10-6 その祈りを聴くものは


 魚の尾に変じられない自分の両足を、こんなにもどかしく思ったことはない。


 これほどに深く広い場所を泳ぐのは、湖で育ったアルエスにとって初めての経験だ。一人旅の最中もほとんど陸路だったし、難破を経験したのだって初めてだ。必死で深みを目指し水を掻いても、思うようにスピードは出なくって、焦燥ばかりが胸を圧迫する。

 冷静になって考えれば、近辺に鱗族シェルクの国あるいは集落があったとしても、助けを呼んで戻るには時間が足りない。自分の泳ぐ速度など、小魚にすら敵わないというのに。


『アルぅ、弱気になっちゃ駄目だシィ!』


 弱りかけた心を察知したシィに叱咤され、アルエスは歯を食いしばって頷いた。とにかく出来るだけ急いで水底を目指す、その途上。不意にぞくりと全身が粟立つ怖ぞ気を感じ、アルエスは思わず動きを止める。


「シィ、精霊たちがっ」


 海中を一瞬通り抜けた熱波のような魔力と、息を潜める精霊たち。消滅したのではなく、警戒しているのだ。

 彼らにとって非常に危機的な何かが起きた、ということなのだろうか。


『ナニか、爆発みたいな波動を感じたシィ……』


 シィもその何かをはっきり掴めたわけではないのだろう。――が、直感的にアルエスは方向を換え、今来た道を戻りだしていた。

 根拠はないが確信ならある、ゼオに何かあったのだ。それしか考えられない。


『アル! 方向が反対シィ!』

「シィは虎お兄ちゃんが心配じゃないの!?」

『引き返したってどーしよもないシィっ!』


 往く手を阻もうとするシィと怒鳴り合った後に、張り詰める沈黙の息苦しさ。喉元を締めつけられるような焦燥に、涙すら出てこない。

 行くも戻るも後悔しそうなこんな状況、どうしようもなくて嫌だ。


「じゃ、どうすればイイていうのっ」

『船の代わりを探すんだシィ』


 明瞭過ぎる答えに、アルエスは返す言葉もなく奥歯を噛みしめる。

 こういう状況で、精霊であるシィはひどく冷静だ。それが人族と彼らの違いなのか、アルエスには解らない。考えたくもない。


「誰も、いなくなっちゃイヤなのッ!」


 想いのカタマリをぶつけるように、言葉を吐き出す。声は陸上のような伝わり方をするわけではないけれど、とにかく叫ばずにはいられなかった。

 シィが戸惑うように、くるくると回転する。空気に触れない海中だから、涙が真珠に変じることはない。けれど感情に聡い精霊の彼は、アルエスが泣いているのが解るのだ。


 無意味に彼を困らせたいんじゃない。どうしても解って欲しくて、でも、どうすれば解ってもらえるのかが解らなくて。

 悲しいんじゃない、あふれて溶けるのは悔し涙だ。


(もっとボクに力があって、足を尾に変えられて、たくさんの魔法が使えたら、助けられるのに……!)


 自分が誰に守られ、愛されて、生きてこれたのかを、アルエスは片時も忘れたことはない。世界を知って人を愛し、生き抜いて幸せになると誓った、あの日のことを。

 傷つき死んでいった大切な母親と、仲間たち。あれからとてもたくさんの時間が経過したのに、自分はいまだ半端なままで、海に投げ出された仲間を助ける方法さえ知らなくて。

 与えられた優しさを、全然返すことが出来なくて――。


「シィ、ボクは皆のところに戻るから、シィが助けを探して来て!」


 掛ける言葉を失っているシィを見返し、アルエスは強い口調で言った。焦ったように泳ぎ回る彼に、重ねて言い放つ。


「時間がないの!」

『ぁぅ、解ったシィ……』


 絶対納得などしてない口調だったが、それ以上是非を言い争う気はなかった。アルエスはシィを振り切り、一路、船の場所を目指して泳ぎ出す。

 いざとなったら一人一人を引っ張って、岸に向かうでもいい。シィなら契約があるから、居場所を見失うことはないのだし。


(無事でいて)


 願いはとにかくそれだけだ。それさえ叶うなら、なんだってするのに。誰にだって縋りつくのに。

 この海に棲息する精霊たちでも、鱗族シェルクたちでも、いっそ魔物でも――……。


(誰か、助けて)


 言葉にならない想いが眦からあふれ、ぬるい海水に溶けてゆく。足首に絡めた真珠のアンクレットが、一瞬、明滅した。

 ――アルエス自身は泳ぐのに必死で、それに気づかなかったのだが。


 突如、頭上に闇が降りた。心臓が止まりそうなほど驚いて、思わず上方に目を向けたアルエスは、信じられないモノを見て瞠目する。

 とても巨大な黒い影が彼女の上を通り過ぎ、前へ回り込むように方向を換えた。掻き混ぜられて乱れる水流に呑みこまれぬよう、必死で抵抗する彼女の真下に。それは回り込み、急激に浮上した。


「え、ぅ……きゃあぁぁ!?」


 巨大な黒い海洋棲物が大きく口を開け自分を喰らおうとしている、それ以外考えつかず、アルエスは反射的に目をつぶる。

 が、痛みが襲ってくることはなく、手に触れたのは滑らかな体毛。


 強風に似た水圧が一瞬襲い、直後に全身から圧力が消えた。恐る恐る目を開けてみれば、そこはひたすら蒼く広がる大海原。状況が解らず混乱しながら下を見ると、いつの間にか自分は黒い生き物の背に乗せられる形で、海面上へ押し上げられていた。

 五体無事で、怪我はナシ。それでも確かめるように全身を見回したアルエスは、足の真珠が淡く発光しているのに気がつく。


「……お母さん?」


 噛みしめるように囁いたと同時、真下の生き物がざばんと頭を上げた。そしてくるんと身体を回転させる。当然アルエスは滑り落ちて、再び水中へと沈む破目に。


「ッ、きゃぅ! 何するのっ」


 真正面からその生き物を見た途端、恐怖も混乱もすべて吹き飛んだ。対面するのは初めてだったが、それはアルエスも良く知る獣だったのだ。

 上体がアザラシ、胴から尾はクジラ。名前と姿は子供でさえ知ってるほど有名なのに、幻の存在と呼ばれる、海の精霊獣。


「ムルゲア」


 穏やかに泡立ち流れる海水の中、不思議な獣は彼女の周りをゆったりと泳いでいた。クジラと同じ前ヒレがゆっくり上下して、水を逆巻かせている。その様は確かな質感を持つ生き物で、幻などでは有り得なかった。


「助けてくれるの?」


 夜空に似た黒さで輝く瞳が、応えるようにゆっくり瞬く。ゆぅらり、巨体が滑るように動き、アルエスに寄り添うように前ヒレが差し出された。


「お願い、ムルゲア。ボクの仲間たちを助けて!」


 アルエスは迷わなかった。手を伸ばし、黒いヒレをしっかりと掴む。クジラに貼りつく小魚の気分で、もう片方の手は獣の首周りの体毛を掴んだ。

 監獄島へ渡る手段としてムルゲアの話を出したのは、確かルベルだった。けれど人間の少女では、高速で海中を進む水圧に耐えられないだろう……そう漠然と思った。


 泳げないと不安げに自分を見上げた、茜色の両眼。

 どうか、無事でいて。




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