9-4 今はまだ解らなくとも


 濃密な闇が微かな湿り気とともに窓の外に満ちている。今宵は厚い雲に、月も星も隠されているらしい。

 同行の許可が得られた報告をしようと客間に駆け込んだリンドは、がらんとひと気のない空間に思わず立ち竦んでしまった。当然といえば当然、時刻はもうだいぶ遅い。


 喜ばしい報せとは言えそれぞれの個室を叩いて告げ回るには時刻が悪い。リンドは仕方なくひとりソファに腰掛けた。アルエスを誘って風呂に行こうかとぼんやり考える。――と、不意に部屋の空気が熱を帯びた。

 ゆらりと陽炎のように空間が揺らめいて、現出したのは灼虎のゼオだ。


「やっぱり行くのか、リンド」


 人型の灼虎は独り言みたいにそう言って溜息をついた。きらめく火の粉が一瞬散って、消える。


「ああ、ゼオ。よろしく頼むぞ!」


 話し相手ができたことに嬉しくなってリンドは瞳を輝かせる。ゼオはくんっと鼻を鳴らして、言いにくそうに視線を逸らした。


「ま、だろうとは思ってたけどよ。……で、まさか白き賢者の守護とか受けてねェだろな」


 意外な言葉にリンドはきょとんと目を見開き、首を傾げる。


「ああ、結局カミルさまはあのまま帰られてしまったし。でもなぜなんだ? ゼオも、あの方を信じるなと言いたいのか?」

「あ? ンなこと言われたのかおまえ」


 気が抜けたようにゼオは呟き、改めてまっすぐリンドを見た。きんいろの双眸がわずかに細くなる。


「おまえは信じたいのか? リンド」

「……私は」


 鋭い瞳に射抜かれて、リンドは言葉を続けられず俯いた。ソファの背もたれに肩を預け、膝を立てて抱える。


「私だって、おばあさまや姫さまたちの言うことは理解できるさ。だけど、カミルさまが私やルベルを心配してくださっているのは本当だろう? それを……感謝してはいけないんだろうか」


 ゼオは答えず黙って聞いている。リンドはなんとも言えない気分になりつつも、続けた。


「なぁゼオ。カミルさまは、悪い方なのか?」

「――そうだなァ」


 低く応じてゼオは、がりりと頭を掻いて目を逸らす。


「あのヤローは、世界の定義に当て嵌めて言ァ、大罪人だ」


 精霊に忌まれている、との話を思い出し、リンドは顔を上げてゼオを見た。


「私には解らないんだゼオ。おまえは人の心が解るんだろう? 私はカミルさまに小さい頃からたくさん可愛がっていただいた。今だって……、それが偽りだとは、思えないんだ」


 ゼオのきんいろの瞳がリンドを見、視線がぶつかって空気がわずかに張り詰める。

 必要なのは事実なのか、それとも――。


「過去は過去、事実は消えやしねェさリンド。けどオレが知ってる限りここしばらくは、あいつが誰かを殺したり国を滅ぼしたりしたことァねぇな」


 真意など、いつだって人の心の奥深くに仕舞い込まれているのだ。心話も感応も所詮は表面的なものに過ぎない。まして精霊王さえ従えると噂されるあの大賢者の真意など、解るはずもない。

 リンドは黙ってゼオを見返していたが、突然と姿勢を正してぐいと目を擦った。


「解った! 私は、私が感じるままにあの方を信じようと思う。もしもそれが間違いだったら、その時にまた悩むさ」


 心底彼女らしい結論にゼオは吹き出した。


「あっはは、そりゃイイゎ。ンじゃおまえだけには教えておくか、コレ」


 きょとんと見るリンドの表情がなお可笑しくて、こみ上げる笑いを抑えながらゼオは思う。いけ好かないしむしろ嫌いな相手ではあるが、彼のことを信用はしているのだ、と。


「これは押し付けだ、ただの気紛れだってェ言いながらあのヤロ、オレに魔法を寄越しやがった。例えばオレに何かがあってどうしようもなくヤバイ状況に陥ったら、フルネームで名を呼べだと」

「……カミルさまの?」


 そうだと頷き、ゼオは首を傾けてソファの上のリンドを見た。


「一度で途切れる言葉の糸だが、一度限り、世界のどこからだろうと届くらしいぜ。空の真ん中だろうと、海の底だろうと、――バイファルの結界の中にいようと助けに行く、とか抜かしやがった」


 なんとも人外じみた保証に、さすがのリンドも目が点になる。


「結界の中って、旅渡券は?」

「……あぁ、結界を壊すことはできねェが騙すことならできるとか」


 溜息のような呟きの意味を悟って、リンドは思わずソファから腰を浮かせた。


「それじゃ、ルベルはわざわざ海を越えなくとも……!」

「リンド」


 遮ったのは、ゼオの言葉。


「覚悟、ってのはそういうモノだ、リンド。手抜きの手段なら幾らでもあるさ。力を示して脅し取る方法だって、幾らでもな。けど、そんなンで人の心は動かねーだろ」


 答えに詰まるリンドを見ながらゼオは居心地悪そうに言葉を繋ぐ。


「お嬢は、目的の達成のため必要なことをちゃんと解ってる。それがどんなに危険なことかも解ってる。逆説的に言えば――それくらいの覚悟を見せなけりゃ、父親の心が動くことはないと、ちゃんと解ってンだろな」

「……覚悟、か」


 覚悟ってなんだろう。

 リンドの胸には姉に言われた言葉がわだかまっている。自分が足りていないという覚悟、……ゼオの言う覚悟。それは同じものなのだろうか。


「いくら考えても解らないんだ、ゼオ。確かに自分がまだ子どもで、世間知らずなのは認める。でも旅に危険が伴うことことくらい理解してるし、だから剣術だって本気で修行を……」

「リンドちゃんっ!」


 独白のような台詞はまたも途中で遮られた。

 勢いよく扉が開いて、飛び込んできたのはルベルだ。オレンジのツインテールがフリックの耳みたいに揺れている。


「リンドちゃんのおかげで、女王さまに旅渡券書いていただけましたっ! ありがとです!」


 少女が嬉しそうに顔の前で掲げてみせたのは、さほど大きくもない紙切れに精緻な魔法語ルーンと共通語が記された券だった。リンドも初めて見る、本物の旅渡券だ。


 ――本当に、紙切れ一枚。

 こんなモノで人の運命が左右されてしまうのだと、今さらながらに思い知る。


「いや、結局私は何もしてないさ。ルベルが自分でしっかり説得したんだから、偉いのはルベルだよ」

「でも、リンドちゃんがここまで連れてきてくれたんです! だから、ありがとうですっ」


 今までにないルベルのはしゃぎように多少面食らいつつも、リンドはなんだか気分が軽くなった。

 そうだ、解らないなら探せばいい。旅を通して、ルベルを通して。ソファの上で一人悩み抜くよりも、よほどその方が建設的に思えた。


「そうだ、ルベル。私も監獄島へ一緒に行っていいと、姫さまや父さまが言ってくれたんだ!」


 茜色の両眼がリンドを見上げ、本当に嬉しそうにルベルは笑う。そして勢い任せにリンドに抱きついた。ソファの背もたれが丈夫だったから良かったものの、そうでなければひっくり返っていただろう。


「わぁい! たくさんいっぱいありがとですっリンドちゃん!」

「そんな……私は何も、むしろこの通りの世間知らずで、迷惑をかけるかもしれないが、連れていってくれるか?」


 今さらのように不安を感じて尋ねたら、ルベルはこくこく、と何度も頷いて笑った。


「うん! ルベルはリンドちゃん大好きですっ」

「……はは、照れるじゃないかっ、ありがとうルベル」


 何の衒いもなく喜ぶ少女の様子に、ようやく湧き上がる実感と嬉しさ。それが胸に凝る感情のしこりを溶かしてゆく。

 だって、応援したいと思ったのだ。叶うなら――、父親と再会した時にルベルがどんな顔で笑うのかを、隣で見ていて一緒に笑いたいと。それが友情というものだと、リンドは信じて疑わない。


「ま。良かったじゃねーか」


 投げやりなようだが、ゼオの声にも笑みが混じっている。ルベルは珍しく素直に、嬉しそうに頷いた。




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