第17話

 外に出てみて、いつの間にか天候が変わっていることに気づいた。随分、薄暗くなっていたのだ。先ほど、寺からエレナを連れて運転してきた時は気にも留めなかったが、どうやらこれから天候は下り坂らしい。


 この前と違い、空気は嫌な湿気を含んでいた。俺たちを、心理的にげっそりさせるような気配がある。こんな灰色で埋め尽くされた空を見つめていては、誰しも気が滅入ってしまうだろう。


 次の作戦概要が決まったこともあり、俺の胸中は穏やかならざるものだった。普段なら、興奮して活力が湧いてくる感じを覚えるものだ。しかし、それと反対の気持ちもまた、心の半分を占めている。見れば見るほど英気を吸い取られるような、悪天候によって。


 精神的に疲れていると、天候によって気分が左右されてしまうということは知っている。だが、自分がそこまで追い込まれていることを実感したのは初めてだ。


「親父のことかな……」


 ハンドルを握りながら、ぽつりと呟く。皆に混乱を持ち込まないために、敢えて伏せていたのだが。

 今回の作戦で、親父が生きていることが発覚したら? そして親父が、ダリ・マドゥーに関係のある人物、もしかして協力者だったとしたら? 俺は一体、どうなってしまうのだろう。


 そんなことを考えていると、左腕に違和感を覚えた。横目で見ると、エレナが俺のシャツの袖を引いていた。


「どうした?」


 前方に注意を払いつつ、エレナの方をちらりと見遣る。その顔には、以前にも増して心配の色が浮かんでいた。


「俺が親父の話を皆の前でしなかったことを気にしてるのか?」


 控え目に顎を引くエレナ。


「それは俺個人の問題だ。皆を巻き込みたくはない」


 その言葉に、エレナはますます表情を曇らせた。その薄暗さといえば、今の曇天といい勝負だ。


「大丈夫だよ、自信はある。親父がどこで何をやってるかは知らないが、これは俺の戦いなんだ。お前や葉月たちの手は煩わせないよ」


 そこまで言ってはみたものの、エレナは余計に顔をしかめるばかり。俺はもどかしくなって、『一体何が気になるんだ』と尋ねようとした。が、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。

 もしかしたら、エレナは俺自身の心配をしてくれているのではなかろうか。


 そんなことで脳みそを回転させているうちに、車は山道に入り、寺の入り口に停車した。


「じゃ、今日はここでさよならだな、エレナ。俺は車を変えてから帰るよ」


 俺は寺の裏手に車を回し、色違いのミニバンを選んで鍵を拝借。しかし、ドアを開けて乗り込もうとした時に、サイドミラーに人影が映ったのに気づいた。エレナだ。雑草を踏み分けながら、こちらに近づいてくる。


「エレナ、一体どうし――」


 と言いかけた瞬間、俺の背後に腕が回された。華奢な体躯のエレナからは想像できない、凄まじい圧力で。同時に、彼女の頭部が俺の胸にコクン、とぶつかる。

 エレナの身体は、震えていた。それでも、まるで岩場を腕だけでよじ登ろうとするかのように、ぎゅっ、ぎゅっと繰り返し俺のシャツの背部を握りしめてくる。


 俺は言葉を失っていたが、エレナもまた言葉を発することはできない。俺はただただ呆然と、立ち尽くすしかなかった。


 その体勢を崩したのは、雨粒だった。


「おいエレナ、降ってきたぞ。こっちへ」


 俺はエレナの両肩を掴み、半ば引っ張るようにして寺の軒先に入った。ようやく気が済んだのか、エレナは両腕を放し、俺から一歩、後ずさる。しかし、まだ肩を震わせていたし、その目は真っ赤に充血していた。

 今更ながら、俺はエレナが泣いてことに気づいた。まったくどこまで鈍感なのかと、我ながら呆れ果てる。

 せめて、宥めてやるのが俺の務めだろう。俺は立ったまま両膝に手をつき、エレナと目線を合わせた。


「俺のことを心配してくれてるのか?」


 頷くエレナ。同時に、新たに浮かんでいた涙がつつっ、と彼女の柔らかな頬をなぞった。


「大丈夫だよ」


 そう声をかけてはみたものの、エレナは顔を上げない。今度は拳を握りしめ、膝まで震わせている。その雰囲気からして、彼女は怒っているのかもしれない。しかし、何に対して怒りを覚えているのだろう。


 安心感を持たせようとして、下手のことしか言えない俺に対してだろうか?

 それとも、口を利くことのできない、自分自身に対してだろうか?

 もしかして、こんな戦いに身を投じなければならない、理不尽な現実に対してだろうか?


「大丈夫だって」


 これ以上、言葉を尽くしても無駄だ。俺は笑顔を作ろうとして、見事に失敗してしまった。自覚がある。まあ、成功していたとしても、エレナは顔を上げてはくれなかっただろうが。


 俺は一度、ゴクリと唾を飲んでから、そっと、エレナの銀髪に掌を載せた。軽く撫でてみる。すると、エレナははっとして目を上げた。それほど俺の行動が予想外だったのか。確かに、俺も緊張しっぱなしではあるが。


「あっ、ごめん。嫌、だよな。こんな綺麗な髪を、俺みたいな朴念仁に触られるなんて。それも、人殺しの手だし」


 俺がそう言い切ると、エレナはそっと俺の手を取って、自分の両手で包み込んだ。

 次の瞬間、思いがけないことが起こった。エレナが、ふっと口元を綻ばせたのだ。

 完璧な笑顔には程遠い。頬は不自然なほど赤いし、涙は流れ続けているし、鼻をすすり上げているし。

 それでも、こんな穏やかな笑みというものを、俺は初めて見た。

 もしかしたら、後方支援要員として、前線に立つことができないエレナならではの感情表現だったのかもしれない。

 いざという時に、他人の心配をすることしかできないもどかしさ、焦燥感たるやいかほどのものだろう。前衛で身体を張る俺には、想像のつかない苦痛ではあるまいか。


 そんなことを考えていると、ふっと横合いから光が差した。雨がやみ、雲の切れ目から日光が降り注いできたのだ。

 それを合図にしたのだろう、エレナは俺の手を離し、両手を自分の背後で組んだ。

 まだ涙は乾ききっていない。しかし、エレナはいつもの神経質な顔つきに戻り、軽く手を振った。


「おう、それじゃ」


 軽く手を上げてみせてから、俺はミニバンに乗り込み、エレナに見送られながら寺を後にした。


         ※


「ただいま~っと」


 俺がアジトに戻ると、その内部はしん、と静まり返っていた。食堂まで歩を進めるが、誰の姿も見えない。俺は壁際のホルダーに鍵を戻し、あたりを見回した。誰かがやってくる気配もない。


 音のないため息をついて、考える。エレナのことだ。俺はエレナに心配をかけながらも、あれほど慕われている。だから俺は、死ぬわけにはいかないと、強く実感させられた。

 俺に限らず、誰かが命を落とすことを防ぐには、チームワークを立て直す必要がある。これはドクからも、個人的に要請されたことでもある。

 それには葉月や和也と話をする必要があるだろうし、この三角関係の外にいる憲明の協力を仰ぐ必要もあるだろう。


「さて、と」


 俺はまず、葉月と話をしようと決めた。和也よりは、まだ大人びていると思ったからだ。俺がいくら鈍感でも、葉月は噛み砕いて説明してくれるだろう。自分の気持ちがいかなるものか。


 しかし、俺が葉月の部屋のある方へ足を向けた、その時だった。

 勢いよく、ドアが向こうから勢いよく押し開かれた。


「憲明、お前には関係ない!」


 葉月が飛び出してきた。ずんずんと食堂中央へと歩いてきて、机に両腕をつき、大きなため息をつく。


「あ、あー、葉月?」

「ッ!」


 ようやく俺がいることに気づいたのか、葉月は慌てて身を引いた。いつものサングラスはかけておらず、顔は軽く上気している。


「悪い佐山、車のキー、貸してくれ」

「お、おう」


 俺は言われるがまま、先ほどのミニバンの鍵を取って放り投げる。葉月はそれをキャッチして、すぐに玄関ドアを開き、俺の視界から消えてしまった。


「お姫さんを怒らせちまったな」


 そちらを見ると、憲明が壁に体重をかけて立っていた。肘を当て、その拳を側頭部に当てている。


「何があったんだよ?」

「説得だ」

「説得?」


 すると憲明も、葉月に負けず劣らずの大きなため息をついて、かぶりを振った。何を話し合っていたのか、尋ねる必要もあるまい。十中八九、三角関係のことだ。


「俺だけじゃ荷が重い。潤一、和也はお前に任せる」

「え、『任せる』って……。和也からしたら、俺は恋敵だぞ?」

「だから、俺一人では、葉月と和也の世話はできねえんだって。お前も三角関係の一端なんだから、手伝え」

「どうやって手伝えと?」

「ま、話でもしろ」


 どこから取り出したのか、憲明は缶の炭酸ジュースを放り投げてきた。ややぬるくなっている。


「差し入れだ。和也にくれてやれ」


 それだけ言って、憲明は肩をぐるぐる回しながら、廊下の向こうへと姿を消した。

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