[9-3]導きの先で


 耳に届くのはざわざわとささやく葉擦れの音のみ。

 真っ暗闇の夜の森、前をゆく闇色のコートが唯一の頼りというのも不思議な気分だった。


 闇を象徴する黒色を身にまとっていても、アルティメットは風属性だ。これが精霊の偏りによる色素異常メラニズムだと教えてくれたのは、カミィだった。害はなく益にもならない、ただの外見上だけの特徴なのだと。

 同族に恐れられたこの漆黒を、他種族の者たちは受け入れてくれた。カミィのように原因を理解している者はいなかったが、綺麗だと、褒めてくれたひとだって。

 故郷を飛びだし流浪の旅をしていた人間族フェルヴァーの剣士だった。慈善的な気質、熱い義侠心は、いかにも炎の民である人間族フェルヴァーらしく、いろいろあって一緒に旅するようになってからは、恋に似た好意を抱いてもいたのだ。五年前、までは。

 勇敢で、優しい青年だった。

 でも、どんな状況にあっても自分を後回しにしてアルティメットを守ろうとする彼に、幾らかの息苦しさを感じていたのかもしれない。


 誰にも頼らず、誰をも傷つけず、生きていきたいと思っていた。

 そのために魔法を覚え、自力で生きる術を身につけて、旅を続けてきたのだ。今思えば、守られるだけの無力な存在ではなく、誰かの隣に相棒パートナーとして並び立つ存在になりたかったのだと思う。


 それが自分の思い上がりだったと痛烈に突きつけられたのが、五年前の、あの事件。

 人喰いの魔族ジェマと戦う羽目に陥ってしまい、彼がいつも以上に気を張り詰めていたのがわかっていた。油断をしていたわけではなく、魔族ジェマを必要以上に注視しすぎたのだろう。

 結果、背後から魔獣の不意打ちを受けることになり、連携を乱されて彼は顔面に深い傷を負った。


 何とか相手を討ち果たし、依頼主への報告より先に医者へ行って治療を受け、思ったより軽傷で失明の恐れもないという診断を聞き届け――、

 眠る彼の傍らで、悩み抜き。

 アルティメットは彼から離れることを決断した。

 自分の甘えが、彼の優しさが、いつか取り返しのつかない喪失を招いてしまったら。その想像は恐ろしく、彼への好意を凌駕りょうがして彼女自身を内側から責め立てる。こんな気持ちのまま、そばに居続けることなどできなくて。

 夜が明ける時刻、逃げるように宿をあとにしたのだった。


 致命傷ではないにしても、顔の真ん中を斜めに走る深い傷痕。きっと、一生涯消えることはないだろう。

 自分のことなど忘れてほしいと願い、手紙も書き置きも何も残さず飛びだした。

 けれど――、

 鏡を見るたび目に入るあの傷痕は、嫌でも自分との関わりを思い出させるのではないだろうか、と思う。恩知らずと憎まれているだろうか、嫌な女だと蔑まれているだろうか、あるいは。


「アルティメット」


 不意にカミィの声がして、我に返り顔をあげる。先ゆく黒い背中の向こう、月光に照らされて幻想的に広がる湖が見えていた。

 そこで対峙するふたつの人影に、彼女は信じられない気持ちで目を見開く。


 月が見せた幻だと思った。

 そうでなければ、夜目の利かない自分に彼らの顔が判別できるわけない、のに。


「……風よ、どうか私をあの場所へ」


 行かねば、という思いに突き動かされ、唇が自然と【空間跳躍ウィングリープ】の魔法を紡いでいた。魔族ジェマのテレポートほど万能ではないが、離れた場所へと転移できる風魔法だ。

 月光を弾く銀砂を黒々と染める血溜まりの中に、人間族フェルヴァーの青年が倒れ伏している。迷わずそこへと降り立ったアルティメットは、傷を確かめるためそっと彼を抱え起こし、耳元に小さく囁いた。


「……ギア」


 出血は酷いが、致命傷ではない。もう一度、今度は治癒魔法を唱えて簡易的に傷をふさぎ、それから顔をあげる。

 手を伸ばせば届くほど、すぐ近くで自分たちを見おろしている――もうひとりの人間族フェルヴァー。突然現れた自分に驚いたのであろう彼は、不愉快そうに瞳をすがめ、言った。


「誰だ、君、どこから」

「何が起きているのかわからないけど、あなたに彼は殺させない」


 一瞬、目を見開いた彼は、何かを会得したように双眸を細める。


「死告鳥……ってことはないか。なるほど、偶然か作為的かは知らないけど、君はギアの」

「彼は私にとっては、恩人よ。私なんかのために身体を張ってくれるような、良い人よ。どうして殺そうとするの?」


 ともに抑揚少ない声音ながらも、視線の先で火花が散るようだった。腕の中の苦しげなうめき声にギアの生を確かめつつ、アルティメットは殺し屋らしい相手から彼を庇うよう腕を回して抱きしめる。

 相手の殺気が強くなり、抜き身の三日月刀シミターが月光を弾いてきらめいた――瞬間。黒い影が音もなく彼の背後に現れた。死神の大鎌デスサイズがぎらりと光り、彼の喉元へ添えられる。


「待ちなさい」

「……誰だ」

「死神、いや、死告鳥とでも言っておこうか。この湖を血で汚すのはやめてもらおう」

「……何」


 一瞬で、おそらく転移魔法テレポートで彼の背後を取ったカミィは、本気とも冗談ともつかぬことを口にする。思わず首を傾げたアルティメットだったが、相手の男は明らかな動揺を見せている。

 その隙に、カミィが短く魔法語ルーンを唱えた。男の身体が力を失い、砂地に崩れ落ちた。


「カミィ、何をしたの」

「眠りの魔法だよ。ひとまず連れ帰って、理由を問い質さなくてはいけないからな」


 闇魔法中位には、解除するまで目覚めない眠りの魔法というものがあるらしい。カミィが使ったのはそれだろうか。意識を失った男を引きずるように連れてきて、カミィはアルティメットのほうへ手を差し伸べた。


「触れるだけでいい。さすがに、大の男を二人も担いで徒歩は無理だ。転移魔法テレポートで帰るよ」

「はい」


 ギアを抱えたまま、アルティメットはカミィの手に自分の指を重ねた。自分の治癒魔法では、傷口をふさぐ程度しかできない。月光の明かりの下では詳細な状態はわからないが、一刻も早く手当が必要なことに違いはない。

 死なせたくなかった。五年の間ずっと会うことがなかったのだとしても、彼に対する親愛の想いは色あせてなどいないと、痛感させられる。とはいえ――。

 彼が目覚めたときに自分がどうするか、を、今はまだ考えられそうにない。



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