第15話

「畳の間でコーヒー、というのも奇妙な取り合わせだがね」


 そう言って、ドクは俺にマグカップを差し出してきた。あぐらをかく俺の前で、正座で向かい合うドク。その所作は落ち着き払っていたが、その胸中に穏やかならざる気配があることを、俺は察することができた。


「俺たちのチームワークが緩んでる、ってことが問題なんでしょう?」

「そうだ。まさにそう言おうと思っていたところだよ」


 ドクは驚いた素振りを見せない。そのまま、俺に視線を注いできた。コーヒーの水面に映った自分の顔を見ていた俺は、ゆっくりと顔を上げてドクと向き合った。


「君の父上の話を棚に上げる形になって、大変申し訳ないがね」

「いえ」


 その時の俺は、我ながら信じられないほど落ち着いていた。きっと、問題として等価値だと考えていたのかもしれない。『父が何か怪し気なことを行っている』ということと、『グループのチームワークが崩壊している』ということが。


「今話しておきたいのは、私の危惧と後悔だ。本来なら、葉月くんを呼びつけるのが筋だろうが、彼女よりも君の方が冷静な対処ができると思ってね」

「ドクが心配なさるのは分かります。やはり昨日の、土田の身柄を押さえる作戦が失敗したことが原因ですか?」


 一旦喉を潤してから、ドクは『そうだ』と言って、言葉を続けた。


「一番象徴的な事態だったよ、あれは。それを語るにあたって、少しばかり私の過去を話したいのだが、構わないかね?」

「はい」

「敢えて名は挙げないがね、私は某国――大変貧しい発展途上国で、兵士として戦っていた。もっとも、衛生兵だったが」


 驚いた。まさに彼は『ドク』だったわけだ。本名や本国籍に興味が湧いたが、今は黙っておく。


「衛生兵が一人やられれば、周囲の味方がまるごと危険に晒される。場合によっては、一ダースもの歩兵が道連れに遭う。それほど、衛生兵は重要な要素なんだ、戦争においてはね」


 ドクは一旦、言葉を切った。緊張感のうねりが弱まるを感じて、俺は隙を突くように、自分のマグカップに口をつける。酷く喉が渇いていることに、俺はようやく気づいた。


「自画自賛になってしまうが、私はなかなか優秀な衛生兵でね。救った味方の数は百数十名にも及ぶだろう。それ故に、私は除隊が許されない状況に陥ってしまった。軍が認めなかったし、私自身も味方をもっと、もっと救いたいと思っていた」


 ふっと、ドクの目が細められ、俺の視線から離れた。その向こうに浮かんでいるのは、ジャングルだろうか、荒地だろうか。いや、銃痕だらけの市街地かもしれない。


「だが、私の心の奥底からは、悲鳴が上がっていた。衛生兵というのは、なかなか精神的に堪える宿命にあるようでね。味方の血飛沫を被ったり、剥き出しの内臓を押さえたり、骨をずらして血管を繋いだり。思い出すのは、そんな悲惨な光景ばかりだ」


『そして私は逃げ出したんだ』と、苦虫を噛みしめるような顔で続けるドク。


「ある晩、私は軍から脱走した。これ以上は耐えられなかったんだ。兵士たちが、とりわけ少年兵たちが絶命していくのは、もう見ていられなかった。逆のことにも、私は気づいていた。大人たちが、金や麻薬、美術品などで、互いを買収しているということに」

「だから大人を信用できなくなって、俺たち子供に戦ってもらうことにした、ということですか」


 するとドクは、頷いてみせてから、ゆっくりと手を畳につき、綺麗なお辞儀をした。


「ど、どうしたんですか?」

「誠に申し訳ない」


 その動作は気品に溢れていたが、声はどこか苦し気だった。喉を酷く圧迫されているかのように。その姿勢を崩さずに、ドクは声を絞り出す。


「軍を抜けてから、私はいろんな国の諜報機関を転々とした。暴力的な手段によるところもあったが、基本的にはスパイだ。私は求めていた。自分たちの正義を信じられる組織、というものを。だが、そんなものは存在しなかった。必ず、どこかに綻びが生じる。綻びとは――」

「金や麻薬や美術品で、裏取引をする連中のことですか」


 そこでようやくドクは顔を上げた。俯きがちに、小さく頷く。


「それに比べ、子供たちは純粋だ。仲間を金品のために裏切るようなことをしない。そこで思いついた。子供たちとともに、平和を守ることはできないかと。そこで希望が残っていたのが、この国、日本だ。治安は安定しているが、テロリストの流入に喘いでいる、そんな状況だったのでね」


 そこで言葉を切り、ドクは再び頭を下げた。


「潤一くん、君はもう気づいているだろう? 少年兵の悲惨な実情に背を向けた私が、今度は君たちに戦いを強いているということを。悪く言えば、私は君たちを、自分の理想のために駒として扱っているんだ。ここで君に殺されても、文句は言えまい」


 畳についた手を、ぎゅっと握りしめるドク。袖口から汗が流れてきて、つつっ、と畳に吸い込まれた。


「顔を上げてください、ドク」


 俺は毅然とした態度を意識して、ドクが顔を上げるのを待った。ゆっくりと正面に戻されるドクの顔。それは、苦悶に歪んでいた。本気で、今ここで俺に殺されるのを覚悟しているのだろう。だが、俺にそんな気は毛頭なかった。


「確かに、俺たちは命を張って戦っています。ですが、それは自分たちの復讐を遂げるためであって、誰もドクに利用されているなんて思っていません。泣き寝入りするしかなかったはずの俺を、復讐の部隊に引き上げてくれたのはあなたと葉月だ。感謝しこそすれ、恨んだりはしませんよ」


 事実を述べてフォローしようとした俺だったが、その前でドクは、余計に皺を深くした。


「そうか」


 そう短く呟いて、ドクは立ち上がった。


「コーヒーを淹れ直そう。冷めてしまっただろう?」

「ああ、いえ」


 俺は中途半端な返事をしつつ、手元のコーヒーを一気に飲み込んだ。そしてマグカップをドクに手渡す。


「少し待ってくれ」


 正座し慣れているのだろう、ドクは足の痺れを訴えることなく、その場で立ち上がり、キッチンと思しき部屋に通ずるドアの向こうに消えた。


         ※


「すまないね、待たせてしまって。いい豆を切らしてしまった。インスタントだが、構わないかね?」

「あっ、はい。いただきます」


 再びマグカップを受け取る俺。そうか、やたら美味いと思ったら、さっきのコーヒーは豆から挽いていたのか。

 再びコーヒーの液面を覗き込む。不思議とそれだけで、気持ちが落ち着いた。今はドクの顔より、魂の抜けたような自分の顔を見ていた方がいい。


 ドクの過去と覚悟の程は、今すぐ、俺一人で受け止められるものではない。だったら、もう一つの問題――俺たちのチームワークの話に集中した方がよさそうだ。


「ドク、俺が呼ばれたもう一つの案件ですが」

「ああ、そうだったね」


 そう言いながら、ドクは顔をしかめた。コーヒーが口に合わなかったらしい。コトリ、とマグカップを畳に置いて、ドクは語りだした。


「君たちの戦闘記録は、リアルタイムで確認させてもらっている。もし知らなかったのなら謝るがね。そして念のため、先にもう一つ謝っておく」


『昨夜の戦闘はあまりに酷い』と、ドクは断言した。俺は言われて当然だと思っていたので、特に謝られる必要はなかったのだが。


「皆が個人の感情に流されすぎている。あれでは遠かれ早かれ、死者が出るだろう。若者、ティーンエージャーなりの弱点を、私は理解しきっていなかったらしい」

「それは」


 俺たち自身にも分からない、と言おうとした俺を、ドクは掌を突き出すことで制した。


「私とて、若い頃の恋愛経験は皆無ではない。だが、恋愛というものは人同士の数だけある。一般論が通用せず、この手の問題を解決する王道などないということは、私にだって分かっているつもりだ」


 俺は相槌を打つように頷き、マグカップに口をつけた。だが、味がしなかった。味覚に割り振るだけの感覚の余地というものを、今の俺は有していない。


「しかしな、潤一くん。私としては、この事態を見過ごしておくわけにはいかない。なんとか次の作戦までの間に、その人間関係の歪みを正してはもらえないだろうか」


 突然のド直球な要請に、俺はいくらかコーヒーを零してしまった。


「お、俺、ですか?」

「君たちを日常的に盗聴することは、安全保障上、現実的ではない。私が君たちの親代わりをすることはできないんだ。そこで、一番信頼に足ると思った君をここに呼びつけた、というわけさ」


 簡単に言ってくれる。買い被られたものだ。

 だが、葉月、和也、俺と三人の顔を思い浮かべてみると、確かにこの問題に一番巻き込まれているのは俺だろう。冷静さで言えば憲明が筆頭だろうが、当事者意識は薄い。


「どうしても、俺が適任だとお考えですか、ドク」

「申し訳ないがね」


 そう言ってドクが、コーヒーの二口目をすすろうとした、その時だった。

 がらり、と襖が開いて、小さな人影が畳の間に飛び込んできた。エレナだ。


「どうした、エレナ? 何かあったのか?」


 エレナに手招きされながら、俺とドクは機械室に踏み入った。

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