11-4 人喰いの魔族


 なだらかな坂を登って丘の中腹から遠くまで見渡してみるが、ムルゲアに連れられて来た磯は小さな入り江に続いているだけだった。

 かなり高さのある岩塊が関所のように連なっている。船は入れそうになく、下を潜り抜けるのでなければ、あの崖端をよじ登るしかないのだろう。

 どうせ船は沈んでしまったし、他三人を捜すにしても外海に出る必要はないから無関係なのだが、やはり『番人の門』を通らず航路の門まで行く道はないのだと、改めて思い知る。


 アルエスは溜め息をついて、反対側に目を向けた。そこには巨大な魔獣が微動だにせず、石造りの門を守っている。


 黒く長い毛に覆われた長い首と細長い頭。半開きの口からは長く鋭い牙と、ヘビのように先が二股になった赤い舌が覗いていた。長く垂れた耳の上には、鋭く長い角が三本。

 灰混じりの白い毛が胴と尾を覆い、背には黒いコウモリの翼が生えている。地面に届かない小さな前足には長く鋭い鉤爪が二本。長い尾の先には毛に埋もれて蠍に似た曲がり針が一本。そして時折り動くルビーのような瞳。


 リンドは門を通ろうとしない限り襲ってこないと言っていたが、それでも出来れば近づきたくない、恐ろしげな様相の獣だった。


「ねぇ、シィ。虎のお兄ちゃんの気配とか、ルベルちゃんやセロアさんの気配とか、解んない?」

『近くには感じないシィ。まだ、門の向こうにいると思うシィ』


 自信なさげに水精は答える。魔力感知に長けた精霊が中位精霊ほど存在力の強い相手を見失うことなど有り得ないのだが、いくら感覚を研ぎ澄ましても大きな炎の気配を拾うことができないらしい。

 下位精霊のオーシャードでは、それが何を意味しているかまで解らなくても仕方なかった。


「そっかぁ。ボクたちは通行券持ってないから、あの門は通れないんだよね。シィなら海を通って反対側に回れる?」

『やってみないと解んないシィ。結界に邪魔されるかも……』


 やっぱり自信なさそうな答えが返る。

 四方海に囲まれた場所で、海の精霊である彼が弱気なのは珍しい。それだけこの島には、不安を掻き立てる何かが満ちているのだろうか。


「行ってくれる?」


 とうとう、返事がなくなった。

 アルエスは黙って、肩に乗ったまま目を合わせないように反対方向を見ているシィを、横目で見る。つまり、離れたくないらしい。


「あ! 【風便りウィンドメール】で手紙送れば届くかな?」

『それは名案だシィ!』


 今度は即座に声が返った。怖いならそう言えばいいのにと思ったが、口にすると拗ねられそうだったので、アルエスはそこは胸のうちに収めておくことにした。

 手紙を書くといっても、荷物は船と一緒に海の藻屑だし、身に着けていた物も海水に濡れて紙もペンも使い物にならないだろう。何か代用できる物を探すにしても、岩と海草じゃどうにもならない。

 アルエスはぐるり辺りを見回すると、丘を登りだした。シィが慌てたように頬をつつく。


『アル、一人で遠くは危ないシィ!』

「ほら見てシィ、あの辺の葉っぱなら使えそうじゃない?」

『……聞いてないシィ』


 辺りに人の気配はなかったが、それでもアルエスは用心深く岩の間に身を隠して、そこに生えていた平たい草の葉を一枚むしると凹凸の少なめな所に広げた。近くに落ちていた細長の小石で、葉を破らないよう慎重に傷を付けていく。

 シィは不安そうに彼女の傍に浮かんでいたが、一応見張ってくれてるらしかった。

 数分ほど掛けて作業を終え、くるりと丸めると小声で魔法語ルーンを唱える。魔力は違いなく発動し、葉っぱの手紙は一瞬で小鳥に変化して、空へと羽ばたいていった。


「なんか、探せば薬草とかもありそうだねー」


 岩の裏側を覗き込むアルエスの隣で、シィは不安そうに辺りを見回している。


『駄目だシィ、戻った方が……シィーッ!』


 不意に何かに気づいたのか、警戒音じみた声を上げてアルエスの後頭に突撃した。弾みで岩の隙間に頭から突っ込んでしまい、アルエスは涙目で彼を見上げる。


「痛いっ」

『シィィ、ヒトが来るシィ!』

「シィこそ静かにしてよっ」


 焦ったように動き回る水精を両手で捕まえ岩の陰からそっと窺い見ると、確かに数人の人影が丘を磯の方へと下って行くところだった。アルエスは唇を噛んでシィを押し込める。


「シィは隠れてて。ウサギお兄さんとリンちゃん、大丈夫かな」


 ぱしゃんと水の散る音がして、水精の気配が消えた。アルエスの術具の中に隠れたのだろう。

 人影は岩場をうろつきながら何かを捜している雰囲気だ。もしかしたら二人は、水中に隠れたのかもしれない。


人狼ワーウルフ魔族ジェマがいる」


 焦燥がせり上がってきて、無意識にアルエスはてのひらを握り締めた。

 獣人族ナーウェアほどではないにしろ嗅覚に優れた彼らは、大抵の痕跡を見分けてしまう。それに、高熱のフリックをこれ以上海中に沈めていては、本当に命に関わる。

 残った魔力はあとどれくらいか。こんな場合に有効なのは何か、使える魔法を一通り頭の中で巡らせて、アルエスは意を決した。


 周囲の精霊たちの気配は穏やかだ。つまり、強い干渉力は働いていない。ということは、向こうに高位の魔法使いルーンマスターはいない。

 小声で魔法語ルーンを唱え、自分の気配を周囲に同化させる。嗅覚や聴覚に優れた獣相手では効果が薄いけれど、人族相手ならよほど近づかれない限り気づかれないはずだ。

 互いに近い位置で、目視できるのは三人。全員まとめてターゲットに出来そうだけれど、効果を届かせるにはまだ距離が遠い。


 不用意な音を立ててしまわぬよう姿勢を屈めて慎重に岩陰を伝って近づくと、アルエスは再び魔法語ルーンを唱えた。

 今度は、闇に属する【眠りの雲スリープ・クラウド】を生じる魔法。向こうが気づいていない今なら、完全に不意打ちを仕掛けられるはずだ。


 二人、三人。倒れるように眠り込んだのを確認し、安堵したのも束の間。異変に気づいてか磯の方からもう一人が登ってきたのを見て、アルエスは慌てて岩陰に隠れる。見えたのは一瞬だけれど、たぶん間違いなく魔族ジェマだ。

 姿隠しの魔法は今ので解けてしまったから、向こうも自分を見ただろうか、解らない。


『アル、ヤバイこっち来るシィ!!』


 唐突に頭の中で声が鳴り響いた。咄嗟にアルエスは【暗闇ダークネス】の魔法を唱え、彼の周囲を真っ暗にすると崖に向かって駆け出した。

 たぶん相手はあの程度、すぐに解除してしまうだろう。それでも幾らかでも足止めになれば、その間に海に逃げ込める。


 息を切らせて岩場から草地に出、そのまま崖の方に抜けようとして。

 前触れもなく眼前に現れた魔族ジェマの男に、アルエスは一瞬思考が麻痺して立ち竦む。転移魔法テレポートによるものだと認識が追いつく前に、彼は剣を抜いてアルエスの方へと踏み出した。


「この島に鱗族シェルクなんて珍しいじゃねぇか。しかも若い娘なんて何十年ぶりかね」


 笑み混じりの掠れ声がざわざわと鼓膜を擦る。瞳に宿る狂気の光に戦慄して声が出なかった。無意識に後退するアルエスを追い詰めるように、魔族ジェマの男もじわじわと歩を進める。


(シィ、あいつの属性判る?)


 くすんだ灰色の髪に、暗い蒼の双眸。予測は出来るが確証を持てない。


『風ッぽぃシィ』


 不安そうなシィの答えは思った通りだった。風属性は水の魔法に弱い、その理に則って、アルエスは気力を振り絞って【氷の息フリーズ・ブレス】を唱える。

 男の周囲で急激に冷気が生じ、纏いつくように男を襲った。苛立つように彼がそれを振り払っているうちに、アルエスは身を翻して坂を駆け下る。

 ――が、幾らも進まない内に背中に鈍い衝撃が走り、その勢いのまま押し倒された。視界の端、翼竜の翼が人の腕に戻ってゆくのが見え、彼がワームの部族だったと知る。


「てこずらせやがって」


 無遠慮に髪を掴まれ、痛さに悲鳴が喉から漏れた。髪なんていっそ切り捨ててしまおうかと、腰のスティレットに手を伸ばした瞬間――視界がぐるりと回転した。




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