9-3 未来をその手の中に


 炎帝の急死によって息子である現国王フェトゥースが王位を継承したのが、八年前の出来事だ。彼は国内の統治に手一杯で外交関係を取り直す余裕がなく、攻め滅ぼすには絶好の機会だったが――、ティスティルはその時期、静観をすることに決めた。

 向けられた牙を折ることに躊躇いはないが、黒曜もオスヴァルトも決して戦乱を望んでいるわけではない。かと言って、立て直しを積極的に支援する義理も利益もなかった。

 ゆえに王権交代から三年ほど両国間に国交はなく、会談すら行われなかった。


 今から五年ほど前、政敵として監獄島へ送られていた前王統の公爵を現国王フェトゥースが呼び戻し、彼は寛容にも自らかって出て現政権とティスティル王家との間を取り持ち、友好関係を回復させた。

 だからこそ今、両帝国は穏やかな友好関係を保っていられるのだ。


「ですけれど炎帝の死後に静観を決定したのには、理由がありましたの」


 紫水晶の双眸をうつむけ、女王は重大な告白をするような密やかな声で、その先を続ける。


「戴冠式の後日、レジオーラ卿が非公式に訪ねてらしゃいまして。フェトゥース国王の政権中は決して戦争を起こさぬから見逃してほしい、と頼まれましたの」

「……なぜ、独りで会ったりしたんだ。何かあったらどうするか」


 オスヴァルトが険しい目で黒曜を見た。彼女はふんわり笑って、長兄に向き直る。


「オルト兄様、わたくし……レジオーラ卿に会って、ディア兄様を思いましたのよ」


 黒曜は優しく切なげに、その名を囁いた。長兄は一瞬痛みによるかのように表情を歪め、黙って視線を落とす。それはオスヴァルトにとっては弟、黒曜つまりナイトスティンにとっては兄に当たる、もう一人の家族の名だった。


「この方はきっと、役目を果たしたらディア兄様のようにいなくなってしまうのだと、直感のように確信しましたわ。わたくしはカミル様と違って、深い事情など何も知りはしませんけれど――、抱え込んだ闇の深さがとてもよく似ておりましたの。心の在処ありかが遠すぎて遠すぎて、きっと誰の手をもすり抜けていってしまうのだろうと、そう思いましたわ」


 ディア――ラディアスというのが次男の名前だ。

 二人の兄がいながら黒曜が王位を継承したいきさつには、かの白き賢者との関係が深く関わっている。


 カミルがこの国を守護するという契約は、元々は建国王サイヴァとの間で交わされ、一代限りで終了するものだった。

 というのも、カミルはサイヴァの娘イアルゥを嫌い、長男が誕生してもしばらくは一切関わりを持とうとしなかったからだ。真面目で不器用な性格のオスヴァルトにとってはむしろ、幸運だったのかもしれないが。

 そんな状況が大きく変化したのは、次男が誕生してからだった。


 ラディアスは精霊との相性が良く、魔法を知識として学ぶ前からカミルの持つ異常性に気づいていた。成長するにつれ伝え聞く過去の歴史は彼の中に守護者への不信感と憤りを育てていったが、カミル自身はラディアスをひどく気に入っていたらしい。

 幾度かの衝突を経て。

 次期王位継承者を選出するに当たり、カミルは、長兄ではなくラディアスが王位を継ぐなら守護の契約を継続すると言った。それは守護者を激しく憎んでいた彼にとっては、悪意以外に受け取りようがなかっただろう。


 そんな折だった、末妹であるナイトスティンが王位を継ぐと申し出たのは。

 サイヴァもイアルゥも、オスヴァルトも反対したが、彼女の意志は固くカミル自身の了承を得られたこともあって、結局は今の状況に至ったのだった。


 ラディアスとナイトスティンは、年の近い兄妹だ。幼い頃から一番近くにおり優しかった兄を、黒曜はとても慕っていた。それだけに、彼が国を出奔し年に一度帰るか帰らないかの現状に、黒曜がひどく傷ついているのを皆知っている。

 かと言って、弱音を吐かない彼女にどうしてやることもできないのが、実情だ。

 そんな次兄を、彼女はルベルの父親に重ねたのだという。


「わたくしは自己本位ですわね。あの子のためでなく、この国のためでもなく、ただ自分自身のために――あの子がレジオーラ卿を連れ戻せるか、試したいと考えているのですもの」


 黒曜はそう言って小さく笑った。


「もしもあの子がレジオーラ卿を連れ戻すことができるのなら、わたくしは、兄のために何が出来るのかを……知れる気がしてなりませんの」

「姫さま……」


 リンドはその蒼い両眼に涙をいっぱいに湛えて、黒曜を見つめる。


「それなら私は姫さまのためにも、必ずやレジオーラ卿を連れ戻してみせますっ」


 大方の予想通りなリンドの反応に、黒曜はくすぐったそうにくすくす笑って、大きな双眸でまっすぐ彼女を見つめた。愛おしそうに、両眼を細める。


「気負うことはありませんわ、リンド。あなたがあなたらしく自由に生きてくれること、それが私にとっては何よりの幸いですもの」


 王家に生まれた者にとってそれが、いかに遠い望みなのかを。黒曜はよく知っていたし、彼女の家族もまた、知っている。

 叶わぬものをリンドに負わせたいのではない。だけれど、大切だから守りたいという想いが見えない鎖となり彼女の未来を縛るのなら、それではあの白き賢者と変わらない。


「自由とは、どのように生きるかを自分の意思で選べることですのよ。命はいつか失われてしまう……それは絶対的な世界の理ですわ。穏やかに眠れる場合もあれば、残酷な運命の果てだとしても、決して避けられぬもの。だからこそ許されるならば、生きる自由を大切にして欲しいと願ってますのよ」

「――はい!」


 まっすぐな蒼い双眸は微塵も揺らがない決意を映して強くきらめいている。その翳りのなさは、まだらないゆえだと黒曜は知っている。


 行って来なさい、――その言葉は、運命も未来も彼女自身の手に返すということだ。

 そうやって手を離してしまった後に家族ができることといえば、せいぜい、祈ることくらいだというこのせつなさを。


 いつか知る時が来るのだろうか。この、喪失感に似た胸の痛みを。

 それはリンドの選んだこの旅の行く先次第かもしれないと。根拠はなかったけれど黒曜は、思ったのだった。




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