策しておかねばならない。
僕が《
だから、私兵である
そんな僕の葛藤など知らない
片目を覆う長さの青い前髪が、パネルから発せられているブルーライトと溶け合って、海の中を漂っているような幻想的雰囲気を醸し出していた。
「
「そうだね。この辺は
発光器官を備え
深海魚ではないが、海の精霊獣ムルゲアを描いたパネルもある。アザラシの上体にクジラのヒレと胴体を持つ幻の精霊獣は、深海の奇抜な生物たちとは違い愛らしい姿をしている。
「世界は、広いのですね」
噛みしめるように無音が呟いた。僕は黙って目を落とし、なんとなく、その頭を手で撫でていた。
驚いたように目をあげ姿勢を正す少女に、できるだけ優しく見えるよう笑いかける。
「……世界に、これほどまで美しく面白いものがあるなんて事を、僕も最近になってようやく知ったよ」
「
そうなのさ、と。
口に出して答える代わりに、僕は頷く。
例えば誰かと一緒にこういうものを眺めること。それが、こんなにも楽しい体験だということ。
それを僕に教えてくれたのは、君たちだ。
そうして一通り館内を回った頃、ちょうど良く昼の
館の食堂に全員で集合し昼食を取りながら、それぞれからの報告を聞き出してゆく。
死角になりそうな場所、重点的に警備を強化すべき場所、などなど、
楽しげに見たものを教え合っている部下たちを見ながら、ついつい頰が緩んでくるのを止められなかった。
彼女らの故郷はジェパーグという島国で、大陸とは違った文化が根付いているらしい。
重ね衣と長い袖の衣装はかの国の一般的な装いだが、大陸では和装束と呼ばれている。普段は全体的に丈が短く動きやすい衣装の
いつもは青玉の頭飾りのみの髪に上品な桔梗を飾り、銀糸の刺繍が施された孔雀緑の和装束と青玉の飾りを身に纏った無音は、普段より少し大人びて見えた。動き易さ重視で衣装の各所に切り込みを入れてあるが、普通に動く分には全くわからない。
彼女は今日も僕の護衛だ。正確に言えば、僕の命令に即座に応じられるよう、一番近い場所で待機させている。
責任感の強い無音が一人で無茶をしないようにという意図は、もちろん本人には秘密だ。
城のバルコニーはさすがに遠く、一般人はそこで行われる式典を見ることができない。市井の者たちが国王と王妃を目にするのは、式典が終わった後のパレードでになる。
そして、僕らが神経を張り詰める場面もそこからだ。
「……
不意に、遠慮がちな声で無音が尋ねた。
僕は黙って視線を傾け、気遣わしげに——むしろ泣きそうに見上げる灰緑色の瞳を見る。
「……いいのさ。僕は」
弟を、守れる場所であるならば。そう浮かんだ言葉は飲み込んだ。
僕は父の
その事実を知った時、弟は状況を正そうとした。隣に並び立つ王兄の立場を彼が僕に望んだことも、ちゃんとわかっているつもりだ。
僕は弟の気持ちに感謝している。でもそれでは僕が動き難いから。
さらに深く、裏へ身を浸す生き方を選んだのは、僕自身だ。
そうして得たこの立場に、不満などあるはずがない。
幼い頃、僕は、世界は冷たくて残酷なのだと思っていた。
無音や
けれど、運命の激流に引きずり出されて放り投げられた世界は、存外に冷たくも残酷でもなく、柔らかな光と多くの驚きに満ちていた。
僕の部下として働く日々が、彼女らにも同じ感動をもたらしてくれたらいいと願う。
路地裏で生きる者たちが、多くの祝福と賞賛という光に満ちる世界へ、今もこの先も踏み入ることができないとしても。この成婚を一つの節目とし、彼らにもあたたかな光が届くような、真摯で優しさに満ちた治世が始まればいいと願う。
祭典は滞りなく終わり、多少のトラブルは発生したが、僕と僕の部下たちの活躍ですべて大事に至る前に鎮静された。
各国代表と国の主だった者たち、貴族たちを交えた披露宴も無事に終わり、宿泊の来賓たちも寝静まった城では、身内のみのお披露目会がひっそりと行われている。
というのは建前で、披露宴に出られなかった僕と僕の部下たちに王妃のドレス姿を見て貰おう、というのが本当の目的らしい。
純白の清楚なウェディングドレスを身に纏い、
もちろん皆慌てたり恐縮したりしているが、そんなの御構いなしな彼女の気さくさは好ましいと思う。
「いつもロッシェを世話してくれてありがとう。これからも彼をよろしくね」
「は、はい! 勿体無いお言葉です、王妃様」
照れたのか緊張したのか頬を染めている
「何を言ってるのかな。世話してるのは僕のほうなんだけど」
つい言い返せば、お見通しよ——と言って彼女は
「おめでとう、フェトゥース、インディア。末永く幸せに、仲良くね」
「ありがとうロッシェ。僕は彼女と一緒に頑張って、必ずや皆が認める本当の王になってみせるよ」
「私たち、頑張るから。これからも頼りにさせてね、ロッシェ。みんなもね」
まっすぐな決意を向けられて、僕は柄にもなく胸が熱くなる。傍らの無音が瞳を潤ませて、はい、と力強く答えた。
弟も、僕も、ライヴァン建国王の系譜ではない。
父は
まだ若い王と王妃を待ち受けるのは、そういう、いまだ収まらぬ逆風だ。それでも二人は立ち向かうと決めたのだろう。
であれば、僕は僕が持てる手段を尽くしてその支えにならねば。
後の世では、輝かしい王朝を築いた王と王妃として、二人の名は偉業とともにあの博物館へ飾られるに違いないのだ。
ここから、新たな時代が幕を開けるのだから。
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