[6-3]氷雪の宰


 狭い室内に突如、真白い風雪が吹き荒れた。尋常ならざる冷気が吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマとシャーリーアの間に割り込み、玲瓏れいろうたる声が響く。


「我が身に宿せし氷狼の契約をもって、応えよ氷雪のつかさ、フェンリル!」


 滅多に耳にすることのない、精霊王召喚の魔法語ルーンだ。突き刺さるような冷気に目を細めつつ、シャーリーアは吹雪をともなって眼前に現れた人物を凝視する。

 輝く銀の髪を背に流し、つり上がった灰色の目を険しくすがめた、狼の耳と尾を持つ若い男がそこに立っていた。人に準じた姿ではあるが本来のかたちは氷雪をまとう巨狼であり、普通に生きていてまみえることはまずない。


氷の精霊王フェンリル……」


 シャーリーアはぼんやりと呟く。驚きは、もうなかった。

 たとえ彼が通常の召喚で呼び出される分身などではなく、正真正銘の精霊王本人だったとしても、だ。


 この場に駆け込んできたのがクロノスであったなら、良かったのに。複雑な思いを胸中に渦巻かせながら、シャーリーアは声のした方に目を向ける。

 ほぼ同時に魔族ジェマの男も同じ方向を見、そして驚いたように声を上げた。


「おまえは、……ッ、だから抜け殻などさっさと焼いてしまえと言ったのだ!」


 レシーラは床に倒れ伏していた。その側にうずくまり、リーバの拘束を解いているのは、白翼の少年――いや、精霊?

 肩ほどまでの青銀の髪、狼の耳。背に持つ翼は雪のように真っ白で、翼族ザナリールのものとは違う。サファイアをはめ込んだような深青の瞳には見覚えがあった。


「……ニーサス?」


 なぜそう思ったのかは自分でもわからない。吸血鬼ヴァンパイアの男の台詞から無意識に推理したのかもしれないし、リーバを気遣う様子が重なったからかもしれない。

 呼びかけに応じて白翼の人物は顔を上げてこちらを見、それを引き金にしたかのように男が動いて窓の外へと身を踊らせた。追わねば、と一瞬思うが、自分には無理だし精霊たちは人を害するような行為はできないと思い直す。

 何にしても、時間稼ぎは成功したわけだ。

 フェンリルが一度瞬きをし、視線を白翼の彼へと転じる。


『なぜ、境界を侵したのだ?』

「申し訳ありません、精霊王よ。リューンは私のために、とがめを覚悟でこれをしたのです。彼だけに責めを負わせないでください」

『ふぅむ……』


 短いやりとりの中に具体的な情報は何もなかったが、シャーリーアはそれで全部を察してしまった。途端に突き上げてきたやるせない想いが、胸の中に苦いものを満たしてゆく。


魂抱きデュアル・ソウル、ですか」

「よく知っているね、その通りだよ。私は今、氷狼リューンの身体に間借りしている状態なんだ」


 魂抱きデュアル・ソウルは、水属最高位魔法の一つだ。

 人は死ぬと身体から魂が遊離し、地奥の精霊王・大地蛇ミッドガルドの元へと運ばれて転生のための眠りにつく。しかし、生前の未練が強すぎたり、身体が保存されている場合には上手く地奥まで行くことができず、歪んでアンデッド化したり、魂だけの状態でさまよって魔物に食われてしまうこともある。

 そうなってしまうと、転生することもできなくなってしまう。

 魂抱きの魔法は、死者の魂を保護し保存する魔法だ。術者の中に遊離している魂を取り込み、そのままの状態で安全に保つ。

 水属魔法に蘇生の魔法はないが、こうして蘇生可能な術者が見つかるまで完全な死を防ぐことができるのだという。


 しかし、実のところこの魔法は蘇生魔法より難易度が高い。

 そんな幻の魔法が氷の中位精霊である氷狼に属することをシャーリーアははじめて知ったわけだが、今は好奇心を満たす時でないともわかっている。

 だってつまり、ニーサスがそういう状態かたちになっているということは――、

 どうにも割り切れない気分を振り払うように、シャーリーアは二、三度頭を降って思考を切り替えた。氷の精霊王を呼び出したのはニーサスだ。儀式めいた魔法のやりとりの最中に自分が口を挟んでいいものではない。

 ニーサスもそれを察したのだろう、サファイアの瞳を再びフェンリルへと向けた。


『精霊の側から人に干渉するのは禁忌ゆえ、我らにできることは少ない。しかし、人が精霊を力として振るうのであれば……まあ、やってしまったものは仕方がないのでね。願いを述べよ、人の子よ』


 厳しいお叱りが待っているかと思いきや、精霊王の口から出たのはそんな同情的な言葉だった。ニーサスは一瞬驚いたように目をみはり、次いで切なげに笑って言った。


「はい、心得ております。フェンリルよ、どうか彼女の呪縛を解いてください。通常ではない呪いに掛かっているようなのです」

『呪い……か。困ったな、私は氷のつかさであるゆえ、解呪は専門外だ。頼むのであれば、光か無属の精霊でないと』

「そう、ですか……」


 精霊王が口の端をつりあげて笑う。きらりと光る鋭い牙がそうすると垣間見えた。

 精霊は魔法使いではないので、属する魔法を制限なく行使できる代わりに、専門外の魔法は一切扱うことができないらしい。氷に属する魔法は特殊なものも多いが、確かに解呪系のものはなかった。

 光だとすれば統括者ウラヌス、無属であればやはりクロノスだろうか。落胆を隠せない様子でうつむくニーサスが呟いたその時、いきなり部屋の扉が勢いよく開いた。


「シャーリィ! まだ無事っ、大丈夫!?」


 大声で叫んで飛び込んできた、なぜか女装姿の人物こそ、シャーリーアが待っていた時の精霊王だ。だが、部屋の状況を一望したクロノスはわかりやすく動揺したようだ。


「なっ……なんでここに、フェルがいるのっ」

『それはこちらの台詞だが、クロノスよ。あと、他人ひとの名を勝手に略するものではない』

「うぅっ、お願いフェル! このことはウラヌスに黙ってて……!」

『私は言いつけるつもりはないが、恐らく既にバレていると思うぞ』


 クロノスを観察していれば今さらな話ではあるが、精霊王たちも案外と人間味のある付き合いをしているらしい。

 世にも稀有けうな現象を目の当たりにしてもまったく驚けないことから、人は理解の範疇を超えたことが立て続けに起きると感性が麻痺するのだろう、たぶん。と、シャーリーアは冷静に分析する。

 中位精霊である氷狼、氷の精霊王、時の精霊王。ここまで集って、統括者が気づかぬはずがあろうか。


(ないな……)


 入り口で度肝を抜かれて立ちすくむモニカを見、困惑げにサファイアの目を瞬かせているニーサスを見、シャーリーアは心の中で覚悟を決めた。

 こういう予感はまず、外れたことがない。


 フェンリルを泣き落とそうとしていたクロノスが、恐怖に凍りついたような表情で顔を上げた。フェンリルが狼の耳をピンと立てて、目を上げる。

 気を失っていたリーバが、細く目を開けた。


 そして、太陽が瞬きしたかのような闇がわずかの時間、辺りを包む。さらりという衣擦れの音と、圧倒されそうに強い魔力的な圧と。

 クロノスが、あぁとかうぅとか聞こえる呻き声を漏らしている。


「精霊の会合でもあるまいに、何をやっている? おまえたち」


 闇を具現化したかのような漆黒の長髪、光を飲み込む鋭い双眸。闇色の衣を纏った精霊王の統括者は、先ほどと変わらない高圧的な口調で、部屋にいる全員を見渡したのだった。




 ***



 

 憎悪が意識を喰らう。向けるべき対象を持たぬソレは、燃え尽きることも出来ず、ただ己の中の正気だけを喰らい続ける。

 吸血鬼ヴァンパイアの男は、血の気が無くなるほどに強く唇を噛んだ。

 憎い。妖精族セイエスも、人間族フェルヴァーも、精霊も。自分の命そのものにすら嫌悪を覚えるゆえに、目に映る全ての命を砕いてしまいたいと思う。


 突然に、耳をつんざく絶叫が彼の意識を覚醒させた。

 ちょうど眼下で、彼の放った怪鳥が人間フェルヴァーの剣士に倒されたところだった。


 残酷な怒りが燃え上がる。紡ぎ出した呪詛は違うことなく剣士を捕らえた。彼の顔に浮かんだ驚愕の表情を見て、吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマは冷笑を口許に刻む。

 すべてを見届けはせずに、男は続けて移動の魔法を唱えた。


 ――そしてそれは、ギアにとっての幸運だったのだ。



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