12-3 町へ向かって


 狭い空間に反響する透明な落下音が少なくなり、身体を包む腕の力がわずかに緩められたのを自覚する。

 曖昧な時間感覚の中、静まってきた思考がゆっくりと今までの行動を反芻した。

 自分は子供のように、氷月ひづきに抱きついて泣きじゃくっていたのだ。それが様々な理由の撚り合わせの果てだったとして、今の彼には預かり知らぬことであり――、冷えた頭がそれを知覚した途端、羞恥で顔に朱が上る。


「ご、ごめんなさい……」


 小さく謝って身じろぎすると、するりと腕が解かれた。岩に座り込んだ自分の足元に、たくさんの真珠。『涙真珠ティル・シェリィ』と呼ばれるそれは、アルエスの涙の結晶だ。

 恐る恐る瞳を上げると、彼は自分の前にしゃがみ込んで、紺碧の双眸でまっすぐ見ていた。


「僕が悪徳商人だったらどうするんだ」


 笑うでもなく怒るでもなく、穏やかな声が尋ね掛ける。アルエスはなんと答えていいか解らず、黙って顔を俯けた。

 鱗族シェルクの涙は空気に触れると、魔法性の珠玉に変化する。貝から採られる真珠とは違い宝石としての価値はないが、魔族ジェマの中にはそれを喰らって力に換える部族もあるらしい。

 他にも、魔法式の理論上では髪や爪と同じく自身の一部として認識されてしまうため、鱗族シェルクたちは陸地で不用意に涙を流さぬようにと教える。アルエスもそれは知っていたが、咄嗟な感情の動揺に理性がついていけなかったのだ。


「悪徳商人なんですか?」


 彼はルベルの父だ。その確信も気の緩みの一因だったが、それを説明するわけにもいかない。迷った末にそう返したら、氷月は口の端を上げて言った。


「何を隠してる?」

「え」


 唐突に凄まれて、アルエスは心臓を掴まれるような緊張に息を呑み込む。

 笑んだ口元にはそぐわない笑わぬ目が、まっすぐ自分をとらえていた。怒らせちゃったかな、という思いが頭の隅を過ぎる。


「隠すって、何がなんだか解んないだけでっ……」


 細い声で答えたら、氷月はすぅっと目を眇めた。


「初めの時から、君は僕の質問に質問で返すだけで、全然自分について語ろうとしないじゃないか。かと思うと妙に感情的になったり、無防備だったりするしね。幾ら今どうすべきか判断つかなくても、どこから来てこれからどうしたいかくらいは解るだろう?」


 声の鋭さは和らいでいたが、質問内容は鋭利だった。アルエスは言い訳を巡らし、心中でシィに呼びかけたが、応えはない。

 言葉に窮する彼女を氷月は怪訝そうに眺めていたが、やがてふっと息を抜いて眉を上げた。


「話せない極秘任務かい?」

「ぅ、……っとそんなカンジですっ」


 反射的に答えてしまい、即後悔したアルエスだったが、氷月はふぅんと応じて立ち上がった。


「ま、いいけどね聞かないから。興味もないしね。それより、暗くなる前に街へ降りようか」


 ひどくあっさり流されて拍子抜けしたが、余計なことを言ってうっかり口を滑らせても困るので、口をつぐむことにする。

 街、というのはバイファル島の中心部、になるのだろうか。正直、聞いてきた噂からすればあまり行きたいとは思えなかったが、確かにここにいても仕方ないし、行けばもしかして他の皆と会えるもしれない。

 少し悩んでアルエスは頷いた。氷月は紺碧の双眸をわずかだけ細めて笑う。


「心配はないさ。僕と一緒にいれば誰も手を出して来やしないから」

「強いんですね、ヒヅキさん」


 ものすごい危険地域だという印象が強かっただけに、彼の自信が不思議だ。だが氷月はそれには答えず、口元にだけ薄い笑みを貼りつけて、アルエスを見下ろし言葉を続ける。


「宿を借りてあげるよ。こんな岩屋より、風呂もベッドもある場所の方がゆっくり休めるだろ? ただ、二人部屋のダブルベッドって条件でも構わないならだけどね。どうする?」

「え、えぇっ」


 そこまでして貰うのは悪いと遠慮するべきか、ちょっとマテなぜダブルっ!? と突っ込むべきか解らず、素っ頓狂な声をあげてアルエスは氷月を見上げた。

 口元の意地悪な笑みはそのままに、彼が言い加える。


「君みたいに組伏し易そうで可愛らしいお嬢さんが個室に泊まったら、夜中に飢えた獣どもが襲って来て、狂う程の地獄と絶頂を味わわせられるよ。……言ってる意味解るかい?」


 さーっと蒼ざめるアルエスの様子をくすくす笑いながら観察している。人の悪そうな、それでいて愉しそうなその表情に、アルエスはむかっ腹が立った勢いに任せて言い返した。


「それなら行かないから、いいですっ」

「はは、ゴメンゴメン。いいから一緒に来たまえよ。連れを捜すんだろう?」


 笑いながら謝られても全然嬉しくない。しかも、見透かされているらしい。確かに彼の言は理に適っていたから、アルエスは渋々ながらも立ち上がった。


「意地悪ですよね、ヒヅキさんって」


 ちょっと拗ねた気分で呟いたら、彼は妙に嬉しそうに笑った。


「そうかい?」


 どうやら、確信犯らしい。なんだかどうしようもない気分になって、アルエスの口からあきらめの溜め息が漏れる。

 これがルベルの捜している父親だという事実が、ひどく変な感じだった。






 どうやら、思った以上に高い場所だったらしい。

 来た時はついて行くのに必死で、周りの風景もろくに見なかったのだが、改めて見渡すと、そこは荒涼とした岩ばかりの場所だった。


「置いていくよ?」


 立ち止まって景色を確かめようとするアルエスを急かすように、先立って降りて行った氷月が声を投げる。慌てて追おうと巡らせた視界内、何かが意識に引っ掛かってアルエスは思わず振り返った。

 無造作に並び立つ岩石の表面に、模様のような陰影が見える。目を凝らしてみたが、少し遠い。近づいて確かめたかったが、氷月は止まる様子なく行ってしまったので断念するしかなかった。


(ねぇ、シィ。……なんだろうアレ)


 歩き難い斜面を歩きながら、アルエスは友の水精に話しかけるが、やはり返事はない。

 清涼な魔力の気配は感じられるから、自分の中にいるのは確かなのだけど。気配さえ潜めるほど警戒しているというのがおそらく、沈黙の理由だろう。


 一体どこに――、あるいは誰に?

 氷月だろうか。それともこの山に、何かがいるのだろうか。


 もとよりアルエスに正答が解るはずもない。かといって、氷月に聞くのもためらわれた。

 考えても埒が明かないことは思考に蓋を被せ、今はとにかくはぐれぬようついて行こうと心に決めて、アルエスは前を行く長身の背中に意識を集中した。


 気遣うような視線が時々自分を振り返る。足場は悪く、崖端と言っていいような場所もあったが、そこを過ぎれば草地の丘になっていた。

 少し下った場所に樹木が群生した林のようなものが見える。肩を強張らせていた緊張を溜め息と共に吐き出し、アルエスは周りを見回した。


「アルエス、ここから街が見えるよ」


 氷月に声を掛けられ、視線をそちらに傾ける。足元を確かめながら近づくと、彼は右手を上げて下方を指差した。

 つられ見た先に広がるのは、雑然とした、色の無い街。煙突からたなびく陰気な煙のせいか、街全体に煙か埃が漂っている錯覚さえ覚える。


「危険なんですか?」

「慣れてしまえばそんなでもないさ。徹底実力主義なだけで秩序はあるよ。新入りやはぐれ者は、喰われる前にどこかの陣営に所属してしまえば、服従を代償に庇護を与えてもらえるしね。それが嫌なら、力を持てばいいだけの話だ」


 淡々と語る横顔を、アルエスは黙って見上げた。

 ルベルの話す、優しくて強い父親像。

 傍らに立つ、どこか胡散臭く人の悪い暗殺者アサシン

 ひどく整合し難い対極な人物像の真ん中に自分を助けてくれた人間フェルヴァー、というイメージを押し込んで、アルエスは思考を巡らす。


 不安を増幅させる心許なさは、信頼にあたうかという疑問以前の、根源的な不確かさからくるものだ。彼にとって『娘との再会』は想像外だから、それが現実となって突きつけられた時にどうするのかが未知数だということ。彼がそれを願っているか否かさえも――。

 彼の望みが解らない。

 紺碧の双眸は地を覆う海のごとく感情を覆い隠して、他人が分け入るのを拒絶している。それを波立たせるキーワードなら知っているけれど、道が開かれるのか嵐を招来するのか判らない現状、告げる勇気はなかった。


「さて、行こうか」


 結局沈黙以上の対話には至らず、氷月は林の方へと再び道を降り始め、アルエスも慌てて後に従った。

 小さな林を抜け、緩やかな下り坂をしばらく行くと、やがて足元が踏み固められた道になる。目を上げればもうずいぶん近くに街並みが見えていた。


「何か食べるかい? それとも先に宿を取ってしまおうか」


 街の方から投げられる幾つもの無遠慮な視線を感じながら、尋ねた氷月にアルエスは困惑した瞳を向ける。


「宿で食事は出ますか?」

「食事つきで頼めば出してくれるよ。腹具合が持つなら、そうするけど」


 視線元には、自分を襲った魔族ジェマやその仲間もいるかもしれない。それを思うとアルエスは、一般の食堂で食べる気にはなれなかった。

 それを告げると氷月は、了解ラジャー、と言って笑った。




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