[8-2]海歌鳥の竪琴亭にて


 日の落ちた時間に路地裏を、浮浪者同然の格好をした男とともに歩いているのだ。当然、夜回りの自警団に呼び止められたが、ここで海賊討伐のとき協力したことが功を奏した。


 コウモリの獣人族ナーウェア女性と優顔の魔族ジェマ少年は人間族フェルヴァーの国であるライヴァンでは印象的だったのだろう。

 彼らが自分たちの行動をどう解釈したかまでは知らないが、何か訳ありと思われたのは間違いない。それでも、挨拶と先日のお礼を言われただけで深く詮索されることはなかった。いわゆる顔パスというやつだ。


 そうして思いのほか順調に『海歌鳥セイレーンの竪琴』亭までたどり着き、エリオーネが事情を説明している間、ルインはラスリードと名乗った彼と一緒に、目立たない場で待機していることになった。

 何となく声を掛けづらく思いながらラスリードを観察していたルインは、ようやくその時、彼が右手首から先を失っていることに気がついた。思わず息を詰めた気配に、彼も気づいたのだろう。鋭い紫の両眼がわずかに和む。


「利き手がないと不便なものだな」

「え、と……事故ですか?」


 どう応じるのが正解かわからないまま、流れでそんなふうに聞いてみる。ラスリードは両目を瞬かせ、それから口角を上げた。


「捕えられた時に暴れすぎて、斬られたのだ。事故の一種かもしれんが、あれは本気で痛かったぞ?」

「うわぁ……痛そう」


 その痛みを想像してしまったルインは恐ろしさに涙ぐむ。

 適切な治療は受けられたのだろうか。このボロボロの格好を見るに、いい加減な手当てで済まされてしまったのではないだろうか。当の本人はけろりとした顔で「今は平気だ」などと言いながら、欠損した右腕をこちらに見せているが。

 よくわからない人物だ、と本気で思う。

 そうしているうちにエリオーネが戻ってきた。


「オルファとイルバートに事情を話してきたわ。……とはいっても最低限だから、余計なこと口走らないようにあんたたちは黙ってなさいよ」

「ああ、解った。私とて迷惑をかけるつもりはないさ」


 ラスリードの同意を確認してから、三人は『海歌鳥セイレーンの竪琴』亭の裏口へまわる。

 冒険者の宿は酒場も兼ねた宿泊所であり、今の時間は客で賑わう一番忙しい時間だ。それを押してまでもエリオーネが匿おうとする人物――思い当たるような気もするが、今は余計な詮索はやめておこうと考える。

 万が一秘密にと言われても、ルインはポーカーフェイスを保てる自信がない。

 エリオーネが扉をそっと開けると、中で待っていたらしいイルバートが出迎えてくれた。長めの後髪を革紐で括った黒い髪、機嫌よく笑みを映すダークグレイの双眸。今はもうはじめて会ったときと違い、親しみ深く接してくれることを嬉しく思う。


「よぉ、何か訳あり野郎を抱えてるって? ま、中入ってくれよ」

「ありがとう、助かったわぁ」


 オルファは今、店のほうが手を離せないのだと言う。それでも嫌な顔ひとつせず、イルバートは一階の自宅客間へと通してくれた。二階の宿部屋は利用客と鉢合わせる可能性があるため、だろう。


「姉御とルインは適当に寛いでてくれよ。あんたは風呂場案内するから、俺と一緒に来てくれな」

「解ったわ」

「ありがたい、よろしく頼む」


 それぞれが短く言葉を交わし、二人が部屋を出ていってから、エリオーネは疲れたようにため息を吐きだして、ソファに沈み込むように背を預けた。テーブルにポットがあったので、ルインはお茶セットを拝借して彼女に紅茶を出してやる。


「お疲れさま、エリオーネ」

「あら、ありがと。なんか、ようやく人心地ついたって感じだわぁ」

「それで、あの人は誰……って聞いてもいい?」


 自分のお茶も淹れて向かい側に腰を下ろし、ずっと聞きそびれていた疑問を口にした。

 エリオーネはティーカップを口元に運んだまま、小さく吐息をついたようだった。白い湯気がふわりと広がり、散ってゆく。


「あの人はね……ライヴァン帝国前王統の国王だった人。そして、ラディンの叔父さんなのよ」

「……えぇえぇ」


 思った以上に情報量が多かった。元国王が叔父さんということは、ラディンも自分と同じく元王族、ということになるのだろうか。ということは、陰謀の首謀者として話題に上ったディニオード公爵は、ラディンの……?

 脳内で情報の処理が追いつかず、ルインが固まったまま瞬きを繰り返していると、部屋の扉が静かに開いてオルファが入ってきた。


「オルファさん、店は大丈夫なの?」

「ええ、ちょっとだけ抜けてきちゃった。店の余り物だけど、良かったら食べて」

「わぁ美味しそう!」


 彼女が持ってきた大皿と提げているバスケットには、串に刺して炙った鶏肉やリザード肉、揚げた野菜、スライスされたチーズや燻製肉、そして焼きたてっぽいパンがめいっぱい載せられていた。ルインが瞳を輝かせている横で、エリオーネは申し訳なさそうに皿とオルファを見比べている。


「気を遣わなくってもいいのよ? 食材だってタダじゃないでしょ、ちゃんと請求書出して頂戴ね」

「いいの、いいの。皆さんにはコレくらいじゃ返しきれない恩を受けたもの。私は深夜まで手が離せないけど、必要なものがあったらイルバートに言いつけてね」

「もう、ソレはソレ、コレはコレだってのにぃ」


 急いで立ち去ったオルファを見送りながら、エリオーネは困ったように眉を下げる。どうしたものかと見ていると、視線を感じたのかこちらを見て、もう一度ため息をついた。


「冷めないうちにいただきましょ。食べられるときに食べておく、コレ、処世術の基本だから」

「うん、じゃ、いただきます」


 処世術ってそんなものだっけ、と思いながらも突っ込みは後回しだ。自分は夕飯を食べそびれているし、おそらくエリオーネだってそうに違いない。オルファへの借りは一旦置いておいて、今は食事にありつけるのが嬉しかった。

 冒険者の宿を経営しているだけあって料理はどれも美味しく、パンはほんのり甘味があって、疲れた心と身体を癒してくれるようだ。あれこれ言いつつもエリオーネだってかなり空腹だったのだろう。二人で黙々と食べているうちに、イルバートがラスリードを連れて部屋へ戻ってきた。


「足りなかったら持ってくるから遠慮なく言ってくれよ。あと、ほら見ろ、兄さん見違えたぜ!」


 こちらが迷惑をかけているというのに、イルバートも親切だ。促されて入ってきたラスリードの変わりように、ルインだけでなくエリオーネも驚いたようだった。

 顔を覆って表情を隠していた無精髭は綺麗に剃られ、伸び放題だった薄汚れた黒髪も短く切られて整えられている。衣服はイルバートの物を借りたのだろう、街人が普段着にするようなシャツと上着にスラックス。ベルトも靴も貸してくれたらしく、サイズぴったりとまでは言えないが、これなら街の中を歩いていても疑われることはなさそうだ。

 そうして改めて観察した彼の面差しは、なるほどラディンによく似ていた。


「へぇ、なかなかイイ男じゃない」

揶揄からかうのはせ」


 エリオーネの俗っぽい褒め言葉に、ラスリードが眉を寄せる。隣でやり取りを見守るイルバートは、クスクスと忍び笑いを漏らしていた。

 彼女は少しの間に、冗談を言い交わせるくらいには彼と親密度を深めていたらしい。なんだか複雑な気分に陥るルインだったが、二人は構わず話を続けている。


「ふふふ、冗談よ。それより、今後の方針を決めないといけないんだけど……」

「そうだな。ここまで世話になっておきながら何だが、おまえは聞かないほうがほうがいいだろうな」


 意味深な台詞ととも向けられた視線の意味を、イルバートは悟ったようだった。手に持っていたベルを扉に掛け、にこにこと手を挙げて言った。


「大丈夫だぜ、俺は深夜まで店でオルファを手伝ってるからさ。何かあったら、これを鳴らして呼んでくれたらいい!」

「ありがとう、ほんっと、恩に着るわ」


 オルファと同じように急ぎ足で部屋を後にした家主に、エリオーネは両手を合わせて感謝の意を示している。

 そんな彼女の様子に今から始まるのだろう不穏さを感じ取り、ルインは覚悟を決めなくては、とひっそり拳を握ったのだった。



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