2.帝国の若き王
[2-1]若き王の悩み
ライヴァン帝国は
フェトゥース=ロ=ラルヴァザートという名の彼は二十代半ば、王位を継いで三年目を越えたところだ。激しい気性で有名だった先帝とは異なり、物腰柔らかで眉目秀麗、ついでに独身ということで貴婦人たちからの支持は高いという。
しかし当人にしてみれば、身の丈に合わない評価など重圧の種になるだけで、今抱えている悩みの解決には役立ちそうにない。
生成色の紙面にペンを走らせながらも、フェトゥースの胸を占めているのは別の案件だ。それに気を取られすぎて、彼は文字の書き違いにも気づかずにいる。
そもそも、自分が本当に正しいことを書いているのか。
抱えている大きな厄介ごとに対しとれる手段を、フェトゥース自身は何一つ持っていなかった。だから、外部の手を借りようとしている。
その判断は本当に正しいのだろうか。
「父上……」
ため息混じりに声を押しだし、彼は顔をあげて壁に掛けられたポートレートに視線を向ける。名もなき画家が描いたとされるその絵には、
この絵が描かれたのは五年ほど前であり、このうち二人はすでにこの世にはいない。
「助けてください――」
声が届くはずがないのはわかっていた。死したのち、魂は地奥の
それでも、助けが欲しかった。
自分の情けなさに嫌気がさしてどうしようもなくなって、両手で頭を抱える。撫でつけるように纏めてある月色の前髪がパラリとばらけ、額に掛かった。
指から抜け落ちたペンが机上に落ちて、軽い音を響かせる。
子供のように大声を上げて、泣きたかった。
ぜんぶ投げ出してしまえばいいと、内なる声がささやく。それを、歯がみしながら振り切り、顔をあげたその時。扉をノックする音が響いた。
「――あ、」
不意を打たれて現実に戻りきれず、中途半端な声が口をつく。扉が開き、初老の男性が慌てて入ってくるのを確かめて、ようやくフェトゥースは安堵したように息を吐きだした。
「……ジェスレイ」
「陛下、大丈夫ですか? オールスはどこへ行ったのです」
「彼には、私が、資料を写してきてくれるよう頼んだんだ。心配ないよ、大丈夫」
心配そうに揺れる老騎士の視線が机上へ移る前に、書きかけの書類をつまみ上げて破り捨てる。驚いた彼が手を伸ばすも無視して、フェトゥースは紙くずと化したそれをゴミ入れに投げ込んだ。
「陛下、何を!」
「インクを染みさせてしまったんだ、そんなに怒るなよ」
甘えるような声音で視線を流せば、ジェスレイはうっと唸って言葉に詰まる。ペンを落とした拍子にインクが染みて書き直しになったのは嘘ではないし、内容についてもやはり考え直したいと思ったのだから仕方ない。
若輩の自分に何より足りていないのは、人脈だ。
手に余る案件について、しかるべき相手に相談を持ちかけるのは正当だ。しかしその相手は慎重に選ばねばならない。
国交が断絶している外国へ頼るのは、最終手段だ。
まずは彼らに頼ってみて、もしそれが
「それならば仕方ないとして、それは何の書類だったのですか?」
「考えを整理するため書き出してただけさ、もういいじゃないか。それよりジェスレイ、例の冒険者たちの様子は? 高位の
話題そらしとしてはあからさますぎたが、ジェスレイが来たのもその件だろう。騎士長は何か言いたげに眉を動かしたが、追及するのはあきらめたようだった。
「
「そうか」
時刻はすでに、昼に近い。朝早くから騒いでいたなら、さすがにもう食事は終わっているだろう。
「今なら時間も悪くないね。会いに行ってくるよ」
「国王陛下自ら、ですか!? それはなりません!」
「なぜ?」
慌てる騎士長に言うと、フェトゥースは執務机を立って扉へ向かった。止めようと割り込むジェスレイを押しのけて、にこりと笑顔を向ける。
「傭兵のくせに報奨金を辞退するなんて、元騎士か貴族だよ。それに、ジェスレイが信用できると判断したなら心配ないだろう?」
会ってみたいと思ったのだ。
彼らは追い詰められた自分にとって、
「フェト、どうしたの? まだ仕事の時間でしょ」
「イディ」
扉を出たところで、声をかけられた。質素な長衣に身を包み、深みのある
幼馴染みで年下だが、意志の強そうな
国王であるフェトゥースを愛称で呼ぶのは、城内では彼女しかいない。
そんな気安さと、わりと突っ走りがちになる危うさが、彼女の素朴な魅力に彩りを添えていた。フェトゥースにとって幼少時から付き合いの深い彼女は、数少ない心から信頼できる相手でもある。
「どうやら来訪者たちの事情も落ち着いたみたいだからね、会いに行ってこようと思って」
「ああ、あの人たちね? オールスをブン殴ったっていう強引な」
多少の誤解もあるのだろうが、彼女にとっての第一印象はあまり良くなかったようだ。
「さっき会ったけど、リーダーの人はともかく、あまり頼りにならなさそうよ。子供ばっかりで」
「僕はまだ会ってないんだよ?」
子供が多いのか、と、内心少しがっかりしながら応じると、彼女はクスリと笑った。
「悪い人たちではなさそうだけど、気をつけてね。……なにせ貴方は国王陛下なのですから、自分の身に危険が及ぶような軽率な行動は避けてくださいね」
後半がらりと口調を変えたインディアの様子に、思わず肩越しに振り返れば、そこには明るいスカーレットブロンドの髪を短く整えた、美貌の女騎士が立っていた。
「ドレーヌ?」
ドレーヌ=ヴェ=フィナンシェ、筆頭貴族の一人であり、次期騎士団長として最も有望な人物でもある。彼女が剣呑な光を映した深紅の瞳を巡らせ言った。
「ジェスレイ殿が心配して、私についていくよう仰ったのです。インディアの言う通り、貴方は一国を担う身なのですから、軽率な行動は慎んで下さらないと困ります」
「わかってるよ」
怒っているようなドレーヌに国王は苦笑に近い笑顔を向け、さりげなくため息をついた。
「心配性だなぁ、ジェスレイは」
彼女がもの言いたげに弓のような眉を跳ねあげるのを見て、フェトゥースは慌てて歩きだす。ジェスレイは自分に甘くてめったに怒ったりはしないが、彼女は怒ると結構怖い。
身分の壁を気にしないインディアにとっても、規律に厳格な彼女は天敵みたいなものらしい。
それでも、その厳格さは忠義の証でもある。
まだまだ若輩の自分にとって、彼女の護衛ほど心強いものはない。ドレーヌもまた、フェトゥースには数少ない信頼できる忠臣、なのだ。
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