11-5 再会


 叩きつけられるように地面に投げ出され、激しくむせて咳き込む。内側から圧力が逆流するような息苦しさに、涙が滲んで視界が歪んだ。

 吸って吐くだけの呼吸すらままならず、痺れた頭の芯が辛うじて、視界の変化を知覚している。


 強制的に、彼の転移に巻き込まれたのだ。

 空間を捻じ曲げ場所を移動する魔法は、本来なら身体に大きな負担が掛かる。まして、強制なら尚更だ。頭の中でシィが必死に呼び掛けているが、それすらも煩わしかった。


「久々の獲物を奴らと分け合うなんてやだね。悪いが俺だけで、ゆっくり味わわせてもらうぜ」


 同伴していた仲間に対する言い訳でもしているのだろうか。

 痛みを堪えつつ身体を捩って逃げ出そうとするも、あっさり押さえつけられ、仰向けに組み伏せられる。


「おっと、魔法は勘弁してくれよ」


 最後の足掻きも叶わず大きな手で口をふさがれ、呼吸すら出来ない。全身の痛みと、恐怖と、息苦しさで、眦から涙が零れ、真珠に変わって地面に落ちた。

 男が、獣みたいな形相でにやぁりと笑って振り上げた、錆びた剣の切先が、逆光を弾いてちかりと光った。


 ――殺される。


 直感みたいに思って、固く目を瞑る。――が。

 次の衝撃は襲って来ず、かわりにいきなり男の身体が覆い被さって来た。嫌悪と恐怖で思わず暴れたら、ひどくあっさり顔からてのひらが外れる。


「……え?」


 アルエスの上で、男は昏倒していた。

 何が起きたか分からず、彼女は恐る恐る上を見る。


「大丈夫かい?」


 逆光を遮る長身。一つに束ねた長い髪。

 茫然と固まる彼女を見て、低く穏やかな声が不思議そうに尋ねかけた。


「アルエス?」

「えっ……」


 出会い別れを繰り返した旅の中、すぐには思い出せず、彼女は凍りついたまま声の主を見上げる。

 長身の影は身軽くしゃがみ込み、アルエスに覆い被さっていた魔族ジェマの首根っこを掴んで、無造作に引き剥がした。そしてやっぱり無造作に地面に放り出した。


「ヤマネコだったら遠慮なく殺したけどね。魔獣の監獄とはいえ、アレも一応ヒトらしいし。……殺しちゃいないよ」


 笑顔に近く細められた紺碧の双眸。それを見た途端、アルエスの中で記憶が繋がった。


「あーッ! 森で逢った人間フェルヴァーのお兄さんっ!?」


 十年も前の記憶、一度きりの邂逅。

 名も知らず別れて去った、幼い娘がいると話した、あの時の。


「なっ、なんでお兄さんがここにっ!?」


 驚きのあまり裏返った声で叫んだら、彼は口の端をつり上げ揶揄するように言った。


「その台詞、そのまんま自分に向けたまえよ」


 それは確かにごもっともで。あは、と、なんだか中途半端にごまかし笑いながら視線を逸らしたら、彼はくすりと笑った。


「……さて」


 立ち上がり、細くて鋭い視線を向け、尋ね掛ける。


「まさか観光じゃないだろう。連れがいるなら早く合流すべきだし、――それとももしや、流刑かい? ……まぁ、言いたくないなら聞かないけど」

「えっええと……ってこのヒトこのままでいいんですかっ?」


 まだ頭の中がパニックしているようだ。脈絡のない問いにも、長身の彼はにこりと笑って右手を上げて見せる。


「どうせ暫く目は覚めないさ。放っておけばいいよ。僕はもう行くけど、君はどうするんだい?」


 アルエスは慌てて立ち上がる。

 いつ起きるかも知れない男の傍に、一人残されるのは嫌だった。


「ど、どうしようっ!? どうしたらいいか解んないんですけどっ」


 彼は緩く首を傾げ、そして愉しそうに笑い出した。


「手違いか何かは知らないけど、そんなの僕に訊かれても困るなぁ。……ま、いいよ。解んないなら着いてくるがいいさ。何も面白いものはないけどね」


 手違いで来たわけではなく、目的がある。だが無理やり転移させられたせいで、どうすれば元の場所に戻れるのか見当がつかないのだ。それをどう説明すればいいのかも解らなかったが、とにかく今は彼に着いて行こうとアルエスは決める。

 彼がどんな人間フェルヴァーなのかは知らないが、少なくとも自分を助けてくれた。それも二度。四方危険だらけのこの島で、とにかく今は縋れるものが欲しかった。


「あ、あのっ! お兄さんの名前教えてくださいっ」


 あれから十年。彼の年齢はもう、お兄さんというほど若くはないのだろうけど。

 歩幅の違いに遅れないよう早足で息を切らしつつ、アルエスは彼に尋ねる。彼はそれを振り返り見て、おもむろに彼女の右手を掴んだ。


氷月ひづきっていうんだ」

「……ヒヅキさん?」


 じわりと感じる右手の温度。温もりが不思議に懐かしくて、鼓動が早くなる。


「通り名だけどね。僕は暗殺者アサシンだから。……一応、不便はないだろ?」


 そう言って彼はくすりと、人懐っこく笑った。





 手を引かれて連れて行かれたのは、岩山の洞窟だった。空気が乾いて冷えていて、寒さは案外平気なアルエスでも、なぜか身震いが止まらない。

 彼は入り掛け、自分の上着を脱いでアルエスの肩の上に被せて言った。


「この辺には精霊が少ないんだ。少し余計に服を着た方がいいかもね」

「ありがとうです」


 なるほど、この寒気はそういう理由なのだろう。なぜだかシィまで、気配を潜めてしまっている。彼に促されるままに袖を通したら、手先がすっぽり隠れてしまった。

 丈の高さは膝より少し上くらい。ぶかぶかのハーフコートを着ているみたいで、収まりが悪い。


「ちょっと大きかったかい?」


 訊くまでもなく見て解ることを笑いながら言って、身を屈めて袖を折り返してくれる。その動作は自然で、手早かった。


「……ヒヅキさん、あの、娘さんは?」


 もしかして、聞いてはいけないことだったかもしれない。でも彼の所作は、遠い昔の懐かしい想い出を呼び起こすものだった。幼かったアルエスの手を引き、膝に乗せてくれた、人間フェルヴァーの父を思い出させるような。

 だから、思わず聞いていた。

 彼は、細い両眼をさらに細める。


「訳あって、今は離れて暮らしてるんだ。たぶん元気でやってるんじゃないかな。ここは手紙の届かない場所だから、連絡取り合ったりはしてないけどね」

「そうだったんですか……」


 口が勝手に答えた。けれどアルエスは頭の中で、全然違うことを思い巡らす。十年前に生まれたばかりだったなら、娘は今十歳くらいということになる。


 ――パパは、遠い所に行ってて、手紙も届かないんです。

 瞳の大きな少女の笑顔が、不意に脳裏に浮かんだ。ルベルが以前見せてくれた似顔絵が、目の前の彼に重なる。


「――ッ!?」


 思わずアルエスは、目を見開いて彼を見つめた。どくん、どくんと跳ねる鼓動が、外まで聞こえるんじゃないかと思えるくらい、煩い。ロッシェさん、と口をついて出そうになるのを、辛うじて呑み込む。彼が怪訝そうに首を傾げた。


「どうしたんだい?」

「ぁ、いえッ。ヒヅキさんは、娘さんに逢いたくなったりしますか?」


 手馴れたこの仕草は、父親のする所作だ。歩幅の違いで置いてってしまわぬように手をつなぎ、寒くないよう上着を着せて乱れを正す。これは、彼がルベルにしてあげていたことだ。

 抑えきれず震えた声を、彼は気づいただろうか。


「娘ねぇ……。ずっと小さい頃に別れちゃったしねー、たぶん僕のことは忘れてるんじゃないかな」


 すとんと彼が呟く。その答えになんだか愕然として、アルエスは顔を跳ね上げた。


「なんでそんなふうに思うんですかっ!?」

「だって、そんなものだよね?」


 緩く笑って返される答え。強がりなどではない、本気でそう思っていると判る、淡白な口調。

 ――それに、ひどく悲しくなったのは。


「そんなコトないよッ!」


 不意に、泣き出しそうに叫んだアルエスを、彼はきょとんと見た。涙があふれてきて、みるみる視界が霞んだが、止められない。


「ボクのお母さんはッ、十五年くらい前に死んじゃったし……、お父さんは人間フェルヴァーだったからもう何十年も前に死んじゃったケド……っ、ボクは忘れないし忘れたくないっ! 撫でてくれた優しい手も、抱き締めてくれたニオイも、絶対にッ……!」

「……あぁ、御免ね」


 彼が困り笑いの表情で自分を見ている。借りた服に涙が落ち、真珠に変わって岩場にかすかな音を響かせた。


「ボクじゃなく……っ、娘さんに謝ってくださいよぅッ……!」

「うん、解った。――ごめん」


 長い腕が優しく肩に回され、抱きしめられ、あやすように背中を叩かれる。

 細いようで強い力の指先と、ふんわりあたたかい体温。本当なら、このすべてはルベルの側にあって、ルベルを抱きしめてあげるべきものなのに。


「ヒヅキさんの……バカッ……!」


 困り顔は見なくたって想像ついた。

 彼は本当に、解ってないのだ。自分だって五年も経つのに、身体が全然忘れてやしないと――そのことすらも。


 自らの意志で娘の元を離れ、今まだ逢おうとすら思っていない彼。今、ルベルが来ていることを知らせれば、心の準備が出来ていない彼は――……。

 今はまだ、話せない。かといって、どんな風になれば話してもよいのか、アルエスには判断がつかなかった。


 回された腕はあたたかく優しかったけど、そのすべてがただひたすら悲しくて、アルエスは彼の腕の中でずっと、泣き続けた。




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