11-3 星闇の聖域


 シィが一緒にいる。目立つと危険だしムルゲアは陸には上がれないから、ウサギお兄さんにはリンちゃんがついてて。

 ――そう言って、アルエスは一人で行ったのだ。

 確かに高熱のフリックを連れて行くのは無理だし、一人残しておくのも危険だ。状況が状況だけに動転していて、他に案も思いつかず押し切られたのも事実だが……。


「アルちゃん、この島の危険ってあんまり解ってないからなー……」

「……ッ、ちょっと様子を見てくるっ」


 呻くようにフリックが呟き、焦燥に居た堪れなくなったリンドが立ち上がる。それでは危険が分散するだけだと解ってはいたが、じっと待つのも苦痛だ。

 と、頭上でかすかな物音がした。思わず見上げたリンドとフリックの目に映ったのは、痩せた狼だった。黒い体毛に、ぎらつく赤い目。じっとふたりを見ている。

 思わずリンドが身構えたと同時、狼は身を翻して坂の向こうに消えてしまった。


「やべぇ、姫ちゃん。見つかったぜ」

「やはり只の狼ではなく、人狼ワーウルフ魔族ジェマかッ」


 即座に襲って来なかった所、そんなに強くはないだろう。だが、ここは無法領域だ。大陸では禁忌とされている〝捕食〟が横行しているだろうことくらい、容易に想像がつく。

 ましてこちらには弱ったウサギがいるわけで、複数で来られたらリンドだけで防ぎきれるはずがない。


「動けるかフリック。ここを離れよう、アルエスのことも心配だ」

「お、おぅ……!」


 リンドが肩を貸して起き上がらせようとするが、本人の意志はともかく、高熱の身体は言うことを聞くつもりはなさそうだった。

 岩場の向こうを睨み上げ、リンドは溜め息混じりに唸る。


「マズイな。早速のピンチだ」


 難破の混乱でリンドは武器を持っていない。あるのはフリックのダガーだけだ。身を守るには心許ないがないよりマシだし、接近戦なら簡単には負けない自信もある。いざとなったらムルゲア頼りで海中に逃げ込もうと、リンドは心中で決意を固めた。

 足跡が複数、近づいてくる。舌打ちしつつ、フリックのダガーを握り締めた。――その時。ふっと辺りに闇が降りた。


「――ッ!?」


 思わず振り返り、黒い瞳と目が合う。ムルゲアが、頭を傾けてじっとリンドを見ている。

 薄闇に溶け入るような闇色の獣の双眸は、銀の星屑を映して不思議に輝いていた。

 足元は岩ではない異質な感触で、闇が壁のように周囲の景色を隔絶している。波の音も足音も今は聞えてこなかった。


「なぁ、姫ちゃん……コレって、【聖域サンクチュアリ】じゃね?」


 フリックがかすれた声で呟き、リンドは絶句したまま機械的に頷く。それは確かに、【聖域サンクチュアリ】と呼ばれる特殊魔法だった。空間を切り離し絶対不可侵の部屋を造り上げる、無属性中級魔法。

 高位の魔族ジェマにも使える魔法なのでリンドも知ってはいたが、目にしたのは初めてだった。


「まさか、あの方が?」


 咄嗟にリンドが連想したのはカミルだったが、フリックは熱も忘れて身を起こし、ムルゲアを振り返り見て声を上げる。


「姫ちゃん、ムルゲアってホントは水属じゃなく、無属の精霊獣なんじゃ……?」


 無属性は銀河の属性とも呼ばれ、時と運命と空間に関わる精霊たちが属している。

 人族の中には滅多に現れず、その稀少さゆえに、無属魔法使いは竜魔術師ドラゴンソーサラーという独特の称号を付され、彼らにしか扱えない特殊な魔法は竜魔術とも呼ばれる。

 フリックがそう考えたのは、黒い海獣の黒い瞳が夜空を連想させるからばかりではない。


「さっきさ、オレ、……死んだ父さんの夢見たんだ。もしかして死に掛けのオレを迎えに来たのかなーなんて思ったんだけどさ、でも」


 この世界、死した後も人は同じ魂を抱き一定周期で転生を繰り返す。余程の特異な事例でもない限り、転生の準備に入った魂を呼び戻すことは不可能だ。

 であれば夢かとも思ったが、目が覚めた後も父の声は耳にしっかり残っていた。


「もしかして、【魂の声ラストウィル】の魔法だったんじゃねーのかな、無属魔法の」


 届けきれず霧散した死に際の想いを拾い、伝えるという魔法。実際にそれを目の当たりにしたことはないから、断定はできない。

 でも、【聖域サンクチュアリ】に【魂の声ラストウィル】、そして――。


「フリック、この憶測は飛躍のし過ぎかもしれないが、もしやバイファル島の結界は、【聖域サンクチュアリ】の応用なのではないか?」


 あり得るだろう。超高位の竜魔術師ドラゴンソーサラーによる、太古の魔法式。研究を重ねるほどには事例が足りず、だからこそ解明も解除もできないのは十分納得できる話だ。

 それなら、ムルゲアはこの島に結界を作った術者と関わりがあったのだろうか。結界は精霊獣に効果がないわけでなく、ムルゲアだからこそ出入り可能だということだろうか。


「ま、解るはずないか」


 フリックがぐるぐる考えを巡らせてる間に、リンドはさっさと思考を切り替えてしまった。ムルゲアの方へ歩き寄ると、滑らかな毛に覆われた首を優しく撫でて話しかける。


「助けてくれてありがとう、ムルゲア。おまえのお陰で、無事にここまで辿り着くことができた、感謝してる。私たちは帰りはゲートを使えるから、フリックが動けるようになったら、後は私たちを待たずとも大丈夫だ。もうしばらくだけ世話を掛けるが、宜しく頼む」


 獣は頷いたりはしなかったけれど、瞳に宿る理知的な光はリンドの言葉を解っていると語っていた。リンドはフリックの隣に戻って座り込み、両手を祈るように組み合わせる。

 アルエスも心配だが、彼女は旅慣れているし魔法も得意だから、きっと考えがあっての行動に違いない。はぐれたセロアとルベルがどうしているか、ゼオは無事なのか……、考えればキリがないのも解ってはいたが、それでも祈らずにいられなかった。


「無事でいてくれ、アルエス……みんな」


 倫理も常識も通じないと伝えられるこの島で、どう動くのが一番賢明なのか。リンドは解らなかったし、フリックも解らない。

 結界を作った精霊獣の暗黙の『動くな』に従い、今は待つしかなかった。


 薄暗い空間の中、周囲の状況がまったく把握できない。

 ゆるゆると流れる時間が、ただ待つだけの二人にとってひどく長く、息苦しかった。




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