[9-2]精霊のしらせ


 ざわざわとした焦燥感がずっと胸を埋めていた。眠りに入れず、何度も寝返りをうつ。

 意識の底で何かに呼ばれるような、つかみどころのない焦り。寝ている間に汗をかいていたのか、前髪が額に貼りついていた。じっとり全身を包む不快感に、アルティメットはベッドの上で体を起こす。


「……どうしたの?」


 眠そうながら優しげな声が掛かる。聞き慣れているはずのその声にもアルティメットはびくりと肩を震わせた。得体の知れない不安感がまだ心を捕らえている。


「ルイズ、起こしてしまってごめんなさい」

「いいのよ。……眠れないの? 何か、うなされていたようだけど」


 人間族フェルヴァーであり、決して若くない年齢の彼女は、アルティメットにとって母親を想起させる存在だ。彼女がカミィの妻だったから、翼族ザナリールである自分が死神の魔族ジェマであるカミィを恐れずにいられるのだろうと思う。

 鳥の性質を持ち夜目の利かない翼族ザナリールにとって、闇は恐ろしさの象徴だ。まして、闇の民と呼ばれる魔族ジェマは過去、翼族ザナリールを絶滅に瀕するほどまで追い詰めたのだから、なおのこと。


 ゆえに、闇を連想する黒翼をもって産まれたアルティメットは、同胞たちに恐れられた。両親は優しかったが、生まれ育った集落は彼女にとって居心地の良い場所ではなかった。

 村を出、一人で生きていくことを決意したのはまだほんの少女だった頃。だから、心から信頼できる存在なんて両手の指で数えられるほどしかなかった。

 母を除けば、同性で気持ちを打ち明けられる相手はルイズが初めてと言ってもいい。


 波立つ心を落ち着ようと胸元に毛布を引き寄せながら、アルティメットはルイズの問いに素直に答える。


「なにか……胸騒ぎがして。怖い夢を見たとか、そういうわけではないの」

「そう。かしら? 汗に濡れたままじゃ冷えてしまうから、着替えたほうがいいわね。その間にミルク温めてあげるわ」


 ルイズが身を起こす気配がして、暗い部屋に淡い明かりが灯った。薄い夜着の上に薄織のガウンを羽織った彼女が、ベッドから降りて手燭を提げている。


「こんな深夜に、悪いわ。ルイズは寝ていて?」

「これくらいさせてちょうだい。あなた、暗いと何もできないでしょ?」


 優しく言い諭され、アルティメットは素直に聞き入れることにする。屋内とはいえ、闇に沈んだ夜更けに一人で動くのは、やっぱり怖かったのだ。

 部屋を出る彼女の後についてキッチンへ向かうと、こんな時間だというのになぜか明かりがついていた。


「……カミィ? 真夜中にどうしたの」

「ルイズに、アルティメット? おまえたちこそ、どうした」


 漆黒のコートを身にまとい、死神の大鎌デスサイズを携えたカミィがそこに立っていて、入ってきた二人を見ると驚いたように眉を上げる。


「アルティメットが眠れない様子だから、ミルクセーキでも作ってあげようと思って。あなたも飲む?」

「いや、森が騒いでいるのが気になるから、様子を見てくるよ。水鏡みかがみ湖の辺りで争いが生じているようだが、野の獣なら精霊たちもこんな騒ぎ方はしないからな」

「そう……あなたなら無茶しないでしょうけど、気をつけてね」


 何よりルイズを優先するカミィが彼女の勧めを断るなど、よほどの切迫した事態なのだろうか。それは自分の胸を騒がせている焦燥感と、関係があるのだろうか。ルイズの言ったという表現が気になって、思わず両の手をぎゅっと握り合わせた。


「あの、……野の獣ではない、ということは」

「恐らく旅人だろうな。せっかく森の呪いが解けたというのに、湖を血でけがされては聖獣も迷惑だろう。余計な世話を焼きにいってくるよ」

「この、滅多に人が来ない森の奥に旅人なんて」


 聖獣というのが湖に住んでいるユニコーンと呼ばれる精霊獣であることを、アルティメットも二人から聞かされて知っている。光に属する精霊獣で、治癒や浄化の能力に特化しているという。

 カミィに言わせれば、繊細で気弱な性質の彼は争いや流血というものが苦手らしい。


 今日この小屋に泊まっている旅人たちは、パティロの仲間だと言っていた。もしかして、結界を解いたのはその人たちなのではないだろうか。もし、争いではなく襲われているのだとしたら。あの白狼の少年が危険にさらされているのだとしたら。

 だからといって、アルティメットに何かができるわけでもないのだが。

 想いをうまく言葉にできず声を詰まらせていると、カミィが笑みの形に口角を上げる。


「一緒に来るか? アルティメット」


 心でも読まれたかと息を飲むアルティメットの横で、ルイズが怪訝けげんそうに眉を寄せた。


「何を言い出すの、カミィ。夜の森はこの子にとって危険すぎるわ」

「はは、確かに。変なことを言ってしまった。忘れてくれ」


 自分でそう笑い飛ばし、玄関へ向かおうとするカミィの背中に、アルティメットは思わず声を掛ける。


「一緒に、行ってもいいですか!?」

「ちょっと、アルティメット」


 困惑げな声を上げてルイズがとどめようとするも、足を止めたカミィは穏やかに笑って問いを返してきた。


「いきたいのか?」

「はい、……いえ、実はよくわかりません。でも」


 この胸のざわめきが。

 正体のつかめない焦燥が。

 何かのだと、いうのであれば。


「行かなくてはいけない、気がするんです」

「そうか。なら、私が守ってやろう。ついてきなさい」


 カミィは魔術師ウィザードで、ルイズは精霊使いエレメンタルマスターだ。精霊たちの営みを詳しく知る二人も、この夜に何かを感じているのだろうか。ルイズはため息をついたが、止めることはしなかった。


「仕方ないわね。急いで着替えて、きちんと装備を整えていくのよ? それとこれ、あなたは夜目が利かないのだから持って行きなさい」


 棚のどこかから月長石ムーンストーンでできたペンダントを出して、手渡してくれる。淡く光るそれは、魔法の明かりが封じられた魔法具マジックツールなのだろう。


「ありがとう、ルイズ」

「気をつけるのよ」


 慈しみのこもった声に押され、泣きたいほどの温もりが胸に満ちてゆく。何も持たず転がり込んだ自分を、二人は娘のように大切にしてくれていたのだと――なぜか唐突に、そう実感した。




 ***




 五年前、ギアには好きな女性がいた。近い未来に彼女と結婚するのだと、何も疑わずに考えていた。

 一緒に旅をし、仕事をし、時間を過ごし、……だから自分の気持ちは彼女に伝わっているだろうと思っていた。いや、彼女も自分と同じ気持ちだろうと決めつけていた。

 それが一方的な確信だったと痛烈に思い知らされたのは、彼女を庇って大怪我をした後のこと。

 致命になる怪我ではなかった。顔の真ん中に目立つ傷痕が残ったが、失明することも後遺症に苦しむこともなく、ギア自身にとっては『勉強になったぜ』程度のことだったのに。

 何も言わず何も残さずに忽然こつぜんと消えてしまった彼女の真意は、今でもわからないままだ。


 不覚にも、声が震える。

 回りくどくをちらつかせるこの男の本音が、ひどく彼女に近いのだということに気づいてしまったからだ。


「なぁロッシェ、俺はおまえを殺さねぇ。あんたの甘えに付き合う気なんてないぜ」

「甘え? 何を勘違いしてるのかな。君が僕を止めないのなら、僕は君を殺してラディン君を殺す、って言ってるんだけど」


 空々しくうそぶく脅しは、いわば獣の威嚇いかくだ。三日月刀シミターの切っ先が、月光を弾いて時折きらめく。武器を投げ捨てたギアをそうやって挑発しているのだ――死にたくなければ戦えと。

 だからギアは素手の拳を握って、ロッシェに指を突きつけ言い返す。


「そもそも、自分のせいで誰かを不幸にするって考えが傲慢ごうまんなんだよ!」

「……煩い。君に、何がわかるんだ」


 からっぽだった双眸に、感情が点る。図星を差されて動揺する――これほどわかりやすい人物だったのだと、改めて思い知る。

 いつだって思い込みは瞳を曇らせ、正しい判断を邪魔するのだ。ただの人族に精霊のような感情感応はできないし、真実の瞳で嘘を見抜くこともできないのだから。そのことに五年前に気づいていれば……今こんなに胸を痛めることはなかっただろう。


「俺に、わかるはずがないだろ。あんたの価値も、あんたと国王やルベルの関係も、俺にわかるわけないだろが! でもな、一つ確実に言えることはあるんだよ。ここで死ねばあんたは満足かもしれないが、それはあんただけの自己満足だってな」

「言ってくれるじゃないか」


 彼も苛立っているのだろうか。震える声を息に乗せ、ロッシェが呟きを吐きだす。瞳に点った激情は影を潜め、月光を飲み込んで青い光が揺れていた。


「僕は死神だ。ルベルからすべてを奪い、フェトゥースを追い詰め、これから君の仲間を手に掛けようとしている。殺し屋が情で殺害をためらうなんて、御伽噺おとぎばなしの中だけだ。現に僕は、ルベルの母親を――、」

「俺はあんたの過去には興味ない。あんたがどんな罪を重ねてきたんだとしても、俺には無関係だ」


 言い募ろうとするロッシェの言葉を強く遮り、ギアは顔を背ける。

 宙に浮いた告白の続きは張り詰めた沈黙にとって代わり、しんとした夜気の中どこかで吠える獣の声が聞こえる。次の瞬間、風を裂くような殺気を感じてギアは反射的に飛び退いた。

 眼前を、閃き過ぎるは、銀色の刃。

 至近まで迫っていたロッシェが、恐るべき精度で三日月刀シミターを振り抜いた。致命傷を避けようと咄嗟とっさに左手でかばう。切れ味鋭い片刃の剣は革製の籠手ごとギアの腕を切り裂いて、焼けつくような痛みに声にならない悲鳴が漏れた。


「……ッ、ぐぅ」

「何度も言ってるじゃないか。君が剣を抜かないとしても、僕は、君を、殺すって」


 感情を映さぬガラスの瞳。これはロッシェの暗殺者アサシンの顔だと、ようやく気づく。痛みに遠のきそうな意識を意地の力で無理やり縛りつけつつも、ギアは傷口を押さえて砂地に膝をついた。

 ボタボタと勢いよく落ちる血液が、白い砂を染めてゆく。

 これはヤバイかもしれない。

 骨に達して神経がひどく傷ついていたら、ただの怪我では済まないかもしれない。

 そうだとして、まだ利き手が無事だとしても、武器を拾うつもりはないが。


「……ロッシェ」


 痛みと貧血で意識がぐらぐらする。刃に毒でも塗ってあったのか、それともそういう切り方をされたのか。ここで昏倒したら、ロッシェは自分にとどめを刺すのだろうか。わからない。

 死と隣り合わせの窮地は、今まで何度も経験してきた。

 彼女と別れるきっかけになってしまった怪我よりひどい危機だって、何度もくぐり抜けてきた。

 

 それでも、なぜだろう。一度も、考えたことがなかったのは。

 ――二度と逢えないという、可能性を。


 志なかばで命を落としたら、永遠に望みは叶わなくなるはずなのに。どこかで傲然ごうぜんと確信していた。

 運命がつながっているのだと信じていた。

 かすみゆく意識の中、笑みが自然と口元に上る。


「自分だけ逃げてリセットしたつもりでも、過去は消えねぇ。あんたは自分が犯した罪の償いを、誰に肩代わりさせるつもりなんだ」


 人は死ねば転生し、命は同じ魂で螺旋の時を流転るてんする。しかし、それは同じではない。死とともに記憶は白紙化され、同じ想いを抱くことはもう二度と、できないのだから。

 であれば、今の歪みを正さず、未来に押しつけてはいけない。それでは何の意味もない。


 ロッシェの体に張り詰めていた殺気が、溶けるようにゆるんだ。

 紺碧の両眼が月光を弾いて、揺れる。


「君は、僕に、過去を償えというのか」


 違う、と落ちた呟きは届いただろうか。

 うつろに閉じてゆく視界で、ギアは独白のように、答える。


 ――俺はただ、


「信じた愛が幻だなんて馬鹿なことは、考えたくねえだけだ」


 全身から力が抜ける。足の感覚がなくなり、耳鳴りがひどくなる。

 畜生、と眩む意識で舌打ちした。


 ふわりと、何かひどく柔らかいものに触れた気がした。

 羽毛に似ていると、頭のどこかで考える。


 ――本当は、幻でも構わなかった。

 信じている限り、いつかはそれが真実リアルになるはずだと、知っていたから。



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