[5-3]海の精霊獣の伝承


 記憶にある一番はじめから、彼は殺し屋だった。


 いつも彼を厳しく律し無感情に訓練を施す人物が、実父だと知ったのは、いつの頃だっただろう。悲しいとか悔しいという感覚は湧かなかった。当時の彼はそれ以外の生き方を知らず、疑問に思うだけの知識も経験もなかったからだ。

 不定期な間隔で命じられる暗殺の指示を従順に、確実にこなしていれば。彼と母が不自由なく暮らせるだけの見返りと、何もない日の自由が保証されていたのだ。


 それでも彼は、胸の奥でうずく良心をなくしてしまうことも、暗殺を遂行するたび痛む心を消してしまうことも、できなかった。

 自由時間の多い日々だったので、学ぶことは気晴らしでもあり、楽しみでもあった。


 知識が増え、交友関係が広がり、それにつれて彼は自身の置かれた境遇の異常さを知っていく。しかし、気づいた時には自力でそこから抜け出すことはできなくなっていた。

 父に対する恐怖心と叩き込まれた従順さはもう、気持ちひとつで覆せるものではなくなっていたから。

 

 あの頃は、誰かが助けてくれることを夢想してもいた。

 当時すでに病床にあった王では望むべくもなかったが、兄王子が真実の精霊トゥリアを妻に迎え入れたと聞いて、夢想は期待へと姿を変えた。

 彼にとって精霊たちはいつも優しく、つらいときや苦しいときに寄り添ってくれる存在だったから。

 ――けれど、期待が報われることはなかった。


 がっかりはしなかったし、そんなものだろうと考えていた。同時に、なぜ気づかないのだろうと不思議にも思い……考えた末に、興味がないからだと思い至って納得した。

 目の前に没頭できることや愛する相手がいる、満たされた生活を送る者が、日陰に目を向けることはないのだろうと。


 程なくして王は死に、王城は悲しみに包まれた。病に伏していようと先王は偉大な人物であったので、魔法に関しても剣技に関しても、内政に関しても、父王の才覚を受け継いだ兄王子にみなの期待は向けられていた。

 しかし彼は王位継承権を放棄し、弟にすべてを押しつけ、自分は妻とともに王都を離れて学院教師という職に就いてしまったのだ。


 弟王子は善良な人物ではあったが、大帝国を治める王としての器用さが足りなかった。一度はすべてを放棄した兄が内政や軍務の補佐として役職に戻ったのには、そういう理由もあったのだろう。

 先王の死ののち、父はずっと苛々しているようだった。城で父と王兄が言い争っているのを、目にしたこともあった。

 それが何を意味しているのか、当時は理解できなかったが――今ならわかる。父は、期待を裏切られたことにいきどおっていたのだ。


 もしも、などという夢想に意味はないとわかっている。過去は変えられず、起きてしまったことは結末が満ちるまで、向き合い続けるしかない。

 それでも、考えてしまうのだ。

 ルウィーニが王位を継承していれば、父は叛乱はんらんを起こしたりしなかっただろう、と。自分の立場は殺し屋のまま変わらなかったとしても、あの優しい弟は――フェトゥースは、一騎士か一政務官を目指して学院へ通い、若者らしい日々を楽しみ、やがては望む生き方を選べたのではないか、と。


 償いなど、欲しくはない。

 自分の人生ははじまりから狂っていたのだから、誰かに何かを期待することはなく、得られないからといって逆恨みする理由もない。

 けれど、ルウィーニ自身が過去の選択を失敗と考えていて、償うべきだと納得しているのなら。

 この役割を、肩代わりしてもらおうか。




 ***




 挑むようにルウィーニを睨みつけていたロッシェの瞳が、ふいに色を変えた。呼吸を落ち着けるように数度、吸って吐いてを重ねると、彼は抑えた声で言葉を吐き出す。


「……僕は、ずっとフェトゥースを助けてやりたかった。彼に向けられる批判は、根源的には彼の責任じゃない。彼は責務を一生懸命に果たそうとしていたし、自分を追い詰めた炎帝やあんたを恨むようなこともなかった。フェトゥースは、何も悪くないんだ」

「なるほど、では、こうしようか。ライヴァンに戻ったら、俺は何らかの形で国王の助けになろう。もちろん今は、狂王に関わる問題を解決するのが先だけどね……どうだい?」


 満足したように薄く笑うロッシェを見て、ギアは言葉にできない違和感を感じる。

 そもそも、ルウィーニは彼が何者かを知っているのだろうか。そしてロッシェは、あんなに憎んでいたラディンへの感情を整理できたのだろうか。


 何かを聞いておかなくてはいけない、焦燥に似た感覚が胸に上るものの、上手くそれを言葉にすることはできなかった。

 ロッシェが一瞬、確認するようにギアを見る。なんだ、と聞き返す隙もなく、彼は岩場を数歩さがって道を空け、ルウィーニを促した。


「……きっと、フェトゥースは喜ぶと思うよ。そうと決まったら、ゆっくりしている暇はない。行こうか、急いでライヴァンに戻ろう」

「親父さん、運ぶものがあるなら手ぇ貸すぜ?」


 予告なしに訪れて、今すぐ戻れとは、今さらながら随分と横暴な話だ。とは思いつつ、グズグズしているうちに島民に嗅ぎつけられたら、帰還も危うくなってしまう。

 せめて荷物持ちくらいは……と声掛ければ、ルウィーニはひと言断って洞窟の奥へと戻り、しばらくして、長い杖と大きめのバッグを持って出てきた。ちょっとそこまで出掛けてくる、みたいな格好だが、大丈夫だろうか。


「これなら俺一人で持てそうだよ。ありがとう」

「そうかい? しかし、それくらいでいいのかよ。もうここに戻ることはないだろうし、大事なものは持って行かないと後悔するかもだぜ?」

「はは、きみは親切だな。元より身一つで放り出されたし、研究資料も書いた本も全部この中に入っているから大丈夫だよ」

「それならいいけどな」


 入り口のカンテラを外して消灯するルウィーニを改めて観察してみる。

 確かに、怪我もなくやつれてもおらず、衣服もきちんと手入れしてあるようだ。聞いていた噂のわりには、不自由ない生活をしていたのがうかがえた。

 往路を道案内してくれた火蜥蜴サラマンドラが、ひょこりと岩の上から顔を出す。ぴ、と首を傾げるかれに答えるように、ルウィーニが声を掛けた。


「迎えが来たから、俺は国へ戻るよ。きみ、番人の門までの案内を頼んでもいいかな?」

『ぴ。ぴぴ! マスター、ガッテンショーチでい!』

「ちょ、その前に一瞬でいいから休憩させてくれって」


 またあの長い行程を歩くのかと思った途端、まだ水も飲んでいないことを思い出し、ギアは慌てて抗議する。今すぐ出発されてはさすがの自分でも干からびてしまいそうだ。

 ロッシェはいささか不満そうだったが駄目とは言わず、察したルウィーニが水をわけてくれて、少しの休憩を挟んだあと。

 三人は火蜥蜴サラマンドラの案内で、門へ向かって歩き出した。





「ところで、親父さんって精霊使いエレメンタルマスターなのかい?」


 門までの道のりはそれなりに長い。暇つぶしも兼ねて、ギアは気になっていたことを尋ねてみる。

 魔法職には、自分の属性系統のみに特化した魔術師ウィザードと、反属性以外の魔法を扱える精霊使いエレメンタルマスターがある。火蜥蜴サラマンドラに聖獣、光精霊、そして森の下位精霊たちと、ルウィーニの交流幅は広く、どこかフォクナーを思い出させた。

 ルウィーニはそれを聞くと笑って答える。


「俺は炎属性の魔術師ウィザードだから、使える魔法は炎一系統のみだよ。もしも水魔法が使えていたら、自力で島を脱出したんだけどなぁ」

「脱出ゥ!? いや、水魔法じゃ無理だろ!」


 温厚そうな壮年魔術師の口から思わぬ言葉を聞いてしまい、ギアは思わず突っ込んでいた。が、ルウィーニは目を細めて楽しげに口角をつり上げる。


「ライヴァンの建国王は、島の断崖から海に飛び込んで、脱出を果たしたそうだよ」

「その話は、知ってる。詳しくは知らないけど、何でも『海の精霊獣』と会うことができれば、生きて脱出することが可能だとか」

「……マジかよ」


 ライヴァンの中枢に近く精霊にも詳しい二人が言うのなら、ただの御伽噺おとぎばなしというわけでもないのだろう。自分の中にあった常識が崩れていく気がして、ギアははーっと大きくため息をついた。

 もっとも、一般的な噂として広がらないところからすれば、その確率そのものが奇跡的、なのだろうが。


「ムルゲアだね。アザラシの頭にクジラの胴体、黒く巨大な海の精霊獣。水の精霊王リヴァイアサンの使いとも言われているよ」

「あー、それなら子供の頃、絵本で見たぜ。実在してたのか…」


 ルウィーニの説明に刺激された脳が、遠い遠い昔に読んだ絵本の挿絵を想起した。あの不思議で愛らしい生き物が、監獄島脱出などという恐ろしい事案に結びつくなんて驚きだ。

 そんなことを考えていて、ふと思う。


「それにしても、ロッシェ。おまえ……嫌われたっていうわりには、精霊とよく喋るし詳しいし、仲もいいよな?」

「……どこが」


 吐き捨てるように言い返されたので、ギアは空気を察し口をつぐむ。が、ルウィーニは聞き留めたようだ。


「嫌われた、とは?」

「え、……あぁ、まぁ、ちょっと」


 無言で殺意の視線を送ってくるロッシェはそれなりに怖い。

 自分が相手を好きでも、相手が自分を嫌っているというケースは、人間関係だけでなく精霊との関係でもあるのかもな。と思ったものの、口にする気は起きなかった。


 失言を自覚しつつ曖昧な返事で誤魔化せば、ルウィーニは察したのか重ねて尋ねるようなことはせず、ただ一言「かれらは鏡みたいなものだからなぁ」と呟いた。


 


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