十六.守護獣との再戦[後]


 決して戦ってはいけないと教えられてきた。

 物心つくころから繰り返し、何度も。


 ルティリスは森の中の村に住んでいたので、腕利きの狩人ハンターでもある父から森での心構えや実戦方法、弓を引く方法などを教えてもらった。

 だから、森で遭遇する獣や街で出会でくわすチンピラくらいならそれほど怖くはない。


 でも、戦ってはいけない相手もいるのだと。それを話す時の父は真剣で、いっそ怖いほどだった。

 例えば巨大な鷲、あるいは狼や虎、獅子など。野性の本能で獲物を狩るそれらの生き物は、獣化した獣人族ナーウェアでさえも捕食することがある。

 ましてルティリスはまだ子どもだ、猛禽もうきんや猛獣にとって格好の標的だろう。


 それら、戦ってはいけない相手の筆頭にあげられるのが、グリフォンだった。

 猛禽もうきんと猛獣の特徴を併せ持つ、美しくも獰猛どうもうな金の幻獣。彼らは言葉こそ話さないが、知性も高く身体能力も秀でている。

 馬すら捕食する幻獣に、狐が太刀打ちできるはずもない。

 開けた土地、身を隠す場所のない所では決して、獣化したまま姿をさらしてはいけない。万が一遭遇しても絶対戦ってはいけない。狭くて安全な岩場に逃げ込むか、巨木のうろに逃げ込んで、息を潜めてやり過ごすように――。


 ルティリスは父を尊敬している。だから、今までずっとそのいいつけを守ってきたし、これからだって守ろうと思っていた。

 けれど、今は。


 震えの止まらない身体を外套がいとうで包み、頭を優しくなでてくれているのは、セロアという名の人間フェルヴァーだ。ロッシェの旅仲間で、魔法も剣も使えないと言っていた。

 遠くで聞こえる戦いの音。怖くて怖くて、身体の震えがどうしても止まらない。

 ここに来る前、ロッシェから話を聞かされた時には、頑張ろうと思ったけど。やっぱり、怖くて、最初の時と同じく何もできないまま誰かにかばわれて。


「ごめん、なさい」


 嗚咽おえつが言葉の邪魔をする。

 泣きじゃくるしかできないまま、自分のためおとりをかってでてくれたロッシェの助けにもなれず、またも傷つく彼の悲鳴を聞き流しているのだ。


「大丈夫ですよ。ルティちゃん」


 優しい声がそうささやいて頭をなでてくれた。何にもできない人なのに、なぜか彼がそういうと、大丈夫だって思えてしまう。

 その時、地面に放りっぱなしだった弓が突然、ぽぅと光った。

 白銀の氷片に似た魔力がまといつくのが解る。

 どういうことか解らず濡れた瞳をしばたたかせるルティリスに、セロアがそっと言った。


「ルベルちゃんですね。あの守護獣に対し有効な氷の魔力を、付与してくれたみたいですよ」

「えっ」


 強気に眉をつり上げ、駆け出していった少女を思い浮かべる。

 自分はもう彼女に見捨てられたかと、思っていたのだけど。


「みんなで戦いましょうって、ルベルちゃんは思ってるんですね。私は本当に今回は、役立たずですが」

 くすりと笑う緑玉エメラルドの目。その笑顔に、じわりと胸が温かくなる。


「いいえ、セロアさん。そんなことないです」


 父のことは尊敬している。今も今までも、これからだってずっと、そうだろう。

 だけど今は、今回だけは。

 いいつけを破ってもいいですか。


 涙をぬぐって立ち上がる。膝が笑って身体の震えもまだ止まらないけれど、彼が大丈夫と言ってくれたから、今なら、できる気がするんだ。

 自分の動きに合わせ立ち上がった長身の賢者を見上げ、ルティリスは言う。


「セロアさん。わたしも、頑張ってみます」




 槍を手放し空いた両のてのひらを上向けて掲げ、ルベルが再び雷獣ライレットんだ。

 電流をまとう小さな獣から発せられた雷撃が、クジラ雲を帯電させつつフェリオヴァードを襲う。初歩クラスの光魔法とはいえ炎獣の弱点が光属性であることを考えれば、コストパフォーマンスに優れた攻撃と言えそうだ。


 それにしても彼女が使った【降雨レインコール】の魔法は、発動してからも雨を降らせ続けるには意識を集中させておく必要があったはずだ。会話をしたり、ましてや別の魔法を唱えることなど出来るものではない。

 しかし不思議なことに、雨はまだ激しさを増しながら降り続いている。

 氷剣と化したファルシオンが鷲のくちばしとぶつかる度、銀光が散って羽毛が舞う。獅子の爪が時折ロッシェの身体をかすり、引き裂かれた衣服に血の染みが増えてゆく。

 リトが得意とする闇魔法には有効な攻撃手段がないため、ひとまずはロッシェの治癒ヒールに専念しつつ、使えそうな魔法を脳内で検索していく。


 闇魔法には魔法力回復の効果を持つものもあるのだが、回復量はごくわずかだ。

 それよりも、ロッシェが幾らでも闘いを有利に進められるよう援護をした方が良いだろう。

 そう決めて、リトは集中し魔法語ルーンを唱える。

 金羽の獣の頭上に黒羽の鴉シェードが現れ、鷲の頭に急降下して黒く弾けた。グリフォンの動きが鈍り、ロッシェの突きが激しく羽毛を舞い散らせた。


「目潰し、ですか」

 耳障りな獣の咆吼ほうこうに、ロッシェのつぶやきが混じる。


「ああ。鷲の主要感覚は視力だから、潰してしまえば動きが鈍るだろう?」


 口の端をつり上げてリトが応じ、ロッシェは小さく笑ったようだった。そして格段に勢いの失せた獣王フェリオヴァードと距離を縮める。


「一気に片付けてやるッ」


 低く強く言い切る声は、さながら狼のうなり声。

 豪雨に洗われ毛並みの乱れたフェリオヴァードと対照的に、ロッシェの瞳は鋭さを通り越して透明な硝子ガラスのようだ。感情を映さずただ冷えた殺意を宿し、無駄のない剣さばきがフェリオヴァードを追い詰める。


『貴様、罪を上塗るつもりか』

「知った事じゃない。あんただって僕を食おうとした癖に」


 口元に浮かぶ、薄い笑み。段々と冴えてゆくロッシェの動きに、リトはふと彼が水属性であったと思い出す。

 思わず後方に浮かぶクジラ雲を見れば、雷獣ライレットを頭に乗せたルベルと目が合った。


成程なるほど、クラウディアは彼が、か」


 ここ数日だけでも、ロッシェが詠唱なしで魔法を発動させたのを何度か見た。しかるに彼は魔法の使い手なのではなく、精霊との親和性が強いのだろう。

 ロッシェの意思に引き寄せられたクラウディアにルベルが呼び掛け、顕現けんげんさせたということか。


 少女の瞳は真剣に、獣と打ち合うロッシェを見つめている。

 大気に満ちた水の魔力と幾度となく襲う雷撃とで、フェリオヴァードの片翼は羽毛が歯抜けの状態になっており、身体も濡れそぼって一回り以上小さく見える。

 それでも、決定打を打ち込める隙はまだない。

 と、その時。


「ルベルちゃんっ」


 泣き出しそうに震える小さな声が、ルベルとリトの耳を捕らえた。

 視線を傾けてみれば、すぐ傍の木陰にセロアとルティリスが立っている。耳を引きつけしっぽを下げ、不安もあらわに、しかしもう瞳は濡れていなかった。


「わたしも、撃ちます」


 狐の少女の手にしっかり握られた、狩猟用の弓。わずかな驚きにリトは目をみはり、ルベルは強くうなずいた。


「ルティちゃん、翼の付け根を狙ってください」

「はい!」


 震える指で矢を引き抜き、引き絞った弓につがえる。

 すぅと息を吸い、真剣な目で唇を引き結ぶルティリスは、グリフォンに怯え震えていた彼女とは別人のようだ。

 一連の動きを黙って見ていたリトは、弓にまとう氷の精霊力に気がつく。

 先程ルベルがクラウディアを介して発動させた【氷剣アイス・ソード】の魔法は、ルティリスの弓にも掛けられていたのだろう。ルベルは初めからルティリスを戦力として見ていたということか。


 キリキリ、と限界まで引き絞った弓弦が小さく鳴いた。ルティリスの耳が小さく動き、オレンジの双眸が鋭く細められる。そして、ぱっと放った。

 空気を切り裂く音が豪雨に飲み込まれ、矢の行方を見失ったと思った途端――羽毛と鮮血が散って獣が絶叫した。

 鼓膜を破られそうなその声に、ルベルとルティリスは思わず耳をふさぐ。


 どさりと重い音を立て、フェリオヴァードが地に伏した。

 金翼の付け根にはルティリスの放った矢が突き刺さっており、動かない鷲頭の周囲にはおびただしい量の金羽が散らばっている。

 その傍ら、肩で荒く息をしながら立つロッシェの右手には、血濡れたファルシオンがげられていた。


「パパ!」


 弾かれたようにルベルが父親の元へと駆け寄る。振り返ったロッシェは返り血を浴びて凄絶せいぜつな姿になっていたが、娘は構わず彼に抱きついた。


「ルベル、……血が付いてしまう」

「大丈夫です! パパ、よく頑張りましたっ」


 応じる少女は涙声だ。

 セロアが木立から出て二人の方へゆっくり歩き寄り、ロッシェは服の袖で顔をぬぐう。その様子を視界に捉えながら、リトはルティリスの方へ瞳を向けた。


「お疲れさま、ルティ。よくやったね」

「はい、リトさん。わたし、お役に立てましたか?」


 不安で泣き出しそうに自分を見上げる少女がたまらなく愛おしくなり、リトは心底からの気持ちを込めて優しく微笑んだ。


「勿論だよ、ルティ」





 フェリオヴァードは喉を深く裂かれ、絶命していた。矢の不意打ちで体勢を崩したその一瞬に、ロッシェが渾身こんしんの一撃を放ったのだ。

 うつろな両眼から生命力が失せているのを確認し、ロッシェはルベルを抱きしめたまま腰が砕けたようにその場へ座り込んでしまった。

 セロアがその前にしゃがみ込み、濡れたタオルを彼に差し出す。


「大丈夫ですか、ロッシェさん。殺菌薬と血止めなら持っていますが」


 タオルを受け取り、雨と返り血と泥に汚れた顔を拭いてから、ロッシェは自分の左腕を改めて見る。

 骨が見えるほどに深かった傷は、リトの魔法で随分とふさがっているようだ。とはいえ、酷いもの軽いものも数え併せれば満身創痍まんしんそういの状態で、わずかばかりの薬ではどうにもならなさそうに思う。


「ありがとう、先生。でも、薬より今は飲み水が欲しいかな」

「解りました」


 バックをあさるセロアを待ちながら、ロッシェは泣きじゃくる娘を抱いた腕に力を込める。

 ざぁざぁと身体を洗う雨が心地良く、いっそこのまま意識を手放してしまいたい。


「どうぞ」


 ちょうどいいタイミングでセロアに意識を引き戻され、ロッシェは差し出されたコップを受け取った。

 こんな時にこんな物が出てくるとは、用意周到なのか空気を読めないのか。恐らく両方だと一人納得し、ロッシェはコップの水を一気に喉へ流し込む。

 呼吸が阻まれるような閉塞へいそく感が少し治まり、止まっていた血流が流れ出したような気がした。


「巧くやったようだな」


 頭上から声が降る。疲労感に声を出すのも億劫おっくうで、ロッシェは座り込んだまま首に提げてた鍵を取り出し、自分を見下ろすリトに差し出した。

 彼は当然のようにそれを受け取り、自分の長衣の中に仕舞い込む。


「少し、休憩しても宜しいですか?」


 セロアが柔らかい笑みでリトに問う。改めて見ればリトも肩に怪我を負っているし、ルベルの傷も心配だ。

 セロアに言い添えようと口を開き掛けたロッシェだったが、自分が声も出なくなっているのに気づいて仕方なく口をつぐむ。


 リトは、不可とは言わなかった。

 ただ、濡れきった地面の上では休まるものも休まらないので、もう少しだけ移動してから改めて休憩することになった。




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