14.断崖絶壁攻防戦

14-1 崖っぷちの攻防


 どこをどう走ったのか、フリックはもう解っていなかった。

 わずかな隙に見失った姿を捜し、気づけば岩山を抜け、丈の短い草が敷き詰められた丘に辿り着いていた。

 ふと思い出し、握り潰したままだった地図を広げて目を落とす。行きに通り抜けた丘とは明らかに違う場所だ。下った場所にあるのは林ではなく岩場だし、眼下に見えるのは街ではなく、――。


「……はぁ、ッ……、いた」


 往路の反対側とはいかないまでも、だいぶ方向が違っている。丘は視線の先で、すとんと切り取られるように終わっていた。その向こうに見えるのは紛れもなく海だ。

 紺碧の光がちらつく水面を見下ろしているのか、こちらに背を向けて立つ、長身の人間フェルヴァー

 額に噴き出した汗を袖で拭い、一歩二歩、足を進める。投身自殺の一歩前みたいな状況に、正直どこまで近づいていいものか判断できない。


「何しに来たんだ、君たち」


 不意に、声が掛けられた。思わず足を止めたフリックの耳に、金属が擦れる音が届く。息を飲むフリックと向き合うように振り返ったロッシェの手には、抜き身の三日月刀シミターが握られていた。


「ルベルちゃんがあんたに逢いたいって言うからだろ!」

「ふぅん」


 強い口調で叫んだのに、軽く受け流された。細められた双眸、口元には皮肉げな笑み。優しいとか真摯だとかとは無縁の表情なのに、やっぱり――どこかルベルに似ていて。


「どこに逃げる気だよッ」


 なぜ、崖なのか。過ぎった疑問に答えるように、ロッシェは視線を真下の海に彷徨わせる。


「ここは、ライヴァン建国王が飛び降りたとされる崖さ。何度も、ここから飛び降りようかと思ったよ。命を拾ってくれる者がいるのか、自分の幸運を試してみたかった」


 あぁ、ルベルと同じくこの人もムルゲアの話を知っているんだ、と思う。

 海の精霊獣に命を拾われ生き延びた、ライヴァン建国王。海底に沈む直前に掴み上げられ、助けられた自分。それは本当に幸運のゆえなのだろうか。アンラッキーな自覚がある自分には解らない。

 ただ、彼は死にたいのではなく、生きてもいいよと誰かに許して欲しいんだ、そう思った。


 試したいというのは、そういうことじゃないのか。

 震える拳を握り締める。彼の過去を断片的にしか知らない自分が解ってやれるなんて言えないけれど、彼の抱えているのが何かへの罪悪感だとしたら、それは自分が抱えてるモノに似過ぎている。


「命の遣り取りを、笑って話すなよッ」

「こんな下らない事、笑い話以外の何にもならないだろう?」


 口の端をつり上げ応じる彼の双眸には、一片たりとも笑みは宿っていなくって。あぁやっぱり、とフリックは思った。

 彼が笑うのは、知られたくないからだ。内に秘めた決意も、癒えきらない傷も、他人に気づかせないために笑顔を鎧にして。本心を絶対に外へ見せない。――自分と、同じだ。


 でもそれじゃ、ルベルの願いは。

 にこにこ笑って見せてくれた似顔絵。メモ帳に描いてくれた、ラクガキみたいな絵。あんなに楽しそうに父親について話す、あの子の気持ちは。

 喉元に、何かが込み上げる。頭に血が上って、無意識に踏み込んだ。


「この、……っ! バカやろー――ッ!!」


 吐き出すように叫んで、殴りかかる。彼はそれを身軽く避けて曖昧に笑った。


「知ってるさ」

「開き直るなよ!」


 怒りなんだか悲しいんだか悔しいんだか解らない感情がごちゃまぜで、フリックは拳を握ってさらに詰め寄る。頭ン中も心ン中も支離滅裂だ。飛び降りたらマズイなんて危惧はもうどこかへ吹き飛んでいた。

 彼はフリックから距離を取るよう後退り、足を止めて振り返る。崖の際まで、あと数歩。


「逃げンなよ! 会って話聞いてやれよ! 抱きしめて頭撫でてやれよッ! あんた、父親だろッ!?」


 殴り返されてもいい、とにかく一発殴ってやらねば気が済まない。


「止まれ」


 なりふり構わず近づこうとするフリックへの牽制か、ロッシェが彼の鼻先に剣を突きつけた。銀に輝く三日月の刃。反射的に足を止め、睨み返す。


「斬れねーくせに」


 確信を込めて、唸る。ロッシェは瞳を眇め、また笑った。


「死なない程度に動けなくする技術はあるさ。それに僕が君を斬れば、命の有る無し関係なく、ルベルはもう僕を追わないだろうよ」


 ぐ、とわずか、切先を押し出され、不覚にも後退ってしまったのが悔しくて、思わず怒鳴り返した。


「ほんっとに、それでイイのかよッ!」


 解ってねぇ。あの子はそんな、潔い子どもじゃないってのに。


「うん。……悪いね」


 ひゅっと振られた剣先を、飛び退いて避ける。本気じゃないのは判ってた、痛いほどに。


「ルベルちゃんじゃなく! あんたはそれでイイのかよっ!?」

「はっ、今さらだろうそんな事」


 感情を映さない双眸、皮肉気な笑みを貼りつかせた口元。その下に隠されている、彼の本心は。


「あんた自分で気づいてねーだけじゃんか! あの岩場、全部ルベルちゃんの絵だろ!? 会いたくて会いたくて忘れらンなくって、だから――あんた記憶を絵にして、ホンモノの代わりにしてたんだろがッ!!」


 叫び切って、睨みつけたフリックは、一瞬目をみはった。笑んだ表情はそのままにロッシェの頬を伝う一筋の、涙。


「君は酷いな。届かないから封印してたのに」


 独白みたいな言葉の意味は解らなかったけど、確信めいた予感に突き動かされ、反射的に足が地を蹴っていた。彼が眼前の刃を翻し自分自身へ向けるのを、不思議にゆっくり知覚する。手に取り縋って奪い取るつもりが勢い余って体当たりしちまったような、違うような。


 ざ、と熱い衝撃。

 銀の刃が宙を舞い、崖下へ落ちていく。全身を通り抜けた激しい痛みに踏ん張りきれず、踵が砂利土を滑る。ヤバイ、と自覚した時はもう足元に地面がなかった。


「――バカだな君はっ、確定だ! こんな所で命を捨ててなんになる!?」


 右肩が抜けるような鈍痛。ロッシェが、自分の手首を掴んでいる。背中が焼けるように痛かった。見えないけれど、恐らくさっきので刃がどこかを抉ったんだろう。


「あはっ、……エラソーに言いやがってソレ、あんたもだぜっ」

「あぁとくと了解してるさ! 僕は元から死にたがりだ、でもだからってウサギと心中するなんて真っ平だッ、もう片方の手も出せ!」


 じわんと背中に温度を感じ、痛みが引いてゆく。

 魔法性の癒しヒールのようだが、……ロッシェだろうか。お陰でなんとか動くようになった左手を上げたら、彼の空いている方の手で掴まれた。


 ぐ、と力任せに引きずり上げられる。

 荒く息をつきながら彼が手を離して立ち上がろうとした――その隙を見逃さず、フリックは跳ね起き、体当たりの勢いに任せてロッシェの上に馬乗りになった。両膝で彼の両腕を押さえつけ、両手で襟を掴んで地べたに押しつける。


「捕まえたぜッ、このバカオヤジ」

「大概君も恩知らずだな。本気で突き落としてあげようか?」


 睨むように見上げる双眸は、眼下の海と酷似した紺碧。

 若くはないがそれほど歳を取っているわけでもなく、すっきりとした造作の顔立ちはやっぱりルベルとよく似ていた。


「勘弁してよー、オレ、か弱いウサギなんだからさっ。湿気っぽいの苦手なんだぜっ」

「ああそうかい? それならとっとと退きたまえよ」

「い・や・だ」


 子どもみたいに言い返して、フリックはぐっと力を込め襟首を掴む。


「ちゃんと話聞いてやれよ!」

「煩い」


 なんだかカチンときて、フリックはぐいぐいとロッシェの首を絞めつけた。


「なんでだよっ!?」

「僕を殺す気なら、抵抗しないであげるよ?」


 揶揄するような言い方が腹立たしくて殴ってやろうかと思ったが、なんだか卑怯に思えてできなかった。だってさっきから、抵抗らしい抵抗をされていない。


「あのさぁ」

「なんだい」

「あんたムカつくんだけど、殴ってもいいかなー」

「仕返し覚悟したまえよ」


 にやりと笑って言われた。もちろんそれは覚悟の上だが、言い方がなんかムカつく。


「泣いたくせに」

「煩い。泣かせたくせに」

「なんで泣くくらい大事なのに、逃げるんだよッ!」


 会話内容が前に進まないのは罠なのか。曖昧に笑うロッシェが、逆に聞き返してきた。


「話したら、追うのを諦めるかい?」

「……それは」


 ルベルは諦めないだろう、と思う。だから――逃げるのか。


「って、論点すり替えるなよな――ッ!」


 思わず叫んで首を絞める。彼は苦しげに瞳を眇め視線を逸らせた。

 膝下で腕が痙攣したのに気づき慌てて手の力を緩めたら、ロッシェはうんざりしたように呟いた。


「あぁもう、絞め殺そうと殴りつけようと脱がせようと好きにしていいから、いい加減退いてくれ。僕には男色の気は無いから、この体勢はあまり気分が良くないんだ」

「……は?」


 きょとんと聞き返したら、彼は、溜め息混じりに言い直してくれた。


「降参ですよ、ウサギ君。僕は元々か弱く出来てるんで、さっきウサギ助けに力使い切っちゃったし、武器もないし。どうせ動けないんですよ本気でね」

「うわっ、ごめ」


 慌てて上から退けても、姿勢そのままで彼は本当に動かなかった。つい気になって自分の背中に視線を傾け、ぞっとする。首の付け根辺りから見事にバッサリ服が切れていた。


「ごめんねー、気に入りの服だったら、後で縫って返すよー」


 なんだか投げ槍に、仰向けのままロッシェが言った。自分でできるからいいです、……と言いかけて、口をついたのはまったく別のこと。


「もしかして、さっきの治癒ヒール精神力メンタルパワー全部つぎ込んだ……とか?」

「あたり。いろいろ事情あるのさ、説明面倒だからしないけど。まぁ、うん。巻き添えで死なせ掛けちゃってアレだけど、頼んでもいないのに余計なお世話アリガタメイワク、だよねぇ……。だけどさ」


 どうしていいか解らないフリックの前でロッシェは、呂律が曖昧になりつつも、独り言のようにぽつぽつと言葉を続ける。


「これ以上僕は、ルベルから何も奪いたくないんだ……」


 半眼閉じた状態で、ロッシェの言葉が止まった。焦って覗き込んだら息があってほっとした。眠った、……というより気を失ったらしい。


「なんだ、結局大事なンじゃんかよっ」

 言い逃げされたみたいで悔しくって、そう言ったら。弾みで涙が零れて落ちた。




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