[4-2]大地蛇のみる夢


 いにしえの昔、世界は光を統べる竜族ティリアル・ロ・ハルにより造られた。

 二つの大陸と無数の島々、六つの人族ひとと、鳥や獣、鱗のあるもの、飛び回るものと這い回るもの。数知れぬ魔物たちと精霊たち。――それが、この世界にすまうもの。

 ことわりる者は統括者ウラヌス、時を体現せしは唯一竜クロノス。秩序を見守りし、六王。


 ――そうして、この世界は成り立った。


 だれかの声、いや、言葉というよりは思念のようなものが流れ込んでくる。

 よく知っているようで、まったく見知らぬ声のような、不思議な感覚をかき立てられる存在こえだ。


 ――精霊とは、なにか?

 それは元素エレメント具現からだに宿る自我いのち。獣の姿に人の心を持つ。


 ――狂王とは、だれか?

 その答えは闇に呑まれた過去の中にある。人として産まれ、人に壊され、狂気を生んだ非業の存在。




 ざく、と意識を裂かれる感覚がした。緞帳どんちょうが下りるように闇が降臨し、開幕するように視界が広がる。

 血生臭い風が鼻先を吹き抜けた……気がした。


『かれは人と精霊の狭間に立つ存在もの闇の月姫ラズィルナ人族ひとと出会い、愛し合い、そして産まれた。しかし……何も得ぬままにすべてをうしなった』


 眼前に惨劇が広がっていた。折り重なる人のむくろに埋もれ、子供の小さな腕が見えている。

 びくりと腕が震えて動く。骸をかき分け這い出してきたのは、まだ幼児と言ってもいいほどの黒髪の子供だった。片目は潰れ、全身が血色に染まっている。

 顔にこびりついた血をてのひらで拭い、舐め取り、子供はきょろりと周囲を見回した。目が合ったような気がして、どきりとする。冷たい金属のような無機質の瞳に、何の感情も映ってはいなかったからだ。


 ……血の臭いの風が吹く。


『飢えて狂気に落ちた吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマが村を襲い、人々を惨殺したとき。精霊であった母親が命を賭して我が子へ与えたもの、それが、命を喰らう能力すべだった』


 詳しくは語らず、事実のみを粛々と伝える。だがその響きに冷淡さはなく、温もりある穏やかさと深い哀しみが場に満ちている。それでも、眼前で繰り広げられる光景への恐怖感は薄まらないが。

 目を逸らすことはできなかったし、できたとしてもそうはしないだろう。この過去には真実が内包されており、自分たちは知らねばならない――そうわかっているからだ。


『死に絶えた村で、まだ言葉も知らぬ幼子は生き延びた。否、死ねなかった。血をわれ命尽きるはずだった子供は、自分を喰い殺そうとした相手を喰らうことで、命をながらえてしまった。庇護者をうしない飢えた子供は、本能のままに骸から血を喰らい、力を得た』


 かれが元はどの種族だったかは、わからない。吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマに限界まで血を喰われ、かれも同じ吸血鬼ヴァンパイアにされたのだろう。

 襲った者がそういう意図だったのか、偶発的にそうなってしまったのか、これだけでわかるはずもない。ただ結果として、襲った者は幼子の能力により逆に命を奪い取られ、骸の村にかれはただ独り遺されたのだ。

 そうなってしまえばもう、その在り方は獣と変わらない。


 負ければ喰われるのだと、幼子は学んだのだ。

 生きるためには、殺して喰うしかなかったのだ。

 生きよと望まれたから、生きようと足掻あがいたのだ。


 そう思った最初の理由きおくすらもう。闇に呑まれて、記憶から喪われてしまったとしても。


 水の滴る音。なまぬるい鉄の味。

 およそ人の食べ物ではない、吐き気を催す異臭も、それしか知らないのだとしたら。


『獣が育ててくれたなら、そのほうがマシだっただろう。精霊が気にかけてくれたなら、かれは救われただろう。だが。かれには何もなかった、だれもいなかった。憎しみや狂気は、理性を凌駕りょうがして得る感情だ。かれにはそれすらも無かったのだ』

 

 狂った精霊というものがあるらしい。負の感情と淀んだ魔力に侵食され正気を失った精霊で、そういう存在の側に正常な精霊は近づくことができない。

 母の私情ねがいにより幼子には制御できるはずもない権能ちからが与えられ、それは命をながらえさせはしたけれど、人としての心を破壊した。

 哀しみの感情おもいをまとった闇が、凄惨な光景に幕を下ろす。


 大地の精霊王、……誰かがそう呟いた気がした。


 ざ、と風が吹き抜ける。




 木漏れ日が踊る、森の中のひらけた一角だった。

 確実にれると思ったのに手は届かず、強い衝撃ちからに跳ね飛ばされて地面に転がる。呻いて立ちあがろうとしたところで、片目だけの視界に大柄な人の姿が映り込んだ。

 本能的に、歯を食いしばって飛び起きる。

 鎧と武器を身につけた、大柄な人間族フェルヴァーの男だった。見つけたときに隙だらけだと思ったのは、錯覚だったらしい。盛んに燃える炎のように付け入る隙のない、緋色の髪と真紅の目をした剣士だった。


「……なんだ、子供じゃないか。びっくりさせるなよ。君、名前は?」


 赤い剣士は大股で近づいてくると、手を伸ばす。恐ろしくなって逃げようとしたが、すぐに捕まえられて抱えあげられた。

 負けたのだ、と悟る。

 ということは、自分はきっとこの男に喰われてしまうのだ。……それも、仕方がない。それが、生きるということなのだから。

 せめてもの抵抗にと睨みつければ、大きなてのひらで乱暴に頭を撫でられた。その温もりはまるで未知のものなのに、胸の奥底がじわりと熱を帯びる。自分の中に湧き起こった感情ものが何なのか理解できなかった。


 ――魔法の苦手な炎の王、ザレンシオ。


『嫌悪も恐怖もなく、見たままの子供として扱う彼のような人物は、はじめてだったのだ。それは懐かしさと、狂気の闇に呑まれ消失していた想い出きおくを呼び覚ました。空っぽだったかれの心にはじめて点った、唯一の熱だった』


 大地蛇ミッドガルドが語る。

 いにしえ時代より死した魂を受け入れ、数多の記憶を呑み込んできた大地の精霊王が、今その記憶の片鱗を見せてくれているのだ。


「君、名前がないのか? そりゃあ不便だな。よし、俺が名前をつけてやろう」


 この男は自分を打ち負かしたのに、喰わないらしい。

 呼ぶ者もいないのだし不便なことなど何もないが、あまりに楽しそうに言うから。


「君は、魔族ジェマの子なのだな。でも〝ジェマ〟じゃそのままで芸がないから――」


 俺には名付けの才能がない、そう笑って挙げ列ねていく名前候補をぼんやりと聞きながら、心のどこかからあふれて胸に満ちてゆく懐かしさに意識をゆだねる。何ひとつ思い出せないけれど、きっと自分にも昔は名前があったのだ、と――……、

 彼が「よし」と手を打って地面に座した。膝の間に乗せられて、彼が地面になぞる文字を一緒に覗き込む。


 ――〝Ler Jema-ysha.Je-Le-m-a〟

 奇跡を内包するいにしえの言葉だ。そう、大地蛇ミッドガルドが補足した。


「ジェルマってのはどうだ? 〝愛しき魔族の子ラー・ジェマ・イーシャ〟――、人には知られぬ俺たちの言葉で、そういう意味を持つ名だ」


 彼の語りは意味がよくわからなかったが、胸の中で膨らんでいた感情が決壊したのはわかった。片方しか機能していない目から涙があふれ出し、戸惑う。

 指の先で優しく頬を拭われた。自分を覗き込む双眸は、鮮やかな深紅。


「こんなこと教えたってきっと、すぐに忘れてしまうのだろうが、それでも記憶のどこかに残るといいな……」


 囁かれ、そっと額に口づけられた。

 なぜかひどく悲しかった。そんな感情ははじめてだったから、ますます、戸惑う。


『炎の王は、深い愛と慈しみを名に込めた。だが……人の世はいつでも理不尽で、世界は無感情に残酷だ』


 大地蛇ミッドガルドの声が、いっそう深い哀しみを帯びる。


『サイドゥラとは、何か。魔族ジェマが住まう小さな王国。炎の王が人間族フェルヴァーの施設に預けた幼子を、サイドゥラの王は強奪した。ゆえに、ジェルマにとって魔族ジェマは同胞ではない。目覚めかけた炎は再び闇に呑まれ、サイドゥラで与えられたは、かれのうちに芽生えた理性に憎しみと狂気を積み重ねていった』


 ――悲劇のはじまりは、どこまで遡るのだろうか。




 ふつ、と魔力の干渉が途切れ、夢から覚めた気分でラディンは目を瞬かせる。変わらぬ様子で立つラヴァトゥーンと泣き崩れているクロノスの姿が、現実の光景として目に映った。

 魔法を維持するかなめなのだろうクロノスの集中が途切れてしまったから、共有も途切れてしまったのだ。


「……どうにかして、……助けられなかったのかな」

「過去は、変えられないですから、クロノス様。それでも……未来は変えられるんですよ」


 光の王は幼い唯一竜の隣へしゃがみ込み、ハンカチで涙を拭ってあげて、優しく頭を撫でている。彼自身もどこか泣き出しそうな表情で、それでもやはり穏やかに微笑む。


「過去の精算は、未来へ至る道のどこかで成すしかありません。ですから、続けますよクロノス様。……皆さんも、辛いと思いますが、あともう少し――頑張ってくださいね」


 なるほど、と、漠然とではあるが状況を把握した。

 ここにいる者たちは、大地蛇ミッドガルドの記憶を通して意識を共有しているのだ。だから、自分は知らない知識でも、誰かが知っていることであればわかるのだろう。


 クロノスが立ち上がり、再び魔法を展開する。先ほどと同じく意識が遊離する感覚にとらわれて、夢の中へと没入してゆく。

 彼が王の座を奪い、国を狂気に陥れ、国を滅ぼされ、封印されるまでの顛末を知る。




 石造りの塔の部屋。四角く切り取られた格子の窓、そこから見える空のひと欠片。

 与えられた世界はそれだけだったが、不満など何もなかった。


 それでも、胸に巣食った闇は夜も昼も囁きかける。――すべて、喰らってしまえ、と。


 滅びてしまえ。

 そう言葉に乗せれば、愉快な気分になった。だから、口元だけで笑ってみる。

 何もかも喪われればいい。

 呪うような戯言が、虚ろな意識に反響した。生あるもの、人の造ったもの、全部が壊れて消えてしまえば、きっと虚無のようにうごめくこの狂気は終わりに至るのだろう。


 死んだような時間をどれだけ、無為に過ごしたのか。

 変化は、白い闇とともに訪れた。


「さすがだわ、ジェルマ様。人間族フェルヴァーの警備兵が気づかなかった私の気配、眠っていても気づくなんて」


 凍り切った瞳の、白い女だった。銀のまっすぐな髪が、闇をはらんだ風に踊っていた。

 傷だらけの心に氷をまとい強がっているだけの、哀れな女だった。であれば、その正気こころを絡めとることなど造作もない。そう思ったら久しぶりにたのしくなって、わらう。


 扉が開け放たれ、自分を縛めていた鎖は砕けた。

 数十年ぶりの自由を得て、しかし闇に沈み切った心には何の感慨も起きなかったが。


 ただ、殺し、喰らい、滅ぼすだけのことだ。

 世界から生あるものがすべて、消えるまで――殺し尽くすために、生きる。それが、自分という狂気が在るべきただひとつの意味、なのだから。




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