十八.織姫と願い星
出逢いにそれほど強い印象はなかった。
意志や望みと関わりなく
確かめたいことがあった。伝えたい言葉もあった。思い出せば後悔ばかりで、何をする気力も失せた毎日はまるで時間が止まったかのようで。
そんな時、この鍵を手に入れた。
初めは珍しい
会いたい、もう一度。
できるならこの現実を書き換えたい。
正しいとか、間違っているとか、そういう基準はどこかの偉い誰かが決めているのだろう。そして自分が行なおうとしている行為は、そこから
そう自覚はしていても、止められなかった。
なぜかは解らない。
この喪失感に形を見つけられなかったのと同じく、この衝動に道義などないのかもしれない、と思う。
そう、だから、果たすためには何だってしようと決めていた。
例え逆戻りするのでも、時間を動かさなければ、この停まった空気の中で窒息してしまう気がしたのだ。
けれど、総てが叶うであろうこの瞬間だというのに、自分の心は揺らいでいる。
前方に、葉冠を被った女性のような姿があった。翠と真白で織り成された絹のように光る衣で身を包み、深緑の波打つ髪がさらにその上を包んでいる。
瞳のない
「世界樹、ユグドラシル」
呟きがリトの口から漏れ、彼女は応じるようにうなずいた。
『私が、ええ。来訪者は、久し振りですわ、実に。望みを、願いに、来ましたの?』
幼い少女のような、妙齢の女性のような。舌っ足らずにも聞こえる喋りで問い尋ね、
無意識に握っていた拳に力を込め、リトは声を押し出す。
この計画を練り始めてから、繰り返し繰り返し巡らせた、台詞。
「命の
数秒の静寂が降り、ユグドラシルは翡翠の両眼を瞬かせた。そして、木の枝に似た両手を胸の前に掲げ、目を伏せる。
『宜しくて、願い、貴方のそれは? 願い星を、ここに』
彼女の呼び掛けに呼応するように、キラキラと輝く星がユグドラシルの前に現れた。一見すると
ラヴェール、と呟いたのは、ロッシェだろうか。
『闇の君。ですが、貴方にある、迷いは
星を抱き、ゆるく
「俺は」
ずっと、この瞬間のためだけに準備をしてきた。
それなのにどうして今、自分は、迷っているのだろう。
彼女が呼吸を止めた時から、世界は音と色を失い、もう二度と戻らないのだと思っていた。
灰色の毎日と動かない時間が、永久に続くのだと。
そう思っていたのに。
日中の強い日差しの下で育った草木や花は、室内に飾っている花とは色が違って見えた。
むせるような草の匂いと、濡れた枯れ葉が放つ腐敗臭。炎の匂いと血の臭い、そして、濃い湿気と雨の匂いも。
ぜんぶ、失ったと思っていたのに。
『解りませんの? 望み、貴方の本当は』
優しく問い尋ねるユグドラシルに、彼女の残像が重なる。胸が苦しくて、喉に呼吸がつっかえているようで、わけが分からない。
――と、右手にふと温もりを感じ、リトは瞳を巡らせて傍らを見る。まるで子どもが親と手を
「リトくん。願いを叶える覚悟はありますか?」
「覚悟……?」
幼い少女は大きな両眼でまっすぐリトを見上げている。
父を捜して見知らぬ相手の家に乗り込み、
「はい。ワガママ通すって、そういうことです」
にこりと笑ってルベルが言う。
簡単な言葉の中に、それでも深い意味を感じて、リトは黙って
「ううん。きっと、俺にはないよ」
自分が彼女を取り戻したかったのは、ずっと、彼女のためだと思っていた。でもきっと、それは違うのだろう。
自分は独り残された自分を哀れんで、現実から目を背けたいばかりに想い出以外を見ることができず、今を書き換えれば過去を
それでも、例え自分が
連れ戻した妻を待ち受けるであろう好奇や疑念や偏見の一切から、自分は彼女を守りきれるのか、と問われれば――きっと約束はできない。
家や仕事、すべてを捨てて彼女のためだけに生きることも、自分にはできない。
『
優しく促すユグドラシルに、リトは顔を上げて今度こそまっすぐ瞳を向けた。
「望みの撤回を、認めてもらえるか?」
『宜しくて? 致しませんの、後悔は』
最後の確認に、リトはずいぶんと吹っ切れた顔で一つ、うなずく。
「ああ、しない」
大樹の精霊王は彼の返答を聞くと柔らかく微笑み、腕に抱いた星を空へと投げた。
銀の星は地上から天空へ
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