第27話


         ※


 その日、俺は時間の感覚もなく、部屋から出ずに過ごしていた。その必要がなかったのだ。和也が去ってから気づいたことだが、枕元にはミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。やはりこれは、エレナの気配りだろうか?


 ちびりちびりと飲んだり、ボトルのリサイクルマークをぼんやり眺めたりしている間に、数時間が経過していた。

 日の差し込む確度が変わり、橙色から穏やかな朱色に変わっていく中、再び襖がノックされた。


「はい」


 ワンテンポ置いてから答えると、すっと襖が開かれた。そこにいたのは、エレナだった。夕飯ができたということを伝えに来たらしい。彼女が腕を振るってくれたとすれば、クオリティは保証できるだろう。


「分かった。ありがとう」


 俺は自分が落ち着いている、ということをエレナに(もしかしたら自身に)示すため、微笑んでみせた。それが上手くいったかどうかは、エレナのみぞ知るといったところか。

 エレナはショックから立ち直れないでいるのか、無表情のまま頷いた。


 俺が伸びをして出ていくと、食事は、俺が初めて寺を訪れた時の広い畳の間に用意されていた。俺が呼ばれたのが最後だったのか、憲明、和也、それにドクの視線が集中する。


「待たせたか、皆?」

「気にすんな、潤一。それじゃ」


 憲明が音頭を取り、皆で箸をつける。料亭料理のように台座が置かれ、その上に質素な料理が並んでいた。ただ、俺の舌がおかしくなっていたのか、エレナが調味料を入れ損ねたのか、とにかく味がしなかった。


 味覚の代わりに、俺は視覚に注意を払った。皆が食べ終わるタイミングを見計らう。この場で宣言する必要のあることだ。

 

「ドク、一つお願いしたいのですが」


 視線を合わせるドク。その目にはこう書いてあった。『君の言いたいことは分かっている』と。それから、無言で頷いた。


「俺に戦闘訓練を施してください」

「はあ!?」


 俺の言葉に身を乗り出してきたのは和也だ。憲明も箸を持つ手を止め、すっと背を伸ばして俺を見る。


「だ、だってジュン、RC発動中の君でも歯が立たなかったんだよ? 今戦おうったって……」

「親父はまだ、俺の回収を諦めていない。すぐにでもまた連絡を寄越すさ。それに、和也だって見てただろう? 俺は憲明からキックボクシングを習ってきたんだ。まだ戦える」

「で、でもジュン、今度は君も殺されるかもしれない!」


 既に食べ終わっていたドクは、咳払いをしてからゆっくり口を開いた。


「葉月くんの仇を討ちたいのかね? それとも、自分の父親を超えたいのかね?」

「分かりません」


 俺は左右に首を振った。


「理由なんて、どうでもいいのかもしれません。ただ、奴を仕留めなければ、俺はずっと逃げ続ける人生を送ることになる。それが怖くて、どうしようもありません」

「承知した」


 ドクは実にあっさりと了承してくれた。


「だが、君がRCを発動したら、私にも手に負えないぞ。どうやって訓練する?」

「RCは使いません」


 これにはドクも驚いたのか、片眉を上げてみせた。


「丸腰でいいです。でも、あなたに勝てる自信はありませんから、手加減は適当にお願いします」

「希望の日時はあるか?」

「できるだけ、早いうちに」


 無言で頷くドク。


「今日は休ませてもらいます。ドクさえよければ、いつでも俺を呼び立ててください」


 そう言い終えるまでに、俺は皆に背を向けていた。


         ※


「早いうちにとは言ったが、約束した翌日に、君の方から訪ねてくるとはな」

「ええ。寝付けなかったもので」


 翌日の午前五時半。

 俺はドクのいる通信室に顔を出し、ドクに戦闘訓練を要請した。今俺たちが立っているのは、俺が初めてこの寺に来た時、ドクにボコボコにされた裏庭だ。いつの間に聞きつけたのか、憲明や和也、エレナまでもがそこにいた。


「では、始めよう」

「お願いします」


 俺が言い終えた直後、ドクの姿が霞んだ。速い。はなから手加減するつもりなどなかった、ということか。しかし俺は、視界の中央にドクの姿を捉え続けた。そのくらいは、RC抜きでもできる。


「ふっ!」


 すぐさま腕を上げ、両側頭部をガード。直後、俺の左腕に鈍痛が走った。痛みを感じた時には、既に殴り飛ばされている。しかし、俺はごろりと一回転し、ドクから距離を取って連打を回避した。


「戦いというものに慣れてきたようだな、潤一くん」


 その動作だけで、ドクには判断できたのだろう。なら、こちらから仕掛けても問題はないはずだ。守るだけでなく、攻める自分自身というものも試したい。

 俺は短く、雄叫びを上げた。


「おおっ!」


 同時に勢いよく踏み込む。ドクもまた、腕を振りかぶりながらこちらに突進。互いの身体が、激突した。


 どのくらいの時間が経過したのか、さっぱり見当がつかない。気づけば、俺は泥の中に突っ伏していた。初めてドクと戦った時と同じだ。

 しかし、今は決定的な違いがある。ドクもまた、息を切らしているということだ。


 しかも、俺はまだ、自力で立ち上がることができる。

 ドクは姿勢こそ崩さなかったが、禿頭の頂点や眉の上、首筋など、見えるところは汗だくだった。


「ま、まだだ……。まだ終わりじゃない……!」


 俺はできる限り睨みを利かせ、ドクを真正面に捉えた。腕は満足に上がらず、足元も覚束ない。それでも、『もう諦めよう』とは思わなかった。

 母さんのために、葉月のために、俺は親父を打ち倒さなければならない。そのためなら、この身がミンチにされても構わない。


 そんな俺の気持ちをくみ取ったからか、ドクはすっと右腕を上げ、掌をこちらに向けた。


「ここまでだ、潤一くん」

「まだ戦えます!」

「君の気持ちはよく分かった。だから、これ以上自分の身体を酷使するな。いつ佐山博士の消息を掴めるのか分からんのだ」


 俺が唇を噛みしめた、その時だった。


「そうだ、止めてくれ!」


 ギャラリーから声が上がった。和也だ。


「葉月が言ってたよ、ジュン。お父さんだけでなく、君までも人体実験の素材にさせるわけにはいかない、って。そのためには、僕たちの手で君の父親を倒すしかない。研究を断念させるしかないんだ」


 俺は黙って和也と目を合わせた。そのままだらり、と両腕を下ろす。


「葉月が、そう言ってたのか」

「それが最期の言葉だったよ」


『そうか』という呟きが、口から零れた。


「分かった。しばらく安静にする。葉月に誓って」


 そう言うと、和也は微かに口元を緩め、頷いた。

 ドクに今日の礼を述べて、その場を後にする俺。誰も俺を引き留めようとはしなかった。


         ※


 俺はシャワーを浴びながら、和也の言葉を思い返していた。


『それが最期の言葉だったよ』


 頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、口から泥を吐き出しながら考える。

 俺を、親父の研究の被験者にするわけにはいかない。その遺志を伝えるのに、葉月は俺ではなく和也を選んだ。何故だろう?

 和也を相手に根掘り葉掘り尋ねるつもりは毛頭ない。だが、考えてみれば――。


 きっと葉月は、俺のことをひどく心配していたのだろう。それはそうだ。スーツをまとった親父に、俺はあれだけコテンパンにやられたのだから。

 だが、そんな心配事を露わにするのに、俺が相手では不都合があったのかもしれない。


 心配するというのは、自身の心中にある弱音を吐露する行為に他ならない。そんな弱さを、葉月は最期まで俺には見せたくなかったのだろう。まったく、頑固なものだ。

 文句の一つも言ってやりたいが、残念ながら俺に葉月と意思疎通を図る手立てはない。魂というものが仮にあったとしても、肉体を持つ者と、魂だけの存在になってしまった者との間には、永遠にも近い隔たりがある。

 そのくせ、隔たりの向こう側の風景は見えるのだ。葉月の凛々しい口調、激情に揺れる瞳、そこから零れ落ちる涙、そして笑顔。


 なんの障害もなく、葉月のことを思い描けることに、俺は我ながら驚いていた。それだけ俺は、彼女への想いを募らせていたのだろうか。一体いつの間に? 

 いや、そんなことを考えるのは止めにしよう。葉月は二度と、口を利いてはくれないのだ。


 俺はキュッ、とシャワーを止めて、脱衣所へのドアをスライドさせた。


 身体を拭き、下着と薄手のジャージを無造作に身に着け、畳の間に戻る。

 そこにいた人物とその挙動に、俺は思わず顔をしかめた。


「憲明、何やってるんだ?」

「見て分からねえのか? ガトリング砲の整備だ」

「それは分かる。親父に通用しない武器を、どうしてメンテしてるんだ?」


 憲明は顔を上げようともせず、淡々と作業を続ける。


「憲明、お前は――」

「俺も連れていけ」


 その一言に、俺はドン、と胸を突かれるような驚きを覚えた。


「別に潤一や和也ほど、葉月に入れ込んでいたわけじゃねえがな。それでも仲間がくたばったってのは、そうだな、寝覚めの悪さの原因になる。仇を討たねえと」


 はっと正気に戻った俺は、『断る』と一言。すると憲明は、ゆっくりと顔を上げた。


「誰がそう決めたんだ? てめえは俺より偉いのか? 次期リーダーがお前だと決まったわけじゃねえぞ」


 静かな語り口だったが、そこには確かな怒りが込められていた。だが、それでも俺は『断る』と繰り返した。


「これは俺と親父の問題だ。誰にも横槍を入れてもらいたくはない」


 すると憲明は目を見開き、まじまじと俺の顔を見て、


「一ヶ月前とは大違いだな」


 と呟いた。


「何が」

「何がって、そりゃあ『何か』としか言いようがねえよ。俺はお前の心を読めるわけじゃない」


 再び俯く憲明。だが、整備の手は止まっている。


「俺と和也で、お前を次の決戦場まで護送する。せめてそのくらいは手伝わせろ。誰にも邪魔はさせねえ。これで満足か?」


 俺は首肯した。憲明にも見えるように、しっかりと。

 感謝の言葉を述べるのももどかしく、俺はすぐに自室へと引っ込んだ。俺は仇討ちを任されたのだ。きちんと作戦を練らねければ。

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