10-5 分断
アルエスが消えた船べりを茫然と見つつ、セロアはしばし固まっていた。
言った後で自分がどれだけの大役を彼女に負わせたのか自覚して、恐ろしさが胸を突く。思考の澱みに囚われそうになった途端、ぐいと腕を引かれた。はっと視線を戻すと、大きな瞳が自分をしっかり見上げていた。
「アルエスちゃんは大丈夫ですっ。シィも一緒だし、
この子は時々、どきりとすることを口にする。まるで心情を言い当てられた錯覚に陥りかけながらも、セロアは少女がライヴァンの建国王を思い出していると理解した。
見ず知らずの脱走者を助けた海の民が、ひたむきな同族の少女を無下にするはずない。そう、少女の瞳は主張している。その揺るぎない確信はセロアの動揺をも払拭した。
「そうですね。――ルベルちゃん、いざとなったら泳ぎますよ。いいですね?」
覚悟を問い尋ねる保護者から目を逸らさず、少女は決死の表情で頷く。そしてセロアは、魔物に応戦しているリンドに向かって叫んだ。
「リンド、アルエスがシェルクたちへ支援を頼みに行きましたから、船室の二人を呼んで来てください!」
「なんだって!? ――ッ、解った!」
危険はないのかと問い質したい気持ちを抑え、リンドは即座に踵を返して船内へ向かう。マストの上に仁王立ちするだけあって、揺らぐ足場の不安定さがまったく障害にならないのは流石だ。
妨害する相手が消えたため、再び魔物は船内へと触手を伸ばしてくる。咄嗟にルベルが魔法を唱えようとするのを手で制し、セロアは少女の肩を抱えながら船べりから離れた。
「無駄に魔法力を使っちゃ駄目ですよ、ルベルちゃん」
「でもセロアさんっ、船が壊されちゃいます!」
ぎし、ぎしぃと悲鳴のように船が軋む。時折り突き上げる衝撃によろけそうになる少女を長衣に抱き込み、肩の上に留まっている白いカタマリ二つも一緒に押し込んだ。ルベルが声を上げる。
「セロアさん、船っ沈んじゃうんですか!?」
「そうみたいですね。ルベルちゃんは、私にしっかり掴まっててください」
少女の声は切迫していたが、賢者の声は相変わらず低く穏やかだ。彼が目を向けている先、魔物の腕は緩慢な動きで船首に絡み付いてゆく。
たッと足音がして、不意に緋色の虎が現出した。視線を戻したセロアの前でゆらりと人型に変幻したゼオは、ひどく顔色が良くない。
「マジかよ……」
「ゼオは、水に入ったら――マズいですよね」
言いかけた途端に物凄い形相で睨まれ、セロアははは、と乾いた笑みを漏らす。
「ゼオくん、ゼオくんっ! 沈んじゃう前に先生に連絡とって、
賢者の服の中からルベルが叫ぶ。ゼオは不機嫌そうに髪をかき回した。
「そしたらもうこっちに合流できなくなンだよ」
唸るように言った所で、船内への連絡出口が勢いよく開いた。リンドとフリックが一緒に駆け出して来て、一斉に叫ぶ。
「ヤベーよ、どうするゼオ」
「そっちは無事か!? ――って、しつこい魔物だなッ」
リンドがすぐさま剣を掴み、船首に向かって駆け出そうとするのを、セロアが制した。ルベルが長衣の間から顔だけ出して、声を上げる。
「そんなコト言ったって、ゼオくんが消えちゃったらイミないんです! きゃぁ!」
ぐらりと船が傾ぎ、セロアはしゃがみ込んで転倒を防ぐ。フリックは、船酔いも吹き飛んだのだろう――頭をぐしゃぐしゃ掻き混ぜながら、忙しく視線を彷徨わせた。
「まぁ……こうなったらとにかく飛び込んで泳ぐしかねーぜぃ……、島まではかなーり距離あるけどさ、手前に岩場ッぽぃのが見えるじゃん?」
「どの道このままでは、船と一緒に海底へ引きずり込まれて溺れてしまう! ならば泳ぐしかあるまい。見える程度の距離ならきっと大丈夫だ! ……ゼオは、具合が悪いのか?」
わりかしやる気なリンドに話を振られ、ゼオはボゥと炎混じりの溜め息を吐いて、答えた。
「あぁ、オレのコトぁ気にしねーで行け。それとリンド」
きんいろの目が、険しく眇められる。
「万が一、バイファルに入ってもオレと合流できねえ時は、アイツを呼べな」
「あいつ?」
セロアが呟くように反復した。リンドは両眼を大きく見開いて、こくりと頷く。
ギギィ、と船が軋み、大きく傾いた。それに紛れるように、炎の虎は口の端を笑うようにつり上げて呟いた。
「オレぁあのヤローが大嫌ェだが、アイツならおまえたちを確実に助けてくれる」
「ゼオくんっ! 船っ沈んじゃうです――っ!」
ルベルが悲鳴のように叫ぶのに、ゼオは身軽く傾く船体の上の方に飛び移って、笑った。
追い詰められた獣みたいな、凄絶な表情で。
「アルエスがうまくしてりゃ、
「ダメっ、ダメですってば、ゼオくんのバカーっ!」
バリバリと轟音を響かせながら、マストが眼前に倒れかかる。騒いで暴れるルベルをしっかり抱きしめたまま、セロアが答えた。
「ゼオ、向こうで会いましょう」
そして、身をひるがえした。
「ゼオ、ゼオは水は苦手なんだろう!? せめて緩和魔法を――、あぁッ水魔法もダメなのか……!」
「イイからリンドも早く行けッ! ぁー……フリック、リンド引っ張って早く行けよな!」
一生懸命考えているリンドと隣で立ち竦んでいるフリックに、ゼオが怒鳴る。
「う、あー分ったぜっ! 姫ちゃん行くぜ、ゼオはトラだから大丈夫だろッきっと!」
まったく根拠のないことを言い聞かせながらフリックは、リンドの手を掴んでゼオを振り返った。常の彼らしくない、不安に怯える子どもの目で。
「ゼオ! オレ、魔獣とか狼とか怖いからなっ!? おまえ来るまで待ってるからなー!」
めりめりと嫌な音がして、足元の床板が裂けた。半ば放り出されるように、フリックはリンドを引きずって海に飛び込む。
水飛沫と誰のものか判らない悲鳴、そして船が崩壊していく音。とにかく巻き込まれないように必死に泳ぎつつ、それでも振り返って様子を窺ってしまう。のたうつ巨大な触手が、まるで握り潰すかのように船を折り曲げてゆくのが、遠目からはっきり見えた。
「フリック、ここはまだ危険だッ泳ぐぞ!」
吹っ切るようにリンドが言い、促されてフリックも沈む船から離れるように泳ぎだす。
波間に、セロアとルベルの姿は見つけられなかった。捜している余裕もない、無事を祈りつつ自分たちが無事に陸地に辿り着くしか、今出来ることはない。
――と。
ドオォン……
爆発音のような振動が、一際大きな波紋を造って押し寄せ、その波を頭から被ってむせ込んだ。
「フリック、……見ろ」
水属性なだけに水中もさほど苦ではないのだろう、リンドが顔を上げて振り返ったまま、茫然と指さしている。つられて見て、フリックも目を見開き息を呑んだ。
小規模ながら、立ち上る水煙――いや、キノコの形の雲と、バラバラに砕けた船のカケラ。そして、千切れて海面に浮かぶ触手であったモノと。
船が砕け散ったため、渦は起きていない。波紋の中心点には無数の残骸が浮かび、陽光を照り返す海面は変な色に澱んでいる。
「――ゼオ!?」
我に返ったように、――むしろ我を忘れたように引き返そうとするリンドの腕を、フリックは慌てて掴んで引き止めた。
「まてまてッ! どこ行く気だよ姫ちゃん!」
「止めるなフリック! 渦は起きてないのだから、ゼオを迎えに行ってもいいだろう!?」
「うぉあっ……がふ」
振り払われそうになり、弾みで海水を飲み込んでフリックは再び咳き込んだ。リンドがそれに動きを凍らせる。
「あ、……済まない」
「ひ、姫ちゃん……、あっちはダメだぜ、ゼオが行けって言うんだから、なぜか解んなくっても理由はあるはずなんだっ! ……ってゆっかー、このままじゃオレ力尽きて沈んじゃうよー……、あ、はは」
いつもの軽口にも、まったく勢いがつかない。
元々、海とか泳ぎとかあまり得意じゃないのに。
「そ、そうだよな! ああぁフリック力尽きないでくれっ……! 私は水属性なのに、こんな時まったく役に立てなくて済まないっ」
「だ、だいじょーぶ、だぜぃ……、ぁー……でも、ちょっとダメ、か、も……」
泣き出しそうなリンドに心配を掛けたくなかった。けれど、重く纏わりつく海水と案外冷たい水温に、板切れを掴んだ指先は既に感覚を失っている。
「フリック!? ダメだ寝たら沈んでしまうぞッ! しっかりしろ!」
じっとりと水を含んで重くなった耳のせいか、リンドの声が遠い。姫ちゃんだけでも早く行けよ、……そう言いたかったけど、声が出なかった。
遠のく意識の片隅で。
ふわんと不思議な浮遊感を覚えながら、フリックは意識を手放した。
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