十八.織姫と願い星


 出逢いにそれほど強い印象はなかった。

 意志や望みと関わりなくしつらえられ、無感動に始まった結婚生活。それなのに、彼女なしの世界に音も色も見いだせなくなったのはいつからだったのだろう。


 確かめたいことがあった。伝えたい言葉もあった。思い出せば後悔ばかりで、何をする気力も失せた毎日はまるで時間が止まったかのようで。

 そんな時、この鍵を手に入れた。

 初めは珍しい魔法道具マジックツールの効果解析に興味を覚えただけだった。しかし、文献を調べ記された古代魔法文字エンシェントルーンの意味を解読するにつれ、あらががたい衝動が自分の内側にり上がってくるのを知った。


 会いたい、もう一度。

 できるならこの現実を書き換えたい。

 正しいとか、間違っているとか、そういう基準はどこかの偉い誰かが決めているのだろう。そして自分が行なおうとしている行為は、そこから逸脱いつだつするのだろう。

 そう自覚はしていても、止められなかった。

 なぜかは解らない。


 この喪失感に形を見つけられなかったのと同じく、この衝動に道義などないのかもしれない、と思う。

 そう、だから、果たすためには何だってしようと決めていた。

 例え逆戻りするのでも、時間を動かさなければ、この停まった空気の中で窒息してしまう気がしたのだ。

 けれど、総てが叶うであろうこの瞬間だというのに、自分の心は揺らいでいる。




 つたと木の根が絡み合う、奇妙な空間だった。周囲を見回して互いの存在を確認し、五人全員の無事を確かめる。

 前方に、葉冠を被った女性のような姿があった。翠と真白で織り成された絹のように光る衣で身を包み、深緑の波打つ髪がさらにその上を包んでいる。

 瞳のない翡翠ひすいの双眸が、まっすぐリトの方へ向けられていた。


「世界樹、ユグドラシル」

 呟きがリトの口から漏れ、彼女は応じるようにうなずいた。


『私が、ええ。来訪者は、久し振りですわ、実に。望みを、願いに、来ましたの?』


 幼い少女のような、妙齢の女性のような。舌っ足らずにも聞こえる喋りで問い尋ね、大樹の精霊王ユグドラシルはゆるりと首を傾げる。

 無意識に握っていた拳に力を込め、リトは声を押し出す。

 この計画を練り始めてから、繰り返し繰り返し巡らせた、台詞。


「命の織姫おりひめ、ユグドラシルよ。俺の妻を返してくれ」


 数秒の静寂が降り、ユグドラシルは翡翠の両眼を瞬かせた。そして、木の枝に似た両手を胸の前に掲げ、目を伏せる。


『宜しくて、願い、貴方のそれは? 願い星を、ここに』


 彼女の呼び掛けに呼応するように、キラキラと輝く星がユグドラシルの前に現れた。一見すると光精ウィスプに似ているが、波打つ魔力は下位精霊の比ではない。

 ラヴェール、と呟いたのは、ロッシェだろうか。


『闇の君。ですが、貴方にある、迷いは如何いかに?』


 星を抱き、ゆるくまぶたを上げてリトを見る。圧倒されそうな魔力の洪水の中、リトは、ユグドラシルのその問いに息を詰め、視線をうつむけた。


「俺は」


 ずっと、この瞬間のためだけに準備をしてきた。

 それなのにどうして今、自分は、迷っているのだろう。

 彼女が呼吸を止めた時から、世界は音と色を失い、もう二度と戻らないのだと思っていた。

 灰色の毎日と動かない時間が、永久に続くのだと。

 そう思っていたのに。


 日中の強い日差しの下で育った草木や花は、室内に飾っている花とは色が違って見えた。

 手燭てしょくなどなくても、明るい月の夜には、雲の影や自分の影がくっきり見えた。

 むせるような草の匂いと、濡れた枯れ葉が放つ腐敗臭。炎の匂いと血の臭い、そして、濃い湿気と雨の匂いも。

 ぜんぶ、失ったと思っていたのに。


『解りませんの? 望み、貴方の本当は』


 優しく問い尋ねるユグドラシルに、彼女の残像が重なる。胸が苦しくて、喉に呼吸がつっかえているようで、わけが分からない。

 ――と、右手にふと温もりを感じ、リトは瞳を巡らせて傍らを見る。まるで子どもが親と手をつなぐように、ルベルが隣で彼の右手を握っていた。


「リトくん。願いを叶える覚悟はありますか?」

「覚悟……?」


 幼い少女は大きな両眼でまっすぐリトを見上げている。

 父を捜して見知らぬ相手の家に乗り込み、炎の守護獣フェリオヴァードにさえ果敢かかんに戦いを挑んだ彼女が、実はまだほんの子どもなのだと、その時はじめてリトは実感した。


「はい。ワガママ通すって、そういうことです」


 にこりと笑ってルベルが言う。

 簡単な言葉の中に、それでも深い意味を感じて、リトは黙って瞑目めいもくする。


「ううん。きっと、俺にはないよ」


 自分が彼女を取り戻したかったのは、ずっと、彼女のためだと思っていた。でもきっと、それは違うのだろう。

 自分は独り残された自分を哀れんで、現実から目を背けたいばかりに想い出以外を見ることができず、今を書き換えれば過去をくつがえせるという錯覚に陥っていたのだ。


 それでも、例え自分が泥濘ぬかるみに沈んだままでいても、時間は常に一方通行で。彼女のいない日常はその現実を受け入れて動き出し、気づけばもう、今の時間に彼女の居場所はなくなってしまったのだと気がつく。

 連れ戻した妻を待ち受けるであろう好奇や疑念や偏見の一切から、自分は彼女を守りきれるのか、と問われれば――きっと約束はできない。

 家や仕事、すべてを捨てて彼女のためだけに生きることも、自分にはできない。


如何どうしますの? 闇の君』

 優しく促すユグドラシルに、リトは顔を上げて今度こそまっすぐ瞳を向けた。


「望みの撤回を、認めてもらえるか?」

『宜しくて? 致しませんの、後悔は』


 最後の確認に、リトはずいぶんと吹っ切れた顔で一つ、うなずく。


「ああ、しない」


 大樹の精霊王は彼の返答を聞くと柔らかく微笑み、腕に抱いた星を空へと投げた。

 銀の星は地上から天空へかける流星のように、光の軌跡を残して昇ってゆき――、気がついた時には、全員が聖域の境界線に立っていたのだった。




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