11-2 精霊獣の道


 そこは暗くて冷たくて、だけれど呼吸は苦しくなくって。

 死んだ後ってこんな感覚なのかな、と思った。


 命が絶えると魂は身体を抜け出して、やがては地奥の大地蛇ミッドガルドいだかれ記憶を浄化され、転生の準備に入るとか。

 自分はぼーっとしているうちに、いつの間にか地の底まで来ちゃったんだろうか。


(……バカだなぁ、オレ)


 胸に何かがこみ上げる。身体があれば自分は今きっと、泣いているに違いない。

 溺れて死んだのが悔しいとか、ここまで来たことを後悔してるとかではなく、叶えきれてない夢のカケラを来世に持って行けないのが、ひどく悔しい。記憶を白紙に戻されて、なにもかも忘れてしまうのが。


(父さん、ごめんな)


 絶対に叶えてやるって、約束したのに。

 ゴメンの言葉をいくら言ったって、もうこの世にいない父に届くはずないのに。


『フリック、泣いてンじゃねぇ。おまえは男だろうが』


 耳の傍でひどく懐かしい声がした。

 じんわりした温度が指先に触れ、背中に冷たい水気を感じる。ざざぁ……と、遠くで泡立つ水音が聞えた。


(え?)


 父さん、そう口の中で呟いてみる。

 首の後ろに、ふわふわとした浮遊感だけが残っていて、身体は――あるのかどうか解らないが、指一本動かない。


『謝るくれえなら、胸張って生きてみろ。先立った者への負い目を背負って生きるなんざ、おまえを生んだ母さんと育てた俺に失礼だろう?』

(生きてみろ……って、え? オレ、死んでねーの!?)


 声は、豪快に笑った。


『要領悪くてひ弱だがな。おまえは俺の自慢の息子だ、フリック。母さんとおまえのお陰で、案外悪くない人生だったぜ? おまえも死ぬ時くらい、イイ人生だったって笑えるような生き方をしろ』


 ざざ、ざざぁとざわめく水音が笑い声に被さり、上手く声が聞き取れない。父さん、とフリックは叫んだ。――つもりだった。

 冷たい闇が不意に去る。

 一瞬だけ視界に星空が映り、次の瞬間には消えていた。ひらけた視界に見えた心配そうなリンドの顔に、自分が現実に帰って来たことを知る。


 ざざ、ざざ、と背中の下から響く水音。自分は岩地に横たえられ、その岩の裏側に波が打ちつけているのだ。

 ぼぅと目を上げるフリックの上で、泣きそうなリンドが口を開く。


「大丈夫か、フリックっ。意識が戻って良かった!」

「姫ちゃん? ……あ、あれ、ここは?」


 イマイチ状況が把握できない。自分は助かって今、陸地にいる。目の前にはリンドがいるから、彼女も無事だったんだろう。

 でも、どうやってここまで来たかの記憶がすっぽり抜けている。

 ルベルは、アルエスは、ゼオは、セロアは、どうしたのか。


「ここは、監獄島だ」


 混乱しているウサギにリンドはそう告げて、彼の後方を指差した。フリックはけだるい身体を何とか動かして振り向き、そして絶句した。

 そこに在ったのは夜の空――ではなく、闇色の巨大な獣の頭。黒く濡れた瞳の奥に銀光が散っていて、じっとフリックを見ている。


「アルエスがムルゲアを連れて来て、助けてくれたんだ」


 よく見れば、自分が横になっていた岩場の先は海になっていた。複雑に組み合わさった岩の間、打ちつける波の飛沫が白く散っている。その隙間から器用に巨体を岩に乗り上げ、幻といわれる海の精霊獣が自分らを眺めていた。

 穏やかな瞳に知性の輝きが映っているけれど、確かこの海獣は話すことをしないのだった、と思い出す。


 アルエスが、ムルゲアを連れて来た――、ならそのアルエスは今、どこに。

 じわじわと記憶を反芻しながら、フリックは周囲を見回して姿を捜そうとした。が、妙に重い身体と首の疼きに邪魔されて、起き上がることが叶わない。


「フリック、無理しちゃダメだ。おまえ今ひどい熱があるんだから。アルエスは今、あとの三人を捜しに行ってるからここにはいないんだ」


 リンドに言われてようやく、このおかしな浮遊感と倦怠感が熱のせいだと気づいたフリックは愕然とする。

 労わるように、リンドがフリックの額にひんやりした何かを乗せた。


「海草だけど、冷却効果があるからそのまま安静にしているといい。アルエスには、シィもついてるから」

「でも、捜しにって、なんで……」


 まだ状況が掴めない。動けない自分なんて置いていってくれれば、アルエス一人で行かせなくても済むはずなのに。

 聞きたいことはいろいろあるが、身体が苦しくて上手くそれを言葉にできない。

 リンドは神妙な顔でフリックの隣に膝を着くと、言った。


「ここはもう『番人の門』の内側なんだ。私たち三人は一足先に旅渡券を介さずして、バイファル島の内部に入ってしまったんだ」

「――っ、マジで……?」

「あぁ。この下は岩が入り組んで海中の迷路になってるらしい。凶暴な海洋棲物も多くいるから、鱗族シェルクたちも近づけないんだろう。……ゲートを通らず入島する道は、本当に存在したんだな」


 リンドの説明によれば、フリックが力尽きて板切れから手を離し沈んだ後、程なくしてムルゲアが来たのだという。

 初めはサメかと警戒したが、一緒にいたアルエスの説明を聞いている間に、ムルゲアがフリックを拾って来てくれたのだ。

 ルベルとセロアは見つからなかった、と、その後戻ってきたシィがムルゲアに聞いてくれた。ゼオについては、解らないという答えだったらしい。


 フリックが目を覚まさないので、海中に長く留まるのは危険だと考えたのだろうか。ムルゲアはフリックをくわえ、リンドとアルエスを自分の身体に掴まるよう促した。

 リンドもアルエスもてっきり、ムルゲアが航路の船着場まで連れて行ってくれるものと思ったのだが、ムルゲアはそのまま深く潜水して、海底ガスが湧き出す迷路みたいな岩場を通り抜け、ここへと三人を連れてきたのだ。


 深い水の中に長時間いたことになるが、呼吸は苦しくなかったし水圧も感じなかった。それがムルゲアの魔法なのか、水精霊の干渉なのかはリンドにもアルエスにも解らない。

 とにかくフリックを陸に引き上げてから、辺りを見て驚いた。そこは窪地で、黒くゴツゴツした岩が組み重なって磯のようになっていた。

 目を上げてみれば、緩やかに続く坂の向こうにあまり大きくない石造りの建造物、その前に据えられた門柱の傍らには巨大な魔獣が突っ立っている。


「魔獣の向こうにある建物が、三つの門に続く入り口なんだ。ムルゲアは門の真下の海中を通り抜けて、ここに私たちを連れて来てくれた。でも、セロアたちはそれを知らないから、門の向こうで待ってるかもしれない。だから今、アルエスが様子を見に行ってる」

「あー、そっか……」


 話を聞く限り、セロアとルベルが海に沈んだって心配はなさそうだ。ゼオはどうしただろう。無事でいてくれという想いは、同じくリンドも抱えているに違いない。


「すぐに戻ってくるよな、アルちゃん」

「ああ、そう言ってた」


 心配を振り払うように確かめ合って、ふと二人は、同時に門の方角へ視線を向けた。


「ちなみに、どんくらい前に行ったの?」

「……十分くらいだろうか」


 どちらからともなく顔を見合わせ、互いの目に同じ不安を見つける。


「まさか、薬草とか食べ物とか……探しに行ってないよな」

「……まさか」





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