[9-2]亡者の街


 もしかしたらこの場所は、時間がまっているのかもしれない。

 そうでなければ、自分たちが産まれるより前に起きた戦いの残骸と腐臭が、これほど鮮烈に残っているのはなぜなのか。


「うぅっ」


 思わずえづきそうになるのを、口を覆って我慢する。眼前に広がる光景は正視にえない惨状だ。

 死臭と硝煙に満ちた空気。黒く汚れた人型の残骸。戦場慣れしているであろうギアでさえ我慢ならなかったのか、服の袖で口元を覆っていた。

 五感による不快感だけでなく、身体中の全感覚がこの場に立つことの不快さを訴えている。――この感覚は、何なのか。


「ここは、まだ終わっていない戦場だ。身体が忌避を訴えるのなら、それは正常な精神活動の証拠だ……、耐えられない者は空間が閉じないうちに戻りなさい」


 カミィの言葉で、この地を満たしているのが可視性のものだけではないことを知る。

 この恐怖感、おぞましさは、見えずとも感じられる怨念や怨嗟えんさといったものに身体が反応しているゆえだ。

 彼の言葉どおり、一歩後ろに退がれば空間の穴を通ってこの場から逃れることができる。

 けれど、そうしようとする者はいなかった。


 ここに立つと決めたのなら、葛藤かっとうしている暇などない。ここに在るのは焼け崩れた瓦礫がれきや焦げた遺骸だけではないからだ。

 あの悲劇で命を奪われたサイドゥラの魔族ジェマたちの多くが、今でさえ転生できぬまま、歪んだ魂を抱えてこの瓦礫の間に潜んでいる。


 ギアが愛用の長柄剣バスタードソードを引き抜き、魔法語ルーンを唱えた。強い火力で燃えあがる剣身。

 インディアがパティロとモニカとフォクナーを自分の近くに招き寄せ、魔法語ルーンを唱える。呼応するように地面から火柱が上がって四人を取り囲み、壁となった。

 フェトゥース国王が刺突剣エストックを抜き放ち、ドレーヌがその隣で広刃剣ブロードソードを構える。

 リーバがスターロッドを掲げ、シャーリーアの隣で魔法語ルーンを唱える。同じく炎の壁が障壁を造り、二人を包んだ。


「ルウィーニ」


 カミィが短く呼びかけ、死神の大鎌デスサイズを持ちあげる。その先端が指し示す方向、遠い場所に独りで立つ長身の影。

 顔すら見わけられない距離だとしても、それが誰かは疑いようもなかった。


「終わらせてくれ」


 カミィの言葉にルウィーニが頷くのと同時、狂王がゆらとこちらを見た気がした。それとともに、ルウィーニが動く。

 ガツッ、と鈍い音が至近から鼓膜を打ち、驚いたラディンは思わず一歩さがった。

 さっきまで遠方にいたはずの狂王が、転移魔法テレポートだろうか、一瞬のうちに距離を詰め、ルウィーニに打ち掛かったのだ。


 ラディンにとっては予想外だった動きも父は想定していたらしく、長い魔術杖で受け止め腕力に任せて払いのける。

 金属がこすれる耳障りな音が響き、狂王が間合いを取るように離れた。動じた様子のないルウィーニとは違い、ラディンもおそらくステイも動くことができずにいる。


「来てくれると思っていたよ、ジェルマ」

「貴様が、エイゼルの血の者か」


 こんな時でも柔らかな父の声音と対照的に、感情の抜け落ちた無機質な声音。


「そうだよ。五十年前は、我が父が失礼をしたね」

「フン、……貴様も私を封じるつもりなのか」


 ルウィーニが、長い魔術杖を両手で持ち直した。対するジェルマが構えるのは、細くて鋭い刺突剣エストックだ。

 精霊の剣を持つ二人は、まだ動けない。

 動かねばならないことはわかっていて、気持ちは焦るものの、体がまったく言うことを聞いてくれないのだ。そんな二人を庇うようにルウィーニは一歩踏みだし、まるで影のようにカミィがそのあとにしたがう。


「俺は、父が果たせなかった決着をつけにきたのさ。ジェルマ、俺が死ぬかきみが死ぬかの、どちらかだ」

「剣も持たずに、その杖で……私を殺すだと? 面白い。やってみるがいい、やれるものならな」

「そうだとも。だが、勿論もちろん――」


 低くささやいたルウィーニの言葉が終わらぬうちに、傍らのカミィが動いた。狂王がはっとしたように視線を走らせ、銀の刃を閃かせる。

 あろうことかカミィは手にしていた死神の大鎌デスサイズを振りかぶってジェルマに投げつけた。さすがに驚いたらしく彼が怯んだ隙に、一気に近づき、早口で魔法語ルーンを唱える。


「貴様ッ!?」


 怒りを込めて吠えたジェルマが突き出した刺突剣エストックにカミィが肩口を貫かれるのと、詠唱を終えた魔法が効果を現したのとは、ほぼ同時だった。

 鮮血が散り、大きくよろめいたカミィはそれでも踏みとどまって、後方へと跳び距離を置く。


「効果が続くのはわずかな時間だ、ルウィーニ。私にはもうできることがない。死ななかったことを褒めてくれ」


 致命傷でなくとも、傷口は深いらしく血がどんどんあふれ出している。カミィは手のひらでそこを押さえ、崩れるように膝をついた。

 リーバの慌てたような詠唱が響き、治癒の魔法光がカミィを包む。


魔法封じシーリング・ルーンを……なるほど」


 シャーリーアの呟き。初歩の闇魔法だが、魔法を得意とする魔族ジェマに対してその効果は絶大だ。しかし、魔法技量が勝る相手に掛けようとしても、失敗することが多い。

 カミィは自分の全魔法力MPを注ぎ込み、一点集中で狂王の魔法を封じたのだ。


「ありがたい! カミィ、わずかの時間で十分だ!」


 ルウィーニが杖を掲げ、叫ぶように答えた。先端にはめられていた赤い魔法石が輝き、燃えあがる。

 父の得意武器は棒杖ではない、とラディンは気がつく。あれは、長槍だ。間合いを保ちながら刺し貫く戦い方とゼオが変じた大剣とでは、確かに相性が悪いだろう。

 しかし、父は勝てるのか――疑念と焦燥が胸を焦がすものの、依然いぜんとして身体はぴくりとも動いてくれない。


「ジェルマ、俺はきみを逃すつもりはないし、負けるつもりもない。さあ、来なさい!」

「貴様らッ……こぞって策をろうしおって! いいだろう、面倒だが、これで刺し殺してやる」


 怒気を込めて叫んだジェルマが無軌道に刺突剣エストックを振り抜く。傍目はためから見ても不安定な軌道を描く細身の剣を、ルウィーニは杖の柄で難なく受け止めた。

 剣身を打ち据えるように杖を叩きつけ、ジェルマが怯んで退がったところに踏み込んで、燃える先端を鋭く突き出す。


 闇の属性が苦手とするのは、炎の魔法だ。

 槍の間合いと魔法炎の威力にされ、狂王は迷うようにジリジリと後退していく。


「あいつ、剣士じゃねぇな。オヤジさんは槍使いか。ラディンとステイは何やってんだよ」

「狂王は魔術師ウィザードさ。だから、魔力も強い。そんな相手と対峙たいじして動けるなんて、ルウィーニがおかしいだけだ。中位精霊が一緒だから狂わずに済んでいるだけで、あのほうが普通だ。……もう少し追い詰められれば、圧力も消えると思うが」


 ギアとカミィが会話している。かろうじて視線だけ動かし見れば、手負いの死神をかばうように立つギアは、緩慢かんまんうごめく亡者の群れと相対あいたいしていた。


二人むこうの心配は、精霊たちむこうに任せるか。こっちもそろそろお出迎えのようだぜ」

「ああ。一体一体は強くないが、なにせ数が多いし亡者はしぶとい。油断はできないな」


 瓦礫がれきの間からいだす亡者たち。その偽りの生を浄化へ導くため、活動を停止させるのが、他の者たちの役目だ。

 ギアだけでなく、フェトゥース国王も、リーバやシャーリーアも、子供たちさえも、覚悟を決めて向き合っている。


 自分も、早く一歩を踏み出さなければ。

 でもどうやって。


『動けぬのか、ラディン』


 ふいに聞こえた声は鼓膜を通してではなく、脳内に直接届いた感覚だった。優しく穏やかな声が、胸をむしばむ焦りと自己嫌悪をじわりと溶かしてゆく。

 ぎりりと奥歯を噛みしめて、ラディンは念じるようにクレストルとの会話を試みた。


(どうしよう、クレストル。金縛りにあったみたいに、動けないんだ)


なんじは人族ゆえ仕方ないのかもしれぬ。狂王の瞳は常ならざる精霊干渉力を宿しているのだ。……だが』


 わかっている。

 このままではいけないのだ。


 ぐっと手のひらに力を込めれば、冷たい剣の柄を通して清冽せいれつな魔法力が染み込んでくる気がした。氷をじかに触ってしまったときのような、熱を残す痛みに似ている。

 穏やかながらも張りつめた緊迫感をにじませ、クレストルは告げるのだ。


『ルウィーニの技量は狂王に勝るが、加減可能なほどに優位ではない』


 その意味は、わかっている。

 手のひらと背中に嫌な汗が噴き出した。


 全身を絡めとろうと貼りつく魔力は、狂王によるものだ。手のひらから伝わるのは、クレストルが宿す浄化の魔力。

 どちらかを選んでどちらかを拒絶できるような器用さを持てず、ただ必死で相棒の声に意識を集中する。

 共鳴するように響く内なる声が、導いてくれることを願って。


『ラディン、この刃を一撃、彼の身体に届かせれば良いのだ。ルウィーニを妨げる心配は不要だ……われなんじを導くゆえ。呪縛にあらがえぬなら、目を閉じよ』


 行きなさい、――その意志を感じる。

 ただ一撃、ただそれだけを成すために、この位置は遠すぎる。


(狂王の『不死性』を失わせるには、クレストルの魔力が絶対に必要なんだよね)


 教えられた知識を、確認する。

 クレストルが頷いたような気がした。

 それはつまり。


『我身の刃が届かぬままルウィーニの槍が狂王を殺せば』


(父さんが、死ぬ)





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