第26話

「和也くん」


 息もできないような沈黙を破って、ドクが口を開いた。


「葉月くんは、もってあと十分というところだ。彼女は君と話したがっている。手術室への入室を許可するから、早く話を済ませるといい」


 憲明が雷に打たれたかのように、はっとして振り返る。


「だ、だがドク、葉月は……」

「早くしろ、和也!!」


 ドクが怒りを露わにするのを、俺は初めて見た。いかに彼の胸中が荒波立っているか、痛いほど伝わってくる。

 和也はふらり、と立ち上がり、何かに憑りつかれたように手術室へと入っていった。


 これには憲明も冷静でいられなくなったのか、俺に一瞥をくれてから、


「いいんですか、ドク? 葉月が想いを寄せてるのは和也じゃない」


 と問うた。

 すると、ドクは腰に手を当て、大きなため息をついた。喉を震わせながら零れていく吐息。これほど深く、冷たいため息は聞いたことがない。深い海の底から、空気の塊が浮かび上がってくるようだ。


「これでいい。これでいいんだよ、憲明くん。メンバーの喪失を経験したのは、君だけじゃない。それに、和也くんや潤一くんも経験しなければならない。自分たちの死傷について、覚悟はしていたんだろうからな。私にできるのは、君たちの心の傷を、いかに浅く済ませるかだ」


『私も聡美くんの死を乗り越えるのは簡単ではなかった』と、ドクは呟いた。その声は、背筋がぞっとするほど弱々しい。たった今、あれだけの怒号を上げたのと同じ人物の声だとは思えない。


 それからドクは手術着のまま、腕時計に目を遣った。それを認めて、俺も俯く。しかし、今度の沈黙は、驚くほど早く過ぎ去った。


「十分経ったな」


 ドクはそう言って、手術室のスライドドアを開いた。ちょうどドアの真正面から、室内の様子を窺うことができる。

 そこに立っていたのは、完全に脱力しきった和也だった。力がないのは身体だけではない。魂も心も、根こそぎ奪われてしまったようだ。

 和也は重力に引かれるがまま、前のめりに倒れ込む――かと思いきや、その勢いで俺に殴りかかってきた。


 叫び声はない。怒号も飛ばない。俺が防御策を講じることもない。しかし、和也の拳が当たることもなかった。俺の頬を掠りもせず、背後の壁にぶち当たる拳。そこに大した力が込められていないのは明らかだ。


「ジュン、君は……君はもっと、葉月を幸せにしてあげられたんだ。それなのに、どうして……」


 無造作に言葉をぶつける和也。だがその問いかけは、俺に向かったものではない。


「ドク、どうして僕だけに、葉月を看取らせたんですか」

「言っただろう、葉月くんが話し相手に君を選んだからだよ。私が直接、葉月くんから告げられたんだ。和也くんと話がしたい、とね」

「馬鹿な!」


 和也はドクに向き直った。涙の飛沫が宙を舞う。


「自分が死ぬなんて時は、一番大切な人に看取ってもらいたいはずだ! 僕じゃない、あなたでもない、ジュンに……潤一に別れを告げたかったはずだ!」

「本当に、そうかな? 彼女が、そう言ったのか? 同じ修羅場に立っていたからと言って、死生観まで一緒だ、とは言い切れないんじゃないか?」


 ドクは辛うじて、冷静さを取り戻したらしい。しかしその言葉はつっかえつっかえで、喉元でひどい渋滞を起こしていた。

 それでも、何も言い返せなくなったのか、和也は袖で顔をぐいっと拭い、ドクに背を向けた。そのまま駆け出そうとして、足を絡ませて壁に寄りかかる。


「か、和也?」


 俺が呼び止めようとすると、和也はがばりと振り返った。


「馬鹿! 馬鹿ばっかりだ! お、お前ら皆、薄情者だ! 人の命のことを、なんとも思っちゃいないんだ!」


 と喚き立て、滅茶苦茶にあちこちを指差し、視線を突き立てた。

 三度振り返った和也は、今度こそ廊下を駆け出し、廊下を曲がって消えた。


 呆然と佇んでいた俺たちの中で、始めに正気に戻ったのは、思わぬ人物だった。

 後ろからくいくい、と袖を引っ張られる。この感覚は。


「どうした、エレナ?」


 俺は背を向けたまま、声をかけるに留めた。今の自分の顔を見られたくなかったのだ。すると突然、不自然に冷たいものが掌に押し当てられた。缶ジュースの類だ。


「ああ……」


『ありがとう』と口にしようとした頃には、エレナは俺を追い越し、背を向けていた。ドクや憲明にも缶ジュースを差し出している。ドクは『すまない』と告げ、憲明は鼻をすすって顔を逸らしながら、エレナの頭をくしゃくしゃっ、と撫でた。

 その後、俺たちが解散するのに、そう時間はかからなかった。


         ※


 これだけのことがあったのに、あっさりと眠りに落ちてしまったのは、俺が本当に『薄情者』だからだろうか。RCを限界まで使用し、体力も精神力も消耗しきっていた、というのは、ただの言い訳だろうか。葉月への想いはその程度だったということだろうか。


 とにかく、俺は目を覚ました。どこにいるのかは、不思議と把握している。臨時にあてがわれた寺の中の一部屋だ。縁側から差し込む日光は、木々の間を通ってきたからか、穏やかさと清涼感の両方を帯びていた。


 だが、俺が目を覚ました原因はそれではない。襖を叩くノックの音が、俺の意識を混沌から引き揚げたのだ。


「ん……」


 枕元のスマホを手に取る。既に正午を回っていた。そこまで確認してから、俺は『誰だ?』と言葉を投げた。


「ジュン、僕だ。和也だ。入っても、いいかい?」


 布団から身を起こし、十畳ほどの畳の間を見回す。壁も天井も、美しい木目に彩られている。

 ぼんやりそれを見回しながら、俺は『ああ』と気の抜けた返事をした。


 するり、と襖が開き、和也がゆっくりと入ってきた。それと同時に、和也は再び問うてくる。


「起こしてしまったかい?」

「いや、気にしないでくれ」


 どちらとも取れる受け答え。だが、これ以上寝ていてもしょうがなかったのは事実だ。

 すると和也は、俺からやや距離を取って、正座をした。俺も反射的に、布団の上で居住まいを正す。


「昨日は、ごめん。君たちを『薄情者』だなんて言って」

「ああ」


 俺は必死に頭を回転させたが、出てきたのはそんな間抜け声だった。

 ん? 今和也は『君たち』と言ったな。憲明やドクには謝ったのだろうか。疑問が顔に出たのか、和也は先回りしてこう答えた。


「他の皆には、まだお詫びをしていないんだ。どうしても、君に真っ先に謝るべきだと思って」


 俺は沈黙し、しかし和也の言葉を促すでもなく、ぼんやりと思考を巡らせた。

 和也は安心してくれたのか、隻眼で俺を見上げてきた。


「君は僕たちを逃がそうと必死に戦ってくれた。薄情者なんかじゃない」


 俺が親父と戦っている最中の、『逃げろ』という警告が聞こえていたのか。なら、よかった。


「でも、葉月は死んでしまった」


 俺は自分でも信じられないほど、弱々しい声でそう言った。昨日の和也の言葉が甦る。『君なら葉月をもっと幸せにしてあげられたのに』と。


「ジュン、僕がここに来たのは、もう一つ理由がある。知っていたら、教えてほしい。どうして葉月は、自分の死を看取る人間として、僕を選んだんだろう?」

「そう、だな」


 僕は顎に手を遣った。考え込むつもりだった。しかし、脳裏に去来したのは、そんな冷静な思考ではなかった。


 葉月、答えてくれ。

 今、この瞬間ほど、お前を想ったことはない。失って初めて気づかされた。

 こんな馬鹿な俺が、言えた筋合いじゃない。だが、和也はずっと、自分にもお前にも嘘をつかずに、お前のことを想っていた。せめてこいつにだけでも、何かを悟らせてやってくれ。


 当然、葉月の声が天から降ってくるはずもなく、気づけば俺は俯いてしまっていた。

 これではいけない。和也の辛さを分かち合うくらいのことはしなければ。


 俺が顔を上げた時、和也はじっと俺を見つめていた。目は未だに充血していたし、突然頬がこけてしまったかのように見えたけれど、それでも強い意志を感じさせる目つきだった。


「もしかしたら」


 和也が口を開く。対する俺は沈黙を貫いた。


「もしかしたら、葉月が一番、子供っぽかったのかもしれないね」

「子供、っぽい?」


 頷く和也。


「確かに、僕も憲明も、ジュンのことは助けたかった。けれど、実際に行動に出たのは葉月だけだ。あんな危なっかしいこと、本気で好きな人のためでなきゃ、できるわけがない」


『葉月流の愛情表現だったのかもしれない』――その言葉に、俺は胸がぐらぐらと揺さぶられるのを感じた。


「自分の命を捨ててまで、守りたい人がいただなんて、羨ましいよ、僕は。ジュンのことも、葉月のことも」


 並列された俺と葉月の名前。それを耳にして、ようやく俺は気づかされた。

 和也の言う通り、俺は葉月を幸せにしてやるべきだったんだ。RC以外でも自分を鍛えて、心を整えて、彼女の想いを受け止めてやるべきだったんだ。


「ごめんね、ジュン。また話に来るよ」


 そう言って、和也は来た時同様、静かに退室していった。

 まったく、気の利かない奴だ。そんなに静かに出て行かれたんじゃ、俺の漏らす嗚咽が聞こえてしまうかもしれないじゃないか。


「葉月……」

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